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通訳者は「予習の呪縛」から逃れ、好循環に乗ろう

また、長い文章を書いてしまった.....


読者のみなさんは、こんな経験をしたことがないだろうか。長い文章を最後までがんばって読んで、結局「たいしたこと書いてなかった」とか、「想定していた内容と違った」と、ガッカリさせられたことが。


それを避けるため、この長いブログ記事の冒頭にExecutive summaryを設けてみた。





Executive summary

このブログ記事は、通訳の予習に関するものである。


私が「予習の呪縛」と呼んでいる現象がある。そして、結構な数の通訳者(主に中堅レベルの通訳者)が、この「予習の呪縛」というものにハマってしまっているのではないか、と思っている。自分でも気付かないうちに。




中堅通訳者がハマりがちな「予習の呪縛」のメカニズムを、順を追って説明すると、大体このようなことだ:




1.「予習はいいこと」だと思い込んでいる。

予習は大事であり、「しっかりと予習をして案件に臨んでこそプロ」と思い込んでいる。思い込まされている。


2.自分の専門外の通訳案件を次々と引き受ける。

「予習はいいこと」と思い込んでいるから、予習がたくさん必要となるような、自分にとってアウェーな通訳案件を次から次へと引き受けることに躊躇・疑問を感じない。あるいは、そもそも自分の専門分野を設けようとしない。


3.「素の通訳力」が低い。

素の通訳力というのは、「もし仮に予習をまったくせず、丸腰で通訳案件に臨んだ場合、どの程度の通訳パフォーマンスが出来るか」という力。それが低い。


4.予習にたくさんの時間をかける

「予習はいいこと」と思い込んでいるので意図的に、そして、素の通訳力が低いので必然的に、予習にたくさんの時間をかけることになる。


5.予習をしている間、素の通訳力は向上しない。

予習は、その特定の通訳案件の本番での通訳パフォーマンスのアップには間違いなくつながるものの、基本的・普遍的な通訳力・知識力・理解力の向上にはつながらない。


6.通訳トレーニングや勉強に時間をかけない

真面目な通訳者ほど、ちゃんと予習をする。予習に時間を奪われる上、予習で疲れているし、しかも悪いことに、予習をして「時間を有意義に使った」という錯覚もある。だから、予習をがんばった分、素の通訳力を向上させるために不可欠な通訳トレーニングや勉強にあまり時間をかけない、かけられない。


7.「予習の効果」を強く実感する。

①素の通訳力が低い人が、②たくさんの時間をかけて予習をするものだから、その予習は確かに本番で大きな効果を発揮し、そのおかげでより良い通訳パフォーマンスが出来る。「予習しなければ大変なことになっていただろう。。やっぱり予習って大事!」と強く感じる。


8.「予習はいいこと」という思い込みが、さらに強くすり込まれる。


9.素の通訳力が低いまま、1.に戻る。






これが、私の言う「予習の呪縛」という悪循環だ。このサイクルを数年間繰り返した結果、あるときふと「私は何をやってるんだろう・・・」とようやく気付ければまだいい。引退しても気付かないことだってある。




このブログ記事では、

1.上記「予習の呪縛」について、順を追って詳しく見ていき、

2.どうすれば予習の呪縛から逃れ、好循環に乗ることが出来るのか、

について考える。


また、要所要所で、予習というものに関するポイントというか、原則のようなものも記載している。






Introduction

通訳者は、以下のようなことを口にすることがある:


「わずか1時間の通訳案件のために、何時間も、あるいは丸一日、場合によっては何日も、予習をすることがあるんです」


確かにその通りだ。

(ちなみに、このような発言は、「通訳の料金は、「1時間通訳していくら」と考えると高額に感じられるかもしれないが、予習にかかる時間を含めると、時給は意外と安いのだ」というような自虐ネタに続くこともある。これも確かにそうだ(涙)。)





通訳者の、こういう発言もよく耳にする。

「会議で使用予定の資料を早めにいただき、予習をしないと、当日の十分なパフォーマンスを保証出来ません。」


また、マジメな通訳者ほど

「来週の通訳案件に向けた予習をしないといけないので、今週末は遊びに行けそうにない(涙)」

といったことも言うだろう。




いずれも、予習というものの重要性を表す発言だ。それぐらい、予習というのは通訳の仕事と切っても切れないものである。予習は、通訳案件の成否を左右する大事な作業だ。これは筆者も認める。






<予習はいいこと、というコンセンサス>

通訳者100人に「予習はいいことだと思うか」と聞けば、ほぼ全員がYesと答えるだろう。また、「予習は大事だと思うか」と聞けば、これもほぼ全員(if not 全員)がYesと答えるだろう。



筆者も一度だけ案件をご一緒したことがある、業界の第一人者的な通訳者がいる。TVでも取り上げられたその方の座右の銘も「準備と努力は裏切らない」だそうだ。ここでいう「準備」というのは、「日頃からの勉強」も含むだろうが、「準備」と言うからには、主に案件に向けた準備、すなわち予習を指していると思われる。「予習をしっかりやれば、それは本番で裏切らない」という考え方だ。





