たんのだんのブログ

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カテゴリ:自戒ネタ( 15 )

我々おじさん・おばさんに、もはや「平時」などない

今ふと気付いたんですが、僕もう44歳ですよ。
ハッキリ言っておじさんです。

気持ちの上ではまだまだ若いつもりだし、
いまだに下っ端気分が抜けない面もたくさんあるけど、
まあおじさんです。

ーーー

自分もそうなら、自分の周りもそうです。みんなおじさん・おばさんです。

もちろん、若い人たちや、子供たちとの接点はあります。
また、我々よりもさらに上の、おじいちゃん・おばあちゃん世代との接点もあります。

でも、自分と一番近い人たち、一番やり取りが多く発生する同年代の相手たちは、みなおじさん・おばさんです。

ーーー

自身、おじさんとなり、周りのおじさん・おばさんたちと日々やり取りしていて思うのは、

「我々おじさん・おばさんには、もはや「平時」なんて無い」

ということ。

ーーー

つまりですね、年齢的に、ほぼ常に、何かしら問題ありなわけです。

これは、「カラダのどこかが痛い」とか、そういった問題もそうです。

あと、自分の転職とか、クビとか、昇進出来るのか、とかもそうです。
倦怠期だの、なんとかレスだの、離婚だのなんだのもそうです。

ーーー

自分自身の問題だけじゃありません。
家族の「中間管理職」として、上下方向からの「問題」もあります。

親が病気になった。介護がどうだの、死んじゃった、だのもそう。
それが解決したと思ったら、今度は子供が熱出した。娘がグレかかってる。あかちゃんの世話が大変。高校生の息子が医者になりたいと言い出した。

自分の問題だけでも大変なのに、上下方向からのプレッシャーもすごい。

で、パソコンが壊れた、生命保険を見直すかどうか、クルマのバッテリーが上がった、役所がなんか言って来てる、塀にペンキ塗らなきゃ、etc. etc.

全方向から、問題に次ぐ問題です。

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そう考えると、子供の頃はずいぶんよかったなあ(笑)。
当時は当時で「大変」だと感じていたのかもしれないけど、我々おじさん・おばさんから見れば、悩みなんて何もなく、超絶的にラクなようにも思える。ま、彼らもいろいろ大変なんでしょうが。

ーーー

さて。

「我々おじさん・おばさんには、もはや「平時」なんて(あまり)無い」

という考えをさらにもう一歩進めると、

「我々おじさん・おばさんには、もはや「平時」なんて無いわけだから、
「今は平時ではない」を、もはや一切言い訳に出来ない」

という気もしてきます。

ーーー

あなたが僕同様、おじさん(あるいはおばさん)だとしましょう。
で、サッカー選手だとします。
つまり、おじさん・おばさんサッカー選手だとします。

サッカー選手であれば、日々、ストレッチだのパス練習だの筋トレだの、そういったことをしないといけないわけです。
おじさん・おばさん選手であっても、、、 いや、おじさん・おばさん選手だからこそ、そういった日々の積み重ねが重要になります。若い世代みたいにほっといても成長しないので。

でも、その一方で、人生におけるなんらかの「問題」を抱えているわけです。
夫婦間の問題かもしれないし、親の問題、子の問題かもしれません。カネの問題かもしれない。なにしろ全方向から来ますから。

そんなときに、
「オレは、今は○○の問題を抱えていて、これは要するに有事であり、平時ではない。
だから、自分が日頃やるべきこと(ストレッチ、筋トレ云々)が 今は出来ない
って、普通はそう思うし、そうなるじゃないですか。それで許されるじゃないですか。

でも、我々おじさん・おばさんにとっては、日々有事なわけですよね、世代的に。
自分のこともそうだし、上下世代に起因する問題も続々待ち受けています。もはや平時なんてない。

だから、要するに何を言いたいかというと、
「今は平時ではないから」
って、そんなの、日々やるべきことをやらない理由になんて、もはやならないんじゃないか、ということなんです。有事がもうデフォルトなんだから。

ーーー

我々おじさん・おばさんは、「もはや平時なんてない」ことを心に刻み、
むしろ「常に有事」であることを前提に、
その上でいかにして「日々やるべきこと」を粛々と進めていくか、にフォーカスしていくべきだし、
前進したいのであれば、もはやそうするしかないと感じます。
「この件が落ち着いたら・・・」 → 「次の件」が待ってます。平時なんて、永遠に来ない。



日々有事な中で、それを前提に作戦・戦略をたて、大変さを周囲にあまり見せずに前にどんどん進んでいく、そういうのがかっこいいおじさん・おばさんだと思うし、自分もそうありたいと思いました。


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by dantanno | 2019-03-18 17:17 | 自戒ネタ | Comments(0)

Let me give you a hand.

