たんのだんのブログ

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カテゴリ:ことば( 3 )

カンマとピリオドの正しい使い方

先日、ある会社に同行して海外IRをしていたときのこと。


一日の行程が終わり、ホテルにチェックイン。そしてその晩は、証券会社主催のディナーが予定されていました。ホストは、僕がまだ会ったことのない、証券会社のちょっとエラ目の方。その方とホテルのロビーで合流し、みんなでレストランに向かうことになっていました。




チェックインを済ませ、部屋で着替えて、ホテルのロビーに戻りました。すると、今回IRに同行している証券会社のバンカーが、その「エラ目の方」と話していました。僕は初対面だったので、「どうも、通訳者のタンノです」と挨拶。先方も「どうも初めまして、○○です」と返す。


そのわずか数秒後。エラ目の方が僕の方にちょっと歩み寄り、「あの、、、」とのこと。


たった今互いに挨拶をしたわけですが、ホテルのロビーが結構ザワザワしていたのと、僕があまりハッキリとしゃべらなかったのとで、「タンノ」がハッキリと聴き取れなかったようで、






エラ目の方 「カ、カンマさん、、、ですか?」






せっかく「いえ、ピリオドです」と返すチャンスだったのに、そのときは機転も利かず、「タンノです」とフツーに答えてしまいました。。。




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by dantanno | 2018-07-01 14:41 | ことば | Comments(0)

「単身渡米」について考える

「単身渡米」という言葉が、昔からものすごく気になる。

情熱大陸や「プロフェッショナル・仕事の流儀」のような番組で、
「田中は、23歳の時に単身渡米」
とかいうアレだ。

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時計の「たんしん」は「短針」、
IRの世界で「たんしん」といえば「(決算)短信」、
でもここで言っているのは「単身」、つまり alone, by himself/by herself ということだ。

ーーー

「単身渡米」の、いったい何がそんなに気になるのか。

まず思うのは、「渡米」「単身渡米」どう違うのか、ということ。
番組を演出するスタッフは、何を伝えたくて「渡米」の前に「単身」をつけているのか。

「田中は、23歳の時に渡米」
「田中は、23歳の時に単身渡米」

並べて分析してみると、確かに、、確かに何かが違う

「渡米」だけだと、なんだか「ふーん」という印象を受ける。アメリカに行ったのね、という感じ。

一方、後者「単身渡米」だと、なんだか「おおおおお」という印象を受ける。
荒波に勇ましく挑み、アメリカの地を踏む、、みたいな感じ。

なるほど、やっぱり「単身」には何かがある。

ーーー

そして、次に僕が考えたのは、「単身渡米」の反対語は何か、ということ。

最初に思い付くのは「単身不渡米」、つまり「一人で日本にいる」ということだ。
これは、「渡米」と言われたとき以上の「ふーん」感が漂う。「だから何?」みたいな。

もう一つ思い付く「単身渡米」の反対語、それは「大勢で渡米」だ。
「家族を連れて渡米」だったり、「当時付き合っていた恋人を連れて渡米」だったり、「三丁目住民みんなで渡米」だ。


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「単身渡米」という言葉について、ずっと考えて来た結果思うのは、

単身渡米 よりも 大勢で渡米 の方がよっぽど大変で、すごいことだ!

ということ。

「単身」は、勝手気ままである。フーテンである。
日本から、経済的に、そして心の支え的にサポートしてくれる人がたくさんいるからこそ、自分のやりたいことをやるためにアメリカに行く。周りの助けがあってこそ出来る「単身渡米」だ。
もちろん、一人で行く寂しさはあるだろうし、家庭の事情などで「一人で行かざるをえない」こともあるだろう。でも、独り身の気楽さは間違い無くある。

一方、大勢を引き連れての「渡米」は、多くの責任を伴う。

出発前、連れて行く人たちを説得しないといけない。
連れて行ってからは、現地でみんなを守らないといけない。
買い物をしないといけない。学校に行かせないといけない。コメや醤油をGetしないといけない。諸々の問題に直面し、対応しないといけない。
リスク的にも、経済的にも、ロジ的にも、一人で身軽に行くのの何倍ものコストと手間がかかる。
実に大変だ。

これは、自分の経験からも間違い無くそう言える。
僕はしょっちゅう仕事で海外に行っているが、一人で出張したり、一人で海外に長期滞在するのは実に簡単。
一方、家族を連れて海外に長期滞在するのはかなりハードルが高い(得るものもすごく大きいけど)。

家族連れで海外に出張するのと比べると、一人で出張するのなんて、「こんなんでお金もらっていいの??」って後ろめたく思うほどラクで簡単。

ウチのように短期滞在ではなく、3年とか、5年とか、あるいはそれ以上の期間、家族を連れて海外に行き、そこで子供たちを学校に通わせ、生活を成り立たせる人たちが大勢いる。そういうお父さんやお母さんたちの方が「単身渡米」よりもはるかにすごいし、リスペクトに値すると思います。