この業界には、「予習=いいこと」というコンセンサスがある。

そして、予習は「いいこと」というだけでなく「大事なこと」であって、そして「通訳者は予習に時間をかけて当然(それこそプロフェッショナル)」というのも、ほぼ業界のコンセンサスといっていいだろう。ベテランもそう言っているし、駆け出しの通訳者もそう思っている。





かくいう私も、通訳案件本番に向けた予習は「いいこと」だと思うし、「大事」だと思う。


しかし。

しかしである。

「予習は確かにいいこと、大事なこと。でも、○○○」と感じるのだ。


以下で、この「でも、」の後の「○○○」の部分について、順を追って論じてみる。






<予習とは何か>

まず、「予習」を定義する。

そもそも、通訳における「予習」とは何を指すのか。




予習は、要するに「通訳案件に向けた準備」と言えよう。




ただ、「予習」と「準備」はイコールではない。というのも、「準備」には、例えば

・会場までの行き方を調べる

・当日使うペンやノートを用意する

といった、ロジ的・アドミニ的な行為も含まれるから。


そう考えると、「予習」というのは、準備という広義の作業の内、「会議/ミーティングの内容に直接関連する準備」と言えるかもしれない。





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では、我々通訳者(特に会議通訳者)は、具体的にどういうことを「予習」しているのだろうか。




予習の対象として、恐らく一番重要となるのが、当日その会議あるいはミーティングで使われる資料であろう。それを(なるべく早めに)クライアントからもらい、じっくり読み込んだり、資料に出てくる単語やフレーズに事前に訳をつけておいたり単語帳を作ったり、また、内容に関する不明点をリストアップして事前にクライアントに質問する、といったことを通訳者は行う。


また、多少ロジ的というか、会議の内容そのものではないことを「予習」することもある。例えば、登壇者の名前や経歴の確認だ。





上記以外で、通訳案件に向けてどのようなことを予習するか、は、通訳者によっても当然変わるし、その通訳案件の内容・性質によっても大きく異なる。


いくつか、ケース毎に見ていく。


1.トヨタのIRミーティングの通訳をするのであれば、トヨタという会社について、そして最近のトヨタの(クルマの)モデル名などを予習するだろう。トヨタのEVや自動運転への取り組みについても調べるだろうし、トヨタの競合の最近の動きにも目を配るだろう。(余談だが、IR通訳に向けた予習において「その会社の財務諸表」はあまり見なくてもいいと思っている。それについては別途。)


2.政治家のスピーチの通訳をするのであれば、その政治家のウェブサイトを見に行って、その人の経歴や、唱えている政策・公約などを確認するだろう。また、政治用語を重点的におさらいするかもしれない。あるいは、その政治家が最近行った記者会見やスピーチをYouTubeで見つけることが出来れば、それを観ておくことも有効だろう。


3.「ジンバブエの都市問題」というシンポジウムの通訳を引き受けたのであれば、ジンバブエがどういう国なのか、今ジンバブエでは何が起きているのか、といったことを知りたいだろう。ジンバブエの主要都市名の一覧もマストだろう。また、一旦ジンバブエから離れ、そもそも「都市問題」というのはどういう問題のことを指すのか、についても興味が湧き、調べるかもしれない。また、当日どのようなパネリストが、それぞれどのような立場で登壇するのか、についても思いを馳せるだろう。


出来ることはいろいろとあるわけだ。





<予習の目的>

我々通訳者は、一体なんのために予習をするのだろうか。

通訳者からすると、当たり前すぎる問いかけと感じるかもしれないが、この機会に一度、改めて考えてみてほしい。あなたは、一体なぜ、なんのために、がんばって予習をするのか?




読み進める前に、ここで数秒だけ考えてみてほしい。


なんで予習するんですか?








ーーー


私は、我々通訳者が熱心に予習する一番の目的は


「本番で、より良い通訳パフォーマンスをするため」


ではないかと思う。




「より良い」というのがポイントだ。予習をすると、(しなかった場合と比べ)より良い通訳パフォーマンスが出来るのだ。だから我々通訳者は一生懸命予習をするのだ。




ちなみに、通訳の予習には「会議内容の理解」という直接的な効果に加え、予習をすることで通訳者が安心して案件に臨める状態になり、それが結果的にいい通訳パフォーマンスにつながる、という副次的な効果もある。




予習のポイント: 「予習をしているとき、自分が今やっている作業が、本番での通訳パフォーマンスのアップにつながる作業か(つまり、これは「予習」といえるのか、あるいは何か別のものなのか)?」を常に意識しながら予習する。

(私が駆け出しのIR通訳者だった頃、やたらと予習に時間がかかったのは、要するに「何を予習すればいいかが分かっていなかった」ということに尽きる。つまり、ムダな予習をたくさんやっていたわけだ。)






