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GW、断食合宿に挑戦中!

前からずっと、「断食」というものに興味がありました。

念願叶って(?)、今、3泊4日の合宿に参加中。今日が初日。


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日頃、決して暴飲暴食する方ではないんですが、でもずっと(必要以上にモノを食べてるよなあ・・・)と気になってきました。

例えばラーメンを食べるとします。
半分ぐらい食べ進んだところで、ときどき自問自答してみるんです、(まだ食べる必要あるか?)って。
そういうときに返ってくる答えは(いや、もうお腹的にはほぼ満足)
でも、気持ち的に食べたいんですよね。。つまり、不必要に食べている。 まあ、そういう楽しみも人生に彩りを与えていいと思いますけど。

さらに、ハタチの頃からコンスタントに続けている飲酒も。。 量はそれほど飲まないんですが、「継続は力なり」で、ほぼ毎晩飲んでいます。

ーーー

ダイエットに苦心している人に怒られそうですが、、どんなに飲んでも食べてもまったく太らない体質ということもあり、食べ過ぎの問題は、少なくともカラダ的にはあまり気にしていません。
(でも、当然見えないところでの影響はあるわけで、本当は気にした方がいい。)

僕が一番気になっているのは、マインドとか、気の持ちようとか、やる気とか、元気さとか、そういうメンタルな面への「食べ過ぎ」の影響です。
過食によって脳・アタマが疲れてしまっていないか。通訳パフォーマンスへの影響は無いか。
食べたり飲んだりする量を減らせば、きっともっとポジティブで元気になるような気がする。。。

そんなにそう思うなら、食べたり飲んだりする量を減らせばいいわけですが、目の前にラーメンがあるとどうしても全部たいらげてしまう。ときにはライスをつけてしまう。ついつい気が大きくなって生ビールを飲んでしまう。

そういう「食」そして「飲」の楽しみもとても大事だと思うから、正直まだ断食とか粗食とか玄米とかそういうキーワードに対し抵抗感が強い。
でも一度体験して、そういう世界を垣間見てみたい。

そんなわけで、ネットでちょっと調べた結果一番良さそうだった合宿に参加しています。

こういうのって、みんなは興味があるのかどうか分かりませんが、もしかしたらちょっと興味ある人もいるかもしれないから、実際どんな感じなのか、レポートしていくつもりです。

<続く>


by dantanno | 2018-04-30 20:14 | プライベート | Comments(0)

矛盾

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写真左: とびっきりの笑顔で、道行く人に聖書の素晴らしさ、神の偉大さと慈悲深さについて説く若者たち。

写真右: そのわずか7-8メートル先で、殺処分されるワンちゃん・ネコちゃんを一匹でも減らそうと寄付を募る若者たち。

「全知全能の神が存在するならば、なぜ悲劇は起きるのか」は宗教の分野でよく議論される論点だが、確かにそう思わずにいられない。なぜ、全知全能の神様(仮にそれが存在するとして)はワンちゃん・ネコちゃんたちを救わないのか。っていうか、救うも何も、なぜ罪の無い動物たちをそのような境遇にそもそも陥れるのか。神が陥れているのではないにしても、神がそれを防げるのに防いでいないとしたら、実質的に神がそうさせているのと同じではないのか。

なぜ動物チームの若者たちは、聖書チームの若者たちに対して怒らないのか。神様がポンと一億円寄付してくれたら、無数の命が救われるのに。ビル・ゲイツや孫正義に出来ることが、神には出来ないのか?

聖書チームのメンバーたちの頭の中では、これらの問題はスッキリと整理されているのかもしれない。だとしたら、それがどういう整理なのか知りたい。例えば、「これは神が与えたもうた試練なのです」とか?だとしたら、誰にとっての試練?人間?動物?疑問は尽きない。
駆け寄って聞いてみたいけど、勇気が無い。

もう一杯飲みながら考え、動物チームにわずかばかりの寄付を渡して家路につくことにする。

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by dantanno | 2018-03-24 16:34 | プライベート | Comments(0)

映画 "Three Billboards Outside Ebbing, Missouri"を観て

とてもいい映画だった。

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娘を事件で失った母親が、警察の怠慢に怒り、家の近くのビルボードを3つ使って抗議をする、という話。それに伴い、一連のドタバタが起きる。

