ネットで人の悪口を言うことについて

以前、ある人に、数ヶ月間にわたりネットで悪口を書き続けられるという、得がたい(?)経験をした。
せっかくなので、その結果学んだことを時系列でまとめてみた。

1.当時、まさにその渦中にいたときに思ったこと
2.終息のプロセスで思ったこと
3.今、振り返って思うこと


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1.当時、まさにその渦中にいたときに思ったこと

・ショック、というか、恐い

ネットで悪口を言われる、という経験をしたことが無い幸運な読者の方々に、ちょっと想像してみてほしい。

インターネットという、日本を含む世界の、とても多くの人間がいつでも自由に見られる場所に、
自分に関するネガティブな発言・投稿が複数書かれていて、
それが今後ずっと存在し続けるかもしれない、いや、今後ずっと増殖し続けるかもしれない

のは恐ろしい。



何が恐いって、そのような悪口を
① それを読んでいる人がいる、と思うと恐い
② 自分が目にするのも恐い
③ そういうことをネットに書くほど自分を嫌っている人がこの世に存在する、という事実が恐い
(恐い上に、その人をそのような行為に駆り立てたのが自分である、という後ろめたさと恥ずかしさも強い)



・家族に相談出来ない/しにくい

その人(「Aさん」)が書いている悪口を、ある日たまたま発見した。そして、その後日々増えていく悪口を見ながら、家族(奥さん)に相談するかどうか、考えた。

結局そのときは相談せず、(この問題が終息したら打ち明けよう)と思った。なぜ相談しなかったかというと、してもしょうがないと思ったから。家族に「中傷対策が専門の弁護士」がいるなら別だが()、家族は、書かれている本人がその問題に対してそうであるように、ネットにおける悪口に対して無力である。

もちろん、書かれている本人が「自分は今そうした状況にあってしんどい」ということを家族に伝えるだけで肩の荷が下り、少しラクになるだろう。でもそれは、自分の肩に乗っていた荷を家族に不当に担がせるだけのような気がした。実際、僕がそうした状況にあると知ったら奥さんは、それに対して手を打てないもどかしさを感じる一方、僕がしんどい状況にあることを知って彼女自身もしんどくなるだろうし、だったら言わない方がいいな、と思った。

いつ終わるともしれないこの問題がもしいつか終息すれば、そのときに初めて「実はこうだったんだよ、ハハハ」と打ち明けようと決め、実際そうした。



・自信、ひいては判断力が低下する

悪口を書かれていた当時。何かアイデアが頭に浮かんだり、何かを発言したり、何か行動を起こす度に、
(これをAさんが見たら/聞いたら、どう思い、なんと投稿するだろうか) と毎回考えていた。

その結果取りやめた思考・発言・行動も多いと思うし、判断力・決断力・行動力が大きく低下したと思う。

こうした「遠慮」は、問題が終息した今はあまり意識しないが、それは遠慮が「無くなった」からではなく弱まっただけ、そして僕がそれに対して不感症になっただけで、今も存在していると思うし、残念ながらこれからもずっと無くならないと思う。
ネットに悪口を書く人には、そうした傷を相手に負わせる可能性があることを自覚してほしい。「それでも書くんだ!」という人間はあまりいないと思う。



・実は相手(書く側)は、自分を100%「嫌い」なわけではない

ヤマト運輸の元社長で、宅急便事業を始めた功労者である小倉昌男さんの著書「経営学」を読んだ。この本は、経営に対する興味の有る無しにかかわらず、おすすめ。

そこからの引用:

会社の帰りに、会社の同僚と赤提灯の店に立ち寄り、上司の悪口を言いながら一杯飲むのはどういうわけだろう。会社が嫌いなら、また、上司が嫌いなら、会社のことなど忘れて自宅に帰ればよいものを、わざわざ悪口を言うために赤提灯に立ち寄るのは、会社が嫌いだからだとは思えない。むしろ会社が好きだから、一杯飲みながら批判的な意見を口にするのではないだろうか。



僕が経験した本件の場合、「好き」ということは無いかもしれないが、相手(Aさん)が自分に関心があることは確かで、プラスに解釈すると、僕に「良くなってほしい」という想いがあるからこそ、あれこれ言ってくれている可能性もある。



・実は自分(書かれる側)も、100%「イヤ」なわけでもない

当時、一日の仕事が終わったときとか、日中ふとしたときに(今日は何か書かれてるかな?) と、漁で仕掛けた網を引き上げるような思いで、悪口が書かれているサイトを覗きに行っていた。 (もう見るのはやめよう)と何度も思ったが、疲れたときとか、お酒が入ったときとか、ついつい見てしまう。

そのサイトを開くときに感じる、あのなんとも言えない感じ。

ドキドキ・ヒヤヒヤするし、マウスを持つ手が瞬時に汗ばむのが分かる。
自分がこの後傷つく可能性が高いことが分かっているから、それに備えようと自分の心を防御する。
そして、(頼むから今日は何も書いていないでくれ)と祈るのと同時に、心のどこかで、(何か書かれているといいな)という、悪口を楽しみにするような、信じられない気持ちもあった。

