たんのだんのブログ

irisjapan.exblog.jp

自動通訳の脅威

Googleが自動「翻訳」アプリをリリース。



脅威ですね(笑)、我々通訳者にとっては。
もっとも、訳の自動化の流れは今に始まったことではないし、Google翻訳のサービスも前からあったので、今回のアプリの一件自体がそれほどBig dealというわけでもないのですが、分かりやすい形での脅威です。



のっけから余談ですが、「通訳」のことを「翻訳」と呼ぶこの風潮は、もはや止められないようですね。
我々訳者は、会議やミーティングでの「会話の訳」を通訳と呼び、「文書・文章・本」の訳を翻訳と呼んでいます。通訳者という職業と、翻訳者という職業。オーバーラップすることも多々ありますが、我々当事者は分けています。
Googleがこのたび開発・リリースしたアプリはどう考えても「通訳アプリ」なんですが、世はそれを「翻訳アプリ」と呼ぶ。通訳も翻訳も、世間の人たちからすると全部「翻訳」になるようです。分けた方が便利だと思うんですけどね。ドラえもんのホンヤクコンニャクの影響が根強いのでしょう。




訳(通訳・翻訳両方)の自動化・機械化。
それが今後どれくらいの速度・度合いで進行するのかや、我々通訳・翻訳者にとってどれくらい脅威なのか、というテーマについては、訳者それぞれ意見がある。ヤバイ(つまり、人間の訳者が不要になる)、という人もいれば、「なんだかんだ言って、我々もまだしばらくは大丈夫だろう」という人もいる。

「英語 ←→ フランス語、のように似通った言語間の訳はヤバイが、日本語 ←→ 英語は文法も大きく異なるし、自動化しにくい(ので我々訳者は大丈夫)」という意見もある。
「レベルの低い通訳をしている通訳者はヤバイが、ハイレベルな(つまり上手な)通訳者は大丈夫」という意見もある。
また、「(文書の訳である)翻訳はヤバイが、(会話の訳である)通訳は大丈夫」という、分かるような分からないような分かるような意見もある。
つまり、訳者みなそれぞれいろいろと意見/Viewがあるのだ。



私は、通訳者・翻訳者による「自動通訳ヤバイ」とか「ヤバくない」といった意見には、全く、全く意味がないと思っている。なぜなら、実際のところどうなるのかは「分からない」から。「ヤバイ」ではなく、「ヤバくない」でもなく、「分からない」がこの問題の正解だから。AIや自動化のすごいところは、それが予測不可能である、という点。我々の「きっとこうだろう」という予測をはるかに超えてくる(かもしれない)ところが恐いわけだ。

「訳の自動化に関する我々訳者の意見に意味がない」と思うもう一つの理由は、バイアスがかかりすぎているからだ。訳の自動化によって職を失う人が「訳の自動化は難しいから(我々訳者は)まだ当分大丈夫ではないか」と言っても、ほとんど説得力がない。もしかしたらそうなのかもしれないが、その意見にはバイアスがかかっている可能性があまりにも高い。それを聞く際に適用しないといけない割引率が大きすぎて、もはやその発言は意味を持たないのだ。




「ヤバイ」ということばには、いい意味と悪い意味と二通りある。
訳の自動化の進展は、世の中全般にとっては「超便利、超ありがたい☆」という意味の、いい方のヤバイ。一方、我々訳者にとっては「超困る・・・」という意味のヤバイだ。
世の役に立ちたい、架け橋になりたい、と思って日々訳に取り組んでいる訳者も多いだろう。その立場からすると、訳の自動化・機械化は喜ぶべきことなのだろうが、我々訳者だって人間、なかなかそこまで超然と達観できないのが現実だ。



ちなみに、ある訳者が言っていたが、訳の自動化の風潮は必ずしも悪いことばかりではない。
こういった世の流れを受けて、今から「通訳者になろう!」という人は減るだろう。一方、上の世代は徐々に引退していく。と考えると、マーケットのパイは縮小するかもしれないが、それを取り合う訳者の数も減るわけで、意外とおもしろいことになるかもしれない。

そして、機械による訳が普及していっても、「人間にしか出来ない、ハイレベルな訳を提供したい!」と考える猛者はきっといるだろうし、そうした頼もしい人材が参入してくることはウェルカムだ。




自分の場合、通訳もしているし翻訳もしている。
エージェント業もやっているし、講師業もやっている。
そういう意味で、ある程度分散が効いていていいのかな、まあ大丈夫なのかな、などと甘なことを考えていました、少し前までは。

でも、よく考えてみると、、、いや、よく考えてみるまでもなく、私がやっている業はすべて、その根底に「訳」がある。通訳することも、翻訳することも、通訳のエージェント業も、通訳を教える業も、全部。ということは、人間による訳がこの世から無くなった場合、私がやっている業もゴッソリ無くなる。脅威です(笑)。

そうなったら英語を教えればいい?
そもそも、英語を教えることに個人的に興味が無いことに加え、訳が自動化されれば「外国人と話すときは機械を使えばいいや」という人が続出し、英語を学ぼうとする人が減るかもしれません。(もっとも、減るかもしれないのは「世間話程度のライトな英語が出来るようになりたい」という人たちであって、高度な英語を話したい、外国人と英語で渡り合えるようになりたい、と考える人は引き続き英語を学び続けてくれるでしょうが。)




そうそう、それで思い出したが、NewsPicksで今回のGoogle翻訳アプリのローンチに関するニュースのスレッドを眺めていて、
「超便利!これで英語学ばなくてよくなるのかな」
みたいな意見が散見された。

興味深いのは、そこからさらに一歩話を進め、「そもそも言語を分ける意味ってあるんだっけ?」と言う人がいない、という点だ。つまり、「英語を学ぶ必要が薄れる」ことを喜ぶところで思考が止まり、「そもそもなんで日本語と英語とに分かれているんだ!」という憤りにつながらない、というのが興味深い。

我々人間は、機械を間に挟んだり、人間通訳者を間に挟んだりして一生懸命異言語間のコミュニケーションをしているわけだが、そもそも同じ言語にしてしまえば、すべて解決する問題だ。もし私が神様で、今から新たに世界を創るとしたら、国によって言語を分けるなどというイロジカルなことはせず、全世界で共通の言語にするだろう。(いや、それ以前に、言語ではなく脳波によるコミュニケーションを取れるよう人間を創るだろうが、それはまた別の話。)

言語は、「宗教」や「肌の色」同様、人類を区分し、カベを作る要因の一つ。というか、カベそのものだ。肌の色は変えられないが、言語や宗教はいわば人工的なカベだ。ベルリンの壁同様、取り払えるものなら取り払った方がいい。

自国の言語を廃止し、メジャーな言語(たとえば英語)に統一してしまうと、自国のアイデンティティーが失われてしまう?本当に??そんなにヤワなものですかね、国のアイデンティティーって。イギリスもアメリカもオーストラリアも、みんな英語です。そして、それぞれ立派にアイデンティティーを保つことに成功しているわけで、他の国だってきっと出来るはずだと思います。




さて、ちょっと話がそれました。
この先どうなるか分からない中で、一訳者として、自分は一体どうすればいいのか。

そう、Hope for the best and prepare for the worstすればいいんですよね。

Best scenario: 人間の手による通訳・翻訳が意外としぶとく生き残り、今現役の訳者たちが引退する時期まで(あるいはそれ以降も)しっかり業として成り立ち続ける
ことを期待しつつ、
Worst scenario: 今から3年後には通訳・翻訳のすべてが機械に置き換わっていて、人間の通訳者・翻訳者はこの世にひとりもいなくなっている、
を想定して動けばいいんですよね。訳者による予測は意味が無い、と書きましたが、それを承知であえて書くと、このWorst case scenarioは十分あり得るシナリオだと思っています。



我々訳者が、訳者すなわち「ことばの達人」であることを活かして行える業(ただし訳業そのもの以外)は、実は結構あるのではないかと思っています。そのような、文字通りのRe-inventionがこれから必要になってくるかもしれません。

# by dantanno | 2019-12-16 00:13 | プレミアム通訳者への道 | Comments(0)

誰を守るためのルールなのか

著作権まわりを勉強しています。


誰を守るためのルールなのか_d0237270_18275646.jpg


ブログやYouTubeなどで、いろいろなコンテンツを発表する者として、少しは知っておかないといけないな、と思って。本当はもっと早く勉強するべきだったでしょう。。



私が著作権について学ぶのは、「自分の(コンテンツの)著作権を守るため」ではなく、「人様の著作権を侵害し、その結果怒られないようにするため」です。どちらも「自衛」ということになりますが、私の場合は後者の「自衛」が主目的です。



著作権というのは、分かるようで、どうも分からないところもある。

たとえば。
私が映画館に行って、映画をこっそり録画し、それをWebにアップロードしてしまうとどうなるか。みんな、その映画を(Webで)タダで観ることが出来るようになってしまう。そうなると、制作サイドからすると、高い制作費をかけて映画を作るインセンティブが無くなってしまうし、(映画を観に行く人が減るので)興行サイドも困り、映画産業が成り立たなくなってしまう。それはよく分かるんです。この場合において、著作権の保護はとても大事だし、社会的な意義もある。

一方で、著作権者サイドが必要以上に「強く」なってしまっていて、「それ、誰を守るために言っているの?」と思えるようなケースも多々ありそうです。

言い方を変えると、「著作権侵害と言うが、具体的にどういう害があるのか」が大事なのではないかと思います。少しでも著作権の「侵害」を許してしまうと全てがなし崩し的に、、、とはならないと思います。著作権はケースバイケースで考えるべきものだと思うんですが、実際のところはどういう運用になっているんだろう、というのが今回の勉強の趣旨です。

べき論で行くと、「著作権者サイドにとってどのような実害があるのか」をポイントとすべきで、それに対し明確に回答出来ないのであれば、その著作権「侵害」は許すべきだと思います、世の発展のためにも。



さらに言い換えると、著作権というのは本来、発表する側、つまりクリエイター側を守るためのルールだと思います。でも、なんでもかんでも著作権だ、著作権侵害だ、と言い始めると、クリエイターの首をかえって絞める結果になると思うし、実際そうなっていると思うんです。誰のためのルールなのか、よく分からなくなっている。




著作権以外にも、「一体、誰をどう守るためのものなの?」と感じさせる、そんなルールが他にも存在します。

たとえば、会社は従業員をクビに出来ない/しにくい、という制度。
これ、元々は従業員を守るための仕組みなわけですが、一度会社をクビになったことがある者として言わせてもらうと、このルール、当の従業員サイドのためになっていません。

こういうルールがあるからこそ、会社側・経営側は人の雇用に消極的になります。そりゃそうです、一度雇っちゃったらクビに出来ないんだから。その分、雇用が減少/硬直化し、従業員サイドからすると「雇われにくく」なってしまっています。すでに雇われている人はいいのかもしれませんが、「これから雇われようとしている人(特に若い人)」にとっては大きなマイナスです。

また、「クビにされない」おかげで、その職に合っていない人もずーーっとその職に居座り続けることになります。その会社、その部署、その役割において本来の才能を発揮出来ず、輝けていない人も、クビにならないので、別の、もっと輝ける場所に動かない。
確かに生活の安定、という意味ではそれが必要なときもあるでしょうが、根本的なところでは、その人にもっと合った職場に早く移った方がいいわけで、社会の適材適所がなされなくなる、という弊害があります。そしてこれは「すでに雇われている人」にとってもよくない。

「会社は従業員をクビに出来ない/しにくい」という制度・ルールは、会社側にとってはもちろん、実は従業員サイドにとってもよくない。



ルールについては、
1.そのルールが、そもそもなんのために、誰をどう守るためにあるのかを常に考え、
2.時代に合わなくなってきている場合は見直したり廃止したりしていくべきだと思います。

# by dantanno | 2019-12-09 18:28 | 提言・発明 | Comments(0)

しかありません

最近、よく目にする『 感謝しかありません』という言葉。

おそらく「本当に感謝しています」という意味だと思いますが。いつから、誰が広めた結果で流行り始めたのでしょうか。

興味深いことに、『 しかありません』は普通の会話の中ではあまり使われないような気がします(僕は耳にしたことがない)。

『 しかありません』が使われるのは、TwitterやFacebookのコメント欄。スマホ時代にマッチした表現なのでしょうか。ジャンルとしては『 素直にうれしい』と同じかと思います。

昔は無かったこの表現。今のところ違和感しかありません(笑)
# by dantanno | 2019-11-21 17:30 | プライベート | Comments(0)

成長のバロメーターは「ゼロ」ではなく「自分のフル成長ポテンシャル」に置く

「日々、少しずつでもいいから前進することが大事」

一見、いいことばだ。
それがあてはまる時期や状況もあるだろう。

でも、本当にそれでいいのか。




いきなり余談だが、
IRミーティングでは「成長(growth)」という概念・ことばが頻出する。
投資家が、その質問・発言の中で"growth"と言った場合、「グロース」と訳す(訳してないか・・)ことも多い。もはや和製英語(いや、逆か)になってしまうほど、IRミーティングで「成長(growth)」の話はよく出る。




売上のgrowth
利益のgrowth
コストのgrowth... いや、ネガティブなものについてはあまり"growth"を使わないか
企業のgrowth
株価のgrowth
などなど




例えば株価というものを考えたとき、そのgrowth、つまり株価の「伸び・上昇」は、何を基準に考えればいいのか。

ある会社の株価が5%上がったとする。それはもちろんいいことに違いないが、どれぐらい「いいこと」なのか。

同じ期間に、マーケット全体がまったく動いていなければ、、、つまり、マーケット全体の値上がりがゼロだったら、それに対して5%株価が上がった、というのは特筆すべきこととなる。

一方、その同じ期間にマーケット全体が30%高騰していたら? 5%の値上がりはかなり見劣りする。 見劣りどころか、相対的には「値下がり」だ。





我々人間の「成長」も同じではないか。

ほんのわずかでもいいから成長する。それはいいこと、ステキなことに違いない。
でも、その考え方は「0%成長」、つまり「まったく成長しないこと」を比較対象としていないか?ゼロと比べれば、わずか0.1%でも成長した方がマシ、ということだとも言えないか?

「成長」というものを考えるときに、比較対象とするバロメーター、あるいはベンチマークは「ゼロ成長」ではなく、何か別のものであるべきではないのか。
だとしたら、それはいったい何か?





ひとつ考えられるのは、自分のフルの成長ポテンシャルだ。

自分が、ある期間に最大限成長するとしたら、それはどれくらいか。

例えばそれを30%としよう。成長は定量化出来ないが、定量化しないと話が前に進まないのでちょっと定量化してみよう。フル・ポテンシャルは30%。

それに対し、その期間に5%しか成長していなかったら? 3%しか、、、いや、0.1%しか成長していなかったら?
「(ゼロと比べたら)多少前に進んだから良しとするか」ではなく、
「本当であれば自分は30%も成長出来たはずなのに、何をやってたんだ! よし次こそは・・・」
と考える方が健全ではないか。

そしてまた、自分が今やっている仕事ではもはや「フルの成長ポテンシャル」がたとえば一桁台に落ちてきてしまっている場合もあろう。
そうであれば、一桁台なんかのショボイ成長に甘んじていないで、自分が今やっている仕事以外の分野での大きな成長を追求するのもいいのでは、と思う。




長い人生。もちろん、現状維持が精一杯、という時期もある。
でも、それ以外の時期において、成長しないのは、(相対的に考えると)退化しているのと同じ。
そして、その成長のバロメーターは、「ゼロ」ではなく「自分のフル成長ポテンシャル」に置いて、もっと自分のケツを叩きながら(笑)生きていきたい。

# by dantanno | 2019-11-14 22:56 | 日々研鑽 | Comments(0)

同時通訳と、逐次通訳と、翻訳: AIに勝つために

今日は、同時通訳と逐次通訳と翻訳について考えてみる。




<同時通訳とは、逐次通訳とは、翻訳とは>

既にいろいろなところで、あまたの通訳会社や通訳者が語っていると思うので、ここでは簡潔に。


同時通訳(simultaneous interpreting。「同通」)

文字通り、話し手が話すのと(ほぼ)同時に訳すことを指す。話し手と通訳者が同時に話す訳し方。


逐次通訳(consecutive interpreting。「逐次」)

話し手が話し終わるのを待ってから通訳者が訳し始めるやり方。話し手と通訳者が交互に話す訳し方。


翻訳(Translation)

会議やミーティングなどでの会話の訳を「通訳」と呼ぶのに対し、「翻訳」というのは文書・文章・本の訳を指す。





(通訳者以外の)一般の方にとって、「通訳」というものと「翻訳」というものの境界線は曖昧なようで、以下、訳者あるあるになってしまうが:

D 「通訳の仕事をしています」

一般の方 「へえ、そうなんですか。どんな分野の翻訳が多いんですか?」

みたいになることもある。





<筆者は・・・>

余談になるかもしれないが、私は同時通訳もするし、逐次通訳もするし、翻訳もやっている。業務量でいうと、ざっくり、同時通訳が20%、逐次通訳が50%、翻訳が30%、といった具合だ。


自分の専門分野である「海外IR」はほぼ逐次通訳で、だからこそ業務量に占める逐次通訳の割合が一番高い。また、個人的に一番思い入れがあるというか、一番大事にしているのは逐次通訳だ。いや、はっきり言ってしまうと、逐次通訳が大好きだ(笑)。その奥深さ、そして美しさには日々驚かされている。


今日のブログ記事では同時通訳と逐次通訳を比較・分析する。その過程で、翻訳についても触れる。

なるべくニュートラルに書いていくつもりだが、どうしても逐次通訳にバイアスがかかってしまうであろうことを読者のみなさまには事前にお断りしておく。




<同時通訳のメリット・デメリット>

クライアントが通訳を要する会議を行う場合、それを同時通訳で行うか、逐次通訳で行うか、を決める必要がある。一体どちらにすればいいのだろうか。


同時通訳の最大のメリットは、なんといっても「会議時間の有効活用(短縮)」だろう。

会議にかけられる時間が1時間あるとして、同時通訳にすれば、その1時間をフルにディスカッションに活用出来る。でも、逐次通訳の場合、話し手と通訳者が交互に話す必要があるため、正味の会議時間は半分(30分程度)になってしまう。同時通訳の場合と同じ量の会話をしようと思ったら、会議時間は1時間ではなく2時間必要になる。


同通のもう一つのメリットは、そのライブ感ではないか。聴き手は、話し手の話を同時に、つまりライブな感覚で聴ける。また、話し手も、自分の話が瞬時に聴き手に伝わり、ダイレクトなレスポンスを味わえる。


それが逐次通訳になると、話し手は、自分が話した後、自分の話を通訳者が訳してくれている間、待っていないといけない。そして聴き手は、話し手が話している間は(何言ってるか分からないので)手持ち無沙汰にしていて、通訳者が訳し始めてようやく耳を傾け始める、といったことも起きる。逐次通訳では、その性質上、どうしてもタイムラグ+デッドタイムが生じるのだ。




では、同時通訳のメリットは何か?