<もし予習をしなかったら・・・>

もしも、まったく予習をせず、丸腰で通訳案件に臨んだら、一体どうなるのだろうか。

マジメな通訳者であれば想像もしたくないシナリオかもしれないが、ここであえて考えてみたい。






一つ前の「予習の目的」のセクションで、予習の目的を

「本番で、より良い通訳パフォーマンスをするため」

と定義した。


そんな「予習」を、まったくしなかったら、当然、ちゃんと予習をした場合と比べ、通訳パフォーマンスは落ちる。




通訳パフォーマンスは数値化・定量化出来ないが、仮に出来たとしよう。

1.予習にかけた時間と

2.通訳パフォーマンス、

の相関図は、例えば以下のようになる:



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予習をすればするほど、本番での通訳パフォーマンスが改善することを図示している。




<予習の効果は、時間とともに逓減する>

(このグラフが正しい、という前提つきだが) このグラフから、あることが見て取れる。それは、予習が、開始当初に一番効果があり、その後、徐々にその効果は逓減する、ということだ。確かに、予習による効果は、かけた時間と正確に比例して直線的に現れるものではない。


その通訳者にとって未知の分野の会議に向け、予習を開始して最初の1時間からは大きな効果が得られるだろうが、既に10時間予習している状態での「もう1時間」つまり11時間目の予習は、最初の1時間目と比べ、本番での通訳パフォーマンス改善効果が限定的、ということだ。



予習のポイント: 予習する際、上記曲線を常に頭に描く。傾きがなだらかになって来た、と感じられたら、潔く予習を打ち切り、早く寝て明日の本番に備えるといい。余計な罪悪感は(そして余計な予習も)禁物だ。






<2つの通訳パフォーマンス: P1とP0>

さて、ここで、2つの通訳パフォーマンス(点数)をプロットしてみる。


P1は、3時間、しっかりと予習をした状態で通訳案件に臨んだ場合の通訳パフォーマンス

P0は、予習をまったくせずに本番に臨んだ場合の通訳パフォーマンス




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数字は別になんでも構わないのだが、仮に、

P1 = 80点

P0 = 50点

とした。










<2つの通訳パフォーマンス: P1P0の関係>

もう一度、グラフを見てみよう。



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通訳パフォーマンスの点数であるP1P0を比較した場合、当然P1P0だ。予習した方が、しなかった場合と比べ、より良い通訳パフォーマンスが出来る。

そして、P1P0の差が大きければ大きいほど、その通訳者にとって、その通訳案件に向けた予習が「効果があった」ということになる。逆に、P1P0であまり差が無ければ、予習による通訳パフォーマンス改善効果が小さかった、ということだ。





このP1P0、どちらがより重要な指標なのだろうか。


クライアントや会議参加者の前で披露され、彼ら・彼女らが実際に耳にし、評価の対象となるのはP1だ。つまり、しっかりと予習をした上での通訳パフォーマンスだ。そういう意味では、P1が大事、という見方も出来よう。


では、P0というパフォーマンス指標には、一体どういう意味があるのだろうか。

我々通訳者は(基本的に)みなマジメであり、予習をした上で通訳案件に臨むことがほとんどである。そんな中、「予習を全くせずに本番に臨んだ場合の通訳パフォーマンス点数」を表す、ある意味 非現実的な指標であるP0になんの意味があるのか。




P0も重要だ。

例えば、私のような通訳エージェントが、登録を希望してくれる通訳者のトライアルの際に聴かせてほしいのは、なんといってもP0だ。P1など聴きたくない。


通訳者選考の際、何らかの音声を逐次通訳してもらうわけだが、必ず初見でやってもらっている。その音声について、しっかりと予習/準備をした状態の通訳ではなく、「素の状態の通訳」を見たいのだ。P0 すっぴんの通訳力、とも言えよう。


どの音声を使って選考するかを事前に通訳者に伝えておいてしまうと、トライアルの際にその通訳者が上手なパフォーマンスを披露してくれても、その人の通訳パフォーマンスが良かった理由が:

1.通訳が上手だからなのか、あるいは

2.事前にびっちりと準備をした上で臨んだから、なのか。

それが分からなくなってしまうのだ。





P1P0、どちらが重要か」という点について考えていて、ふと思った。

「予習をしてこそ(その通訳者の)本来の力が発揮される」と考えるのが正しいのか、あるいは逆に「予習をしない素の状態こそが、その通訳者の「本来の力」」なのかは、通訳者の間でも意見が分かれるところかもしれない、興味深い論点だ。





<なぜ予習が必要となるのか>

ちょっと前のセクションで、「予習の目的」すなわち「なぜ予習するのか」という論点について考えた。それと似ているが、微妙に異なる論点として、「なぜ予習が必要となるのか」という論点がある。