主演はFargoで婦人警官役を好演したFrances McDormand(フランシス・マクドーマンド)。

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ちょうど最近(2018年3月)、U.S.でのGun violenceに対してTeenagersが立ち上がって抗議していて、タイムリーな映画。

子を亡くした親の捨て身の執念。失うものが無い強さ。

全編を通して流れる、救いの無い感じと、それにマッチした音楽。でも、救いの無さの中にどこかコメディーがある。それが人生なのか?と考えさせられる。後味は不思議と悪くない

一番印象に残ったのは、物事の二面性、ということ。この映画は、一見
「警察(悪)に立ち向かう母親(善)」
というありがちな構図なのだが、観ている内に、物事はそうシンプルではないことに気付かされる。

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映画は、警察のマトモな面も描いているし、母親のおかしな面もあらわにする。一見「こう」としか思えない、「そう」としか見えないことにも、実は別の側面があり得る、ということに気付かされる。その「別の側面」が自分には見えていないだけに非常にイメージしにくいが、それは(見えていないだけで)実は存在するわけだから、それに想いを馳せることが重要。

最後のセリフの訳「道々考えればいい」がステキだと思った。

一人でじっくり観るも良し、大事な人と観て、その後飲みながら感想を話し合うのも良しな、貴重な作品。

by dantanno | 2018-03-12 22:47 | プライベート | Comments(0)

芥川賞受賞作全文掲載の文藝春秋を読む

いつもうれしく思うことだけど、文学賞の全文掲載版の文藝春秋は結構おトクだと思います。受賞作品を単行本で買うよりも安い値段で、受賞作品以外のコンテンツもおまけに付いてくる。しかも今回は2作品も!

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受賞作と全く関係ない通常の文芸春秋の記事が付いてくるのはもちろん、受賞作品の著者インタビューや、選者による評が特におもしろい。

「おトク」と書いたけれど、ここで読んだ受賞作品があまりにも良くて結局単行本も買う羽目に陥るケースもある。「コンビニ人間」とかがまさにそうだった。トクさは減じるものの、それはそれでうれしい誤算。

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by dantanno | 2018-02-13 11:10 | プライベート | Comments(0)

コンビニの「2番目にお待ちのお客様どうぞ」に感じる違和感

いつも思うんだけど、実は「1番目にお待ちのお客様」なんじゃないかな~。

by dantanno | 2017-12-23 00:29 | プライベート | Comments(0)

映画「幼な子われらにうまれ」を観て

映画「幼な子われらに生まれ」を、妻と二人で観た。

ほんっっっっとうにひさしぶりに、しっかりと考えさせられ、かつエンターテイニングな映画を観た。


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家族とは。

親であること、子であること、夫婦であること。

なぜ結婚するのか、なぜ離婚するのか。
なぜ再婚するのか、しないのか。

いろんなことを考えさせられた。

ーーー

浅野忠信をはじめ、役者たちの演技がとても自然だった。

日本のTVドラマを観ていると、演技があまりにも演技っぽくて、不自然で、「子供の学芸会か・・・」と、つい毒づいてしまう。演技がヘタ、と思ってしまう。
これはきっと僕の間違い。演技がヘタだから不自然になってしまうのではなく、そもそも「自然な演技を目指そうと思っていない」から不自然なんだろう。

刑事物で、デスクに座るエライ刑事を取り巻いて立つ4人の刑事たちが一人一行、順番にセリフを言っていく。それがよしとされている。
ドラマはほとんどがそうだし、邦画も多くがそうだと思う。

演技が「演劇」風なのだ。舞台っぽいんだ。「これは創られた虚構である」という事実を前面に出してもいい、というルールというか、しきたりなんだ。
だから、観ている方が「日常生活では絶対そんな発言しないでしょ」というセリフを、「そんな言い方するか、フツー?」な言い方でしゃべって演じる役者たちを、我々は眺め続けることになる。「絶対そんな服着ないんだけど・・・」という洋服で着飾るパリコレのモデルを観るように。