ひとつはコストだ。後述する通り、同時通訳は通訳者2名体制で行うことが多い。通訳者1名ですむ逐次通訳と比べ、単純に考えて、同通はコストが倍になる。




同時通訳のもう一つのデメリットは、訳のクオリティだ。

これがこのブログ記事のメイン・トピックであり、この後詳しく考えていく。





<同通と逐次、どちらが難しいのか>

一般的には、同時通訳の方が難しい、とされている。


(通訳者以外の)一般の方々の間では間違いなくそういう認識があるようだ。「なんで瞬時に訳せるんですか???という感じだ。


そして、我々通訳者の間でも、(通訳者によって意見はさまざまだろうが)大きな傾向としては「同時通訳の方が難しい」というのがコンセンサスではないか。通訳学校で、「まず逐次をある程度ちゃんと出来るようになって、その上で同時通訳に進みましょう」的な教え方がされている(いい教え方だと思う)が、その辺も影響しているだろう。


また、「難しさ」とはちょっと別の問題として、国際会議のような華やかな場での通訳は同時通訳であることが多いため、同時通訳に対するあこがれのようなものも我々通訳者の間にはあると思う。


ちなみに、通訳者が本を出す場合、「通訳者」としてではなく「同時通訳者」として出すことが多いが(いい判断だと思う)、その背景には、同通の方が難しい+かっこいい、と世の中から+通訳者から見られている、という事情も関係しているかもしれない。

一般の方向けに一言付け加えると、世の通訳者の過半は「同時通訳者」だ。「同時通訳者」をどう定義するか次第だが、「逐次だけでなく同通もやる通訳者」を同時通訳者と呼ぶのであれば、私を含め世の通訳者の過半、、、いや、ほぼ全員、「同時通訳者」。





<なぜ「同時通訳の方が難しい」とされているのか>

一番の理由は「すぐに訳さないといけないから」だろう。逐次通訳では、話し手が話している間、そして話し終わってから一瞬、「どう訳すか」を考える時間が通訳者に与えられる。それに対し、同時通訳は瞬時に訳さないといけない → だから難しそう、と一般の方(通訳者以外の方)が考えるのも当然だと思う。


海外IRでご一緒する日本企業の方々と話していて、「丹埜さんは同時通訳もやるんですか?」と聞かれることがある。「はあ、やりますよ」と答えると、「へえ、すごいですね。あれは難しいでしょう」みたいな話になる。


ここでいう「あれは難しいでしょう」がどういう意味なのかよく考えてみると「あれ(同時通訳)は(普通の通訳、つまり逐次通訳、と比べて)難しいでしょう」という意味に取れなくもない。




「同時通訳の方が難しい」とされる理由のもう一つは、我々通訳サイドにあると思う。この業界では、「同時通訳を継続して出来るのは15分程度」とされている。だからこそ、クライアントが会議を同時通訳で行いたい場合、ほとんどのケースでは通訳者2名体制(場合によっては3名)で行う必要がある、というのが業界の「常識」だ。一方、逐次通訳であれば、1時間はもちろん、それよりも長い会議であっても、(途中で適切な休憩さえ設けられていれば)通訳者が1人体制で逐次通訳出来る、ということになっているし、実際、出来る。


本職である我々通訳者側が同時通訳と逐次通訳をこのように明確に分けて取り扱うのを見て、一般の方々(通訳案件のクライアントを含む)は「なるほど、やっぱり同時通訳の方が難しい/大変なんだな」と思うのだろう。これも当然のことだ。




ちなみに、この「15分しか続けて同時通訳出来ません」という点については、個人的にいろいろと思うところがある。以前、ブログに書いた通りだ。




高度な音声認識

AIによる言語処理

量子コンピューティング


自動通訳・機械通訳がすぐ裏庭まで迫ってきているのに、正面玄関でいつまでも「我々は15分しか同通出来ません」と言い続けるこの業界のことを、その一員として恥ずかしく、そしてかなり心配に思っている。もっとも、これは今回論じたい点ではないので先を急ぐ。





<本当に「同時通訳の方が難しい」のか>

一般的には「同通の方が(逐次より)難しい」という認識のようだが、では、実際のところはどうなのか。


同時通訳は確かに難しい。大変だ。しかし、多くの通訳者が同意するであろうが、逐次通訳にも難しさ、大変さはある。つまりどっちもどっちなのだ。


「同時通訳と逐次通訳、どっちが難しいんですか?」を問うのは、たとえば「100m走と400mリレー、どっちが難しいんですか?」を問うのと似ている。どっちもどっちなのだ。100m走には100m走の、そして400mリレーには400mリレーの難しさや大変さがあり(多分)、どちらがより難しいとか大変だとかは言えないはずだ。同通と逐次も同様である。




同時通訳の場合、確かに、話を聴いて、瞬時に訳を考え、口から出さないといけない、そういう即時性がある。また、話の先行きがまだ見えない内から訳を開始しないといけない、という心細さもある。だからこそ難しい。


では、逐次通訳の「難しさ」はどの辺にあるのか。




<逐次通訳の「難しさ」>

最初に、いくつかテクニカルな「難しさ」を考えてみる。


・話の内容を覚えておく必要がある

例えば話し手が1分話し、さあそれを訳そう(逐次通訳しよう)、となったとき、その1分間に話し手が言ったことを全部覚えていないといけない。「1分話していた、その最後の方の話は鮮明に覚えているが、前半はちょっと怪しい」ではダメなのだ。そのため、訳すにあたっては短期記憶を活用するし、メモも活用する。


・訳の「さらしもの」感

同時通訳も、もちろん訳を「さらし」てはいる。会場にいるみんなが聴いているんだから。しかし同通の場合、会場にいる人たちが通訳の正確性やうまさをチェックすることは困難を極める。


会場にいる人が訳をチェックするためには、

1.話し手の話(例えば日本語)を聴きながら、

2.通訳者の訳(英語)も同時に聴いて、かつ

3.元の日本語をちゃんと英語に訳しているか、をチェック

する必要がある。これはとても難しい。たとえバイリンガルであっても、、、いや、本職の同時通訳者であっても、上記3つの作業を同時に行うのは難しいのだ。


なので、同時通訳をちゃんとチェックしようと思ったら、「話し手の日本語」 と 「通訳者の英語」を両方録音し、後日じっくり聞き比べるしかない。そこまでするクライアントはなかなかいないし、そこまでする通訳者もなかなかいない。




それに対し、逐次通訳においては、訳は衆人環視の元で行われる。話し手が話し終わった後、通訳者の訳だけが会場にこだまする。バイリンガルの人はもちろん、もう一方の言語があまり上手ではない人であっても「あれ?今の訳違うんじゃない?」と気付くことが出来てしまう。




また、同時通訳は通常、会場の一番後方に設けられた同時通訳ブース内で行われることが多く、会場から視覚的に見えにくいため、物理的な「さらされている感」が少ないのも特徴だ。それに対し逐次通訳は、ときには壇上でメイン・スピーカーと並んで座るなど、「さらされている感」が強い。




また、これはあまり関係無いかもしれないが、同時通訳の場合は2人体制で通訳をすることが多いので責任の所在が少しぼやける(?)、といった要素も、同時通訳の「さらされている感」の減少に影響しているかもしれない。逐次通訳の場合、訳の善し悪しの責任はもちろん1人に帰属する。まあ、これはあまり関係無いかもしれない。




以上が、逐次通訳のテクニカルな難しさの要因だ。他にもあるかもしれない。


これらテクニカルな「難しさ」とは別に、逐次通訳には本質的な難しさがある。それは越えなければいけないバーが高い、という点だ。




・逐次通訳の「バーの高さ」

興味深いことに、逐次通訳の本質的な難しさは、その「簡単さ」と表裏一体の関係にある。以下説明する。


逐次通訳が同時通訳と比べて(相対的に)より簡単だ、と思われているとしたら、それはなぜかというと、同通と比べ、訳を考える/準備する時間があるから、ということになろう。また、発言を最後まで聴いた上で訳を開始できる、という点もあろう。そして実際、これらの指摘は正しい。この2つの決定的アドバンテージが与えられているのが逐次通訳だ。



しかし、このほんの一瞬の「考える時間」があるからこそ、そして「発言の全体像が見えてから訳せる」からこそ、その分、越えなければいけないバーが上がるのだ。「ちゃんと考えられた訳」をする必要が生じるのだ。これが逐次通訳の本質的な難しさだと思う。


言い換えると、「瞬時に訳さないといけなかったので、この程度の訳しか出来ませんでした」という言い訳が通じないのだ、逐次通訳においては。

(同通であればそういう言い訳が通じる、という意味ではない。逐次通訳では「なお通じない」という意味だ)


ちなみに、この「バーが上がる」という話をさらに一歩進めると「翻訳」に行き着く(後述)。




<逐次通訳では「編集」が可能>

通訳においては、「何も足さない、何も引かない」が原則だ。

話し手が言っていないことを通訳者が勝手に付け加えることは(一部の例外を除き)やるべきではない。

また、せっかく話し手が言ったのに、それを通訳者が勝手に訳から落としてしまうことは(一部の例外を除き)やるべきではない。


私はこの原則が大好きで(好みの問題ではないが)、逐次通訳において忠実に守ろうと努力している。


でも、

何も足してはいけないし、何も引いてはいけないが、「編集」はOKだと思っている。




編集というのは、話の内容は変えずに、でもそれをよりよくする作業を指す。


そしてその「編集」は、同通だと非常に行いにくいが、逐次通訳の場合、

1.時間がある

2.話を最後まで聴いてから訳を開始できる

という2大決定的アドバンテージのおかげで、この「編集」という作業が十分可能になるのだ。




<同時通訳風の訳と、逐次通訳風の訳>

具体例を挙げ、両者を比較してみよう。


IRミーティングで、外国人投資家が以下の、ありそうで無さそうな(笑)質問をしたとする。


How much revenue (売上/収益) are you expecting this year? And what about operating profit (営業利益)?


この発言を、①同時通訳風に、そして②逐次通訳風に訳してみる。




①同時通訳風の訳

私は通訳学校で、「同通するときは、聴いたそばからどんどん訳しなさい」と教わった。確かに同時通訳では、すぐにどんどん訳していかないと、あっという間に話が進んでしまい、追いつけなくなる。


How much revenue are you expecting this year? And what about operating profit?

を訳すとき、まず

“How much revenue”まで聴いた段階で

「売上はいくらでしょうか。」

と訳すことが出来る。そして、その後に”are you expecting this year?”を聴いたところで、

「今期見込んでらっしゃる売上です。」

と訳せる(付け足せる)。で、後半の”And what about operating profit?”を聴いたところで、

「あと、営業利益についてはどうでしょうか」

と訳せる。


訳をつなげると

「売上はいくらでしょうか。今期見込んでらっしゃる売上です。あと、営業利益についてはどうでしょうか」

となる。

実際、TVの同時通訳などで、このような調子の訳し方を耳にした方も多いだろう。




②逐次通訳風の訳

How much revenue are you expecting this year? And what about operating profit?

という発言を最後まで聴いて、ある程度じっくり考えて訳せるのが逐次通訳の妙味だ。訳し方は、例えば

「今期の業績見通しですが、売上と営業利益、それぞれどれくらいになりそうですか。」

とでもなろうか、例えば。


投資家の発言全体を俯瞰すると、なるほど、これは「今期の業績見通し」がテーマになっているな、ということに気付く。なので、聴き手にとって分かりやすいよう、それを訳に入れてみることが出来る。そして、投資家がバラバラと発言した「売上」と「営業利益」について、因数分解さながら、「売上と営業利益、それぞれいくら~」と整理することも出来る。これが「編集」だ。


これ以外にも、例えばオチ(結論)を訳の冒頭に持って来たり、冗長なところを少し削ったり、話の内容のポジティブ/ネガティブを訳のトーンに乗せてみたり、などなど。何も足さない、何も引かない、の原則をちゃんと守りつつ、出来ることはいくらでもある。こうした編集作業が出来てしまうのが逐次通訳なのだ。





さて、同通と逐次を並べてみる。


同通: 「売上はいくらでしょうか。今期見込んでらっしゃる売上です。あと、営業利益についてはどうでしょうか」

逐次: 「今期の業績見通しですが、売上と営業利益、それぞれどれくらいになりそうですか。」




Get my point acrossするためにちょっと極端にした、というのもあるが、それにしても月とすっぽんだ。


前者でももちろん意味は通じる。でも、この、どこか映画の吹き替え版的な訳よりも、後者の方が自然で、クオリティが高いことは一目瞭然だ。


また、その短さ・簡潔さも、美しさに拍車をかける。

記事の冒頭で、逐次通訳だと、同時通訳と比べ、会議の時間が正味半分に減ってしまう、と書いた。通常は確かにそうなのだが、クオリティの高い逐次通訳はConciseであるため、正味の会議時間は半分ではなく、3分の2程度にしか減らない。そういうメリットもあるのだ。





<バーが上がる悩ましさ>

逐次通訳をするとき、頭の中でささやき(誰の?)が聞こえる。


「同時通訳をするときと比べて、考える時間ありましたよね?話し手の話を最後まで聴けましたよね?だったら、その分いい訳を期待してますよ


と。これで一気にバーが上がるのだ。そういうプレッシャーがあるのだ。その悩ましさに萌えるのだ(笑)。




この悩ましさは、翻訳(translation)における悩ましさと似ている。





同時通訳と、逐次通訳と、翻訳: AIに勝つために_d0237270_09325233.png



逐次通訳は、同時通訳と比べ、ある程度時間をかけて(といってもほんのわずかだが)訳すことが出来る。そして、文書・文章の訳である「翻訳」の場合は、逐次通訳よりもさらに時間をかけて、じっくりと訳すことが出来てしまう。締め切りさえ守れば、かなりの時間を翻訳にかけられる。だから、同時通訳の場合は(ちょっと言い方が悪いが)ある程度エイヤ!的な、やっつけ的な訳になってもしょうがないのに対し、逐次通訳はしっかりと編集を行ったクオリティの高い訳になって然るべきだし、それにも増して翻訳においては、かなりの時間をかけ、いろいろと調べたり推敲したり相談したり考えたりした上で訳せてしまうわけで、「その分、(同通と比べて)簡単でしょ/ラクでしょ」というのも一理あるが、「その分難しいです/大変です」というのも大いに一理あるのだ。


また、「訳のクオリティのチェックのしやすさ」という観点からも、翻訳は(同通ではなく)逐次通訳に似ている。





<検証に耐えうる訳になっているか>

「時間がある」ために、越えなければいけないクオリティのバーが上がる。そして、少し上のセクションで書いた通り、その訳は会場のさらしものになる。こういった観点から考えると、逐次通訳は、「検証に耐えうる訳」である必要がある。もちろん同通も検証に耐えうる必要があるわけだが、逐次通訳は尚そうだ、という意味だ。


上記投資家の質問の例では、とても短いフレーズを用いた。また、質問の内容がストーリー仕立てになっていない。

でも、ミーティングで実際に飛び交う発言は、えてしてもっと長いし、かつストーリー仕立てになっていることが多い。訳す対象の発言が長ければ長いほど、そしてストーリー仕立てであればあるほど、訳を編集する余地は大きくなるし、編集することで得られる付加価値も増大する。これが逐次通訳の爆発力なのだ。




<逐次通訳で要求される集中力>

難しさという観点でいくと、同通も逐次もどっちもどっち。でも、クオリティの高い逐次通訳をすることは、フツーの(mediocreな)同通をすることよりもはるかに「難しい」のだ。


そしてまた、「集中を要す」という点においても逐次通訳は同通にまったく引けを取らない。むしろ同通以上だ。


同通は、瞬時に訳さないといけない、という面において確かに高い集中力を要する。でも、逐次だってハンパない。


逐次通訳をするとき、通訳者は

1.話し手の話を聴き、

2.それを(後から再現しやすいように)メモに落とし、

3.短期記憶をしながら

4.訳の準備をする


これら4つの作業を同時に行いつつ、かつ

5.編集

も行うのだ。


編集は、話し手が話し終わってからゆっくりお茶でも飲みながら、というわけにはいかない。話し手が口を閉じたら、通訳者はすぐに訳を開始しないといけない。だから、話し手が話している間、1.~4.の作業はもちろんしっかり行いつつ、頭の中で

(この話、テーマは何かな・・・)

(で、オチはなんなんだろう・・・)

(どこにスポットライトを当てた訳にしようかな)

(冗長で、削れるところはどこかな)

(結論を前に持って来た方がいいパターンかどうか)

(これだと編集しすぎかな?)

etc. etc.