夏の間、ロンドンに滞在中。

日本は良くもわるくも「自分の面倒は自分で見る」文化だが、ロンドンに来ると、人間は持ちつ持たれつなんだな、ということに気付く。街で人に親切にされたり、逆に親切にしたり、が日常茶飯事になる。出掛ける度に必ず、必ず(笑)、ちょっとした「人情小咄イベント」が発生する。2人乗りベビーカーで街をウロウロしていると特に。

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親切のギブ・アンド・テイクを日々繰り返していて思うのは、"Can I give you a hand?"(お手伝いしましょうか?)もいいけど、"Let me give you a hand."(手伝いますよ)の方がその100倍親切だ、ってこと。

どちらも親切を申し出る言葉には違いないが、その言葉の受け手からすると、印象は大きく異なる。

前者だと、言われた瞬間、一瞬肩に力が入り、「いえ、大丈夫です・・」と遠慮した方がいいのかどうかの判断を迫られる。でも後者だと一気に脱力し「ああもうありがとうございますたすかります」とどっぷり甘えられる。

by dantanno | 2017-06-11 09:40 | 自戒ネタ | Comments(0)

ブログの振り返りを通して、自分の欠点に迫ってみる

2011年にこのブログを書き始めて、今日のこの記事で573件目の投稿になる。
「ブログ開始!」

今まで書いた572件のブログ記事。それを全て、最初から最後まで読み返すことにした。
1泊2日の合宿をして。

これまで、個別の記事を断片的に読み返すことはあっても、ブログ全体を最初から全部読み返すことは無かった。でも、(いつかそれをやろう)とずっと思って来て、ついに今日・明日の二日間でそれをやることにした。

なぜそんなめんどくさく、かつ気が滅入りそうな(笑)ことをするのか。目的は大きく2つある。

1.今の自分にそぐわなくなった記事を削除・修正したい

各ブログ記事は、そのときの自分が考えていたことを書いた結果なわけだが、今の自分はそのときの自分とは違っている。どちらかというと成長しているはずだ。

昔の自分が、何かについて「A」という意見を持ち、それを記事にした。でも、今の自分は「AではなくB」と思っているとしよう。その場合、昔書いた「A」という記事は一体どう取り扱うべきか。当時の自分がそう思ったのは紛れもない事実であり、だからこそ残しておくべきだ、という気もする。でも、今の自分はそう思っていないのに、いつまでも「A」という記事を公衆の面前にさらしておくのはどうか、とも思う。

例えばある読者が、僕が昔書いた記事を読んでくれたとする。そこに「A」と書いてあるのを読んで、その読者は(ふうん、「A」って思うのか)と受け取っても何らおかしくない。むしろ自然だ。でも、今の自分は「AではなくB」と思っているわけだから、そこには誤解が生じているわけで、それが気になる。

別の見方をすれば、昔の自分と今の自分を比べたときに大きな方向性としては自分は成長しているはずだ。少なくともそう思いたい。で、仮に自分が成長しているのであれば、今の自分でさえもそんなに大したことが無いのに「当時の自分」すなわち昔の自分はそれにも劣るわけで、そんな自分が書いた記事を後生大事に残しておく意味はどれくらいあるのか、とも思う。

これがブログの振り返りをしたい最初の理由だ。2つ目の理由は

2.ブログの分析を通した「内観」をしたい

昔から「内観」というものに興味がある。

内観を本当にちゃんとやろうと思ったら上記のような研修に参加するのがいいのだろう。でもその前に、自分に出来る最初のステップとして、これまで自分が書いた572件のブログ記事を一つ一つ、全て読み返し、「自分は一体どういう人間なのか」、そして「自分は周囲(ブログを読んでくれる人)にどう思われたがっているのか」を分析してみたい。