例えネガティブな内容であっても、自分についてあれこれ言われるのはどこか快感なのだろう。全く無視されるよりは、悪口を言ってくれる方がうれしいものなのか。



・なぜ、Webの掲示板や質問コーナーには、辛辣な意見の人が多いのか

最近、Webの投稿サイトに悪口を書こうとする人に対し、「本当にこの内容で投稿しますか?」的な「再考促し」ボタンを設置するアイデアを提唱した女の子が話題になった。とてもいいことだと思う。
そして、そのボタンが一定の効果をあげるということは、そうした投稿が結構安易であることを表しているし、そうしたボタンが「いいアイデアだ」ともてはやされるということは、それだけネットで人の悪口や中傷を書いている人が多く、また、それによって傷ついている人も多い、ということだろう。なぜそうなってしまうのか。

今、自分の目の前にいない「見えない相手」に対しては、人は生まれ持った優しさを失いやすいのかもしれない。人種差別とかヘイトスピーチをする人は、その相手・対象と離れた場所にいるからこそ、相手及び自分の行為に対して不感症になりやすい。

また、匿名性も影響しているだろう。 Aさんは、自身についても僕についても、ハッキリとは名前を出さずに投稿していた。それでも、分かる人にはちゃんと分かるようになっていたから厄介だった。

もし
1.書き手が、自分が誰であるのかを堂々と名乗り出て、
2.自分がこれから誰について投稿するのかも明確化
した上であれば、安易な悪口は書きにくい。



・「悪口」とは

そもそも「悪口」とは何か。「建設的な批判」とどう違うのか。

再度、ヤマトの小倉さんの著書からの引用:

「俺が社長なら会社をこうする」、「俺が課長ならやり方を変えてこうやる」。社長は、とか、課長は、とか批判するのは、自分を会社の中に置いて、参画意識の元で常に考えているからではないだろうか。赤提灯で会社の悪口を言うのは、むしろ会社が好きな証拠ではないか。本当は建設的な態度なのだと私は思う。ただ、自分の考えを、インフォーマルな場で表明するか、フォーマルな場で表明するか、そこが問題である。それぞれの社員が会社に対して意見を持っているが、インフォーマルな場で言えば批判的な言葉になり、フォーマルな場で言えば建設的な言葉になる。



この次の項目である「表現の自由」とも絡むが、なぜ悪口を書いてはいけないのか。いや、そもそも「いけなくない」ではないか。そして、何をもって「悪口」と「建設的批判」を区別するのか。それは単に読み手の主観に基づく判断ではないか。

仮に何らかの方法で、両者を客観的に区別出来たとしよう。その場合、「建設的批判」なら良くて、「悪口」はダメ、という道理も無いだろう。

でもその一方で、僕が今感じているこの耐えがたくイヤな気持ちはどうしたものか。書かれる側は、ずっとそれに耐え続けるしかないのか。気にする方がいけないのか。自分に自信が無いから気にしてしまうのか。

いろいろな切り口があって、この問題は非常に興味深い。




・結局「キライ」ということなんだろう

Aさんが日々書き連ねる悪口を見ていて思った。(結局、僕はこの人に嫌われてしまったんだな)と。キライだから、僕が何を言っても、何をやっても、どこに行こうが誰と会おうが、全て気にくわなく、文句の対象になってしまう。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、ということか。

この状態から問題を解決に導くためには、Aさんが投稿で指摘しているあれこれの事項を一つ一つ直していってもしょうがない。大元の「キライ」という感情が病巣であり、口から出る悪口はその症状/Symptomsでしかない。病巣を退治するためには、Aさんに「なぜ自分はこの人(=僕)がキライなのか」という難しい問題に向き合ってもらい、そこから出た答え(病巣)に対し、共に力を合わせて挑んでいくしかない。それはそれで大プロジェクトであり、信頼関係が痛んでいる状態でなかなか出来るものではない。



2.終息のプロセスで思ったこと

結局、数ヶ月経ったある日、僕からAさんにアプローチして、一連の投稿について話し合う場を設けたことでこの問題は終息した。ここからは、その終息のプロセスで感じたことをリストアップしてみる。



・表現の自由

日々書き続けられる悪口を見ながら、(いつかはAさんと向き合わないといけないな)と思っていた。問題は、そのときに何を言うかだ。

「悪口を書かないでください。」 と言いたい気持ちが強いが、果たしてそれはいいことなのか。 Aさんは、僕に対する思いを自由に表現しているだけであり、それをやめてくれだとか、今まで書いたものを削除してくれだとか、仮にそう切に願う気持ちが僕の側にあったとしても、それを相手にお願いするのはおかしいのではないか。表現の自由に反するではないか。

ラーメンを食べに行ったらまずかった。それをネットに書いてはいけないのか。別にいいでしょう。その投稿に対し、ラーメン店側が「削除してくれ」と要請したら、それこそおかしい。



「悪口を書かないでください。」とお願いするのはやめよう。だとしたら、僕はAさんと何を話すのか。
結局、この問題については多少見切り発車的になった。一体何を話すのか、という明確な道筋は見えなかったが、(もう、このままではダメだ・・・)という思いが強くなりすぎ、限界を感じた時点でAさんと話し合った。



