たんのだんのブログ

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読んでいない本について堂々と語る方法

ピエール・バイヤール著、大浦康介訳の「読んでいない本について堂々と語る方法」を今、読んでいます。

先日ジャケ買いし、まだ読んでいない(笑)、翻訳家の岸本佐知子さん他の「『罪と罰を読まない」に続く「読まない」シリーズ第2弾。

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本を「読まない」ことについては、昔からかなり興味(と自信)があります。
今はだいぶ「読む」ようになりましたが、昔の僕は積ん読専門。「○○の経済学」とか、それっぽいタイトルの本を見かけるととりあえず購入し、それを本棚に飾る、ということを繰り返して来ました。

それが、あるときふと「読むべき」だと思う本ではなく、「読みたい」と思う本を買うことにしよう、と決めました。いざ気持ちをそのように切り換えてみると、実は「読みたい」と思う本がほとんどなく、(あれ?オレは自分が読書好きだと思って来たけど、実は読書なんて好きじゃないのか???)と愕然としたのを覚えています。本を読まない、本なんて興味無い、って、現代の社会で相当タブーですよね。

その「タブー」は、何らかの意味で「知的」なイメージが漂う職業についている人であればなおさらです。
飲み屋のおっちゃん(No offense whatsoever)が「オレは本なんて読まねえよ」とうそぶくのは許されますが、大学教授とか弁護士とかがそういうことを言うと周囲は(えっ。。)となるでしょう。

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本書(「読んでいない本について堂々と語る方法」)ですが、著者は大学の教官であり、仕事の性質上、いろいろな本についてコメントする必要にちょくちょく出くわすそうです。そんな著者はこう言っています(一部中略):

「読まずにコメントすることについて語ることは、確かに一定の勇気を要する。

読書をめぐっては、暗然たる強制力を持つ規範がいくつもある。
・第一は、読書義務とでも呼ぶべき規範である。我々は、いまだ読書が神聖なものとみなされている社会に生きている(こうした社会が滅びようとしていることも事実だが)。
・第二は、通読義務とでも呼ぶべき規範である。これによれば、本というものは始めから終わりまで全部読まなければならない。飛ばし読みや流し読みは、まったく読まないのとほとんど同じぐらいよくないことであり、とりわけそれを口外してはならない。
・第三は、本について語ることに関する規範である。ある本について多少なりとも正確に語るためには、その本を読んでいなければならない、という考えがある。ところが、私の経験によれば、読んだことのない本についておもしろい会話を交わすことはまったく可能である。会話の相手もそれを読んでいなくて構わない。むしろそのほうがいいくらいだ。」

という具合。

これ、真面目な本なのか、ふざけた本なのか。そこがなかなか判断しにくい(笑)。正確には、その両極を行ったり来たりしている。

例えばこんな感じ:
「読んでいない本と、それに対するコメントについて考えることは容易ではない。そもそも「読んでいない」とはどういうことなのか、よく分からないからだ。「読んでいない」という概念は、「読んだ」と「読んでいない」とをはっきり区別出来るということを前提としているが、テクストとの出会いというものは、往々にして、両者のあいだに位置付けられるものなのである。」

本気で言っているのか、冗談で言っているのか。
恐らく両方なのであろう。大浦氏の訳のトーンがまた楽しい。

「読まない」にもいろいろある。もっともラディカルなのは、本を一冊も開かないことだろう。ただこの完璧な非読状態というのは、全出版物を対象として考える場合、実は近似的にはすべての読者が置かれた状態であって、その意味では書物に対する我々の基本的スタンスだと言える。」

うーん、いいですねー。

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特に説得力があったのは、
「大事なのは、しかじかの本を読むことではなく、すべての書物について、「全体の見晴らし」をつかんでいることである」
という一節。

一冊一冊の本を読むのは、いわば「木をよく見る」こと。それに対し、より重要なのは「森を見る」、つまり世に無数に存在する本たちの全体像を把握し、それぞれの本がどのような位置関係にあるのかを把握すること、そちらの方がはるかに重要だ、という考え方。読むのを面倒くさがる自分を正当化するための屁理屈なのか、あるいは実にすばらしい理論なのか、よく分からず腑に落ちないところがまたおもしろい。

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本書を読んでいて思ったけど、通訳も、「読んでもいない本について堂々と語ること」とかなり似ている。

その分野の専門家たちの中に、ド素人(=通訳者)ひとりポツンと混じっている、というのは我々の日常においてよくあるシチュエーション。
全く分かっていない内容について、さも詳しいかのように訳す必要がある。今、初めて聞いた単語について、さも「当然昔から知っていた」かのように訳す必要がある。


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例えば会議で「やっぱり、カギを握るのはPCOですよね〜」という発言が出たとする。そのとき、
通訳者 「PCOってなんですか?」
と言うべき時も確かにあるんだろうが、それを言ってしまったら
会場 (えっ、、知らないの??)
と絶句されるであろうケースも多い。特に、その「PCO」とやらが「カギを握る」とか言っているわけだから、事態は深刻だ。だから通訳者は、(ああ、PCOね(笑))と、さも昔から知っていたかのようなフリをして "PCO is the key issue here" とかなんとか言って訳しながら、その後、本番中、あるいは本番後にスキを見て大急ぎでWikipediaに「PCOとは」と打ち込んで調べる必要がある。

要するに知ったかぶりである。

知ったかぶりはよくない。昔からそう教わってきた。だから、当然通訳案件に向けて一生懸命予習するし、日頃から知識の習得に余念が無い通訳者も多い。また、あまりにも門外漢のテーマについての通訳案件は受けない、というのも有効であろう。でもやっぱ一番有効なのは知ったかぶりだ。

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知ったかぶりは、通訳者自身を守るためでもあるが、客(つまり会議参加者)のためでもある。

通訳者は、自信が無さそうにしてはいけないのである。正確に言うと、自信の無さを客に悟られてしまってはいけないのである。
客は、ドキドキビクビクしながら運転するタクシー運転手の後部座席には乗りたくないものである。実はまったく自信がなくても、さも自信ありげに、これは毎日通っている道で、オレはこの道30年だ、だから大船に乗ったつもりでいてください、ぐらいのハッタリをかまして運転してくれた方が、乗客もありがたいのである。

by dantanno | 2018-09-11 15:37 | プレミアム通訳者への道 | Comments(0)