「なぜ予習が必要となるのか」を考えるにあたり、私が経験した事件を紹介する。名付けて「中国の地名事件」だ。





<中国の地名事件>

私は、2008年に通訳者になり、IR通訳を始めた。


当時は結構「中国ブーム」だった。IRミーティングにおいて、多くの日本企業が「うちは中国の重慶に第二工場を建設中でして・・・」とか、「当社は中国の無錫でマンション分譲事業をやっていまして・・・」みたいな話をしていた。


重慶とか無錫とか、ギリギリ聞いたことはあっても、それを英語でなんと言うかなんて、当然知らない。だから本番中に大急ぎで電子辞書で調べて間に合わせていたのだが、すぐに(このままではいけない)と気付いた。


そんなある日、いくつかの会社の決算説明会のプレゼン資料をなんとはなしに眺めていたとき、あることに気付いた。

多くの会社が、例えば計30ページのプレゼン資料であれば、その20ページ目あたりに中国の地図を載せ、その会社が中国のどの都市で何をやっているか、を説明していたのだ。


(これだ・・・)と思った。

IRミーティングに向けた予習をするとき、各社のプレゼン資料の中の「中国ページ」とでも呼ぶべきそのページを見つけ出し、事前に「重慶 ChongqingChungking」とか、「無錫 = Wuxi」みたいに、英語名をリストアップし、その通訳案件用の単語帳に載せておけばいいんだ!


この日から、IRの予習をする際、一社あたり2-3分の「中国タイム」を設けることが恒例となった。




その後、しばらく平和が続いていたある日、事件は起きた。


翌日のIRの通訳に向け、何気なく予習を開始した。

いつものように「中国タイム」と称し、決算説明会のプレゼン資料の後ろの方をパラパラとめくり、その会社の中国における事業展開を説明している「中国ページ」を見つけ、、、と、ここまではよかった。


そのときに、ふと思ってしまったのだ。

この2-3分の「中国タイム」って、もっと効率化出来ないのかな、と。言い換えると、この2-3分って無くせないのかな、と思ってしまったのだ。


そして、ハッと気付いた。

「こんなの、覚えちゃえばいいじゃん」

と。




中国の主要都市は、重慶とか無錫とか、広州とか杭州とか、成都とか天津とか、まあいろいろあるわけだが、当然、無限に存在するわけでは無い。限りがあるのだ。そして、一度腰を据えてそれら中国主要都市の英語での言い方を「覚えて」しまえば。。。。。

その後、二度と「中国タイム」など不要になるではないか!




ちょっと余談。

私は当時、一社あたり(ちゃんと予習すると)3-4時間かけていた。それに比べ、「中国タイム」にかけていた2-3分など微々たるもの、と思うかもしれない。実際、微々たるものなのだが、結局その積み重ねなのだ。ちりも積もって3-4時間になるのだ。そうした、いわば「ムダ」を一つ一つ省いていくことにより、今では予習時間は大幅に短縮された。





これが、私が経験した「中国の地名事件」である。

なーんだ、事件と呼ぶほどのことじゃないじゃん、大袈裟な。。。と思ったかもしれない。その気持ちもよく分かるが、しかし、この件は私にとって大事件だったのだ。


というのも、

「知っていれば、予習しなくていいんだ・・・」

という、予習に関する決定的な事実に気付かせてくれたからである。

「知らないからこそ予習が必要になるんだ・・・」と。


そして私は、この「知っていれば/知らないから」という概念をもう一段引き上げ、「力があれば/力が無いから」と位置付けてみた。


力があれば、その分、予習をする必要性は薄れる。

力が無いからたくさんの予習を必要とするのではないか。このとき、そう思ったのだ。




予習のポイント: 

知っていれば、予習する必要は無くなる。知らないからこそ、予習が必要となる。

力があれば、予習する必要は薄れる。力が無いからこそ、予習が必要となる。






<素の通訳力、という考え方>

私が経験した「中国の地名事件」を踏まえ、一つ前のセクションに出てきたP1P0という概念に話を戻す。





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なぜそんなに予習が必要になるのか?

なぜ何時間も予習しないとダメなのか?


それは、P0が低いからだ。

素の通訳力が低いからだ。


P050点しか無いから、それを(合格点ギリギリの)80点に引き上げるために、ものすごく多くの予習が必要となるのだ。






ここでふと考える。

もし、そもそものP080だったら?

つまり、予習ゼロでも80点の通訳パフォーマンスが出来る、それだけの実力があったら?




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この、グラフ上に新たに記載した赤い線。

これが「Bさん」という通訳者のものだとしよう。


Bさんは、P0が80点だ。

つまり、通訳力・知識力・理解力といった基本的な力があるため、予習をまったくせずに通訳案件に臨んでも、80点が取れる。




もちろん、そんなBさんも予習はする。

でも、それはP080点を85点、ないしは90点に引き上げるための予習となる。Bさんにとっては、予習前のP0と、予習後のP1にあまり差は無いのだ。


① 前述のAさんの、50点を80点に引き上げるために必要となる膨大な予習と比べ、Bさんの場合は予習時間がはるかに短かくて済むのと、

② 本番でのBさんの通訳パフォーマンスは、Aさんの80点を上回る90点なのだ。予習にかけた時間はAさんより短いのに!