話し合いの場でAさんは、最初は「なんのことでしょうか」という感じだった。
その後、「あの悪口が全部自分のことだと思うのであれば、被害妄想ですよ」と笑った。
さらにその後、今度は涙ながらに謝ってくれて、「削除します。そして、もう書かないと約束します」と言ってくれた。それに対し、「いや、それはいいんです。ネットに何を書くかは、あなたの自由ですから」と、想定通りに返答をした。じゃあ、この会話の目的はなんなんだ、と自分にツッコミを入れつつ。

Aさんに「すみません、削除します」と言わせることが本当の目的でも解決でも無いのであれば、一体何が解決なのか。僕が生まれ変わって、、、あるいは今、この歳からでも、人様に悪口を言われないような立派な人間になることなのか。いろいろ考えさせられた。



・匿名で悪口を言うこと

Aさんに「被害妄想だ」と笑われたときに思ったが、人の悪口を匿名で言うことには、自分は安全な場所から遠隔攻撃しているズルさに加え、いざとなったときに話をぼかせるというズルさも伴う。

一般的には、相手を名指しした悪口の方が攻撃力がありそうだし、実際あるのだろうが、Aさんのように「自分が誰の悪口を書いているのかをやんわりとぼかす」ことで、もし今回のように相手(悪口を書かれている側)と直接対峙する羽目になった場合はもちろん、Aさんの心の中の罪悪感(もしそれがあるのであれば)も薄めることが出来るのだろう。



・被害妄想

Aさんに「被害妄想だ」と言われ、(確かにそうだな)と思った。
Aさんがあの時期に書いていた悪口の多くは自分に向けられたものだったと今でも思うが、中にはそうではないものもあったかもしれない。それまで含めて(自分に対する悪口だ)と思っていたのであれば、まさに被害妄想だ。

当時、その日の「悪口チェック(仮称)」をするとき、一生懸命、悪口の内容を自分と結びつけようとしていたのを思い出す。それは、雑誌の後ろの方にある占いや性格診断を読んで、自分にあてはまる箇所を一生懸命探す作業に似ている。



・直接言ってくれたらいいのに・・・

「火のない所に煙は立たない」とはよく言ったもので、Aさんの投稿には(確かにその通り)と僕をうならせるものも中にはあった。そして、Aさんの投稿は、例えば僕の生い立ちとか容姿に関連するものとか、どうにも対処しようがない悪口もある一方で、僕が努力すれば改善出来る内容もあった。実際、今でもそれらの点を改善しようと努力している。 だからこそ、余計思う。(直接言ってくれたらよかったのに・・・)って。そうすれば、ただの「悪口」が「建設的批判」に昇華し、僕も改善に向けて努力したのに。っていうか、してるし。
そしてまた、Aさんの不満の要因となった僕のそういう面が改善されれば、Aさん自身にとってもいいことで、みんなハッピーなのに。



3.今、振り返って思うこと

その後Aさんの投稿をチェックしていないので実際のところは分からないが、僕の中ではこの問題は「終息」したことになっている。問題が一応の終息を見た今、思うことをまとめてみる。主に、こうした問題への対処法について。



・悪口は気にしない

何かすれば、必ず批判されるし、悪口を言われる。寄付をすれば偽善者だ。
何もしなければ、それはそれで文句を言われる。寄付をしなければ守銭奴だ。

そう考えると、自分で自分を好きでいることさえ出来れば、こうした悪口は気にしなくていいんだな、と思った。気にしないのは無理だから困っているのだが、気にしなくていいのだろう。



・批判をなるべくアングラ化させない努力

せっかくの「建設的批判」がただの「悪口」にアングラ化しないように努力・配慮をすべきだと思った。無駄に敵を作らない、といういい方も出来ると思う。

また、批判や文句を自分に言いやすい環境・雰囲気を作っておくことも重要。「怖い人」と思われてはいけないし、「言ってもどうせ聞かない人」と思われてもいけない。あの人だったら、自分の批判を建設的に受け止め、改善に向けて努力し、かつ、批判した自分を怒るのではなく、かえって感謝するだろう、と思われるような人物であれば、批判はアングラ化しない。



・自分の問題ではなく、相手の問題にする。Make it more about them than about you

どんなに努力や配慮をしていても、悪口を言われる/書かれてしまうことはあるだろう。その場合どうするか。まあどうしようも無いのだが、向き合える方法はいろいろある。 一番いいのは、もっといい人間になること。その悪口を聞かされた人が、(え、あんないい人に対して、なんでそんな悪口を言うの?)と疑問/不信に思うような人間に自分がなればいい。

そうすれば、ネガティブな「悪口」は減っていき、ポジティブな「建設的批判」だけが残るだろう。そうなったら、そのようないい批判をありがたく受け止めて、さらに魅力的な人間になる、それが一番の悪口対処法だと思う。

Commented at 2015-10-13 23:40 x
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by dantanno | 2015-09-22 06:30 | 提言・発明 | Comments(1)