内観をしたいと思う大きな動機の一つが、自分の欠点に対する強い興味だ。

どんな人にも長所と欠点があるが、自分の場合、その「振れ幅」が大きい気がする。例えば普通の人であれば長所が+10、欠点が△10、両者合わせてプラマイゼロだとしよう。自分の場合、結果が同じプラマイゼロだとしても、長所が+30、欠点が△30、という感じでボラティリティが大きいのではないかと思う。そして、自分のその△30の部分について、もし仮にどうにかすることが出来れば、それはとてもインパクトのあることなのではないか、と思っている。

その△30の欠点について、まずはなるべく客観的に分析してみたい。自分は結構バイアスがかって物事を見てしまうというこれまた欠点があるので、そうしたバイアスを取り除き、あくまでも冷静に自分、特に自分の欠点を見つめてみたい。

ブログ記事は対外的に発表することを前提に書いているので、必ずしも自分の内面を正確に表してはいない。そういう偏りがあることも認識した上で、ブログから伝わってくる自分の一面、特に欠点について考えたい。

仮に欠点が正確に把握出来たからといって、それがどうにかなるとは限らない。きっと長所の裏返し的な側面も大きいだろうし。でも、同じ欠点を同じように抱えて生きていくにしても、(自分にはそういう欠点がある)と、なんとなくではなくカラダで理解した上で家族と過ごし、人と付き合い、仕事に取り組めば、きっともっといい人生になるんだろうな、と期待している。

ということで、一人でじっくりと作業をするため、1泊2日で合宿をすることにした。
今回お世話になるのは、静岡にある日本平ホテル

部屋からの眺め

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いざ、読み込み開始!!

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by dantanno | 2016-08-17 15:43 | 自戒ネタ | Comments(0)

エライ人たちと仕事をしていて思うこと

40歳を過ぎたのにまるで小学生の作文みたいなタイトルですが、最近思うことについて書いてみます。

通訳という職業柄、ときどき各界のエライ人たちと一緒に仕事をします。
大企業の社長、政治家、官僚のトップの方々など。

そういう人と「名刺交換をしたことがある」とか、「一応、同じ部屋に1時間いました」とかにとどまらず、例えば一週間かけて一緒に海外を旅したりします。自然、仲良くなり、お互いに関する情報をいろいろ交換します。

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同じエライ人と、数ヶ月の間を空けたあと、再び仕事をする機会に恵まれることがあります。そういうとき、

エライ人 「あ、そろそろ二人目が産まれるんでしたっけ?」

とか、

エライ人 「ダンさん、この前こう言ってましたよね。」

といったことまで覚え、気にかけてくれている。

一方の僕はどうか。相手が言ったことなんて、よほど心に刺さった内容とか、自分に関係する内容以外、てんで忘れている。

このギャップは一体何か。
エライ人は僕よりもはるかにエラく、はるかに忙しく、覚えていなければいけないこと、考えなければいけないこともはるかに多いにもかかわらず、である。

エライ人は、なんで周りの人間の、そんな細かいディテールまで覚えているのか、ずっと考えて来た。

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考えられるとすれば、以下の3つのどれか、あるいはその組み合わせしか無いと思う:

1.記憶力がいい
2.(記憶力がいいわけではないが)覚えようと懸命に努力している
3.人に興味がある


1.や2.もあるのかもしれませんが、やっぱり「3.人に興味がある」ということなのかな、と思うんです。

もしそれが正しいとすれば、それと比べ僕などは、周りの人に興味を持っていない、ということなのでしょうか。興味が無いから、いろんなディテールを覚えていないのでしょうか。もしそうだとすれば、ちょっとショックです。

最近読んだ本からの抜粋:
It is the individual who is not interested in his fellow men who has the greatest difficulties in life and provides the greatest injury to others. It is from among such individuals that all human failures spring.