ーーー

もちろん、「単身渡米」が全くすごくない、というわけではない。

今の時代でもそうだし、昔であればなおさら、海外に出て勝負をする、というのはすばらしいこ
とだと思う。だから、23歳の時に勇気を出して「渡米」したことは大いに称賛に値する。
(また、この記事を書いた後、ある人から指摘いただいたのが、「単身で行く」ということは、日本にいる仲間(家族や友達)との交流を犠牲にしてでもそこに行きたい、という強い想いがあるわけで、それを表すための「単身渡米」なのかもしれない、ということ。確かにそういう面はあるかもしれない。)


「単身」は、それほどアピールに値しないと思う。
アピールするなら「大勢で渡米」した場合だ。一人で身軽に海外に行くことが出来た場合は、それを支えてくれている家族、友人、そして仕事上のパートナーやお客さんに感謝することの方がアピールよりも先決だ。





by dantanno | 2018-03-13 23:14 | ことば | Comments(0)

「備忘録的に」という表現について考える

ブログとか、Facebookでの長めの投稿とかで、「備忘録的に」という表現を見かけることがあります。僕も使います。

「○○について考えた内容を、備忘録的にまとめておこうと思います」とか。あるいは
「この前、おもしろいことがあったので、備忘録を兼ねて書いておきます」とか。

この「備忘録的に/備忘録として」という表現、昔からずっと(おもしろいなぁ。。)と思って来ました。でも、自分が感じるおもしろさが具体的になんなのか、どの辺がツボなのか、がよく分かりませんでした。

最近、(この辺がおもしろいのかな・・?)というのが分かった気がするので、書いてみます。

ーーー

例えばブログ記事の冒頭に
「○○について、備忘録的に書いておきます」
と書く人は、なぜ
「○○について書きます」ではなく、
「○○について、備忘録的に書いておきます」

なぜそこに「備忘録的に」という一言を入れるのか。すべてのことばには意味があります。書き手が「備忘録的に」と入れたことには、何か意味がある。それは一体何なのか。



<本当に「備忘録として」書いている?>
最初に考えられるのは、本当に備忘録として書いている、ということ。


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確かに、40歳を過ぎてますます感じることですが、自分が考えたり思ったりしたことをメモとか録音とか、何らかの形に残しておかないと、それは跡形もなく雲散霧消してしまい、外部に対してはもちろん、自分に対しても記録が何も残りません。
だから、それを「備忘録的に」書いておく、というのはよく分かります。



<だとしたら、それを発表する意味は?>
書き手が、本当に「書いておかないと忘れてしまう」から「単なる備忘録として」その文章を書いたのだとしましょう。だとすると、次に浮かぶ疑問は、「でも、その文章を発表する必要はあるのか?」ということ。

備忘録は誰のためのものか。
備忘録というのは、「人様が忘れない」ためのものではなく、「自分が忘れない」ようにするためのものです。では、自分の備忘録として書いたその内容を、わざわざ世間に発表する意味は何か?発表なんかせず、手元に、あるいは自分のPCの中に置いておいて「備忘」に役立てればいいのではないか、という気もしてくる。



<まあ確かに、発表を前提として書いた方が記憶に残る>
ブログを書いたり、Facebookに自分の意見とかを結構長めの投稿で書いたりする人であれば同意いただけると思いますが、
1.単に自分のための記録として何かを書くのと、
2.それを世に発表する、という前提で何かを書くのとでは、
全く違います。

つまり、
書く、と
書く + 発表する
は全然違う、ということです。

発表を前提に書く方が当然「ちゃんと」書くことが求められ、その分しっかり考えなければいけない。その過程でその内容がしっかりと頭に刻み込まれ、備忘録としての効果が倍増する。これはよく分かります。



でも僕は、「備忘録的に書いておきます」と但し書きを入れて文章を書く人は、多くのケースにおいて、実はその文章を備忘録として書いているわけではないのではないか、と思っています。
では何のために書いているのか?そして何のために「備忘録的に」という一言を入れるのか。



<発表を前提にすることのデメリット>
ちょっと本題から外れますが、「発表を前提として書く」ことには、上記「しっかりと考えることを求められる」といったメリットとともに、デメリットもあると思います。(特に、その文章を書く目的がもし本当に自分の備忘録として、なのであれば。)

そのデメリットは、書いた内容が「本音でなくなる」リスクがある、ということ。

発表を前提としないプライベートな文章であれば、自分の感じたありのままをそこに書き殴ることが出来ます。何を書いても恥ずかしくありません。発表しないんだから。誰にも見られないんだから。

でも、発表を前提とした瞬間、書き手は読み手を意識し始めます。そこに書かれた文章は、「自分が本当に書きたいこと」から逸れ、「(自分のことを)読み手にどう思ってほしいか。自分は読み手にどう思われたいか」みたいな邪念が混じり始めてきます(経験者談)。その結果仕上がった文章は、自分が心から感じたありのままではない可能性が高く、そうなると備忘録としての正確さは少し失われることになります。



<書くことと、書いて発表することの違い>
上記の通り、自分だけの備忘録として、あるいはあくまでも自分の思考の整理のために「発表を前提とせずに」ものを書く場合と、発表を前提としてものを書く場合とでは、大きな隔たりがある。この2つは全くの別物です。

「発表する」ということは、要するに「表現する」ということですよね。その文章を通して自分を表現する、ということです。何かを書いて、それを引き出しにしまっておくだけでも広義の「表現」に含まれるのかもしれませんが、でも、やっぱりちょっと違う気もします。



<書き手が「備忘録的に」と入れる理由>
なぜ文章に「備忘録的に書いておきます」という文言を入れるのか。
なぜ「備忘録的に」という一言を入れるのか。

それを考えるためには、一書き手としての僕自身を振り返るのが近道です。
ブログの記事の冒頭に「備忘録的に書いておきます」と挿入する際、僕は何を考えているのか?
なぜ「備忘録的に」という但し書きを入れるのか?