批判したいのではない。それはそれでいいことだと思う。観る方もそれを求めていて、全体が予定調和的に着地するのであれば、演技は「不自然」でもいい。そうした不自然な演技の方がかえって「非日常」が演出されていい、という人も多いのかもしれない。

でも僕はそうではなく、普段着を観たい、とずっと思っている。役者がセリフをはくたびに「これは全て虚構です」という事実をリマインドさせられると、どうしても感情移入できない。
「これはドラマだ、映画だ、虚構だ」というのを忘れさせてくれる、そんな自然な演技を観たい。そして感情移入して楽しみたい。
でも、そんな演技はほとんど存在しない。

ーーー

そんな困った状況の僕にとって、この映画は僥倖だった。

浅野さん演じる「田中」の演技は、これ以上無いぐらい自然。まるで、田中の本当の日常を、特別にちょっと垣間見させてもらっているような感じ。
子役たちもすばらしかった。
宮藤官九郎も寺島しのぶもよかった。
「田中」の妻役の田中麗奈(たまたま同じ名字)の演技が、最初ちょっと演技っぽく感じたけど、でも実際こういう人もいるよなあ、、と途中から思えた。

唯一モロに演技をしていると感じたのが、田中の上司(?)役みたいな人。バーで田中と飲むシーンがあるが、TVドラマ風の、いわゆる演技っぽい演技だった。

ーーー

パンフレットを見ていて、「エチュード手法」という表現が気になった。

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「(役者たちが、)台本を重視しながらも時には即興で演じる撮影」とのこと。なるほどなあ。全ての作品をこの手法で創ってくれたらいいのに(笑)。
三島有紀子監督、すごいです。

ーーー

男女のあり方はいろいろある。

今の時代、幸いなことに「好きになる対象は異性でないといけない」というわけでもない。
そして、結婚する人もいるし、しない人もいる。
離婚は不幸なことかもしれないけど、「映画を観た後に感想を語り合いたい」と心から思えない相手とずっと夫婦で居続けることもまた不幸かもしれない。

そういう多様な価値観を、学校で教えたらいいと思う。
この映画を教材にしたらいいと思う。

へんな価値観に縛られたまま大人になり、その価値観に基づいて結婚し、後で「実は違った」と気付いて離婚に至ってしまっているケースも多いと思う。

はたまた、本当は離婚したいのに出来ていない夫婦もものすごく多いと思う。離婚しない一番の理由が「子供」ではないか。子供を傷つけたくないから。
でももし、子供たちが学校で「離婚は、出来ることなら避けた方がいいけれど、でも決して悪いことではないんだよ」とか、「家族のあり方は実に多用で、普段TVで観るような理想的な4人家族だけが「家族」じゃないんだよ」とか、「再婚は当たり前のことで、再婚した場合、前のパートナーとの子供がいたりいなかったりするんだよ」とか、そうした大人たちはみんな知ってる当たり前を教わっていたらどうか。

サンタはいる、と心から信じているからこそ、実はそうではないことを知ったときに傷つく。
夫婦や家族のあり方については、「正解は無く、実に多様なものである」という正解を早い内に教えるべきだ。それは夢を壊すことと同義ではない。

学校でそう教わった子供であれば、自身の結婚(あるいは離婚、あるいはそもそも結婚しないこと)について、もっとオープンに考えられるようになるだろう。また、親の離婚をそこまでショックに感じずに、「親たちが前に進む」という、むしろポジティブなこととして受け止められるようになるのではないか。

ーーー

観たい映画が無い、という冒頭の話に戻る。
せっかくNetflixを有料契約しているのに、ほとんどのコンテンツに食指が動かず、あまり活用出来ていない(キッズ向けのコンテンツには大変お世話になっているが)。

ま、まさか、オレは映画がキライなのか??そう考えるとなんだか愕然とする。
(それはそれで、「映画を好きでないといけない」という思い込みの産物だと思うけど)


いや、そんなことはない。自分は映画が結構好きなはず。
→ じゃあ、なんで観たい映画が全然無いんだ。なんで映画を観てもおもしろいと感じることがほとんど無いんだ?
その問いに対し、ここしばらく有効な答えを出せずにいた。