要するに、「周りの人に興味を持たない人物は、多くの困難に見舞われ、他者も傷つける。あらゆる「人災」を引き起こすのも、そういう人物だ」的な手厳しいことが書いてあって、でもまあ一理あるのかなあ、、、と思うわけです。

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決して人に興味が無いわけではないんですけどね。
実際、人と会い、自分のことを話すだけでなく相手の話を聞きたい、とも思っていますが、でも、エライ人たちと比べるとやっぱり相当劣っているんだな、と認めざるを得ない。

「人に興味を持った方がトクだから、興味を持つようにしよう」ではあまりにも不純だし、持とうと思って持てるものなら苦労はしないわけですが、実際自分の周りの人に興味を持ち、その人たちがどういうことを考えて日々生きているのかに思いを馳せながら生きるのはとても楽しいだろうし、それが出来る人間はきっと魅力的だろうなと思うので、少しずつそういう方向に舵を切っていこうと思います。

by dantanno | 2016-03-05 18:30 | 自戒ネタ | Comments(0)

桜の受け止め方は自分次第

桜の季節。
いろいろな人が、きれいな桜の写真をアップロードしているのを見て、微笑ましい気持ちになります。



(あ、桜きれい!)
からの
(友人・知人にもお裾分けしたい!)


という発想の流れがステキですよね。
(美空ひばりの「人は、かわいい、かわいいものですね~」を思い出します。)



一方で、そうした投稿を見て、

057.gif(リア充ネタをアップするなんて、けしからん、不愉快だ・・・)057.gif

と感じている人もいるのかもしれない。
ちょっとかわいそう。



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昔から、「リア充」などというものはまやかしで、実はそんなもの、この世に存在しないと思っています。



誰かが何らかの表現・投稿を発信したところ、その受け手が
(リア充だ)
と不満に感じたとします。

そうなってしまう原因(責任)は、発信した人にあるのではなく、受け手にあるのではないか。

具体的には、受け手が
1.今の自分の人生にアンハッピーなのではないか
2.発信した人のことを好きではない、あるいは、好きだし気になって気になってしょうがないんだけど、その好きな気持ちが歪んだ形で表出してしまっているのではないか
と思う。

リア充という概念は、人の表現を「リア充」と感じてしまう受けての心の中にだけ存在するまやかし。

そして、受け手に「リア充」と感じさせてしまう原因はどちらも、受け手の意志と努力次第で解決可能。



来年も、桜の季節の投稿を素直に喜び、感謝できる人間であるよう、がんばろうと思います。

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by dantanno | 2015-03-31 17:19 | 自戒ネタ | Comments(0)

二面性

香港の朝もや。

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「スモッグに覆われた街」と見るか、「霞がかった美しい山並み」と見るかでだいぶ違ってくる。

きっと、どっちも正しい。

唯一の不正解は、「どっちか一つだけだ」と決めつけること。

by dantanno | 2015-03-09 12:03 | 自戒ネタ | Comments(0)

悔恨

電車に5億回ぐらい乗る日に限って、家にSuica忘れる。

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やはり、ズボン👖脱ぎっぱなしはよくない。
by dantanno | 2014-11-26 12:51 | 自戒ネタ | Comments(0)

変な思い込み

思い込みが激しいです。

なぜそう思うかというと、日々の生活の中で「実は思い込みだった・・・」ということがときどきあるから。
そんなには無いけど、ときどきあります。



これはきっと氷山の一角。

思い込みが激しい僕でさえ、「実は思い込みだった」と気付き、認めざるを得ないことがときどきあるということは、「実は思い込みだった」のに、それに気付いていない、あるいはうすうす気付いているんだけど認めることが出来ていないことは、きっとそれ以上に頻繁にあるんだろう。

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「思い込みだった」というのは、要するに自分の認識が現実とズレていた、ということ。
それに気付けた場合、自分の認識を現実に近づけ、修正出来る。

でも、「思い込みだった」ことに気付けていない、あるいは認めることが出来ていないとき、自分の認識と現実とのあいだの隔たりはそのまま残ってしまっている。



ーーー



世の中がどういうものかは、その人が世の中をどう見るか次第で変わってくる。
全く同じ状況におかれていても、それを心から楽しめる人もいれば、とってもイヤだと感じる人もいる。