Aさんが必死に一夜漬けをしている間、Bさんはぐっすり寝ている。日頃からちゃんと勉強していれば、テスト前に徹夜しなくてもすむのだ。


明日の通訳案件に向けた予習はもちろん大事だ。それをやれば、通訳パフォーマンスが向上するから。でも、予習が必要・有用だということは、素の通訳力が低い、ということでもある。素の通訳力がもっと高ければ、予習にかける時間を短縮できるし、極端な場合、予習する必要性を完全にゼロにもできる。


一方、Aさんのように「予習の効果が大きい」と感じるということは、つまり「P1P0の差が大きい」ということだ。すっぴんと、お化粧をした状態との間の差が大きすぎるのだ。そしてそれは、「そもそも、P0が低すぎる」ということでもあるのだ。


だから、「予習をしないといけない・・・」というのは、

「プロ意識の高さを表すいい発言」でもあるが、

「素の通訳力の低さを表す恥ずかしい発言」でもあるのだ。




結論

AさんとBさんの違いは何か。

Bさんは、素の通訳力が高いのだ。





<「予習」と「通訳トレーニング」と「勉強」>

さて。

予習と似た概念として、「通訳トレーニング」や「勉強」がある。

どれも、本番での通訳パフォーマンスのアップにつながる作業だ。


これら3つは、どういう関係にあるのか。どう異なるのか。どうオーバーラップするのか。


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「通訳トレーニング」というのは、私が定義するに、「基本的・普遍的な通訳力をアップさせるための取り組み」だ。

(ブログ記事「通訳トレーニングについて、思うことすべて」ご参照


例えばシャドーイングや、リテンションの訓練などがこれにあたる。特定の通訳案件だけではなく、どの通訳案件にも普遍的に役立つのが通訳トレーニングだ。

「予習」が特定の通訳案件におけるパフォーマンス向上のみにつながる狭い作業であるのと対称的だ。




では、「予習」と「勉強」はどうか。どう違うのか。

あくまでも私の定義付けだが、


予習: 特定の通訳案件に向けた準備

勉強: 特定の通訳案件に紐つかない、より普遍的な作業


と区別出来るのではないか。





「通訳トレーニング」然り。

「勉強」然り。

キーワードは「普遍的」だ。通訳トレや勉強は普遍的なのだ。これをやって鍛えられるのは、「特定の案件だけ」ではなく、「どの通訳案件でも」通用する普遍的な力なのだ。素の通訳力なのだ。


それに対し予習は普遍的ではない。特定の通訳案件における通訳パフォーマンスを向上させるための取り組み、それが予習だ。だからダメ、ということではないが、とにかく普遍的ではないのだ。




言い換えると、

通訳トレーニング → 通訳力アップ

勉強 → 知識力・理解力アップ

と、なんらかの力がアップするのに対し、「予習」というのは、その特定の通訳案件での通訳パフォーマンス改善にはつながっても、なんらかの力のアップにはつながらないのだ。




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ここで、一部の読者から反論があるかもしれない。

「いいや、違う」

と。

「予習は(少なくとも私にとっては)○○力のアップにつながっている!」

と。


一見、私が↑で言っていることと意見が180度対立しているかのように見える。しかし、世の多くの対立がそうであるように、実は単なるボタンの掛け違いである可能性が高い。より正確に言うと、「ことばの定義の違い」だろうと思う。

私は、基本的な通訳力アップにつながる作業は(それがどんな作業であれ)「通訳トレ」と呼んでいる。それをやることで、あなたの「どの案件でも活用出来る、基本的・普遍的な通訳力がアップ」するのであれば、それがどんな作業であれ、私はそれを「通訳トレ」と呼ぶ。


そしてまた、基本的・普遍的な「理解力や知識力の向上」につながるのであれば、それがどんな作業であれ、それは立派な「勉強」だ。


一方、私がここで「予習」とクリティカルに呼んでいるのは、当該通訳案件での通訳パフォーマンス改善にのみつながる作業のことだ。そして、そんな「予習」をすることで、基本的な通訳力や知識力などはほぼ、あるいはまったく、向上しない。






人の健康にたとえよう。


カンフル剤を打ったり、栄養ドリンクを飲むことは、もちろん効果がある(多分)。それらは即効性のある、短期的な効果だ。

これが「予習」なのだ。一夜漬けの詰め込みなのだ。


それに対し、「健康的な食事をする」とか、「定期的に運動する」といった取り組みは、長期的かつ普遍的な取り組みだ。

これが「通訳トレーニング」であり、「勉強」なのだ。一夜漬けの詰め込みなどではない。日頃からの学習なのだ。

そもそも健康な人は、栄養ドリンクなどに頼らなくてもいいのだ。




話をまとめる。

予習は、その特定の通訳案件において通訳パフォーマンスを改善させる、という効果は確かに発揮する。でも、それは「通訳力」とか「基本的な知識力・理解力」といった「力」の改善・向上ではないのだ。