でも、「幼な子われらに生まれ」を観て思った。
自分は映画が好き。

足がとても大きい(あるいは小さい)人と同じだと思う。
靴は好きなんだ。履きたいんだ。でも、合うサイズの靴が滅多に無いだけなんだ。
もしあれば、喜んで履くんだ。

どの映画もあまねく好き、というわけではない、という意味で、確かにそこまでの映画好きではないのかもしれないけれど、僕は僕なりに映画がとても好きなんだということを気付かせてくれたすばらしい映画でした。

by dantanno | 2017-09-15 14:37 | プライベート | Comments(0)

死ぬことは、生きることと似たりと見つけたり

今から一年ほど前、母を亡くしました。
自分が初めて経験する身近な人の死。その過程で思ったことを書いてみます。

<背景>
母は、血液のガンで2年ほど闘病していました。それが治らない病気であることは本人も分かっていました。
入退院を繰り返していましたが、あるとき検査入院をしている途中に容態が急変しました。頭の中で出血が起き、意識が無くなり、我々家族が病院に呼び集められました。結局、夜を徹した緊急手術(6時間!)が成功し、何日か経ってようやく意識が少しだけ戻りました。その後、一ヶ月ぐらい一進一退を繰り返した後、安らかに亡くなりました。

というのがおおまかな背景です。では、思ったことを書いていきます。

<延命は(必ずしも)本人のためならず>
長く病状が安定していて元気に活動していた母が、頭内の出血により急に意識を失いました。病院に呼び集められた我々家族は、手術をするかどうか、決断を迫られました。

手術をするとなると、いろいろなリスクがありました。手術の際、血管が損傷し状況がさらに悪化してしまうかもしれない。カラダが既に相当弱っているため、全身麻酔から抜けることが出来ず、そのまま亡くなるかもしれない。仮に手術自体がうまく行ったとしても、その後肺炎等が起きて亡くなってしまうかもしれない。いずれにせよ、仮に手術が成功しても病状が大きく回復することはなく、これは延命のための手術でしかない、とのことでした。

じゃあ、手術をしなければどうなるのか。医師の説明は「はっきりしたことは言えませんが、数日中に亡くなる可能性が高いでしょう」とのことでした。で、どちらにしますか、とのこと。

この時点で、僕は少し腹を立てました。手術をしなければ恐らく数日中に亡くなるのであれば、例え諸々のリスクがあったとしても、手術をするに決まっているではないか。それを、まるでフィフティー・フィフティーの選択であるかのように我々家族に尋ねてくるのはどういうことか。当時はそう思ったんです。

結果的に手術は成功し、母はときおり意識を取り戻すところまで回復しました。でも、意識が100%戻ったわけではなかったし、寝たきりの状態が続き、その後しばらくして亡くなりました。医師の言った「延命のための手術でしかない」の言葉通りでした。

そのプロセスを経て考えたのは、(果たして母本人は、あの手術を望んだだろうか)ということ。

どうしますか、という医師の言葉に対し(選択の余地など無いではないか)とちょっと腹を立てていた僕ですが、その時の自分は他ならぬ母の気持ちを考えていたのかな、と。恥ずかしながら、あまり考えられませんでした。
結果的に母はうっすらと意識を取り戻したわけですが、それは我々家族や母の友人のために、一時的に「戻ってきてくれた」とも言える。でも母自身にとっては、長時間に渡る手術はもちろん、その後過ごした一月ほども相当な負担だったはずで、我々家族の一存で「当然手術するでしょう」と決めつけるのはおかしかったかな、と思いました。結果的に同じ結論になったとしても、結論に至るプロセスで母の意志に思いを馳せる瞬間があってもよかったな、と感じました。

<毎日がヤマだと、スケジュール管理が難しい>
よくTVドラマとかで、医者が家族に対し「今晩がヤマです」みたいに言ったりするシーンがあります。それを受け、家族は取るものも取りあえず病院に駆け付けることになります。実際にそういうシチュエーションもあるのでしょうが、ウチの場合、「今晩がヤマ」ではなく、毎晩がヤマでした。
母が最初に意識を失ったときに病院に呼ばれた日はもちろんヤマでしたが、その後もいつ何があるか分からない状態が数週間に渡り続きました。病院からも頻繁に「ちょっと状況がよくないので、ご家族のどなたか来てください」との呼び出しがありました。
小康状態を保っていた時期もわずかながらありましたが、基本的に「今日も、明日も、その次もまたヤマ」という状態が続きました。