これは「起きている現実をどう解釈するか」の話であって、思い込みとは異なる。
思い込みは、現実を現実としてとらえられていないということだから、現実をどう解釈するか以前の話。



順番としては

1.起きている現実を正しく把握・認識する
2.その現実を、自分はどう解釈するのか、を決める
3.その解釈に基づき、実際に行動を起こす


通訳で言えば、

1.話し手が「何と言ったのか」を正確に聞く
2.それがどういう意味なのか、を考える
3.その意味が聞き手に正確に伝わるよう、訳す


一言で言うと

1.認識
2.解釈
3.行動

ということか。


ーーー


この中で、2.解釈や3.行動は人それぞれ好きにやればいいわけで、正解は無いかもしれないが、1.認識については、「何が起きているのかを正しく認識する」のが正解で、それ以外は不正解だとも言える。

別の言い方をすると、個性を尊重するのは大事だし、世の中の「フツー」からズレて「変」であるのは個人的にとっても素敵なことだと思うけど、その個性が発揮できるのは2.解釈あるいは3.行動においてであって、何が起きているのか、今どういう状況なのか、という1.認識において変に個性を発揮しようとすると、それは「変」ではなく単なる「偏」「片」、あるいは「變」になってしまう可能性があるので、注意しようと思いました。

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by dantanno | 2014-11-23 20:03 | 自戒ネタ | Comments(0)

ブログと個人を切り離す

ブログを実名で書いている。

ブログを実名で書くと、ブログに書いた内容が、自分に対する評価に影響する。

「ブログに書いた内容が、自分に対する評価に影響する」ことが分かっているから、ブログを書く際、「人からどう思われるか」をすごく意識する。
具体的には、「僕のブログを読んでくれた人が、一体どう思うか」を意識する。



人生において「人・世間からどう見られるか」を意識することが諸刃の剣であるように、
「ブログを読んでくれた人が、一体どう思うか」を意識するのには、いい面もあるし、悪い面もある。


● いい面

- おもしろいテーマを見つけようと努力するようになる
- 伝わりやすい文章を書くよう努力する
- 読み手を不快にさせる内容を書かないよう、意識する




● 悪い面

- ツッコミを先回りして潰した結果、文章がつまらなくなる

ブログを書いている際、
(読者がこの一文を読むと、こういうツッコミが頭の中に浮かぶだろうな)
って思うことがあるんだけど、
(だったら、こういうふうに表現を変えることによって、そのツッコミが生まれないように出来るな)
といった具合に、文章がどんどん変質していく。
最初はとんがっていた法案が、国会審議で骨抜きにされ、結局毒にも薬にもならぬものになることが実際にあるのかどうか知らないけど、もしあるならそれと似てる。

- 人を不快にさせたくないがために、本当に思っていること、本当に書きたいことを書かなくなる

上記ツッコミの話にも関連するけど、誰も不快にさせず、誰からもツッコミが入らない文章って、果たして書く意味があるのか、という気もする。
だったらそんなこと気にしないで、好きなように書いてみるのもいいと思う。

- 自分への評価向上につながるようなことを書きたくなる

日頃生活している中で、(あ、これ、ブログに書こうかな、どうしようかな)と思うことがままあるんだけど、その際必ず頭の片隅にあるのは、(これ書いたら、どう思われるかな)という点。

そして、実際に文章を書いている際も、(こういう書き方をすると、読み手はオレのことをどう思うかな)といったことをどこかで考えています。



この点、本当におもしろいなあ
と思うのは、自分への評価向上につながるよう内容や書き方を選べば選ぶほど、逆に評価は下がる面も大いにあるから。



---



もし、ブログを匿名で書いたらどうなるんだろう。



人目を意識することに伴ういい面、すなわち
- おもしろいテーマを見つけようと努力するようになる
- 伝わりやすい文章を書くようになる
- 読み手を不快にさせる内容を書かなくなる

は、まあ引き続き残る気がする、実名で書かなくても。

一方、悪い面の最後の点 「自分への評価向上につながるようなことを書きたくなる」というのが無くなるかもしれない。
匿名で書けば、誰が書いているのか分からないんだから、よく思われようとあがいてもしょうがなくなる。