といった編集作業を、1.~4.の作業と同時進行で行うのだ。


見方によっては、聴いた話をすぐに訳せばいい同時通訳よりもはるかに集中力が必要だし、疲れる作業、それが逐次通訳だ。しかも当然1人体制(笑)。




<まとめ: 2つの提言>

逐次通訳に対する思い入れが強すぎて、このままだと話が拡散し続けるだろうから、この辺でまとめに入る。2つ、提言というか、メッセージを書きたい。1つはクライアント向け。もう一つは通訳者向けだ。




1.クライアント向けのメッセージ

このブログ記事に書いた通り、同時通訳と逐次通訳との間では、クオリティに無視出来ない差が生じます。だから、(いつも思っていることですが)大事な会議ほど逐次通訳でやりませんか

同通のメリットは時間の節約です。でも、大事な会議なんですから、ちゃんと時間をかける、という手もあります。逐次通訳で行った方がいい会議が、同時通訳で行われてしまっているケースが散見されます。ぜひご一考を。



同時通訳と、逐次通訳と、翻訳: AIに勝つために_d0237270_09325233.png



2.通訳者向けのメッセージ

プロの通訳者向けにIR通訳ワークショップをときどき開催している。

ワークショップではいろいろなことをやるが、必ず通訳の演習も行う。逐次通訳だ。




ワークショップのあと、参加してくれた通訳者と雑談していて、よくあるのが、

「今日、全然ダメでした~」

的な発言の後に

「私、普段同通が多いんですよ。で、同通はそこそこ出来るんですが、逐次通訳が苦手で。。。逐次のレベルアップが課題です」

みたいに続くことが多い。


こういう話を聞くと、私は2つのことを思う。




①もしかしたら、この人は本当に同通向きなのかもしれない。

この人の脳の仕組みは、逐次通訳向きではなく、同通向きなのかもしれない。Wired in that wayなのかもしれない。あるいは、逐次が苦手な、何かフィジカルな理由があるのかもしれない。例えばあがり症だったり、あるいは短期記憶が苦手とか。


こういう事情があるのであれば、「同通はそこそこ出来るんですが、逐次通訳が苦手なんです」ということは十分あり得ると思う。そして、そういう人は、業務量のポートフォリオ上、なるべく同通案件を多くすればみんなハッピーだと思う。




しかし、私がこのように結論づけることはかなり稀で、多くの場合、




②この人は、逐次だけでなく、同通もイマイチなのではないか

と思ってしまうのだ。もちろん、その人の同通は聴いたことがないので分からないのだが。


同通の場合、そのクオリティのチェックがされにくいことは既に書いたが、この「クオリティのチェック」は、通訳者の、自身の通訳のクオリティ・チェックも含む。それがしにくいため、なんとなくワッショイワッショイでうまく訳せた気になり、「よし、今日もなんとか乗り切った!クレームも出てない♪ → 明日の同通案件もがんばるぞ」的な気になっている可能性があると思うのだ。




そうなっていないかどうかを確認するために、録音することをすすめる。元の話(話し手の話)と、自分がそれを同通した音声と、両方録音し、あとでじっくり聴き比べてみる。本当にちゃんと訳せているか。(これをするために、私は耳に入れて録音するタイプのマイクを愛用している。)


「通訳案件でそんなこと出来ません!」 → じゃあ、家で同通の練習をしている時に録音してみましょう。

「自分の通訳なんて聴きたくありません!」 → 会場にいる人たちも同じ想いかもしれませんよ。至急、要確認。




また、「自分は本当にある程度ちゃんと同通出来ている」という方も、それがこのブログ記事で紹介した「同通っぽい訳」になってしまっていないかどうか。もっと自然な、クオリティの高い逐次通訳のような訳に近づけられないか、というチャレンジにも取り組んでみていただきたい。


たとえ同通であっても、

1.話のAnticipationをして、そして

2.すぐに訳出してしまうのではなく、(会場を不安にさせない程度に)ちょっとタメてから訳すことで、

本来逐次通訳でしか出来ないはずの編集作業を行い、訳のクオリティを格段に上げることが出来る。


そういった視点で同通をすると、今までとちょっと違った景色が見えるかもしれないし、同通がより楽しくなるのではないかと思うので、ぜひ試してみてほしいです。

あと、我らが逐次もその奥深さは底知れず、かなり楽しくておすすめなので、ぜひ逐次もよろしくお願いします。




同通であれ逐次であれ、単なることばの置き換えにとどまらず、話し手と聞き手双方に対する愛のある編集作業を行うことで、段違いの高付加価値化が実現出来るはず。AIによる機械通訳に打ち勝つためには、この高付加価値こそが、我々人間通訳者の大きな武器になるのではないかと思っている。


AIに勝つのは愛(AI)なのだ。


# by dantanno | 2019-11-03 09:42 | プレミアム通訳者への道 | Comments(0)

オランダで起きたショッキングな事件に見る、クリティカル・シンキングの重要性

日本ではあまり報道されていないかもしれませんが、ここオランダで、父親が長年に渡り自分の子供たちを地下室に監禁していた、というショッキングな事件が話題を集めています。



記事によると、

オランダ北部の農家で10年近くにわたり外界と接触せず暮らしていた一家が保護された事件で、同国の警察は一家の父親(67)を監禁などの疑いで逮捕した。警察はまた、事件の背景に「特定の信条や信仰」があった可能性について調べを進めていることを明らかにした。

とのこと。また、

一家は世界の終わりを信じるカルト集団に所属し、外界との接触を断ち「終末を待ち」ながら暮らしていた。

とも。



監禁されていた子供たちのうち、長男(25歳)が近所のバーに逃げ込んで助けを求めたことから事件が発覚。なんともドラマチックな話です。

(本場オランダの記事(英語)はこちら



ーーー



このブログ記事では、この事件の何が問題なのか、を考えてみます。
具体的に言うと、「この父親がしたことの、何がどう悪かったのか」を考えます。

なお、父親が犯した罪が「何罪(なにざい)にあたるのか」を考えることが目的ではありません。法律ではなくモラルの観点から、この父親の何がいけなかったのか、を考えます。



ーーー



この事件は、端的に言えば、「父親が、罪無き子供たちを自分の信仰に巻き込んだ(その結果、監禁してしまった)」という事件です。

そして、父親視点にたってポイントをまとめてみると:

1.(何らかの理由/根拠に基づき)「この世は間も無く終末を迎える」と信じていた
2.子供が何人かいた。
3.家に地下室があった。
4.そこに避難すれば、被害を最小限に食い止められる(子供たちを守れる)、と思ったので、子供たちを地下室に「監禁」した

と整理できます。



ーーー



上記1.〜4.のうち、
2.と3.は問題ありません。子供がいることや、家に地下室があることはもちろん悪いことではない。

1.の「終末が近いと信じていた」も、(我々のような普通の日本人からすると「いかがなものか」感はありますが)別にそれ自体は罪ではありません。

問題は4.です。子供たちを「監禁」したことが罪なわけです。



ーーー



でも、ちょっと考えてみてください。

もし読者のみなさんが、何らかの根拠があって、「近い内に、地球が大変なことになる」という、確信に近い想いがあったら。



例えばですが、あなたがトランプと親友だとします。

ある日、トランプから電話が来ました。

「あのさ、近い内に核兵器発射することにしたから。きみんち、地下室あったっけ?あれば、そこに隠れてた方がいいと思うよ。じゃあね。America First!」



あるいは、あなたが天文学者だとします。
で、観測の結果、巨大な隕石が間も無く地球に衝突し、壊滅的な被害が出るであろうことが分かったとします。



トランプのシナリオであれ、隕石のシナリオであれ、大変なことです。
でも、子供たちは、そんなことが起きているとはつゆ知らず、

「遊びに行きたい」
「学校に行きたい」
「デートに行きたい」
「バイトに行きたい」

などとのんきなことを言っています。



子供を守りたいあなたは、どうしますか?
「出掛けちゃダメ!地下室に入りなさい!」と言いませんか?
僕だったらそうします。



もっと身近な例で考えます。
巨大台風があなたの住む街を直撃している、まさにその最中に、子供が「遊びに行きたい」と言った場合、まともな親なら「ダメ、家にいなさい!」と言いますよね、きっと。そして、誰もそれを「監禁」とは呼ばない。



ーーー



さて、今回の事件を引き起こした父親の行動をもう一度思い返してみます:

1.(何らかの理由/根拠に基づき)「この世は間も無く終末を迎える」と信じていた
2.子供が何人かいた。
3.家に地下室があった。
4.そこに避難すれば、被害を最小限に食い止められる(子供たちを守れる)、と思ったので、子供たちを地下室に「監禁」した



トランプからの電話を受けたり、巨大隕石を観測したあなたや私がやることと一緒です。



前述の通り、1.〜4.のうち、悪いのは4.です。4.が罪なんです。

でも、「終末が近い」と本当に信じている場合、あなただって4.のような行動を取るわけです。
その状況で子供たちを守るために「地下室にいなさい」と言うのは、犯罪どころか、むしろ唯一の正しい選択肢だとも言えます。親の義務だとも言えます。



もちろん、あなたや私の場合、子供たちと何年も地下室に籠もることはしないでしょう。
想定していた時期に核兵器であれ隕石であれが落ちなければ、アレ?となって、地下室からモゾモゾと出てくるでしょう。

でも、この父親は、もしかしたら無学なのかもしれない。視野が狭いのかもしれない。相談出来る友人がいなかったのかもしれない。
そんな中、もし本気で「今日は落ちなかったけど、明日は落ちるかもしれない」と信じるのであれば、明日以降も地下室にこもり続けるわけです、あなただって私だって。



ちなみに、この父親が、実は本気で「終末が近い」と信じておらず、ただ単に「監禁したいから」子供たちを監禁していた可能性もあります。もしそうであれば、それはまったく別の話です。このブログ記事では、父親が本気で「終末が近い」と信じていて、子供たちによかれと思って地下に「監禁」していた、という前提で話を進めます。

一方、もう一つ考えられるシナリオとして、子供たちが自らの意思で監禁されていた、つまり、自らすすんで地下室に籠もっていた、という可能性もあります。その場合、父親の「悪さ」は軽減されるのかというと、必ずしもそうとは限らない。
・子供たちを、その意に反して無理やり地下室に監禁した場合と、
・子供たちに「世界の終末が近い」と教え込み、その結果「自らの意思」で地下室に籠もりたいと思わせた場合とでは、
実は大差が無い、と考えることも出来ます。



ーーー



さて、この父親は、間違いなく悪い。
でも、繰り返しで恐縮ですが、「終末が近い」と本気で信じるのであれば、我々だって、子供たちを地下においやるでしょう。それは必ずしも「悪いこと」ではないし、むしろいいこと。親の義務。



では、我々とこの父親との間で、一体何が違うのか。
結局、この父親の何が問題だったのか。



ーーー



この父親は、何らかの理由/根拠により「終末が近い」と信じていたわけですが、その理由/根拠がなんだったのかが、この問題を考える上での重要なポイントになります。



「トランプからの電話」や「隕石の観測」は、ある程度ちゃんとした根拠と言えます。

それに対し、
「牧師さんが「終末が近い」と言っていた」
「(自分が信じる宗教の)聖典にそう書いてある」
「夢でそういうお告げを聞いた」
「不吉な形の雲を見た」
などは、ちゃんとした理由/根拠になっていない(少なくとも、本人以外の人にとっては)。

「ちゃんとした理由/根拠無く「終末が近い」と信じ込み、その結果、周りの人たち(今回のケースでは自分の子供たち)に害を及ぼした」ことが今回問題なわけです。



(ちなみに、今回のケースにおいては結果的に「終末が来なかった」、つまり当初想定していた事象が起きなかったわけですが、その「起きなかった」こと自体は別にポイントではない。それが起きる可能性が非常に高い、と合理的に信じる理由・根拠が当初あったのかどうか、がポイントなわけです。)



ーーー



では、そもそも「信仰」とは何か?
「信仰」ということばはいろいろに定義出来ますが、たとえば「科学的/客観的な根拠が無いのに何かを信じること」とも定義出来ます。

もし、そう信じるにあたってちゃんとした、科学的/客観的な理由や根拠があるのであれば、それはただの「科学」であり、ロジックになってしまいます。「信じる」必要が無くなってしまいます。神聖な信仰ではなくなってしまいます。

トランプが「核兵器を発射する」と電話してきた場合、もしあなたが(あいつは昔から必ず有言実行するやつだった・・・)と知っていれば、それは立派な「根拠」になります。
あるいは、間も無く地球に激突するであろう隕石を実際にこの目で(望遠鏡で)観測した場合、その隕石の存在を「信じる」必要なんて無い。だって見えるんだから。そして、地球との衝突についても、ほぼ「事実として知っている」あるいは「合理的に予想している」という方が「信じる」よりも実態に近い。



ーーー



信仰において、根拠はむしろ邪魔とも言える。根拠が無いのに信じる、無ければ無いほど信じる、それが信仰心が強いということ、とも言える。それこそが「敬虔な信者」と言える、と。前述の通り、信じる根拠があればあるほど、それはただの「科学」に近づいてしまい、「信仰」から遠ざかる、という考え方も出来ます。



ーーー



今回の事件から一旦距離を置いて、あるおばあちゃんのことを考えます。

そのおばあちゃんは、病気になったおじいちゃん(=旦那さん)の回復を願って、毎日神様に祈りを捧げています。
おばあちゃんは子供のころ、「神に祈りを捧げれば、それは聞き入れられる」と教わりました。それを固く信じ、今、日々祈りを捧げ続けています。

微笑ましいです。ステキです。

このステキなおばあちゃん VS 子供たちを長年監禁していた父親。

一見、完全に対称的に思えます。善と悪、という感じがします。

でも、「根拠無く何かを固く信じ、それに基づいて行動する」という点においては、2人に共通するものがある。
周囲に迷惑を及ぼすかどうか、という点においては確かに180度真逆だが、「根拠無き思い込み」という点においてはかなり一致している。

おばあちゃんもこの父親も、どちらも
①本気で信じている、かつ、
②よかれと思ってやっている
というのが大きな共通ポイントです。おばあちゃんはもちろん、監禁事件の父親も「悪気は無い」わけです。これが信仰の恐さだと思う。ビルを爆破したりそこに突っ込んだりするテロリストの中には、「自分はいいことをしている」と本気で信じている人もいる。だからこそ恐ろしい。



この父親やテロリストとくらべ、おばあちゃんは幸いでした。
おばあちゃんの場合、親から/教会から/宗教学校から教わった内容が「お祈りすれば、神はその願いを聞き入れてくださる」という、たまたま人畜無害な内容だったからよかった。
もしこれが「終末が近い」とか「○○人を多く殺せば天国で神に会える」とかだったら、お祈りなどさっさと切り上げて、おじいちゃんを地下室に「監禁」したり、飛行機を乗っ取ったりしていたかもしれない。



ーーー



「カルト」と「ちゃんとした宗教」の違いは何かを考えてみると、「周囲に迷惑・危害を及ぼすか/及ぼしうるか」だったりします。
カルトであれちゃんとした宗教であれ、その根底に信仰心、つまり「根拠が無いのに何かを信じる」という点がある、という意味では共通点があります。

と考えると、ちゃんとした宗教の「ちゃんとした」とは一体何を指すのだろう、という点にも思いが及びます。「周囲に迷惑・危害を及ぼさない」ということ以外だと、「ちゃんとした」は、例えば「昔からある」や「多くの人が信じている」といったことを指しているだけで、本当に「ちゃんとしているかどうか」つまりその宗教の妥当性・正当性を指しているのではないことにも気付く。


ーーー


おばあちゃんは、確かに誰にも迷惑をかけていない。でも、「根拠無き信仰」がステキなことであり、いいことであり、許容(あるいは奨励)されるべきことだ、という(ある意味誤った)認識を、①信仰を持つ人たちに対してはもちろん、②そうでない人たち(例えば我々日本人の多く)に対しても植えつける、という点においては害があると言えます。

ベースに「いろいろなものを根拠無く受け入れる」というレイヤーがあると、あとはそこに何を乗せるか次第になってきてしまうわけです。そこに乗せるものが「毎日祈りを捧げれば〜」とか「この壺を買えば〜」とかであれば困るのはその本人だけですが、乗せるもの次第では周囲に迷惑が及びます。それを、今回のオランダの監禁事件は示してくれています。信仰は、必ずしも美しくすばらしいものではない。

「悪いのは「信仰」自体ではなく、害を及ぼすような信仰を抱いてしまう「人」ではないか」と言えば、確かにそうです。でも、繰り返しになりますが、ベースとなる「根拠無く信じてしまう」というレイヤーを無くせれば、そこに乗るものがいいものか悪いものか、を心配する必要がなくなるわけです。

そして、根拠無く何かを信じなくても、ハッピーで有意義な人生を送ることが十分可能であることは、多くの日本人が身をもって証明しています。



ーーー



世の中で、「○○だと思う」といった場合、必ず「なぜそう思うのか。その根拠は?」と問われます。科学においてはもちろんですが、我々の日常においてもそうです。

「明日はきっと晴れると思う」 → なんでそう思うの?
「WindowsよりもMacの方が優れていると思う」 → なんでそう思うの?
etc. etc.