そういう状態になると、家族にとって、予定の入れ方が非常に難しくなってきます。「今晩がヤマ」なら全てを投げ出して駆け付ければいいのかもしれませんが、ヒマラヤ山脈みたいにヤマが脈々と続いているときに、自分の予定をどうしていけばいいのか。今後入れる/入れないを判断出来る予定もありますが、ヤマ状態になる前から入っていた先約もあります。それをごめんなさい、やっぱり出来ませんというのか、日程を変えてもらったり他の人に代わってもらったりするのか。

例えば僕の場合、かなり前から予定されていた海外出張を他の通訳者に代わってもらいました。どうしても行けないのか、というとそんなことはないし、自分が日本に残ったからといって母の状況を大きく改善させることが出来るのか、と言えばそんなこともありません。クライアントとの信用問題でもありますからかなり悩みましたが、結局ワガママを言って他の通訳者に代わってもらいました。

自分のプロ意識とか、家族についての考え方とか、いろいろと考えさせられました。

<次は自分の番>
親が元気な内は、なかなか子供である自分の死をイメージしにくい。でも、親が亡くなると「次は自分だ」という意識が強く芽生えました。

嬉々として退院して行く人と、退院出来ずに残る人との間には、実はそれほど大差が無い>
宇宙の歴史と比べれば、我々の人生なんてどの道ほとんどゼロ。ゼロとゼロの間に大差は無い。

<どうせ死ぬんだ>
これは、必ずしもネガティブな、ヤケのヤンパチ的な思いではなく、むしろポジティブ。どうせ死ぬんだから、この地球上で与えられた僅かな時間、もっと好きなことをして生きようと思いました。

また、より現実的な話でいくと、例えば食生活。母の食生活は非常に健康的で、栄養のあるものをちゃんと適量食べ、ジャンクフード、酒、たばこなどは一切やりませんでした。それでも病気になるときは病気になるし、事故に遭うときは事故に遭う。だったら、今目の前にカツ丼(大盛り)と生ビールが置いてあったら、どうせ死ぬんだから、あまり後ろめたく思わずにガンガン食べちゃってもいいのかな、とちょっと思いました。

<俺はなにをやってるんだ>
意識が無く、病院のベッドで寝たきりの状態の母。
その母の病室に向かう途中すれ違った、僕と同い年ぐらいかもしれない、やつれきった女性。
廊下で遊ぶ、髪の毛が全部抜けた状態の、車いすの子供たち。まだ小さな子供たち。

それに対し、自分は自由に外の世界の、当時春だったので暖かい春の日差しの中に飛び出していき、好きなことが出来る。走り回ったり、旅をしたり、苦痛の無い状態でものを考えたり、なんでも出来る。それをどこか申し訳なく/後ろめたく思うと同時に、そんなに自由なのに、自分は日々一体なにをやっているんだろう、と強く感じました。もっと時間を有効活用しないと・・・的なことを越えた、何か根本的な問題意識を当時感じました。

これには後日談があって、あのときあんなに強く(自分はなにをやっているんだ)と思ったはずなのに、その後一年、僕の日々の暮らしぶりは特に変わっていない。なんなんでしょうね。でもその問題意識は間違い無く自分の中に存在しているので、そのうちなんとかするのかもしれません。

<面会時間の制限について>
今まで、入院している人を見舞いに病院に行って、面会時間外だったためにお会い出来なかったことがありました。ちゃんと事前に調べてから行けばよかったわけですが、心が狭い僕は、(なんで面会時間をそこまで制限するんだ)とちょっと不満に思ったりもしました。

面会時間の制限は、患者本人の負担を軽減することに加え、病院のオペレーション上必要な面もあると思います。そして今回の経験で気付いたのは、病人の家族のためのものでもある、ということ。
24時間いつでも面会・見舞いに行けてしまうと、キリがなくなります。面会時間の制限があるおかげで、(ああ、もう時間制限が来ちゃうから家に帰らないと・・・)と、心の中での言い訳が出来る。これは、特に我々のケースのように入院期間がある程度長期に渡る場合において、家族の精神衛生上とても大事なことだと思いました。