予習のポイント: 予習している間、素の通訳力は向上していない。






<各作業間のオーバーラップ>

ここで注意が必要なのは、「予習」と「通訳トレーニング」と「勉強」の間では、オーバーラップが存在することもままある、ということだ。


この記事の冒頭の、「具体的に、どのようなことを予習するのか」のセクションで、予習のいくつかの事例を取り上げたのを思いだしてほしい。




予習と通訳トレーニングのオーバーラップ

政治家の記者会見の通訳に向け、その政治家が最近行ったスピーチをYouTubeで見つけて観ておく、という例を挙げたが、例えばその動画を使って逐次通訳のトレーニングをすれば、

1.(その特定の案件に向けた)予習と、

2.(普遍的な)通訳トレーニング

を両方同時に行うことが出来る。


予習と勉強のオーバーラップ

「ジンバブエの都市問題」に向けた予習の一環で、「そもそも「都市問題」ってどういう問題?」に興味を持ち、そのテーマに関する本を買ってきて読んだとする。これも立派に

1.(その特定の案件に向けた)予習と、

2.(普遍的な)勉強

を両方同時に行っている。




予習のポイント: なるべく「ただの予習」は避け、「通訳トレーニング」や「勉強」とオーバーラップするような予習を行う。その方が、短期的かつ長期的両方の効果が得られ、効率的。






<予習は麻薬のようなもの>

みなさんが、ある通訳案件を引き受けたとする。その案件に向け、しっかりと予習し、その予習が本番で大きく効果を発揮したとしよう。予習をした結果、通訳パフォーマンスが大きく改善したとしよう。


こうした経験をすると、みなさんは「予習」というものに対し、どう考えるだろうか。


(しっかり予習してよかった・・・)

確かに、予習したおかげで通訳パフォーマンスが大きく改善したのだから、「予習してとてもよかった」と言える。


(やっぱり予習は大事だ・・・)

(準備は裏切らない・・・)

もし予習していなかったら、本番での通訳パフォーマンスはP0(例えば50点)だったわけで、確かにこの案件において予習は大事な役割を果たした。裏切っていない。


あなたは、その通訳案件を経験した結果、「予習」というものの重要性・価値に改めて気付き、それ以降の案件においても予習を徹底しよう、と思うだろう。むしろ、マジメな通訳者ほどそう思うはずだ。




しかし、ここでちょっと考えてみていただきたい。

その通訳案件において、予習がそれだけ大きな効果を発揮した、というのは、別の見方をすれば、一体どういうことだろうか。




1. 素の通訳力が低い

「予習の効果が大きかった」ということは、予習前(P0)と予習後(P1)の間に大きな差がある、ということだ、文字通り。「予習してよかった・・・」と感じるということは、「P1 - P0」の値が大きいのだ。


ということは、、、

予習後(P1)だけに注目すると「予習してよかった・・・」としか感じないが、

予習前(P0)にも注目すると、「私は素の通訳力が低い」ということにもなる。

そして、素の通訳力が低いということは、、、今後も、あなたは通訳案件の度にたくさんの予習をするだろうし、かつ、その度に「大きな効果を実感」し続けることになる。


2. 通訳力は向上していない

「予習の効果が大きかった」ということは当然、その案件に向け、かなりの予習をした、ということだろう。多くの時間をかけた、ということだ。

もし、「予習をしている間、基本的・普遍的な通訳力は(あまり)改善しない」という前述の仮説が正しいとすると。。。 あなたが多くの時間をかけて行ったその予習の間、あなたの通訳力は(あまり)向上していない。少なくとも、その時間を予習ではなく通訳トレーニングに振り向けた場合と比べ、向上していない。

つまり、1.で述べた「素の通訳力が低い」という問題が改善されないまま残っているし、このまま残り続ける可能性が高いということだ。


3. 危機感を感じにくい

1.素の通訳力が低く、かつ2.その問題が改善されないまま残っているわけだが、でも、しっかりと予習をしたことで本番での通訳パフォーマンス(P1)が(とりあえずその場は)なんとかなってしまい、危機感を感じにくい、というのも非常に恐い点だ。




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ちょっと大袈裟に書きすぎかもしれないが、実際、予習にはこういう側面がある。

「その通訳案件における通訳パフォーマンス改善」という、短期的・即効的な効果は間違い無くあるものの、長期的な通訳力アップにはあまりつながらず、通訳者が悪循環に陥りやすい。効果が大きいほど危機感を感じにくい、言ってみれば麻薬のようなものだ。