そして、その「○○」の内容が重要だったり、世に大きな影響を与えること(終末が近い、みたいに)であれば、特に根拠が求められます。

でも、これが「信仰」となると話は別で、「なぜ○○と思うのか」の根拠を問われなくなります。信仰の根拠を問うなどヤボで、いいじゃないか、その人の自由なんだから、という風潮があります。

その一方で、信仰にこのような免罪符を無条件に与えるのはもうやめないか、という動きも最近欧米で出始めていて、その行方がとても興味深い。



ーーー



結局、この父親に欠けていたのはクリティカル・シンキングの力でしょう。Scepticismとも言い換えられます。
それさえあれば、この父親も、そして監禁されていた子供たちも、文字通り「救われ」ていたでしょう。



「終末が近い」を根拠無く鵜呑みにしてしまうのではなく、
「本当にそうか」
「なぜそうだと言えるのか」
「それを示す根拠はあるのか」
を問うこと、それがクリティカル・シンキングの第一段階。



そして次に
「その「根拠」は、ちゃんとした、理にかなった根拠なのかどうか」
という、いわば「根拠の根拠」を問う視点(第二段階)、これが大事なわけです。

「牧師がそう言っていた、聖典にそう書いてある、不思議な形の雲を見た、そうだったらいいなと思うから」が、本当にもっともな理由(Good reason)になっているか、を問う視点です。



ーーー



クリティカル・シンキングは、日本ではまだ大学/大学院レベルで教えられているだけのようですが、海外ではどうなのでしょう。子供の頃からそういった視点を身につけさせるべく、カリキュラムの一部に取り入れている国もあるかもしれません。

もっとも、我々日本人の場合、わざわざ「クリティカル・シンキング」として学校で学ばなくても、ある程度「本当にそうか?」と健全な懐疑心をもってモノを考える能力を持っているような気もします。



こうした宗教、哲学、クリティカル・シンキングといったテーマは非常に興味深く、これからもいろいろと考えたり書いたりしてみたい分野です。


# by dantanno | 2019-10-22 19:55 | 宗教、哲学、クリティカル・シンキング | Comments(0)

笑顔記念日

オランダに住み始めて、はや5ヶ月。


笑顔記念日_d0237270_17320486.jpg



こっちに来て感心するのは、人びとの笑顔。
道行く人が、実に自然に笑顔を交わす。大人も、子供も。エレベーターでも、お店でも。


笑顔記念日_d0237270_17363198.jpg


そういうのが苦手だった僕も、郷に入りては郷に従えで、笑顔を作ろうとするんだけど、どうしてもぎこちない。うそくさい(笑)。顔がこわばる。

自然な笑顔って難しいんですね。。


笑顔記念日_d0237270_17281573.jpg


でも、そんな自分も、居住5ヶ月目にしてついに雪解けを迎える。
さっき、通りを向こうから歩いてきたおじさん(僕もおじさんだけど)に対し、我ながら自然な笑顔をすることが出来た!

(これじゃぎこちないかな。。)とか(スルーされたらどうしよう)とか、あまり深く考えないのがいいみたい。


笑顔記念日_d0237270_17195404.jpg


喜んだのもつかの間。
おじさんからは、その10倍ぐらいナチュラルでステキな笑顔がかえってきて、やっぱさすがだな、、と思いました。

# by dantanno | 2019-10-19 17:17 | グローバルに生きる | Comments(0)

「デキる人ほど仕事が速い」を考える

よく、「忙しい人ほど(逆に)仕事が速い」みたいに言いますよね。

これってどういうことかというと、忙しい人は「忙しい」わけだから、そこに何か追加で仕事なり用事なりを依頼されたら、きっとなかなか処理出来ないだろう、時間がかかるだろうな、と思いきや、意外とすぐに返してくるからビックリする、みたいな意味だと思います。そして、実際にそういうものだと思います。忙しい人ほど仕事が速い。ちょっとバタバタしておりまして、などと言っている人は、実は忙しくなんかしておらず、単に要領・段取りが悪いだけ。

あのホリエモンが何かの動画で言っていましたが、あの(相当数のプロジェクトを抱え、超多忙であろう)秋元康さんは、こちらが何かメッセージを送ると、すぐに返信してくる(だからビックリする)とのこと。きっとそういうものなんだろうと思います。


「デキる人ほど仕事が速い」を考える_d0237270_11413157.png


この話の因果関係を考えてみると、「あんなに忙しいのに、でもすぐに返信、処理、対応出来てしまう」ことにビックリするわけですが、実は、あらゆるものにすぐに返信、処理、対応しているからこそ、多くのヒマや時間を創り出すことが出来、だからこそ
1.(新規の話に)素早く返信、処理、対応出来てしまう、かつ
2.いろいろなプロジェクトや仕事を同時進行で出来てしまう
のだろうと推測します。

ちょっと別の言い方・見方をすると、自分がラクになるような仕組み作りをしているからこそ、一見忙しそうに見えても(そして、実際に多くのことを成し遂げていても)意外とヒマ、という、いわば台風の目みたいな状況を創り出せるんだろうと思います、そういう人は。

ーーー

「忙しい人ほど仕事が速い」というのは、言い換えると「デキる人ほど仕事が速い」なんだと思うんです。

「デキる人ほど仕事が速い」って言うと、聞いてる方は「そりゃそうだ」と思うでしょう。つまり、「デキる」と「仕事が速い」はほぼ同義でしょ?と思われてもおかしくないわけですが、実は、「仕事が速い」からこそ結果的に「デキ」ている、という因果関係があるんだろう、と思います。実際、「ちょっとバタバタしておりまして」などと言っている人にチャンスを紹介しよう、と思う人はいない。でも、その逆はある。「ヒマです!」と元気に言う人には、「じゃあ、何か仕事あげようか」って思うものです。

ーーー

世の中には、たとえば「通訳者」とか「パイロット」とか「鍛冶屋」とか、なんでもいいけど、何か単一の仕事をし、それをコツコツと突き進めていく人もいる。以下「コツコツ系」。
一方で、ホリエモンとか秋元康みたいに、いろいろな仕事を同時進行でこなす人もいる。以下「マルチ系」。

どちらもいいと思うが、もし後者の、いわばマルチ系な人生を送る場合、「すぐに処理する」というのが決定的に大事になってくる。それをしないと、、いろいろな用件をずっと大事に抱え、(時間が出来たらじっくり取り組み、対応しよう)なんてやってると、決してマルチな人生は送れない。そもそも始まらない。

あと、自分でその用語を使っておいてなんだが、実は、「マルチ」とか「マルチタスク」という言い方は、かなり不正確だと思う。マルチ系の人は、確かにいろいろなプロジェクトを抱え、しかもそれらを実現させているのは事実だが、ではその人が「ある瞬間」に何をやっているか、というと、一つのプロジェクトなり仕事なりに全力で集中しているんだろう、と思う。そういう意味では、(一見、一つのことを突き詰めているからそれだけに集中しているかと思われる)コツコツ系の人以上に「一つのことに集中」しているのかもしれない、と思う、マルチ系の人は。
一つのことを長きに渡りコツコツと続けるということは、その対象に向けられる集中力が(長期に渡り)分散する、ということでもあるから。

ーーー

自分にあてはめて考えてみるとどうか。自分は、一見マルチ系の生き方をしている。通訳者、翻訳者、会社経営、教える、ブログを書く、ワークショップを主催する、などなど。あと、3児の父親業とか、「家族で海外に引っ越すプロジェクト」なども抱えています。

そういう意味ではマルチ系なんですが、でも、(プライベートはともかく)仕事面においては、一見マルチ系だが実はすべて「通訳」という軸の元に動いている、とも言えます。そういう意味ではコツコツ系。だからこそかなりリスクを感じていて、それをどうするか、については別途考えたり書いたりしてみたいと思いますが。

ーーー

まあ、こうして考えてくると、自分がコツコツ系であれマルチ系であれ、来た仕事、依頼、メール、メッセンジャーなどなどに対し、じっくりのんびりではなくすぐに対応した方が人生が好転していくのはきっと間違いないだろうから、なるべくそうしていこう、と思いました。

# by dantanno | 2019-10-09 11:42 | 自戒ネタ | Comments(0)

外国の本のいいところ...

外国の本のいいところ。



外国の本のいいところ..._d0237270_17301066.jpg





本の一番うしろにある、数枚の白紙。




外国の本のいいところ..._d0237270_17303106.jpg





その本を読みながら思ったこと、考えたことを書きとめておくスペースがある。


これはいいですね。

本を読みながらあれこれ思考を巡らすのは実に楽しく有意義。そして、確かに本文中の余白は、まとまった量のメモを書き記すには狭すぎる。


僕の場合、思考が分裂気味なのか、ある本を読みながらまったく別のことを考え、それを書き込むことが多い。でも、その「まったく別のこと」は、その本を読むことで、あるいはその本を読みながら考えたことであるのは間違いないから、その本の「中」にそれを書き込んでおけるのはちょっとありがたい。

# by dantanno | 2019-10-05 17:26 | グローバルに生きる | Comments(0)

外国の広告

確かに三者三様。

外国の広告_d0237270_03165061.jpg


外国は、こういうprovocativeな広告があっておもしろい。
出来れば、これにホリエモンと前澤さんも載せてほしい(笑)。

# by dantanno | 2019-10-01 03:16 | グローバルに生きる | Comments(0)

もう、飲むしかない(笑)

例によって、BA(British Airways)のフライトが遅延。

もう、飲むしかない(笑)_d0237270_22510567.jpg

BAには年がら年中乗るが、これほど毎回必ず遅延するなんて、ある意味律儀で、規律を守っている。

しょうがないので、キャリーケースの上で宴会開始。

もう、飲むしかない(笑)_d0237270_22492354.jpg

今まで、機内に持ち込むガラガラは、すべて布製のソフトタイプを使ってきたけど、最近ミラノのラゲッジメーカーFPM社製のBankというシリーズを愛用してます。
上が硬いので、宴会会場に最適(笑)。

# by dantanno | 2019-09-22 22:46 | グローバルに生きる | Comments(0)

13歳からのハローワーク

オランダでは、(え?こ、子供?)と思うぐらい幼く見える人がお店とかで働いてたりします。

それをちょっと不思議に思いつつ、あまり気にかけずに日々を過ごしてきました。
で、先日、ウチのポストを開け、入ってたチラシを何気なく眺めてたら。。。



13歳からのハローワーク_d0237270_17181371.jpg



なんと、13歳からの求人(笑)!
雑誌の配達のアルバイトです。

日本基準で考えると(えっ、、)とびっくりしますが、よく考えてみると、とてもいいことかも、と思う。中学生からのバイト→社会参加。うん、悪くないですね。

まだ詳しく知らないけど、オランダでは宿題があまり(あるいはまったく)出ないらしい。勉強は学校で完結させる、と。だからこそ、学校のあとは家族と過ごしたり、スポーツをしたり、アルバイトをしたり出来るのかもしれませんね。あ、あと、受験戦争が無いのも大きいか。

日本に住んでいた頃(といっても、わずか数ヶ月前の話ですが)。
マンションの隣に、とても大きな、複数階建ての進学塾があった。毎晩、かなり遅い時間に親にピックアップされ、暗闇の中を塾から家路につく子どもたち。それを眺めながら、(なんだかなぁ。。ま、しょうがないのかなぁ。。でもなぁ。。)と感じていました。

オランダに来て、まったく違う価値観に触れた結果、自分がどう思うかが楽しみです。

# by dantanno | 2019-09-20 17:17 | 子育て | Comments(0)

通訳者は「予習の呪縛」から逃れ、好循環に乗ろう

また、長い文章を書いてしまった.....


読者のみなさんは、こんな経験をしたことがないだろうか。長い文章を最後までがんばって読んで、結局「たいしたこと書いてなかった」とか、「想定していた内容と違った」と、ガッカリさせられたことが。


それを避けるため、この長いブログ記事の冒頭にExecutive summaryを設けてみた。




Executive summary

このブログ記事は、通訳の予習に関するものである。


私が「予習の呪縛」と呼んでいる現象がある。そして、結構な数の通訳者(主に中堅レベルの通訳者)が、この「予習の呪縛」というものにハマってしまっているのではないか、と思っている。自分でも気付かないうちに。




中堅通訳者がハマりがちな「予習の呪縛」のメカニズムを、順を追って説明すると、大体このようなことだ:




1.「予習はいいこと」だと思い込んでいる。

予習は大事であり、「しっかりと予習をして案件に臨んでこそプロ」と思い込んでいる。思い込まされている。


2.自分の専門外の通訳案件を次々と引き受ける。

「予習はいいこと」と思い込んでいるから、予習がたくさん必要となるような、自分にとってアウェーな通訳案件を次から次へと引き受けることに躊躇・疑問を感じない。


3.「素の通訳力」が低い。

素の通訳力というのは、「もし仮に予習をまったくせず、丸腰で通訳案件に臨んだ場合、どの程度の通訳パフォーマンスが出来るか」という力。それが低い。


4.予習にたくさんの時間をかける

「予習はいいこと」と思い込んでいるので意図的に、そして、素の通訳力が低いので必然的に、予習にたくさんの時間をかけることになる。


5.予習をしている間、素の通訳力は向上しない。

予習は、その特定の通訳案件の本番での通訳パフォーマンスのアップには間違いなくつながるものの、基本的・普遍的な通訳力・知識力・理解力の向上にはつながらない。


6.通訳トレーニングや勉強に時間をかけない

真面目な通訳者ほど、ちゃんと予習をする。予習に時間を奪われる上、予習で疲れているし、しかも悪いことに、予習をして「時間を有意義に使った」という錯覚もある。だから、予習をがんばった分、素の通訳力を向上させるために不可欠な通訳トレーニングや勉強にあまり時間をかけない、かけられない。


7.「予習の効果」を強く実感する。

素の通訳力が低い人が、たくさんの時間をかけて予習をするものだから、その予習は確かに本番で大きな効果を発揮し、そのおかげでより良い通訳パフォーマンスが出来る。「予習しなければ大変なことになっていただろう。。やっぱり予習って大事!」と強く感じる。


8.「予習はいいこと」という思い込みが、さらに強くすり込まれる。


9.素の通訳力が低いまま、1.に戻る。






これが、私の言う「予習の呪縛」という悪循環だ。このサイクルを数年間繰り返した結果、あるときふと「私は何をやってるんだろう・・・」とようやく気付ければまだいい。いつまでも気付かないことだってある。




このブログ記事では、

1.上記「予習の呪縛」について、順を追って詳しく見ていき、

2.どうすれば予習の呪縛から逃れ、好循環に乗ることが出来るのか、

について考える。


また、要所要所で、予習というものに関するポイントというか、原則のようなものも記載している。





Introduction

通訳者は、以下のようなことを口にすることがある:


「わずか1時間の通訳案件のために、何時間も、あるいは丸一日、場合によっては何日も、予習をすることがあるんです」


確かにその通りだ。


(ちなみに、このような発言は、「通訳の料金は、確かに「1時間通訳していくら」と考えると高額に感じられるかもしれないが、予習にかかる時間を含めると、時給は意外と安いのだ」というような自虐ネタに続くこともある。これも確かにそうだ(涙)。)





通訳者の、こういう発言もよく耳にする。

「会議で使用予定の資料を早めにいただき、予習をしないと、当日の十分なパフォーマンスを保証出来ません。」


また、マジメな通訳者ほど

「来週の通訳案件に向けた予習をしないといけないので、今週末は遊びに行けそうにない」

といったことも言うだろう。




いずれも、予習というものの重要性を表す発言だ。それぐらい、予習というのは通訳の仕事と切っても離せないものである。予習は、通訳案件の成否を左右する、大事なものだ。






<予習はいいこと、というコンセンサス>

通訳者100人に「予習はいいことだと思うか」と聞けば、ほぼ全員がYesと答えるだろう。また、「予習は大事だと思うか」と聞けば、これもほぼ全員(if not 全員)がYesと答えるだろう。



筆者も一度だけ案件をご一緒したことがある、業界の第一人者的な通訳者がいる。TVでも取り上げられたその方の座右の銘も「準備と努力は裏切らない」だそうだ。ここでいう「準備」というのは、「日頃からの勉強」も含むだろうが、「準備」と言うからには、主に案件に向けた準備、すなわち予習を指していると思われる。「予習をしっかりやれば、それは本番で裏切らない」という考え方だ。





この業界には、「予習=いいこと」というコンセンサスがある。

そして、予習は「いいこと」というだけでなく「大事なこと」であって、そして「通訳者は予習に時間をかけて当然(それこそプロフェッショナル)」というのも、ほぼ業界のコンセンサスといっていいだろう。ベテランもそう言っているし、駆け出しの通訳者もそう思っている。





かくいう私も、通訳案件本番に向けた予習は「いいこと」だと思うし、「大事」だと思う。


しかし。

しかしである。

「予習は確かにいいこと、大事なこと。でも、○○○」と感じるのだ。


以下で、この「でも、」の後の「○○○」の部分について、順を追って論じてみる。





<予習とは何か>

まず、「予習」を定義する。

そもそも、通訳における「予習」とは何を指すのか。




予習は、要するに「通訳案件に向けた準備」と言えよう。




ただ、「予習」と「準備」はイコールではない。というのも、「準備」には、例えば

・会場までの行き方を調べる

・当日使うペンやノートを用意する

といった、ロジ的・アドミニ的な行為も含まれるから。


そう考えると、「予習」というのは、準備という広義の作業の内、「会議/ミーティングの内容に直接関連する準備」と言えるかもしれない。





通訳者は「予習の呪縛」から逃れ、好循環に乗ろう_d0237270_12284031.png





では、我々通訳者(特に会議通訳者)は、具体的にどういうことを「予習」しているのだろうか。




予習の対象として、恐らく一番重要となるのが、当日その会議あるいはミーティングで使われる予定の資料であろう。それを(なるべく早めに)クライアントからもらい、じっくり読み込んだり、資料に出てくる単語やフレーズに事前に訳をつけておいたり単語帳を作ったり、また、内容に関する不明点をリストアップして事前にクライアントに質問する、といったことを通訳者は行う。


また、多少ロジ的というか、会議の内容そのものではないことを「予習」することもある。例えば、登壇者の名前や経歴の確認だ。





上記以外で、通訳案件に向けてどのようなことを予習するか、は、通訳者によっても当然変わるし、その通訳案件の内容・性質によっても大きく異なる。


いくつか、ケース毎に見ていく。


1.トヨタのIRミーティングの通訳をするのであれば、トヨタという会社について、そして最近のトヨタの(クルマの)モデル名などを予習するだろう。トヨタのEVや自動運転への取り組みについても調べるだろうし、トヨタの競合の最近の動きにも目を配るだろう。


2.政治家のスピーチの通訳をするのであれば、その政治家のウェブサイトを見に行って、その人の経歴や、唱えている政策・公約などを確認するだろう。また、政治用語を重点的におさらいするかもしれない。あるいは、その政治家が最近行った記者会見やスピーチをYoutubeで見つけることが出来れば、それを観ておくことも有効だろう。


3.「ジンバブエの都市問題」というシンポジウムの通訳を引き受けたのであれば、ジンバブエがどういう国なのか、今ジンバブエではどういう問題が起きているのか、といったことを知りたいだろう。ジンバブエの主要都市名の一覧もマストだろう。また、一旦ジンバブエから離れ、そもそも「都市問題」というのはどういう問題のことを指すのか、についても興味が湧き、調べるかもしれない。また、当日どのようなパネリストが、それぞれどのような立場で登壇するのか、についても思いを馳せるだろう。


出来ることはいろいろとあるわけだ。




<予習の目的>

では、我々通訳者は、一体なんのために予習をするのだろうか。通訳者からすると、当たり前すぎる問いかけと感じるかもしれないが、この機会に一度、改めて考えてみてほしい。あなたは、一体なぜ、なんのために、がんばって予習をするのか?