<悲しくない>
昔、付き合っていた女性に「あなたには感情が無いのよ!」と言われ、(ふーん、そうなのか)と無感情に思った記憶があります。
確かに自分にはそういうところがあって、今回、母が亡くなる過程で他の家族が悲しんでいる中、僕は悲しみを感じませんでした。

なぜ悲しくないのか。(自分はきっと、気持ちに無理にフタをしているんだろう)とか、(今は悲しみを感じないけど、きっと後からドッと来るはず)と当時は思いましたが、あまりそういうことでもなさそうです。本当に悲しくない。当時も今も。それはなぜなのか考えました。

当時、母が闘病しているさなかに、二人目の子供が産まれました。家族はもちろん、多くの人が「とても喜ばしいこと」として喜び、祝福してくれました。

とても大切な人の誕生と、とても大切な人の死を短時間の内に両方経験し、生と死についていろいろ思いを馳せました。その結果至った、今のところの僕の結論は、「生と死はとても似ている」ということ。生が「+1」で死が「−1」だとしたら、符号の向きが逆なだけであって、要は同じことなのかな、と思いました。まあ、符号の向きが逆なのが問題なわけですが。

別の言い方をすると、人生は一冊の本のようなものであって、生はその1ページ目、死はその最後のページだと思いました。

今、手元にとてもステキな本(≓人生)があるとします。その1ページ目はとても素晴らしく、喜びと輝きに満ちたものである一方、その最後のページはとても悲しく、イヤで、涙涙なものである、というのはなんだかおかしい気がするんです。1ページ目も2ページ目も、そして最後のページもその前のページも、全て等しく「1ページ」であり、そのステキな本を構成する大事な一部です。

「だから、悲しむ必要なんて無いんじゃないか」的な話を当時、嘆き悲しんでいた弟にしました。すると、「別に、必要があるから悲しんでるわけじゃないんだよね」と返されました。もっともですね。


(母の手帳に貼ってあった紙)
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<死は救いでもある>
本人にとって、そして家族にとって、死は救いでもあると感じました。

<本当に戦っているのは誰か>
ちょっと話が横道にそれます。
母が入院していた病院は、大手新聞社の本社ビルの隣にありました。その新聞社に抗議をするため、街宣車に乗った人たちが連日やって来て、高層階にある母の病室までハッキリと聞こえる大音量で軍歌を鳴らし続け、連日「○○新聞ふざけんなゴルア〜!」的にがなり立てていました。

まず思ったのは、これって合法なのかな、ということ。病院の隣でこういうことをするのは許されるのか、と。
まあでもきっと合法なのでしょう、残念ながら。パトカーも温かく見守ってたし。だとしたら今後は、その人たちの持つモラルに期待します。大きな日の丸を掲げる彼らが本当に我々日本人のことを思いやってくれるならば、その行動もいずれ変わってくると思います。

もう一つ、強く感じたのは、(本当に戦っているのは誰か)ということでした。

その人たちは、みな迷彩服や特攻服に身を包み、勇ましい軍歌を流しています。一見、とても「戦っている」ように見えます。でも、その様子を上から眺めている僕には、本当に戦っているのは決してこの人たちではない、と感じました。本当に戦っているのはウチの母であり、車いすの子供たちやそのご家族です。また、患者たちを救ったり延命させようと、外から漏れ入る大騒音の中、懸命にがんばっている医師や看護師たちです。

ある人が本当に戦っているかは、決してその見た目では分からないことを学びました。

<亡くなる前に、いろいろと話をしておいた方がいい>
今回の我々のケースでは、前述の通り母が「戻ってきてくれた」こともあり、亡くなる前に言っておきたいことなどをある程度言えた気がするし、心の準備も少し出来ました。でも、それでも一定の心残りというか、もっと聞いておきたかった、言っておきたかったことはあります。

我々のようなケースでもそうですから、例えばもっと若くして亡くなってしまった場合とか、事故などで突然亡くなってしまった場合とか、残された家族の心残り感はとても大きいだろう、と思います。
だからこそ、亡くなる前にいろいろと話をしておいた方がいい。