僕が「備忘録的に」と入れるのは、自分自身でも その文章を世に発表する意味を見出せない とき、のような気がします。

読み手からの「これって発表する必要ある?」というツッコミが聞こえてくるんです。
その文章を読んだ人が、「うん、分かったけど、これってわざわざ世に発表する必要ある?」と言って来たら?実際にはわざわざ言って来ないわけですが、仮にそう言って来たら、それにどう返答すればいいのか。

「備忘録として書きました」

と言えばいいのではないでしょうか。

もっと言うと、ここで書き手が思いを馳せている対象は読者の感想でもありますが、自分自身の感想でもあると思います。
読者はもちろんのこと、自分自身でも、その文章を発表する必要性を見出せないときがあるんです。ある、というか、結構多いんです。

ーーー

つまり、「備忘録的に」という表現は、書き手が自分自身に対し(この文章って発表する必要ある?)という疑問を感じた場合に挿入されるのではないか。

僕自身も、ブログ記事を書き、「投稿」ボタンをクリックする度に(これって発表する必要ある??)という声が頭の中でこだまします。
そして、多くの場合、(べ、別に発表する必要無いです・・・)という結論に至る。場合によっては「必要無い」どころか「発表しない方がいい」という結論に至ることも多いです。

「書く」のはいいんですよ。なんでも、好きなだけ書けばいい。
ただ、それを「発表する」となると全く別問題なんです。



<発表するのに、理由なんていらない>
もしそうだとしたら。
もし「備忘録的に」という一言が、「これって発表する必要ある?」という読者、および書き手自身からのツッコミに対して身を守るために挿入しているのだとしたら。

だとしたら言いたいのは、そんな配慮は無用、ということ。 「何かを発表するのに、理由なんていらない」ということです。これは声を大にして言いたい。

オレが、この文章を世に発表する意味は何か? → 別にありません。
オレが、この絵を展覧会に出展することの意味は? → ナシ
オレがこの事業を立ち上げることで、世の中にどういうインパクトがあるだろうか・・・ → 特にありません。いや、あるかもしれないけど、それは後から結果的についてくることであって、起業する前からあれこれ心配する必要なんてありません。

文章を書くのも、絵を描くのも、事業を興すのも、全部表現です。
で、表現したいから表現する。それでいいじゃないですか。

しかも、自分が何かを発表することの意味を考えるプロセスはすごく「オレがオレが」していて、ちょっと自己中心的なのかな、という気がしてきます。自分自身について当てはめてみると、まさにそうだと思います。

「オレが○○を表現する意味は?」みたいに考えるプロセスって、一見謙虚なようで、実はその逆で、かなり傲慢なことのような気がします。「オレ」および「オレの表現」を過大評価しているからこそ、その意味について一生懸命考えるのではないでしょうか。実際には「オレ」にも「オレの表現」にも、そこまでの意味はありません、きっと。でもそれでいい。

お前が何かを表現する意味なんて別に無い。だから、どうせ意味無いんだから、表現したいならあれこれ考えず、とっとと表現すればいいんじゃない?
このブログも、そう自分に言い聞かせ続けて書いてきました。

だから、文章に「備忘録的に」なんて、実はあんま入れなくていい。
「発表したいから発表します」
でいい。



<実は、みんなそんなこととっくにお見通し?>
今ふと思ったんですが、、、
「備忘録的に」という文言を挿入する書き手も、それを読む人も、↑の内容なんてとっくに考察済みで、そんなの分かった上で「備忘録的に」と挿入したりそれを読んだりしているのかもしれない、と思いました。

「備忘録的に」は、誰かにモノをあげる際、「つまらないものですが・・・」と言うのと一緒なのでしょうか?意味の無い枕詞なんでしょうか。



「備忘録的に」の真の意味は、
「自分が書いた駄文など、本来発表するに値しませんが、でもちょっと発表してみたいので、あくまでも備忘録的に発表させていただきます」
ということなのか?もしかしたらそうなのかもしれませんね。「備忘録的に」をそういう意味で使っている書き手もいるのかもしれません。

だとしたら、とても便利な言葉というか、深いなあ、と思います。そして、それは傲慢などではなく、謙虚、ということですよね。

ーーー

以上、「備忘録的に」という表現に対し自分が感じるおもしろさについてつらつらと考えた結果を、備忘録的に書いておこうと思いました。読んでいただきありがとうございます。

by dantanno | 2017-10-20 16:09 | ことば | Comments(0)