読み進める前に、ここで数秒だけ考えてみてほしい。


なんで予習するんですか?








ーーー


私は、我々通訳者が熱心に予習する一番の目的は


「本番で、より良い通訳パフォーマンスをするため」


ではないかと思う。




「より良い」というのがポイントだ。予習をすると、(しなかった場合と比べ)より良い通訳パフォーマンスが出来るのだ。だから我々通訳者は一生懸命予習をするのだ。




ちなみに、通訳の予習には「会議内容の理解」という直接的な効果に加え、予習をすることで、通訳者が安心して通訳案件に臨める状態になり、それが結果的にいい通訳パフォーマンスにつながる、という副次的な効果もある。




予習のポイント: 「予習をしているとき、自分が今やっている作業が、本番での通訳パフォーマンスのアップにつながる作業か(つまり、これは「予習」といえるのか、あるいは何か別のものなのか)?」を常に意識しながら予習する。

(私が駆け出しのIR通訳者だった頃、やたらと予習に時間がかかったのは、要するに「何を予習すればいいかが分かっていなかった」ということに尽きる。つまり、ムダな予習をたくさんやっていたわけだ。)






<もし予習をしなかったら・・・>

もしも、まったく予習をせず、丸腰で通訳案件に臨んだら、一体どうなるのだろうか。マジメな通訳者であれば想像もしたくないシナリオかもしれないが、ここであえて考えてみたい。




一つ前の「予習の目的」のセクションで、予習の目的を

「本番で、より良い通訳パフォーマンスをするため」

と定義した。


そんな「予習」を、まったくしなかったら、当然、予習をした場合と比べ、通訳パフォーマンスは落ちる。




通訳パフォーマンスは数値化・定量化出来ないが、仮に出来たとしよう。

1.予習にかけた時間と

2.通訳パフォーマンス、

の相関図は、例えば以下のようになる:



通訳者は「予習の呪縛」から逃れ、好循環に乗ろう_d0237270_12343105.png


予習をすればするほど、本番での通訳パフォーマンスが改善することを図示している。




<予習の効果は、時間とともに逓減する>

(このグラフが正しい、という前提つきだが) このグラフから、あることが見て取れる。それは、予習が、開始当初に一番効果があり、その後、徐々にその効果は逓減する、ということだ。確かに、予習による効果は、かけた時間と正確に比例して直線的に現れるものではない。


その通訳者にとって未知の分野の会議に向け、予習を開始して最初の1時間からは大きな効果が得られるだろうが、既に10時間予習している状態での「もう1時間」つまり11時間目の予習は、最初の1時間目と比べ、本番での通訳パフォーマンス改善効果が限定的、ということだ。



予習のポイント: 予習する際、上記曲線を常に頭に描く。傾きがなだらかになって来た、と感じられたら、潔く予習を打ち切り、早く寝て明日の本番に備えるといい。余計な罪悪感は(そして余計な予習も)禁物だ。






<2つの通訳パフォーマンス: P1とP0>

さて、ここで、2つの通訳パフォーマンス(点数)をプロットしてみる。


P1は、3時間、しっかりと予習をした状態で通訳案件に臨んだ場合の通訳パフォーマンス

P0は、予習をまったくせずに本番に臨んだ場合の通訳パフォーマンス




通訳者は「予習の呪縛」から逃れ、好循環に乗ろう_d0237270_12341865.png


数字は別になんでも構わないのだが、仮に、

P1 = 80点

P0 = 50点

とした。










<2つの通訳パフォーマンス: P1P0の関係>

もう一度、グラフを見てみよう。


通訳者は「予習の呪縛」から逃れ、好循環に乗ろう_d0237270_12341865.png


通訳パフォーマンスの点数であるP1P0を比較した場合、当然P1P0だ。予習した方が、しなかった場合と比べ、より良い通訳パフォーマンスが出来る。

そして、P1P0の差が大きければ大きいほど、その通訳者にとって、その通訳案件に向けた予習が「効果があった」ということになる。逆に、P1P0であまり差が無ければ、予習による通訳パフォーマンス改善効果が小さかった、ということになる。





では、P1P0、どちらがより重要な指標なのだろうか。


クライアントや会議参加者の前で披露され、彼ら・彼女らが実際に耳にし、評価の対象となるのはP1だ。そういう意味では、P1が大事、という見方も出来よう。


では、P0というパフォーマンス指標には、一体どういう意味があるのだろうか。

我々通訳者は(基本的に)みなマジメであり、予習をした上で通訳案件に臨むことがほとんどである。そんな中、「予習を全くせずに本番に臨んだ場合の通訳パフォーマンス点数」を表す、ある意味非現実的な指標であるP0になんの意味があるのか。




P0も重要だ。

例えば、私のような通訳エージェントが、登録を希望してくれる通訳者のトライアルの際に聴かせてほしいのは、なんといってもP0だ。P1など聴きたくない。


通訳者選考の際、何らかの音声を逐次通訳してもらうわけだが、必ず初見でやってもらっている。しっかりと予習(準備)をした状態の通訳ではなく、「素の状態の通訳」を見たいのだ。P0 すっぴんの通訳力、とも言えよう。


どの音声を使って選考するかを事前に通訳者に伝えておいてしまうと、トライアルの際にその通訳者が上手なパフォーマンスを披露してくれても、その人の通訳パフォーマンスが良かったのが:

1.通訳が上手だからなのか、あるいは

2.事前にびっちりと準備をした上で臨んだから、なのか。

それが分からなくなってしまうのだ。





P1P0、どちらが重要か」という点について考えていて、ふと思った。

「予習をしないと、(その通訳者の)本来の力が発揮されない」と考えるのが正しいのか、あるいは逆に「予習をしない状態こそが、その通訳者の「本来の力」」なのか、は、通訳者の間でも意見が分かれるところかもしれない、興味深い論点だ。





<なぜ予習が必要となるのか>

ちょっと前のセクションで、「予習の目的」すなわち「なぜ予習するのか」という論点について考えた。それと似ているが、微妙に異なる論点として、「なぜ予習が必要となるのか」という論点がある。


「なぜ予習が必要となるのか」を考えるにあたり、私が経験した「事件」を紹介する。名付けて「中国の地名事件」だ。





<中国の地名事件>

私は、2008年に通訳者になり、IR通訳を始めた。


当時は結構「中国ブーム」だった。IRミーティングにおいて、多くの日本企業が「うちは中国の重慶に第二工場を建設中でして・・・」とか、「当社は中国の無錫でマンション分譲事業をやっていまして・・・」みたいな話をしていた。


重慶とか無錫とか、ギリギリ聞いたことはあっても、それを英語でなんと言うかなんて、当然知らない。だから本番中に大急ぎで電子辞書で調べて間に合わせていたのだが、すぐに(このままではいけない)と気付いた。


そんなある日、いくつかの会社の決算説明会のプレゼン資料をなんとはなしに眺めていたとき、あることに気付いた。

多くの会社が、例えば計30ページのプレゼン資料であれば、その20ページ目あたりに中国の地図を載せ、その会社が中国のどの都市で何をやっているか、を説明しているのだ。


(これだ・・・)と思った。

IRミーティングに向けた予習をするとき、各社のプレゼン資料の中の「中国ページ」とでも呼ぶべきそのページを見つけ出し、事前に「重慶 ChongqingChungking」とか、「無錫 = Wuxi」みたいに、英語名をリストアップし、その通訳案件用の単語帳に載せておけばいいんだ!


この日から、IRの予習をする際、一社あたり2-3分の「中国タイム」を設けることが恒例となった。




その後、しばらく平和が続いていたある日、事件は起きた。


ある日、翌日のIRの通訳に向け、何気なく予習を開始した。

いつものように「中国タイム」と称し、その会社の決算説明会のプレゼン資料の後ろの方をパラパラとめくり、その会社の中国における事業展開を説明している「中国ページ」を見つけ、、、と、ここまではよかった。


そのときに、ふと思ってしまったのだ。

この2-3分の「中国タイム」って、もっと効率化出来ないのかな、と。言い換えると、この2-3分って無くせないのかな、と思ってしまったのだ。


そして、ハッと気付いた。

「こんなの、覚えちゃえばいいじゃん」

と。


中国の主要都市は、重慶とか無錫とか、広州とか杭州とか、成都とか天津とか、まあいろいろあるわけだが、当然、無限に存在するわけでは無い。限りがあるのだ。そして、一度腰を据えてそれら主要都市名の英語での言い方を「覚えて」しまえば。。。。。

その後、二度と「中国タイム」など不要になるではないか!




ちょっと余談。

私は当時、一社あたり(ちゃんと予習すると)3-4時間かけていた。それに比べ、「中国タイム」にかけていた2-3分など微々たるもの、と思うかもしれない。実際、微々たるものなのだが、結局その積み重ねなのだ。ちりも積もって3-4時間になるのだ。

そうした、いわば「ムダ」を一つ一つ省いていくことにより、今では予習時間は大幅に短縮された。




これが、私が経験した「中国の地名事件」である。

事件と呼ぶほどのことではないではないか、大袈裟な。。。と思ったかもしれない。その気持ちもよく分かるが、しかし、この件は私にとって大事件だったのだ。


というのも、

「知っていれば、予習しなくていいんだ・・・」

という、予習に関する決定的な事実に気付かせてくれたからである。

「知らないからこそ予習が必要になるんだ・・・」と。


そして私は、この「知っていれば/知らないから」という概念をもう一段引き上げ、「力があれば/力が無いから」と位置付けた。


力があれば、その分、予習をする必要性は薄れる。

力が無いからたくさんの予習を必要とするのではないか。このとき、そう思ったのだ。




予習のポイント: 知っていれば、予習する必要は無くなる。知らないからこそ、予習が必要となる。






<素の通訳力、という考え方>

私が経験した「中国の地名事件」を踏まえ、一つ前のセクションに出てきたP1P0という概念に戻す。



通訳者は「予習の呪縛」から逃れ、好循環に乗ろう_d0237270_12341865.png



なぜそんなに予習が必要になるのか?

なぜ何時間も予習しないと間に合わないのか?


それは、P0が低いからだ。

素の通訳力が低いからだ。


P050点しか無いから、それを80点に引き上げるために、ものすごく多くの予習が必要となるのだ。






ここでふと考える。

もし、そもそものP080だったら?

つまり、予習ゼロでも80点の通訳パフォーマンスが出来る、それだけの実力があったら?




通訳者は「予習の呪縛」から逃れ、好循環に乗ろう_d0237270_12445626.png




この、グラフ上に新たに記載した赤い線。

これが「Bさん」という通訳者のものだとしよう。


Bさんは、P0が80点だ。

つまり、通訳力・知識力・理解力などの力があるため、予習をまったくせずに通訳案件に臨んでも、80点が取れる。




もちろん、そんなBさんも予習はする。

でも、それはP080点を85点、ないしは90点に引き上げるための予習となる。Bさんにとっては、予習前のP0と、予習後のP1にあまり差は無いのだ。


① 前述のAさんの、50点を80点に引き上げるために必要となる膨大な予習と比べ、Bさんの場合は予習時間がはるかに短かくて済むのと、

② 本番でのBさんの通訳パフォーマンスは、Aさんの80点を上回る90点なのだ。予習にかけた時間はAさんより短いのに!


Aさんが必死に一夜漬けをしている間、Bさんはぐっすり寝ている。日頃からちゃんと勉強していれば、テスト前に徹夜しなくてもすむのだ。


明日の通訳案件に向けた予習はもちろん大事だ。それをやれば、通訳パフォーマンスが向上するから。でも、予習が必要・有用だということは、素の通訳力が低い、ということでもある。素の通訳力がもっと高ければ、予習にかける時間を短縮できるし、極端な場合、予習する必要性を完全にゼロにもできる。


一方、Aさんのように「予習の効果が大きい」と感じるということは、つまり「P1P0の差が大きい」ということだ。すっぴんと、お化粧をした状態との間の差が大きすぎるのだ。そしてそれは、「そもそも、P0が低すぎる」ということでもあるのだ。


だから、「予習をしないといけない・・・」というのは、

「プロ意識の高さを表すいい発言」でもあるが、

「素の通訳力の低さを表す恥ずかしい発言」でもあるのだ。




結論

AさんとBさんの違いは何か。


Bさんは、素の通訳力が高いのだ。





<「予習」と「通訳トレーニング」と「勉強」>

さて。

予習と似た概念として、「通訳トレーニング」や「勉強」がある。

どれも、本番での通訳パフォーマンスのアップにつながる作業だ。


これら3つは、どういう関係にあるのか。どう異なるのか。どうオーバーラップするのか。


通訳者は「予習の呪縛」から逃れ、好循環に乗ろう_d0237270_12344644.png







「通訳トレーニング」というのは、私が定義するに、「基本的・普遍的な通訳力をアップさせるための取り組み」だ。

(ブログ記事「通訳トレーニングについて、思うことすべて」ご参照


例えばシャドーイングや、リテンションの訓練などがこれにあたる。特定の通訳案件だけではなく、どの通訳案件にも普遍的に役立つのが通訳トレーニングだ。





では、「予習」と「勉強」はどうか。どう違うのか。

あくまでも私の定義付けだが、


予習: 特定の通訳案件に向けた準備

勉強: 特定の通訳案件に紐つかない、より普遍的な作業


と区別出来るのではないか。





「通訳トレーニング」然り。

「勉強」然り。

キーワードは「普遍的」だ。通訳トレや勉強は普遍的なのだ。これをやって鍛えられるのは、「特定の案件だけ」ではなく、「どの通訳案件でも」通用する普遍的な力なのだ。素の通訳力なのだ。


それに対し予習は、普遍的ではない。特定の通訳案件における通訳パフォーマンスを向上させるための取り組み、それが予習だ。だからダメ、ということではないが、とにかく普遍的ではないのだ。




言い換えると、

通訳トレーニング → 通訳力アップ

勉強 → 知識力・理解力アップ

と、なんらかの力がアップするのに対し、「予習」というのは、その特定の通訳案件での通訳パフォーマンス改善にはつながっても、なんらかの力のアップにはつながらないのだ。




通訳者は「予習の呪縛」から逃れ、好循環に乗ろう_d0237270_12345107.png





ここで、一部の読者から反論があるかもしれない。

「いいや、違う」

と。

「予習は(少なくとも私にとっては)○○力のアップにつながっている!」

と。


一見、私が↑で言っていることと意見が180度対立しているかのように見える。しかし、世の多くの対立がそうであるように、実は単なるボタンの掛け違いである可能性が高い。より正確に言うと、「ことばの定義の違い」だろうと思う。

私は、基本的な通訳力アップにつながる作業は(それがどんな作業であれ)「通訳トレ」と呼んでいる。それをやることで、あなたの「どの案件でも活用出来る、基本的・普遍的な通訳力がアップ」するのであれば、それがどんな作業であれ、私はそれを「通訳トレ」と呼ぶ。


そしてまた、基本的・普遍的な「理解力や知識力の向上」につながるのであれば、それがどんな作業であれ、それは立派な「勉強」だ。


一方、私がここで「予習」とクリティカルに呼んでいるのは、当該通訳案件での通訳パフォーマンス改善にのみつながる作業のことだ。そして、そんな「予習」をすることで、基本的な通訳力や知識力などはほぼ、あるいはまったく、向上しない。






人の健康にたとえよう。


カンフル剤を打ったり、栄養ドリンクを飲むことは、もちろん効果がある(多分)。それらは即効性のある、短期的な効果だ。

これが「予習」なのだ。

一夜漬けの詰め込みなのだ。


それに対し、「健康的な食事をする」とか、「定期的に運動する」といった取り組みは、長期的かつ普遍的な取り組みだ。

これが「通訳トレーニング」であり、「勉強」なのだ。

一夜漬けの詰め込みなどではない。日頃からの学習なのだ。





話をまとめる。

予習は、その特定の通訳案件において通訳パフォーマンスを改善させる、という効果は確かに発揮する。でも、それは「通訳力」とか「基本的な知識力・理解力」といった「力」の改善・向上ではないのだ。



予習のポイント: 予習している間、素の通訳力は向上していない。





<各作業間のオーバーラップ>

ここで注意が必要なのは、「予習」と「通訳トレーニング」と「勉強」の間では、オーバーラップが存在することもままある、ということだ。


この記事の冒頭の、「具体的に、どのようなことを予習するのか」のセクションで、予習のいくつかの事例を取り上げた。


予習と通訳トレーニングのオーバーラップ

政治家の記者会見の通訳に向け、その政治家が最近行ったスピーチをYoutubeで見つけ、観ておく、という例を挙げたが、例えばその動画を使って逐次通訳のトレーニングをすれば、

1.(その特定の案件に向けた)予習と、

2.(普遍的な)通訳トレーニング

を両方同時に行うことが出来る。


予習と勉強のオーバーラップ

あるいは、「ジンバブエの都市問題」に向けた予習の一環で、「そもそも「都市問題」ってどういう問題?」に興味を持ち、そのテーマに関する本を買ってきて読んだとする。これも立派に

1.(その特定の案件に向けた)予習と、

2.(普遍的な)勉強

を両方同時に行っている。




予習のポイント: なるべく「ただの予習」は避け、「通訳トレーニング」や「勉強」とオーバーラップするような予習を行う。その方が、短期的かつ長期的両方の効果が得られ、効率的。






<予習は麻薬のようなもの>

みなさんが、ある通訳案件を引き受けたとする。その案件に向け、しっかりと予習し、その予習が本番で大きく効果を発揮したとしよう。予習をした結果、通訳パフォーマンスが大きく改善したとしよう。