話しておくべきテーマは、まずは自分の死後、どうしてほしいのか、ということですよね。お葬式とか財産とか事業の承継・処理とか。

もう一つ話しておくべきテーマは、死後についてではなく、今この瞬間のこと、そして今までについてだと思います。感謝の気持ちとか、あなたはとても大事な存在であるとか、あのときはごめんなさいとか、そういうこと。あるいは、「お父さんはあのとき、どういう考えでああしたの?」とか、「お母さん、人生で一番大事なことってなんだと思う?」とか、別になんでもいいですけど、そういう超照れくさい話です。そういったことはぜひ亡くなる前に話しておいた方がいい。亡くなったらもう話せないから。

死後どうしてほしいとか、今までありがとうとか、そういう話は非常にしにくい。だから、ほっておいたらそういう話にはならない。そういう話がされないまま亡くなってしまいます。だからこそ、例えば親子間であれば親サイド、あるいは子サイドから相手方に「そういう話をしよう」と持ちかける必要があります。

では、親サイド・子サイド、どっちから話を持ちかければいいのか。どちらサイドから切り出すのも非常に難しいですが、子サイドから切り出すのは尚難しいと思います。「ねえねえ、オヤジが死んだ後のことだけどさあ・・・」 → 「なに!俺はもうすぐ死ぬのか!」とか、「財産目当てか?!」みたいな誤解が生じるかもしれません。それに、前述の通り「死」というものをよりリアルにイメージ出来るのは子供ではなく親です。

だから、出来れば親から子供に対し、ちょっと照れくさいし、まだ気が早いと思うけど、今の内からそういう話をしておこうよ、と持ちかけてほしいです、まだまだ元気な内に。

<最後に>
長く続く入院生活、看病生活。母本人はもちろん、家族も徐々にしんどさが増していきます。今後、多少の状況改善はあるかもしれないものの、根本的な治療・回復は見込めないだけになおのこと。

そんなある日、うっすらとしか意識が無い母親を見守りながら、パイプ椅子で僕がウトウトしかけていると、看護師さんが一人、病室に入ってきました。

(点滴を取り替えるのかな、採血かな)などと思いながら見ていると、看護師さんは母のところに行き、その手をさすりながら

丹埜さん、こんにちは〜、聞こえるかなあ。
あたしね、今日は担当じゃないんだけど、ちょっと気になったから様子見に来たよ〜。
今日は調子よさそうだね、よかったよかった。じゃ、また来るからね〜

と言って、パタパタと病室を後にして出て行きました。

それは実に突然の出来事で、かつ、看護師さんの立ち回りがあまりにも自然で、そして、いろいろとしんどいことばかりが続く病院生活の中であまり無いうれしい出来事だったため、僕はついあっけにとられ、「あ、あ、」で止まってしまい、ちゃんとお礼を言えませんでした。もし今看護師さんを追いかけて、廊下でお礼を言ったら泣いてしまいそうな気がして、追いかけられませんでした。

だから、ここで改めてお礼を言いたいです。あのときの、その日当番ではなかったのに立ち寄ってくれた看護師さん、母をシャワーに入れてくれた看護師さん、母が亡くなったときにカラダを拭いてくれ、合掌してくれた看護師さんたち、そして一生懸命努力してくれた医師の方々、本当にありがとうございました。

そしてお母さん、最期までみんなのためにがんばってくれてありがとう。


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by dantanno | 2017-03-15 22:51 | プライベート | Comments(4)

買い物のヒット率

洋服とか、家電とか、本とか。

何かモノを買って、それが「買ってよかった♪」となるか、「買わなきゃよかった・・・」となるか、そのヒット率すなわち打率は何割ぐらいか。その打率は、世間一般では大体何割ぐらいで、自分に限って言うと何割ぐらいか。

あまり考えてみたことが無かったが、いざ考えてみると、打率はそんなに高くはないだろう、と思う。こと自分に限っては、それほど深く考えずにモノを買うことも多いし、ネットで、実際のモノを手に取らずに買うこともある。本などは、その性質上、中身をよく知らずに買うことになる。それらの背景を総合すると、買い物の全部が全部「買ってよかった♪」となるはずがない。打率は結構低いはずだ。