<予習の呪縛、という考え方>

記事の冒頭で書いた「予習の呪縛」という考え方。

図にするとこうだ。



通訳者は「予習の呪縛」から逃れ、好循環に乗ろう_d0237270_13051228.png



かなり多くの通訳者、特に中堅の通訳者が、この呪縛にハマっていると思う。


予習の呪縛が恐いのは、


1.本人も、自分がそれにハマってしまっていることに気付きにくい

2.真面目な人ほど、この呪縛にハマりやすい


からだ。






<予習の呪縛から逃れるには>

では、一体どうすればいいのか。


予習の呪縛は悪循環の一種だ。なので、その「循環」を断ち切ればいい。そうすれば、悪循環が止まるだけでなく、うまく行けばそれが逆回転し、好循環にもなる。これが「循環」のいいところだ。


循環を断ち切り、逆転させるには、単一の施策だけではだめだ。

循環なのだから、いくつかの場所で複数の手を打つことで流れを逆回転させよう。








1. 「予習はいいこと」という思い込みを捨てる

一番大事なのがこれだ。

「予習はいいことであり、大事なこと」とか、「予習にかけた時間は裏切らない」といった考え方をしている内は、予習に時間がかかってしまっていることを問題視しにくい。問題視しないと、対策を打とう、というインセンティブも生まれず、いつまでも(=引退まで)多くの時間を予習に費やすことになってしまう。


予習は、素の通訳力が低いからこそ生じる、必要悪的な作業である、ととらえるといいと思う。実際そうなのだから。そしてまた、予習をしている間は基本的な通訳力が向上しないことを考えると、「必要悪」どころか単なる「悪」とも言える。「もっと上手になりたい」と願う通訳者にとって、予習は時間の無駄なのだ。


もし今「予習の悪循環」にハマってしまっているのであれば、「予習はいいこと」という先入観を一度捨て、「なんでこんなに予習が必要になるんだろう」とか「どうすれば予習時間を短縮できるだろう」と考えてみてほしい。


よく考えてみれば、「予習はいいこと」だと絶賛していたのは素の通訳力が低い先輩たちであって、あなた自身ではなかったはずだ。





2.  素の通訳力を上げ、曲線をシフトさせる

予習の呪縛から解放されるためには、案件の選別や、予習の効率アップなど、いくつか手段がある。中でも、最も劇的な効果をもたらすのは「素の通訳力を上げること」だ。




我々通訳者は、時間をかけて一所懸命予習をすることで、曲線上を、P0からP1へと、右上方向に動く。これが予習の効果だ。




通訳者は「予習の呪縛」から逃れ、好循環に乗ろう_d0237270_13114131.png




しかし、これはあくまでも「同一曲線上の動き」に過ぎない。そしてそれは、当該通訳案件における通訳パフォーマンス改善にはつながるものの、根本的な解決にはつながらない。


大事なのは、「曲線上を動く」ことではなく、今自分が乗っているその曲線から逃れ、曲線自体を上方にシフトさせることだ。

それはすなわち、素の通訳力をアップさせることを意味する。



通訳者は「予習の呪縛」から逃れ、好循環に乗ろう_d0237270_13133747.png



では、仮に成功裏に曲線をシフトさせることが出来たとして、その後はどうすればいいのか?


「素の通訳力がアップしたから、もう予習なんて必要無い」ということではない。前ほどは必要ではなくなった、というだけのことだ。予習への依存度が下がった、ということだ。だから、素の通訳力が上がり、曲線をシフトさせたあとも、予習はする。その分、本番での通訳パフォーマンスがアップする、というメリットも従前通りだ。

ただ、以前の自分ほど予習に時間をかけなくて済むようになるので、その分、他のことが出来る。通訳トレーニングなどに時間を振り向けることが出来、その分、さらに「素の通訳力」がアップする、という好循環が生まれる。





3. 予習時間短縮のための方策

我々の目的は「本番での通訳パフォーマンスの向上」であって、「予習すること」ではない。つまり、予習はあくまでも手段であり、目的ではない。

と考えると、目的が達成できるのであれば、予習時間はなるべく短かいにこしたことはない、ということだ。


まずは、本当に心から「予習時間を短縮したい」と思うことが重要だ。「効率的に予習するにはどうすればいいか」と相談してくる通訳者のほとんどが、本気で「予習時間を短縮したい」とは思っていないと思う。「予習=いいこと」という思い込みを持ったままだと、その「いいこと」である予習に時間をかけることを心底いやがることはなかなか出来ないものだ。これを変える必要がある。


予習時間の短縮は、細かいことの積み重ね

携帯電話(いまやスマホ)は、一昔前と比べ、だいぶ小さくスリムになった。それを可能にした半導体の微細化は、一朝一夕で実現したのではなく、小さなステップの積み重ねだ。