こうした経験をすると、みなさんは「予習」というものに対し、どう考えるだろうか。


(しっかり予習してよかった・・・)

確かに、予習したおかげで通訳パフォーマンスが大きく改善したのだから、「予習してとてもよかった」と言える。


(やっぱり予習は大事だ・・・)

(準備は裏切らない・・・)

もし予習していなかったら、本番での通訳パフォーマンスはP0(例えば50点)だったわけで、確かにこの案件において予習は大事な役割を果たした。


あなたは、その通訳案件を経験した結果、「予習」というものの重要性・価値に改めて気付き、それ以降の案件においても予習を徹底しよう、と思うだろう。むしろ、マジメな通訳者ほどそう思うはずだ。




しかし、ここでちょっと考えてみていただきたい。

その通訳案件において、予習がそれだけ大きな効果を発揮した、というのは、別の見方をすれば、一体どういうことだろうか。




1. 素の通訳力が低い

「予習の効果が大きかった」ということは、予習前(P0)と予習後(P1)の間に大きな差がある、ということだ、文字通り。

ということは、、、

予習後(P1)だけに注目すると「予習してよかった・・・」としか感じないが、

予習前(P0)にも注目すると、「私は素の通訳力が低い」ということにもなる。

そして、素の通訳力が低いということは、、、今後も、あなたは通訳案件の度にたくさんの予習をするだろうし、かつ、その度に「大きな効果を実感」し続けることになる。


2. 通訳力は向上していない

「予習の効果が大きかった」ということは当然、その案件に向け、かなりの予習をした、ということだろう。多くの時間をかけた、ということだ。

もし、「予習をしている間、基本的・普遍的な通訳力は(あまり)改善しない」という前述の仮説が正しいとすると。。。 あなたが多くの時間をかけて行ったその予習の間、あなたの通訳力は(あまり)向上していない。少なくとも、その時間を予習ではなく通訳トレーニングに振り向けた場合と比べ、向上していない。

つまり、1.で述べた「素の通訳力が低い」という問題が改善されないまま残っているし、このまま残り続ける可能性が高いということです。


3. 危機感を感じにくい

1.素の通訳力が低く、かつ2.その問題が改善されないまま残っているわけだが、でも、しっかりと予習をしたことで本番での通訳パフォーマンス(P1)が(とりあえずその場は)なんとかなってしまい、危機感を感じにくい、というのも非常に恐い点だ。




通訳者は「予習の呪縛」から逃れ、好循環に乗ろう_d0237270_12345862.png






ちょっと大袈裟に書きすぎかもしれないが、実際、予習にはこういう側面がある。

「その通訳案件における通訳パフォーマンス改善」という、短期的・即効的な効果は間違い無くあるものの、長期的な通訳力アップにはあまりつながらず、通訳者が悪循環に陥りやすい。効果が大きいほど危機感を感じにくい、言ってみれば麻薬のようなものだ。







<予習の呪縛、という考え方>

記事の冒頭で書いた「予習の呪縛」という考え方。

図にするとこうだ。



通訳者は「予習の呪縛」から逃れ、好循環に乗ろう_d0237270_13051228.png


かなり多くの通訳者、特に中堅の通訳者が、この呪縛にハマっていると思う。


予習の呪縛が恐いのは、


1.本人も、自分がそれにハマってしまっていることに気付きにくい

2.真面目な人ほど、この呪縛にハマりやすい


からだ。






<予習の呪縛から逃れるには>

では、一体どうすればいいのか。


これは悪循環だ。なので、その「循環」を断ち切ればいい。そうすれば、悪循環が止まるだけでなく、うまく行けばそれが逆回転し、好循環にもなる。これが「循環」のいいところだ。


循環を断ち切り、逆転させるには、単一の施策だけではだめだ。

循環なのだから、いくつかの場所で複数の手を打つことで流れを逆回転させよう。








1. 「予習はいいこと」という思い込みを捨てる

一番大事なのがこれだ。

「予習はいいことであり、大事なこと」とか、「予習にかけた時間は裏切らない」といった考え方をしている内は、予習に時間がかかってしまっていることを問題視しにくい。問題視しないと、対策を打とう、というインセンティブも生まれず、いつまでも(=引退まで)多くの時間を予習に費やすことになってしまう。

予習は、素の通訳力が低いからこそ生じる、必要悪的な作業である、ととらえるといいと思う。実際そうなのだから。そしてまた、予習をしている間は基本的な通訳力が向上しないことを考えると、「必要悪」どころか単なる「悪」とも言える。「もっと上手になりたい」と願う通訳者にとって、予習は時間の無駄なのだ。


もし今「予習の悪循環」にハマってしまっているのであれば、「予習はいいこと」という先入観を一度捨て、「なぜこんなに予習が必要になるのか」とか「どうすれば予習時間を短縮できるか」を考えてみてほしい。


よく考えてみれば、「予習はいいこと」だと絶賛していたのは、素の通訳力が低い先輩たちであって、あなた自身ではなかったはずだ。





2.  素の通訳力を上げ、曲線をシフトさせる

予習の呪縛から解放されるためには、案件の選別や、効率的な予習など、いくつか手段がある。中でも、最も劇的な効果をもたらすのは「素の通訳力を上げること」だ。




我々通訳者は、時間をかけて一所懸命予習をすることで、曲線上を、P0からP1へと、右上方向に動く。これが予習の効果だ。




通訳者は「予習の呪縛」から逃れ、好循環に乗ろう_d0237270_13114131.png




しかし、これはあくまでも「同一曲線上の動き」に過ぎない。そしてそれは、当該通訳案件における通訳パフォーマンス改善にはつながるものの、根本的な解決にはつながらない。


大事なのは、「曲線上を動く」ことではなく、今自分が乗っているその曲線から逃れ、曲線自体を上方にシフトさせることだ。

それはすなわち、素の通訳力をアップさせることを意味する。



通訳者は「予習の呪縛」から逃れ、好循環に乗ろう_d0237270_13133747.png



では、仮に成功裏に曲線をシフトさせることが出来たとして、その後はどうすればいいのか?


「素の通訳力がアップしたから、もう予習なんて必要無い」ということではない。前ほどは必要ではなくなった、というだけのことだ。予習への依存度が下がった、ということだ。だから、素の通訳力が上がり、曲線をシフトさせたあとも、予習はする。その分、本番での通訳パフォーマンスがアップする、というメリットも従前通りだ。

ただ、以前の自分ほど予習に時間をかけなくて済むようになるので、その分、他のことが出来る。通訳トレーニングなどに時間を振り向けることが出来、その分、さらに「素の通訳力」がアップする、という好循環が生まれる。





3. 予習時間短縮のための方策

我々の目的は「本番での通訳パフォーマンスの向上」であって、「予習すること」ではない。つまり、予習はあくまでも手段であり、目的ではない。

と考えると、目的が達成できるのであれば、予習時間はなるべく短かいにこしたことはない、ということだ。


まずは、本当に心から「予習時間を短縮したい」と思うことが重要だ。「効率的に予習するにはどうすればいいか」と相談してくる通訳者のほとんどが、本気で「予習時間を短縮したい」とは思っていないと思う。「予習=いいこと」という思い込みを持ったままだと、その「いいこと」である予習に時間をかけることを心底いやがることはなかなか出来ないものだ。これを変える必要がある。


予習時間の短縮は、細かいことの積み重ね

携帯電話(いまやスマホ)は、一昔前と比べ、だいぶ小さくスリムになった。それを可能にした半導体の微細化は、一朝一夕で実現したのではなく、小さなステップの積み重ねだ。

私が経験した「中国タイム」の廃止による2-3分の削減然り。

あるいは、「モニターが二つあった方が、2つの資料を同時に見比べることが出来て、予習がしやすくなるなあ」然り。

こうした細かいステップの積み重ねで、予習時間を短縮し、その分、他の作業に振り向けることが出来る。

そのためには、やはり「予習は「いいこと」ではない。こんなことにかける時間はなるべく短縮したい」と強く、本気で願うことが必要だ。


案件を選別する

通訳者としての専門分野を持たず、エージェントから来た案件を来たもの順に予定に入れて行くと、いつまでたっても多くの時間を予習に費やし続けることになる。

それに対し、何か特定の専門分野を持てば、少なくともその分野の通訳案件を引き受けた場合は、予習にかける時間を短縮できる。


「いろいろな分野の通訳をこなす、ゼネラリスト通訳者です」という通訳者も多い。あなたはそれでいいかもしれないし、通訳エージェントにとってそんなあなたは実に便利な存在だろうが、はたしてクライアントにとってはどうか。

盲腸の手術を受ける際、盲腸手術専門の外科医に執刀してほしいか、あるいは「昨晩徹夜で盲腸手術について予習してきました」という眼科医に執刀してほしいか、の違いだ。クライアントからすれば、その分野を専門とする通訳者に案件を任せたいに決まっている。通訳者が専門分野を持つことは、とても「クライアント志向」なのだ。


もっとも、例えば私がIR通訳という専門分野を持っているのは、(恥ずかしながら)意図的・戦略的な判断の結果では決してなく、完全にたまたまだ。でも、あなたには出来れば意図的・戦略的に専門分野を作り、それを大事にしてほしい。


専門分野を作ったからといって、「それしかやらない」ということではもちろんない。ただ、ホームと呼べる分野を持つのと持たないのとでは、予習の呪縛から抜け出せる可能性が大きく違ってくる。



リピート案件の比率を高める

毎回「どうも初めまして」とやっているからこそ、予習に時間がかかるのだ。去年も担当した会議、毎年同行している企業の案件であれば、(決して手を抜くことなく)予習にかける時間を短縮できる。

素の通訳力を高め、通訳の専門分野を作れば、当然リピート率は高くなる。このように、予習の呪縛が互いに連関したサイクルであるように、その逆の好循環も相互につながり、複合的な効果をもたらすのだ。






<まとめ>

「本番で、よりよい通訳パフォーマンスをしたい」というのは、すべての通訳者の共通の目標であり、願いだと思う。

その頂きに向け、さまざまなルートがある。予習もその一つだ。確かに予習は大事だ。でも、他にも道がたくさんある。素の通訳力を高めるという道もある。そして、見方によっては、素の通訳力を高める方が本質的で、効果的で、そして(一見遠回りだが)実は効率的、とも言える。




「予習はとても大事」

「予習すると効果がある。予習してよかった」

「我々通訳者は、わずか1時間の通訳案件のために、何時間も、あるいは丸一日、そして場合によっては数日間も、予習をすることがある」

「会議で使用する資料を早めにいただかないと、当日十分なパフォーマンスが出来ません。」

「週明けの通訳案件に向けた予習をしないといけないので、週末は遊びに行けない」

etc. etc.




このブログ記事を読んだ後も、あなたはこういうことを言い続けるだろう。もちろん、それで構わない。でも、今後あなたが通訳の予習に関する発言をするとき、この記事を読んだことで、ほんのわずかでもあなたの意識が変わっていればとてもうれしい。


そしてもし、多少なりとも「予習の呪縛」のようなサイクルに乗ってしまっていると感じられたら。。。

出来ることはいろいろある。ぜひさまざまな手を打って、その悪循環を断ち切り、逆に好転させていってほしい。


# by dantanno | 2019-09-08 13:21 | プレミアム通訳者への道 | Comments(0)

姉弟

姉に憧れて

姉弟_d0237270_08280291.jpg




自分も消防士になる、と言い出した息子。

姉弟_d0237270_08271953.jpg


# by dantanno | 2019-08-03 08:26 | 子育て | Comments(0)

大事な決断を支えてくれる「古湯坊源泉館」

今、山梨の 古湯坊源泉館という温泉宿に来ています。

ここには、大事な決断をするときに来ます。今回で、確か3回目。
いつも一人で、2泊3日で(笑)。

一番最初に来たのは、IRISを起業する前の、「男の一人合宿」のときでした。

男は(いや、女もだけど)、たまーにでいいから、一人で2泊3日どこかに籠もって、今後の人生のあり方を考え直すべきだと思っています。
自営業であろうと、サラリーマンであろうと、なんだろうと。

その間、なるべく外部との連絡は絶つ。
考え、モノを書き、湯に入り、本を読み、また考える。

IRISという小さな通訳会社を経営していますが、この会社を興す際の「男の一人合宿」でたまたま訪れたのがここ、古湯坊源泉館でした。

ここに来た時点で、「起業する」ということはもう決めていました。「通訳会社を起業する」ということももう決めていました。でも、その先がまだ決まっていなかった。
どんな通訳会社をやりたいのか。
ただの通訳会社ではいけない。それは、マーケティングというか、経営戦略的にもそうだけど、もっと、自分のアイデンティティー的にそうでした。

サラリーマンを10年やり、結局芽が出なかった。で、これから起業するわけですが、「ただの起業」では意味がないと思っていました。
なぜ、なんのために起業するのか。
そこがまだ腹落ちしていない状態で、この宿の門をくぐりました。

部屋に入り、スケッチブックを広げ、あれこれ書いていく。
三菱商事時代の7年間、どうだったのか。何がダメだったのか。あの頃、あれほど強く渇望した「自由」というのは、具体的にどういうことなのか。
そして転職した先のモルガン・スタンレー証券。3年間猛烈に働いて、そして金融危機が来てあっけなく職を失ったわけだが、その間に考えたことはなんだったのか。

考えが煮詰まると(すぐ煮詰まる)、ここの宿の自慢の冷泉に入りに行く。
とても大きな冷泉があって、その隣(正確には階段をちょっと上がったところ)にあったかい湯があって、そして別の建物の中にもとてもいい湯がある。
それらの湯をハシゴしながら、あれこれ考える。
冷泉は、熱くはないのだが、ほどよくじんわりと暖かい。そして、混浴。常連のおばあちゃん、、、いや失礼、おばさまたちの談義に耳を傾けるでも傾けるでもなく、のんびりといつまでも入っていられる。

冷泉に入っていると、さっきまで硬直していた思考がどんどんほぐれていくのが分かる。そして、「いや、もっとこうすればポジティブにとらえられるじゃないか」とか、「こういう視点もあるじゃないか」みたいなアイデアがどんどん湧き出てくる。実に不思議だ。もっと浸かっていたい気持ちを押さえ、湯を出て部屋に戻り、またひたすらスケッチブックに向かって考え、書いていく。

こうした作業を2泊3日続けた。

結局、決定的な答えが出ないまま、でもなんだか満足して宿を出た。

この宿のいいところの一つは、なかなか不便な場所にある、ということ。東京から見ると、ちょうど富士山の裏側なのだ。そういうこともあり、1泊2日で来るのはもったいなく、自然、2泊3日となる。

宿からの帰りの道中、身延線に揺られ、甲府で特急あずさに乗り換え、新宿に向かっていたそのとき。ふとひらめいた。

(そうだ、IR通訳に特化した通訳会社にすればいいんだ。。。。。)

なんだかもう、空から降りてきたとしかいいようのない発想だった。
僕はいつでもそうだが、言われてみれば当たり前の結論に、ものすごく遠回りしないとたどり着かない。これは一個人として、そして経営者としてすごいデメリットだと思うのだが、でも、すごく遠回りしてたどり着いた結論だけだけに、一度そこに到達すると、あとは120%の自信を持って前に進める、というメリットもある。

IR通訳専門の会社にする。
なんと潔く、かつ、今までひたすらIR通訳に打ち込んで来た自分が興す会社にとって当たり前の結論ではないか。

この発想は、古湯坊源泉館で頭をカラッポにし、あの、なんだか不思議な力のある冷泉に何度も浸かった結果うまれた結論だったと、今でも信じている。


大事な決断を支えてくれる「古湯坊源泉館」_d0237270_17224705.png

あれから7年。
クライアントや通訳者からもある程度大事にしてもらい、そして何よりも、肝心の自分自身が大事に思える会社に育ちつつあります。
会社の戦略・戦術はいくらでも見直すが、「IR通訳専門」という旗は絶対に降ろさない。
いいIR通訳で、日本の資本市場と通訳業界を共により良くしていく。

これからも、大事な決断を下すときは必ずこの宿のお世話になります。

みなさんも、もしよければ一度来てみてください。
ぜひ2泊3日で(笑)!

# by dantanno | 2019-08-02 17:23 | IRIS | Comments(0)

アムステルダムに引っ...