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自分の「買い物打率」を、仮に3割程度とする。一流の野球選手の打率だってそれぐらいなわけで、自分の買い物打率はそれを超えないだろう、というのは妥当な線のような気がする。

では、自分がそうやって買ったいろいろなモノを「捨てる」割合はどれくらいか?
洋服、家電、本を計10個買ったとして、その内どれくらいを比較的早いタイミングで捨てているか。損切りしているか。

ちなみにここで言う「捨てる」は、寿命が来たから捨てるとか、壊れたから捨てるとか、あるいは引っ越しとか年末の大掃除のタイミングで思い切って捨てる、といった捨て方は含めていない。そうではなくて、買い物をした後、比較的早いタイミングで「これは失敗だった」という認識のもと、損切りの気持ちで捨てるという、そういった「捨てる」を指している。

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買い物の「打率」が仮に3割だとすると、残りの7割は「失敗」ということになる。そして、その買い物が「失敗」だったことに、我々は実は結構早いタイミングで気付いているはずだ(気付こうとしていれば、の話だが)。と考えると、買ったモノの約7割を、買った後比較的早いタイミングで損切りをして捨てていてもおかしくない。でも、実際はそんなに捨てていない。自分の場合、7割どころか3割も、、、いや、1割も損切り的な捨て方をしていない気がする。しかし、冒頭で論じた自分の「買い物の打率の低さ」を考慮すると、買ったモノの内7割とか、かなり高い割合のモノを損切り的に捨てているべきというか、はずであって、それをしていないのはおかしい、ということになる。
なぜ損切り的に捨てていないのか。

<買い物が失敗だった、と認めたくない>
心のどこかで「この買い物は失敗だった」と分かっているのに、それを認めたくない。認めてしまうと、失敗だったという事実に向き合わないといけなくなり、自分を否定することになる(ような気がする)から。実際は買い物の失敗=自分の否定、みたいに結びつける必要なんて全然無いんですけどね。

<考えたことが無い>
自分の買い物の打率が結構低い、という事実に気付いていない。っていうか、今まで考えたことが無い。

<「反・断捨離」的思考>
「捨てるのがもったいない」とか「いつか使うかも」とか「誰かにあげたら喜ばれるかもしれないから一応取っておく」といった、通常の「反・断捨離」的なものの考え方

とりあえず思い付いたのは上記3つだが、いずれも自分にしっかりとあてはまっていると思う。

ーーー

買い物もそうだし、人生もそうだが、「やってみなきゃ分からない」という面がある。買い物の例で言えば、実際にそのモノを買ってみて、手に取ったり、家に置いて眺めてみたり、日常的に使ってみたりして初めて「自分にはこれは要らない」とか「これは自分に合っていない」、そして「自分がほしいのはこれではなく、○○だ!」と気付くこともたくさんある。だから、「やってみる」ことは悪いことではなく、むしろいいこと。そして、挑戦に失敗はつきもの。つきなみな言葉だが、失敗していないということは挑戦していないことの表れでもある。

だからこそ、まずは自分の打率の低さを自覚した上で、その買い物が果たして自分にとって成功だったのか失敗だったのかを冷静に吟味して、失敗だったと判断したなら潔く損切りをし、前に進む、そういうやり方をしていこうと思った。買い物においても、人生においても。

by dantanno | 2016-11-07 16:00 | プライベート | Comments(0)

ブレスト中に賢く見えるための小技集

おもしろすぎる。。




さっそく本を購入。


飛行機で移動中のときに読もう、っと。

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by dantanno | 2016-10-03 11:20 | プライベート | Comments(0)

Michael J. Fox's words

パーキンソン病と闘ってきたマイケル・J・フォックスの言葉。

One of the things the illness has given me is a degree of death. There's a certain amount of loss, and whenever you have a loss, it's a step toward death. So if you can accept loss, you can accept the fact that there's gonna be the big loss. Once you can accept that, you can accept anything. So then I think, Well, given that that's the case, let's tip myself a break. Let's tip everybody a break.

by dantanno | 2016-01-31 13:10 | プライベート | Comments(0)