私が経験した「中国タイム」の廃止による2-3分の削減然り。

あるいは、「モニターが二つあった方が、2つの資料を同時に見比べることが出来て、予習がしやすくなるなあ」然り。

こうした細かいステップの積み重ねで、予習時間を短縮し、その分、他の作業に振り向けることが出来る。

そのためには、やはり「予習は「いいこと」ではない。こんなことにかける時間はなるべく短縮したい」と強く、本気で願うことが必要だ。


案件を選別する

通訳者としての専門分野を持たず、エージェントから来た案件を来たもの順に予定に入れて行くと、いつまでたっても多くの時間を予習に費やし続けることになる。

それに対し、何か特定の専門分野を持てば、少なくともその分野の通訳案件を引き受けた場合は、予習にかける時間を短縮できる。


「いろいろな分野の通訳をこなす、ゼネラリスト通訳者です」という通訳者も多い。あなたはそれでいいかもしれないし、通訳エージェントにとってそんなあなたは実に便利な存在だろうが、はたしてクライアントにとってはどうか。

盲腸の手術を受ける際、盲腸手術専門の外科医に執刀してほしいか、あるいは「昨晩徹夜で盲腸手術について予習してきました」という眼科医に執刀してほしいか、の違いだ。クライアントからすれば、その分野を専門とする通訳者に案件を任せたいに決まっている。通訳者が専門分野を持つことは、とても「クライアント志向」なのだ。


もっとも、例えば私がIR通訳という専門分野を持っているのは、(恥ずかしながら)意図的・戦略的な判断の結果では決してなく、完全にたまたまだ。でも、あなたには出来れば意図的・戦略的に専門分野を作り、それを大事にしてほしい。


専門分野を作ったからといって、「それしかやらない」ということではもちろんない。ただ、ホームと呼べる分野を持つのと持たないのとでは、予習の呪縛から抜け出せる可能性が大きく違ってくる。



リピート案件の比率を高める

毎回「どうも初めまして」とやっているからこそ、予習に時間がかかるのだ。去年も担当した会議、毎年同行している企業の案件であれば、(決して手を抜くことなく)予習にかける時間を短縮できる。

素の通訳力を高め、通訳の専門分野を作れば、当然リピート率は高くなる。このように、予習の呪縛が互いに連関したサイクルであるように、その逆の好循環も相互につながり、複合的な効果をもたらすのだ。



予習よりも復習を

案件の前に、(どんな話になるかなぁ、どんな用語が出るかなぁ・・・)という推測にも基づき行うのが予習だ。つまり、試験前の山かけのようなものだ。

それに対し、実際に試験に出て、自分がうまく回答出来なかった問題について、試験後に行う復習、これが大事なのだ。

通訳で言えば、ミーティングで実際に出た用語、表現、概念について、ちゃんと記録しておくことが大事だ。何よりも大事なのは「うまく訳せなかった箇所」について、次は絶対にうまく訳せるよう復習し、記録しておくことだ。


予習を熱心にやる通訳者も、復習となるとおろそかにしているケースがある。でも、大事なのはむしろ復習なのだ。


なぜ復習がおろそかになるかというと、単に「案件が終わったばかりで疲れているし、他のことをしたい」というのもあるかもしれないが、より本質的な理由もある。それは、「その同じ案件を将来ふたたび通訳する機会があるのかどうか分からない」という点だ。つまり、がんばって復習しても、二度とその案件を担当することが無いのであれば、その復習は無駄になるというか、無駄ではないにせよあまり効果を発揮しないこととなってしまう。


だからこそ専門分野を持つことが大事なのだ。





<まとめ>

「本番で、よりよい通訳パフォーマンスをしたい」というのは、すべての通訳者の共通の目標であり、願いだと思う。

その頂きに向け、さまざまなルートがある。予習もその一つだ。確かに予習は大事だ。でも、他にも道がたくさんある。素の通訳力を高めるという道もある。そして、見方によっては、素の通訳力を高める方が本質的で、効果的で、そして(一見遠回りだが)実は効率的、とも言える。




「予習はとても大事」

「予習すると効果がある。予習してよかった」

「我々通訳者は、わずか1時間の通訳案件のために、何時間も、あるいは丸一日、そして場合によっては数日間も、予習をすることがある」

「会議で使用する資料を早めにいただかないと、当日十分なパフォーマンスが出来ません。」

「週明けの通訳案件に向けた予習をしないといけないので、週末は遊びに行けない」

etc. etc.




このブログ記事を読んだ後も、あなたはこういうことを言い続けるだろう。もちろん、それで構わない。でも、今後あなたが通訳の予習に関する発言をするとき、この記事を読んだことで、ほんのわずかでもあなたの意識が変わっていればとてもうれしい。


そしてもし、多少なりとも「予習の呪縛」のようなサイクルに乗ってしまっていると感じられたら。。。

出来ることはいろいろある。ぜひさまざまな手を打って、その悪循環を断ち切り、逆に好転させていってほしい。


by dantanno | 2019-09-08 13:21 | プレミアム通訳者への道 | Comments(0)