アムステルダムに引っ越したら真っ先にほしいと思ってたのがコレ。


アムステルダムに引っ..._d0237270_21475878.jpg



Cargo bikeとか呼ぶそうです。日本語だと籠バイク、といったところでしょうか。


アムステルダムに引っ..._d0237270_01093268.jpg


(ほぼ)毎日、これで子供の送り迎え。子供たちも楽しそう。自転車屋のおばちゃんが「子供4人まで乗せられる」と言っていました。


アムステルダムに引っ..._d0237270_21481687.jpg



これに乗せるとすぐに寝る(笑)。

アムステルダムに引っ..._d0237270_21472886.jpg


# by dantanno | 2019-07-05 21:44 | オランダ生活 | Comments(0)

大人であれ子供であれ

アムステルダムのカフェ。



ちょっとしたプレイエリアがあったり、


大人であれ子供であれ_d0237270_16074695.jpg




おもちゃとか、

大人であれ子供であれ_d0237270_16081772.jpg




ボードゲームとか、

大人であれ子供であれ_d0237270_16081211.jpg



が置いてあったりすることがある。




子供は喜ぶ。


大人であれ子供であれ_d0237270_16160662.jpg





大人も、おかげで仕事がはかどるのでうれしい。


大人であれ子供であれ_d0237270_16200144.jpg




興味深いのは、こうした一見子供向けの設備・機能が、実は必ずしも子供向けではないのではないか、という気がする点。

大人もどうぞ、的な雰囲気が流れているんです。

「大人ですか? 子供ですか?」といった、そんな分け隔てをあまりしない国なのかな? という気がします。だから、大人だって遊んでいいし、子供だって、ある程度自己責任で「ちゃんとする」ことが求められる。

実際のところどうなのか、今後解明していきたい。



ちなみに犬もウェルカム(笑)。

大人であれ子供であれ_d0237270_16222499.jpg



# by dantanno | 2019-07-01 16:06 | オランダ生活 | Comments(0)

新「国民車」待望論

今から20年以上前のことです。


当時大学生だった僕は、運転が大好きで、いつも親父の車を借りて都内を走り回っていました。

かっ飛ばしたりとか、「いいクルマに乗りたい」だとか、そういうことがしたいわけではなく、親父のカローラであてもなく街を走り回る。それだけで、もう楽しくて楽しくて仕方がありませんでした。




ある日、いつものように都内をブラブラ流していて、ふと、ある疑問が湧きました。




「スピードメーターって、なんで時速180キロまで目盛られているんだろう?」




日本の最高制限速度は、高速道路における「時速100キロ」です。


今でこそ、東名自動車道などの一部の区間で110キロとか120キロとかに最高制限速度が引き上げられていますが、今でも、高速道路のほとんどの区間で、最高制限速度は時速100kmです。そして、僕が大学生だった当時は、すべての高速道路が100㎞制限でした。


つまり、我らが日本において、時速100㎞以上は出してはいけないわけです。それをやったら違法なわけです。それなのに、一体なんでスピードメーターを時速180㎞まで目盛る必要があるのか、疑問を持ちました。




でも、ふと湧いたこの疑問は、湧くのと同じぐらい早く解消しました。


普段から安全運転をし、交通法規を遵守している人であっても、ついつい時速100㎞を超えたスピードが出てしまうことはあります。そんなとき、スピードメーターを確認し、自分が時速100㎞超で走ってしまっていることに気づき、「おっといけない」とスピードを落とす。そういうシチュエーションのためにも、スピードメーターは(最高制限速度である)時速100㎞を上回るところまで目盛られている意味があるんだ、と納得しました。(そう言えば、昔のクルマで、時速100kmを越えて走行すると警告音がキンコンキンコン鳴り続けるものがありましたね。)


はたして最高制限速度の2倍近くの「時速180㎞」まで目盛る必要があるかどうかは置いておいて、とりあえず「スピードメーターが時速100km超まで目盛られていること」については納得しました。




しかし。

この疑問が解消したあとすぐに、次の、より本質的な疑問が湧き起こってきました。




「そもそも、なんでクルマってそんなにスピードが出るように作られてるの?」

という疑問です。




この日本で、出してOKな最高制限速度が時速100㎞なんだとしたら、いったいなぜ、日本を走っているほぼすべての車が、それをかなり大きく上回るスピードで走れるよう、作られているんだろう。


ここで注意が必要なのは、スピードメーターが時速180㎞まで目盛られているからといって、実際に時速180㎞出るとは限らない、ということです。でも、時速150㎞とか、160㎞とか、「ついうっかり」では説明できないような、そんなものすごいスピードが出るようには作られている。そういう無茶なスピードで首都高をかっ飛ばすクルマに遭遇し、恐い思いをしたことは何度もあります。そして、輸入車であれば、時速200㎞を大きく上回る速度で走れるモデルが、日本のあちらこちらを走り回っている。




【言葉の定義】

話を進める前に、ここでちょっと、当ブログ記事におけることばの定義をしておきます。


「最高制限速度」

日本で出してOKな最高速度、つまり、高速道路の多くの区間における「時速100km」を指すことにします。

(実際には、その後高速道路の一部区間で時速110km120kmに引き上げられたし、あと逆に高速道路であっても60kmとか80km制限の箇所もありますが、高速道路はおおむね最高制限速度100kmです。)


ちなみに、最高制限速度は本当に時速100kmでいいのか、(一部区間だけでなく多くの区間で)100km超に引き上げてもいいのではないか、という点については後半で触れます。


「暴走」

制限速度を大きく超過した速度での違法走行。

「暴走」には、

  1. 高速道路での暴走(時速100km超で走行すること)と、
  2. 一般道での暴走(例えば制限速度30kmの道路を時速50kmで走行すること)

の2つがあります。


このブログの前半では、主に高速道路での暴走(つまり、時速100km超での走行)を取り上げます。


「暴走可能車」

高速道路での「暴走」ができてしまうクルマ。最高制限速度である時速100kmを大きく超過して走行できてしまうクルマ。人命を脅かす違法行為が容易に出来てしまうよう製造され、販売されたクルマ。つまり、今日本を走っているほぼ全てのクルマ。




僕が当時感じた疑問を整理・分解すると、大きく3つに分けられます:


1.自動車メーカーに対する疑問

自動車メーカーは、みな口々に「安全・安心」と言っている。各社のウェブサイトを見てみれば一目瞭然です。実際、各社本気で「交通事故を減らしたい、無くしたい」、そう思っているんだと思います。

だとしたらですよ、、、

一体なんで暴走可能車を日々製造・販売し続けているのか。


2.国に対する疑問

国(警察?国土交通省?経済産業省?)は、なんでメーカーのそれを許しているのか。なんでメーカーに対して怒ったり(笑)、指導したり、取り締まったりしないのか。なんで「暴走可能車を作ってはいけません」と言わないのか。なんで「時速100km(あるいはそれをちょっと越える程度)までしかスピードが出ないような、そんな安全なクルマを作りなさい」って言わないのか。


3.我々国民に対する疑問

交通安全は、(当たり前ですが)命にかかわる問題です。毎年多くの人が交通事故で亡くなっていますし、そのうちの一定割合は、自動車の暴走、つまり制限速度を大きく超過した速度での走行による死者です。それなのに、我々国民は、なぜ暴走可能車を製造・販売し続けるメーカーに対して怒らないのか。なぜそれを国が許し続けることを憤らないのか。自分の大切な人を暴走するクルマによって亡くすまで、この問題に気付かないのか。




センスのかけらもない図で恐縮ですが、、、僕が当時感じ、今でも感じている疑問を図解すると、こうなります:



新「国民車」待望論_d0237270_18315789.png




この3つの「なぜ?」という疑問を総称し、以下、「なぜ暴走可能車??」と呼ぶことにします。




新「国民車」待望論_d0237270_18322427.png




「なぜ暴走可能車??」は、多少表現を変えると、

「なぜ暴走可能車が存在するんだろう?」でもあるし、

「なぜ暴走可能車を無くせないんだろう?」でもあります。


そして、「なぜ暴走可能車??」は、図にある通り、自動車メーカーと、国と、そして我々国民の、計3者に向けられています。






<福岡海の中道大橋飲酒運転事故>

みなさんは、「福岡海の中道大橋飲酒運転事故」を覚えているでしょうか。

当時、かなりの話題を呼びました。


Wikipedia 「福岡海の中道大橋飲酒運転事故」



2006年8月25日に福岡市東区の海の中道大橋で、市内在住の会社員の乗用車が、飲酒運転をしていた男(当時22歳)の乗用車に追突され博多湾に転落し、会社員の車に同乗していた幼い子供3人が死亡した、痛ましい事故です。


僕が、車による「暴走」、そして暴走可能車という問題に強く興味を持ち、「なぜ暴走可能車??」というテーマについて真剣に考えるようになったきっかけが、この事故でした。それまでは漠然と(なんで暴走可能車が許されるんだろうなぁ)と不思議に思っていただけでしたが、この事故を契機に疑問が深まり、そして憤りにつながりました。


この事故で、世の批判の矛先は「飲酒運転」に向かいました。そしてその結果、飲酒運転に対する罰則が強化されるという、エポックメーキングな事故(事件)となりました。


しかし僕の関心は、「飲酒」よりも「暴走」、つまり制限速度を大幅に超過した速度での走行、そちらに向きました。事故当時、犯人の男性は、一般道にもかかわらず時速100kmというすごいスピードを出していました。


こうした事故について、たら・ればの話をしてもしょうがありませんが、もし加害者である運転手が酒に酔っていなければ、おそらく避けられたであろう事故でしょう。そしてまた、もしその運転手が暴走していなければ、、、つまり、法定速度内で走行していれば、シラフであった場合と同じく、防げたかもしれない事故です。つまり、あの痛ましい事故が起きてしまった背景には、「飲酒」と「暴走」、2つの原因があると思うんです。そして、「飲酒」の方を問題にするのであれば、「暴走」についても問題にすべきだと思うんです。


この痛ましい事故が起きた場所は、(高速道ではなく)一般道です。だから、僕がここまで論じてきた「高速道路における暴走(時速100km超での走行)」と直接は関係無い。でも、「法定制限速度を大幅に超過した速度での走行中に起きた事故」という意味ではダイレクトに関係があります。




<暴走可能車を無くすための方策>

「なぜ暴走可能車??」を考えるに際し、まずは、どうすれば暴走可能車を無くせるか、を考えてみます。暴走可能車を無くそうと思った場合、どういった方策が考えられるか。




一般道において、全てのドライバーに制限速度を遵守させるのはなかなか難しい。例えば制限速度30㎞の一般道を、時速50㎞で走らないようにさせるのは、なかなかハードルが高い。


でも、高速道路ではどうか?


高速道路において、(最高制限速度である)時速100㎞を超えて走らないようにするのは、比較的容易に出来るのではないか、と昔から思うんです。なぜそれをしないんだろう、なぜ出来ないんだろう、と、20年以上にわたり、ずっと考えてきました。


暴走可能車の問題は、一般道においてはともかく、少なくとも高速道路においては、そのうち、きっと解決するだろう、と思って来ました。こんなに大事な問題なんだから、きっと自動車メーカーやJH(道路公団)や国がそのうちなんとかするんだろう、と思っていましたが、驚くべきことに、20年以上経過しても、まったく手つかずのままです(苦笑)。




<高速道路での暴走を防ぐ方法>

では、高速道路における、最高制限速度である時速100kmを越えた速度での走行(つまり暴走)を防ぐには、一体どういった方策が考えられるでしょうか?


運用面(ソフト面)からのアプローチと、ハード面からのアプローチ、両方ありうると思います。


  1. 運用面(ソフト面):  「暴走したい」というインセンティブを無くす
  2. ハード面:      「暴走したい」と仮に思っても、暴走出来なくする




<暴走可能車を防ぐための方策: ①運用面(ソフト面)>

すぐに思い付くのは、ETCを用いた取り締まり

ETCのシステムは、そのクルマがいつ、どこのインターを乗り降りしたか、のデータを記録・蓄積しています。また、いつ、どの料金所を通過したか、についてもデータがあります。道路公団(JH)は、そのデータに基づいて、距離別の料金を算出したり、時間帯割引などを行っています。


あるクルマが、地点Aから高速道路に乗り、100km離れた地点Bで高速を降りたとします。

高速に乗った時刻と降りた時刻がシステムに記録されます。

仮に午前9時に高速に乗り、930に高速を降りたとなると、、、そう、速度が速すぎる、ということになります。地点Aから100kmも離れた地点Bにたった30分でたどり着くためには、平均時速200kmで走行しないといけないわけで、「暴走」をしたことが自動的に分かります。


上記例は、乗降箇所(2箇所)のETCセンサーだけを使った例ですが、ETCのセンサーは、インターや料金所はもちろん、高速道路の至る所に設置出来ます。そうすることにより、よりきめ細かな(?)平均速度計測が可能になります。


実際、こうした「平均速度を算出することによる速度違反取り締まり」は、イギリスなど、複数の先進国で既に実現しています。でも、我らが日本ではまだ実現していません。これをやれば、覆面パトカーによる(ある意味命がけの)取り締まりも、明日から不要になります。


なんでETCを使った速度取り締まりをしないんですかね(笑)?本当に謎です。分かりません。


それに向けた大事な第一歩は、高速道路での現金使用を不可にし、ETCの利用を必須とすることです。そうしないと、平均速度に基づく取り締まりは、ETCを使うドライバー(つまり、ほとんどのドライバー)にとって不利になってしまいますから。なぜJHは未だに現金での高速利用を許しているんでしょう。それを無くせば、ETCによる速度取り締まりが可能になるだけでなく、今はみんながそれを余儀なくされている、料金所通過後の「ETCレーン利用車」と「現金レーン利用車」間の合流(これ、結構危ない)も不要になり、高速道路の安全性・快適性がさらに高まると思います。JHのみなさん、ぜひご検討いただけないでしょうか。




<暴走可能車を防ぐための方策: ②ハード面>

高速道路での暴走を防ぐ方策について、まずは運用面(ソフト面)から考えました。ETCを使えばすぐです。

では次に、ハード面について考えます。これは要するに「クルマそのものについて」の話になります。




クルマは、最高制限速度を大幅に超過した速度で走行できるように作られているわけですが(=暴走可能車)、そもそもそれはなぜか。例えばですけど、自動車メーカーが、時速100kmしか出ないようにクルマを作れば、高速道路での暴走はゼロになり、時速100km超での暴走による死者もゼロになります。なぜそれをしないのか、あるいは、なぜそれが出来ないのか。


国と、そして我々国民がなぜ自動車メーカーによる暴走可能車の製造・販売を許すのか、というのも疑問+憤りの対象なんですが、一番の大元は、そう、自動車メーカーです。そもそも自動車メーカーが暴走可能車を作るのをやめて、最高制限速度(例えば時速100km)までしか出ないようなクルマを作りさえすれば、僕の「なぜ暴走可能車??」は全て、連鎖的に解決するわけです。




言葉の定義

「適正速度車」

最高制限速度(例えば時速100km)までしか出ないように作られたクルマ。暴走可能車の対義語。日本には、絶滅危惧種並みに、ほとんど存在しない。




「自動車メーカーは、なぜ暴走可能車ではなく適正速度車を製造・販売しないのか」という疑問について、いくつかのアプローチで考え、調べてみました:


  1. 自分(僕)の頭で考える
  2. ネットで検索して調べる
  3. 自動車メーカーの人に聞いてみる




<自分の頭で考えた結果、浮かび上がった理由>

まずは自分の頭で考えてみました。いくつかの理由が思い浮かびます。


・(適正速度車を作るのは、暴走可能車を作るのと比べ)技術的に難しいから

・コストがかかるから(今のクルマに、例えばリミッターなど、出せる速度を抑える機能を新たに取り付けるとなると、追加コストがかかる)

・将来、そのクルマが日本から海外に輸出される可能性があるから(例えば日本からドイツに引っ越す人がいて、時速100kmしか出ない適正速度車をドイツに持って行こうと思った場合、(速度無制限の)アウトバーンを時速100kmで走らないといけなくなり、かわいそうだから)

・日本の最高制限速度が将来引き上げられる可能性を想定しているから

・暴走が出来ないように作られたクルマは(消費者からの支持が得られず)売れないから

・"Fun to drive"が大事だから


とりあえず思い浮かんだのはこれぐらいです。




<ネットで検索して見つかった理由(上記以外)>

次に、ネットで検索して調べてみました。自分の頭で考えて思い付いた上記理由以外だと、例えば以下のようなものがありました:


時速100kmしか出ないと、時速100kmで走行しているクルマを追い越せないから。

(いや、、、だから、、、最高制限速度は100kmなので、それを超えた速度は出してはいけないんですけど。。。)

・日本の高速道路上で、一番傾斜がキツい坂道を登る際にちょうど時速100km程度で走行できるよう、ある程度の余裕を持って作られているから。

(・・・・・。)




<自動車メーカーの人に聞いてみた結果、得られた理由>

自動車メーカーは、みな口々に「安全、安心、セーフティ」と言っている。でも、その一方で暴走可能車を日々量産し続けている。これって、ある意味矛盾してますよね。なので、一社ぐらい、なぜそういう矛盾した状態になっているのか、についての説明書きをウェブサイトに載せていたりはしないか、と思ってあちこち探してみましたが、見つかりませんでした。まあそりゃそうか(笑)。


お客様相談センターに電話をして、「なぜ暴走可能車を製造・販売するんですか」と聞いてみようと、何度も何度も思いましたが、そんなことを言っても、ただのクレーマーとしてあしらわれるに決まっています。「貴重なご意見、ありがたく承りました」と言われてかわされるのがオチです。結局、勇気が無くて電話出来ていません。


そこで思い付いたのが、僕の仕事であるIR通訳の出張で自動車メーカーの方々とご一緒した際に、思い切って聞いてみる、という手段。で、実際にそれをやってみました、ロンドンで。

で、その結果得られた回答が、

「それは考えたこと無かったなぁ(笑)。おもしろい視点だなぁ。」

でした。




僕が自分の頭で考えたり、ネットで検索したり、自動車メーカーの人に聞いてみたりして集めた「理由」は以上です。これ以外にも、なぜ暴走可能車を製造・販売するのか、という問いに対する「理由」はあるかもしれません。




<「理由」になっているか>

一瞬話がそれますが、以下のシーンを想像してみてください:


ママ 「太郎ちゃん、おもちゃ投げちゃダメでしょ! なんで投げるの?」

太郎 「投げたいから」




「なぜ○○?」という、理由を問う問いに対し、「□□だから」という回答があったとき。

その回答は、確かに文法的には間違っていません。そして、「なぜ~?」という質問形式に対し、ちゃんと「~だから」という、正しい形式で回答しています。

文法的に間違っておらず、形式も正しいわけですが、では質問者はそれで納得していいのでしょうか。上記例で言えば、ママは「なるほど、投げたいから投げるのね、よく分かったわ」と引き下がっていいのでしょうか。


よくないですよね。

なんでよくないのか。

太郎の回答が「理由になっていないから」です。もっと言うと、「もっともな理由になっていないから」、だから引き下がってはいけないんです。ママは「そんなの理由になってないでしょ!」と言わなくてはいけないわけです。


英語では、「もっともな理由」は”Good reason”と言います。そして、「そんなの理由になっていない!」は”Thats not a good reason!”と言います。




これが、どうでもいい問題であれば、別に「理由になっていない」からといって、目くじらを立てなくたっていいわけです。

「あなたはなぜそんなにナポリタンが好きなのか?」「昔から好きだから(笑)」は、別にいいわけです、流しても。回答がもっともな理由になってなくてもいいんです。どうでもいいから。重要性が低いから。