ブログを匿名で書くということは、そのブログから僕個人を切り離す行為だと思う。

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つまり、「いいブログにしたい」とか「読み手におもしろいと思ってほしい」という気持ちは引き続き残るけど、僕個人が関係無くなるから、僕の虚栄心がマイナスに作用しなくなる。



本当にまっさらな気持ちだと、自分は一体どういうことをどのように書くのか、とても興味がある。

このブログはこのまま続けつつ、匿名ブログ、もしかしたらやってみるかも。
結局ただの日記になるのかしらん。



読者のみなさん、
(あれ? この文体、どこかで・・・)
と思ったら、それはひょっとして僕かもしれません(笑)。
by dantanno | 2014-11-05 14:57 | 自戒ネタ | Comments(0)

ミス・コンシダレーション

盲目のおじさんが、駅の階段を降りていました。



慣れた感じでスタスタ行くのではなく、手探りで降りている感じでした。
(もしかしたら最近失明したのかもしれない・・・)と思いました。



一度通り過ぎましたが、やっぱり気になって後戻り。

他の人が何人か通り過ぎるのを待って、おじさんに近寄っていき、
「あの-、ホームまでお手伝いしましょうか?」

それに対しおじさんは、笑顔で
「いえ、大丈夫です、ありがとうございます。」

と言いました。

その瞬間に、自分の発言に強い違和感・嫌悪感を感じました。



なぜ、
「ホームまでお手伝いしましょうか?」
と言ってしまったのか。

なぜ
「ホームまでご一緒しましょうか?」

と言えなかったのか。



おじさんはもしかしたら、僕の「手伝ってあげる」的な態度に不快感を覚えたかもしれない。



---



配慮が足りないんです、僕。
悪気は無いんだけど。

いや、悪気が無いからこそこうなるのかもしれない。



階段を降りる、目が見えないおじさんに対し「お手伝いしましょうか?」と声を掛けるときの僕の心の中は、100%善意であって、悪意はありません。

でも、悪意が無いからこそ、自分がやっていることは正義である、という傲慢が生まれ、その結果、
「お手伝いしましょうか?」という言い方だともしかしたらおじさんは不快に感じるかもしれない
という配慮が欠落したのではないか。



---



僕が昔からよく言われてきた「アレ」を思い出しました。



例えば初対面の人と飲みに行って、いろいろ楽しく話しますよね。
すっかり意気投合し、僕のことを気に入ってくれた相手が

相手 「いやあ、ダンさん、あんた完全に日本人ですね!」

と言ってくれるときの相手は、善意100%です。

僕もすごくうれしいです。
なんだか認められた気がするし。



でも、それは僕が自分を日本人だと思っているから。



もし僕が自分をイギリス人だと思っていたら?
それなのに、人に「いやあ、あんた日本人だね!」と言われたら、例えそれが100%善意に基づいていても、多少不快に感じるかもしれない。

あるいは、仮に自分を日本人だと思っていたとしても、人に「いやあ、あんた日本人だね!」と言われたら、「僕が何人かは、僕が自分で決めてもいいですか?」と思うかもしれない。僕は思わないけど、そう思う人もきっといるでしょう。

発言の出所が善意だからこそ、通常であれば働くチェック機能が働かず、聞き手を不快にさせてしまうことがあるかもしれない、と感じます。



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話を戻します。

僕の発言を通じ、おじさんの心に、僕の心にある善意は届いたと思う。
善意が善意として伝わり、解釈されたという意味では、ミス・コミュニケーションは起きていません。
通訳が目指す所の、「話し手の想いを聞き手に届ける」は達成されています。

でも、その結果おじさんは不快になったかもしれない。



不快にさせるつもりがゼロなのに、おじさんが不快になっていたとしたら、コミュニケーションはうまく行っていない、とも言える。

あるいは、情報の伝達という意味でのコミュニケーションは成功したものの、僕の配慮が足りない、つまり僕サイドでミス・コンシダレーション(misconsideration,,, そんな英語無いか)が起きているんだなあ、と考えながら、ホームまでの階段をとぼとぼと降りました。



明日はもっと大きな人間になろう、っと!



by dantanno | 2014-09-14 21:09 | 自戒ネタ | Comments(0)