今ふと気付いたんですが、僕もう44歳ですよ。
ハッキリ言っておじさんです。
気持ちの上ではまだまだ若いつもりだし、
いまだに下っ端気分が抜けない面もたくさんあるけど、
まあおじさんです。
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自分もそうなら、自分の周りもそうです。みんなおじさん・おばさんです。
もちろん、若い人たちや、子供たちとの接点はあります。
また、我々よりもさらに上の、おじいちゃん・おばあちゃん世代との接点もあります。
でも、自分と一番近い人たち、一番やり取りが多く発生する同年代の相手たちは、みなおじさん・おばさんです。
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自身、おじさんとなり、周りのおじさん・おばさんたちと日々やり取りしていて思うのは、
「我々おじさん・おばさんには、もはや「平時」なんて無い」
ということ。
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つまりですね、年齢的に、ほぼ常に、何かしら問題ありなわけです。
これは、「カラダのどこかが痛い」とか、そういった問題もそうです。
あと、自分の転職とか、クビとか、昇進出来るのか、とかもそうです。
倦怠期だの、なんとかレスだの、離婚だのなんだのもそうです。
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自分自身の問題だけじゃありません。
家族の「中間管理職」として、上下方向からの「問題」もあります。
親が病気になった。介護がどうだの、死んじゃった、だのもそう。
それが解決したと思ったら、今度は子供が熱出した。娘がグレかかってる。あかちゃんの世話が大変。高校生の息子が医者になりたいと言い出した。
自分の問題だけでも大変なのに、上下方向からのプレッシャーもすごい。
で、パソコンが壊れた、生命保険を見直すかどうか、クルマのバッテリーが上がった、役所がなんか言って来てる、塀にペンキ塗らなきゃ、etc. etc.
全方向から、問題に次ぐ問題です。
そう考えると、子供の頃はずいぶんよかったなあ(笑)。
当時は当時で「大変」だと感じていたのかもしれないけど、我々おじさん・おばさんから見れば、悩みなんて何もなく、超絶的にラクなようにも思える。ま、彼らもいろいろ大変なんでしょうが。
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さて。
「我々おじさん・おばさんには、もはや「平時」なんて(あまり)無い」
という考えをさらにもう一歩進めると、
「我々おじさん・おばさんには、もはや「平時」なんて無いわけだから、
「今は平時ではない」を、もはや一切言い訳に出来ない」
という気もしてきます。
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あなたが僕同様、おじさん(あるいはおばさん)だとしましょう。
で、サッカー選手だとします。
つまり、おじさん・おばさんサッカー選手だとします。
サッカー選手であれば、日々、ストレッチだのパス練習だの筋トレだの、そういったことをしないといけないわけです。
おじさん・おばさん選手であっても、、、 いや、おじさん・おばさん選手だからこそ、そういった日々の積み重ねが重要になります。若い世代みたいにほっといても成長しないので。
でも、その一方で、人生におけるなんらかの「問題」を抱えているわけです。
夫婦間の問題かもしれないし、親の問題、子の問題かもしれません。カネの問題かもしれない。なにしろ全方向から来ますから。
そんなときに、
「オレは、今は○○の問題を抱えていて、これは要するに有事であり、平時ではない。
だから、自分が日頃やるべきこと(ストレッチ、筋トレ云々)が 今は出来ない」
って、普通はそう思うし、そうなるじゃないですか。それで許されるじゃないですか。
でも、我々おじさん・おばさんにとっては、日々有事なわけですよね、世代的に。
自分のこともそうだし、上下世代に起因する問題も続々待ち受けています。もはや平時なんてない。
だから、要するに何を言いたいかというと、
「今は平時ではないから」
って、そんなの、日々やるべきことをやらない理由になんて、もはやならないんじゃないか、ということなんです。有事がもうデフォルトなんだから。
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我々おじさん・おばさんは、「もはや平時なんてない」ことを心に刻み、
むしろ「常に有事」であることを前提に、
その上でいかにして「日々やるべきこと」を粛々と進めていくか、にフォーカスしていくべきだし、
前進したいのであれば、もはやそうするしかないと感じます。
「この件が落ち着いたら・・・」 → 「次の件」が待ってます。平時なんて、永遠に来ない。
日々有事な中で、それを前提に作戦・戦略をたて、大変さを周囲にあまり見せずに前にどんどん進んでいく、そういうのがかっこいいおじさん・おばさんだと思うし、自分もそうありたいと思いました。