でも、交通安全に関する問題は、それでは許されないと思うんです。




「なぜ暴走可能車を製造・販売するのか、なぜ安全なクルマを作れないのか?」という質問をし、何らかの回答が返って来たとします。その回答がはたして「理由になっているかどうか」を判定する一つのいい試金石は、暴走するクルマによって大切な人を亡くした遺族に対し、その「理由」を堂々と回答できるかどうか、ではないでしょうか。


遺族の「なぜ暴走可能車を製造・販売するんですか!」という悲痛な問いに対し、


「暴走が出来ないように作られたクルマは売れないから」

とか、

「時速100kmしか出ないと、時速100kmで走行しているクルマを追い越せないから」

とか、ましてや

「日本の高速道路上で、一番傾斜がキツい坂道をちょうど時速100km程度で走行できるよう、ある程度の余裕を持って作られているから」

とか、挙げ句の果てには、

「それは考えたこと無かったなぁ(笑)。おもしろい視点だなぁ。」

って言えますか?という話です。


「理由になっていない理由」を掲げるのもいけないし、「理由になっていない理由」を聞かされて納得してしまう(あるいは、納得しないまでも、あっさりと引き下がってしまう)のもいけません。




僕の知る限り、

  1. 自動車メーカーが暴走可能車を日々製造・販売し続けること、
  2. 国がそれ(上記1.)を許すこと
  3. 我々国民がそれ(上記1.と2.)を許すこと

に、「もっともな理由(Good reason)」なんてありません。

「理由」はあっても、「もっともな理由」は、きっと無いんだと思います。

だとしたら、この問題はなんとかしないといけないし、そして、なんとか出来るんだと思います。だって、出来ない「もっともな」理由が無いんだから。


技術的に難しい? 難しいのかもしれませんが、日本の自動車メーカーが克服出来ないわけがないでしょう。

コストがかかる? かかるのかもしれませんが、一方で人命もかかっています、この問題には。

"Fun to drive"が大事? →確かに大事ですが、Fun to driveって「違法な速度で暴走」しないと味わえないことではないですよね。適正速度車で味わえないのであれば、それはFun to driveなどではない。

将来、最高制限速度が引き上げられるかもしれない? だったら、今引き上げの是非の議論をして、引き上げるなら引き上げて、その「新」最高制限速度しか出ない、あるいはそれ+10kmしか出ないような「適正速度車」を作りませんか。




<「悪いのは(暴走が出来てしまう)クルマではなく、暴走をする人間だ」>

銃社会アメリカで、銃愛好家によってよく使われる、「悪いのは道具(銃)ではなく、その道具を使う人である」という、一見もっともな理屈があります。

銃だと話が少しややこしくなるかもしれないので、ここでは「はさみ」を使って考えてみます。


はさみを凶器とした事件が起きた場合、世の批判の矛先は、はさみメーカーには向かいません。それは、はさみが便利な道具であり、通常の使い方をしている分には誰にも危害を加えないからです。「悪いのは道具(はさみ)ではなく、それを凶器として使った人間」という理屈の通りです。


この理屈は、一見(はさみ同様、便利な道具である)クルマにもあてはまりそうな気がします。

でも、大きく異なるのは、はさみの場合、はさみメーカーはそれを製造・販売することは出来ても、販売後のはさみの利用方法まではメーカーがコントロール出来ない、という点です。はさみが安全な方法でのみ使用され、危険な方法(凶器として、等)では使えないようにすることは、はさみメーカーは出来ません。


でも、クルマの場合は(ある程度は)それが出来ます。暴走可能車ではなく、時速100km以内でしか走行できない「適正速度車」を作ることにより、時速100km超での「使用」を完全に防ぐことが出来るわけです。でも、メーカーはそれをしていない。この点こそが、クルマがはさみ等、他の道具と大きく異なる点です。




産婦人科の、生まれたての赤ちゃんが大勢寝ている新生児室をイメージしてください。その中央に喫煙スペースを設けたとします。灰皿はもちろん、ご丁寧に、タバコの自販機と、ライターもいくつか置いたとしましょう。新生児室の真ん中に、です。


そこで、誰かがタバコを吸いました。赤ちゃんたちがゲホゲホ苦しそうにしています。「そんなところでタバコを吸うなんてけしからん!」と誰もが思うでしょうが、それ以上に「っていうか、そんなところに喫煙スペースを設けるなんてけしからん!!」という話になりますよね、きっと。


でも、銃とかクルマの場合はなかなかそうならない。問われるのはあくまでも利用者のモラルであって、メーカーや国のモラルは問われない。これはおかしいと思うんです。




<実は「なんとなく」>

「なぜ暴走可能車??」という問いに対し、恐らく、「もっともな理由」は無い。つまり、実は「なんとなく」だと思うんです。


なぜ自動車メーカーは(適正速度車ではなく)暴走可能車を作るのか?  なんとなく

なぜ国はそれを許すのか?  なんとなく

なぜ我々国民は自動車メーカーや国に対して怒らないのか?  なんとなく


言うまでも無いことですが、暴走可能車は「なんとなく」製造・販売していいものではない。そして、国や我々国民も、それを「なんとなく」許してはいけない種類のものです。




<速度制限に対する不信感>

ほぼすべてのクルマが(最高制限速度である)時速100kmを越えた速度で走行できるよう、製造されている。そして、高速道路を走ってみれば一目瞭然ですが、実際、多くのドライバーが(クルマの性能を活かし(?))時速100km超で暴走、すなわち違法走行している。これは、考えようによっては異常な事態です。

自動車メーカーは、かたや「安全」とか「セーフティ」というスローガンをとなえながら、一方でこのような暴走可能車を日々量産し続けている。これも異常事態。

警察はどうか。制限速度100kmの箇所でも、110kmとか、120kmとかまでであったらお目こぼししてくれる、というのがなんとなく世の常識としてあります。本当にそうなのかどうかは分かりませんが。これも、考えてみるとヘンな(異常な)話ですよね。厳密に言うと、最高制限速度は時速100kmなのだとしたら、それを少しでも越えたら違法だし、それを捕まえるのが警察の役割、ということになります。それを1割増し、2割増しで走行しても捕まらないのだとしたら、これも異常事態だと言える。




なぜこのような異常事態がいたるところで発生しているのか。

その「根」は何か。

なぜ暴走可能車のような人命に関わる大事な問題が「なんとなく」放置・許容されているのか。


僕は、その根底には、速度制限というものに対する不信感があるのではないか、と思っています。




「昨日、ちかんしちゃってさ(笑)」

と言えば、周囲の人たちはギョッとするでしょう。その人は社会からつまはじきにされるでしょう。

でも、「昨日、高速道路を時速110kmで走っちゃってさ(笑)」と言えば、「だからどうしたの?」とか、「別にいいんじゃん?」とか、「ハハハ、気を付けろよ(笑)」といったライトな反応が返ってきそうです。飲酒運転を許すと飲酒運転幇助の罪に問われるのに、暴走を許してもおとがめ無しです。


クルマを運転する人であれば、その多くが、暴走をした経験があるでしょう、きっと。高速道路を時速110kmで走ったり、制限速度30kmの道を時速40kmで走ったことがあるでしょう。あなたも、僕も、きっと暴走経験者。


では、暴走という違法行為をしたことのあるあなたが、果たして悪い人かどうか。異常な人かどうか。

いえ、あなたはきっとマトモな人で、人命は大事だと思っているし、(その人命に直接関わる)交通ルールは、(基本的には)ちゃんと守るべきものだと思っていることでしょう。

そんなマトモなあなたが、なぜ「暴走」という違法行為を、それほど罪悪感を感じずにやってのけてしまうのか?それはやはり、速度規制に対する不信感があるから。




<ルールに対する不信感>

とてもマトモで、基本的にはルールをちゃんと守る人がいるとします。日本人の多くはそういう人たちでしょう。そんなマトモな人でも、ルールを守らないときがある。

ついうっかり、というケースはこの際除きましょう。ついうっかりではなく、マトモな人が「意図的に」ルールを破るのはどういうときか。それは、その人がそのルールを「おかしい」と思っているときです。ルールに対する不信感があるときです。


飛行機の機内で、「スマホはずっと機内モードにしておいてください、Bluetoothもダメです」は、ほとんどの人に守られていないルールでしょう。実際に飛行機の運航に支障をきたし、危険なのかもしれませんが、だとしたら、その情報は正しく乗客に伝わっていない。多くの人はこのルールを「信じ」ておらず、それに対し不信感を持っている。だから、別に悪い人でもないのに、ルールを破る。


速度制限というものに対しても、強い不信感があると思います。

そして、恐ろしいことに、その不信感は、それを取り締まる当の警察サイドも持っていると思います。だから、多少制限速度をオーバーしたぐらいでは取り締まらず、お目こぼしをしているわけです。自分たちも制限速度がおかしいと思っているから。


あくまでも僕の個人的なイメージですが、日本の制限速度って、


公安委員会(?)だかなんだかの、エライおじいちゃんたちが、

霞ヶ関?永田町?あたりの密室で、

「とにかく安全に。とにかく自分たちの責任を問われないように」ということで、

超低めに設定したもの、


というイメージです。


そして、その速度制限が「ずっと、何十年もの間見直されていない」というのも、不信感にさらに拍車をかける。その何十年もの間、道路事情やクルマの性能は何割も向上しているのに、速度制限はそれに追いついてきていない。時代に合っていない。実態に合っていない。




<現在の速度制限の問題点>

大きく2つあります:


・結果の問題

コンサバすぎる(低すぎる) 

時代に合っていない。実態に合っていない。


・決まり方(決められ方)の問題

民意、ユーザーの意見が反映されていない


だからみんな守らないし、警察もお目こぼしすることになる。


速度制限というのは確かに難しい問題です。

低くすればいい、というものでもありません。非常に低くすれば、その分安全になり、事故・事故死者は減るでしょうが、経済活動に支障が出ます。

一方、高くすれば、その分危険度が高まります。


自動車をよく運転する人もいるし、まったくのペーパードライバーの人もいます。

生まれつきスピードを出すのが好きな人もいるし、一方でとても慎重でゆっくり運転したい人もいます。


難しい問題だし、正解はありませんが、いずれにせよ、もっと納得感のある速度規制を導入する必要があります。




どんな速度制限の仕組みを導入しても、世のほとんどの人はそれに対し多少なりとも不満を持つことになります。

  • 高速道路のこの地点では時速○○○km
  • 高速道路の別の地点では時速○○km
  • 一般道のこの地点では時速○○km
  • 一般道の別の地点では時速○○km

と、無数に決めて行く必要があるわけですが、その全てに完全に納得する人はいないでしょう。そして、全く同じ人物であっても、自分がドライバーのとき VS 歩行者のときでは意見が違うでしょうし、急いでいるとき VS 休日にのんびりしているとき、とではまた意見が違うでしょう。




<納得感の持たせ方>

誰しもが必ずある程度の不満を持つことは避けられませんが、やはり、より多くの人がその結果に納得し、その結果をすすんで受け入れるよう、納得感のある決め方をしないといけません。


エライおじいちゃんたちではなく、「フツーの人たち」が議論して決めるのもいいでしょう。

国民投票で決める?のもいいかもしれません。


答えは無いし、なかなか難しい問題ですが、少なくとも今の決め方よりもいい決め方はあるでしょう、きっと。(ちなみに、密室でおじいちゃんたちが決めている、というのも、僕の単なる思い込みにすぎません。実際には何か別の方法で決まっているのかもしれませんが、それが「分からない」、我々国民に「知らされていない」ということもまた問題です。)



<結論>

  1. 納得感のある速度規制にした上で、
  2. 日本で製造・販売されるクルマは、基本、適正速度車にする(緊急走行をする車両を除いては)。「新」最高制限速度が時速130kmなんだとしたら、時速130kmまでしか出ないようなクルマを作る。


ちなみに、今後、自動運転車が普及していくという流れを考えると、「適正速度車」という考え方はさらに重要性を増すと思います。時速200kmまで出せるように作られている自動運転車は、何かシステムの異常があったときを考えると、ちょっと恐い。


上記2.に強硬に反対する人もいるでしょう。「適正速度車なんてとんでもない!」と。でも、よく考えてみると、納得感のある速度規制を決めた上で、それを遵守するクルマを作ろう、と実にマトモなことを言っているわけで、それに強硬に反対するということはいったいどういうことか、という話になる(日本が、国の重要な戦略として少子高齢化への対策を取り、待機児童を減らす、と言っているのに、自分の家の近くでの保育園建設に反対する高齢者と似ている)。




<やりきれなさ(笑)>

さて、前のセクションで、

  1. 納得感のある速度規制にした上で
  2. 日本で製造・販売されるクルマを適正速度車にする、

という案を提示しました。


1.も2.も、どちらも非常にチャレンジングであることは承知の上です。でも、これを実現すれば暴走するクルマによる事故は減る(っていうか、無くなる?)。


しかし、ある種のやりきれなさは残ります。

それは、「一般道はどうするか」という問題が残るからです。




例えば、納得感のある速度規制はどれくらいか、という点について国民的な議論をした結果、高速道路の一部区間では時速130km、その他の区間では時速115km、そして危険な箇所については時速80km等、フレキシブルに設定しよう、とりあえず5年間はそれで行ってみて、また考えよう、ということになったとします。

そして、その上で、日本のクルマ全てが、日本の新しい最高制限速度である時速130kmまでしか出ない「適正速度車」に置き換わったとします。

これにより、高速道路での「暴走」は無くせる。時速130km超で走れるクルマが無くなるから。




でも、一般道での「暴走」の問題はまだ残る。


制限速度30kmの一般道を時速50kmで走ったり、制限速度50kmの一般道を時速100kmで走ってしまう、そういった一般道での暴走については、上記2つの施策はまったく効果が無い。




ーーー




そんなやりきれなさを感じながら、ある日僕は博多をドライブしていました。

家族と福岡旅行に来て、その2日目に、博多のベイエリア(って言うんですかね。港の周辺です)をクルマで走っていました。


話が出来すぎだ、と感じる読者もいるかもしれませんが、以下、本当の話です。


博多のベイエリアを走っていて、(ああ、ちょうどこの辺って、例のあの事故があったあたりかなぁ・・・)などとぼんやり考えていたその時。

レンタカーのナビが、

「速度超過を検知しました。安全運転を心がけてください」

と言ってきたのです。




いろんな意味でドキッとしました。


正確な数字は覚えていませんが、例えばその道が制限速度50kmの道だったとして、それを少し上回るスピードで運転していたんでしょう。


ナビは、僕が今どこを、どれぐらいの速度で運転しているか、が当然分かっていて、なおかつ、そのクルマについていたナビにはその道の制限速度(時速50km)の情報も入っているんでしょう。だから、「このクルマは今速度超過である」ことが自動的にわかり、速度を落とすよう、ドライバーである僕に警告してくれたんでしょう。




速度を下げながら、僕は、「あれ?あれれれ???」と思い始めていました。


賢明な読者のみなさんは既にお気づきかと思いますが、、、、、、

そうです、これを使えば一般道での暴走を無くせるじゃないですか!!


僕の、この博多でのドライブのケースでは、単に「警告」で済みましたが、

この情報を警察につなげ、ただの警告ではなく「違反」として摘発?・検挙?すればいい。



ーーー




高速道路においては、まずETCを使った速度取り締まりを導入することによって、すぐに暴走をほぼゼロに出来る。

そして、更なる安全向上策として、

  1. 納得感のある速度規制を導入した上で、
  2. クルマを「適正速度車」に置き換える、という案を考えてきました。


(もっとも、ETCによる速度取り締まりを導入した時点で、高速道路での暴走の問題はほぼすべて解決するわけで、適正速度車にする必要なんて無いんですけどね。でもJHの腰が重いうちは、このように他の方法を考えるしかない)




でも、これはあくまでも高速道路での話であって、一般道については何の効果も無い。

(まあ、一般道にも至るところにETCのセンサーを設置して、各区間の平均速度を計測すればいい話ですけどね。はあ、なんでやらないんだろ。。)


そんなやりきれなさを感じていたわけですが、どうでしょう、ナビ情報を使えば、あらゆるクルマがいまどこで速度違反をしているか、がすべて分かってしまい、自動的に捕まえることが出来るではありませんか。


「適正速度車」みたいにクルマをあれこれいじる必要なんて最初から無くて、ETCを使う必要も無くて(だから当然道路公団(JH)の協力も不要)、要はナビを使えば全ての速度違反を一気に取り締まれてしまう。

(ちなみに罰金の精算にはETCが便利ですね。)




これは、考えてみればあまりにも当たり前の話で、この問題についてずっと考え続けて来たのにもかかわらず、この方策を思い付かなかったことは実に恥ずかしいわけですが、すばらしく、かつ当然の解決策です。


で、なんで警察はこれをやらないんでしょうね。

これは結構恐ろしい話ですが、僕が思うに、警察は、本気で速度違反を取り締まろう、などとは思っていないと思います。だって、もし本気で思っていたら、少なくとも高速道路についてはすぐに(ETCを使って)出来てしまうし、一般道でも、ナビの位置情報システムを使えば速度違反を(ほぼ)ゼロに出来る。でもそれをやっていない、ということは、もしかしたらそもそもやる気が無いのかもしれません。警察が「交通安全」と言っているのを耳にするたびに、僕はなんだか白々しい気持ちになります。


これは自動車メーカーについても言えます。

本当に交通事故死者数をゼロにしたい?だとしたら、(他社がどうしようが)自社は適正速度車を作ればいいいではないか。国やJHに対し、ETCやナビを使った速度コントロールについて、公開提言書を出せばいいではないか。本気で思っているのに、なぜそれをしないのか。




<終わりに: 新「国民車」待望論>

国民車、ということばがあります。

国が主導し、世の多くの人たち(大衆)のために開発されるクルマ、といった意味です。


Wikipedia 「国民車」


トヨタのサイト 「国民車構想」


日本でも国民車構想はありました。

上記トヨタのサイトによれば、当時国(通産省)が出した指示は「最高時速100km以上」だったそうです。いや、、、だから、、、時速100kmはいいけど、それを越えるのは違法なんですが。。。そもそも国がこういうことを言っているから根深いですね。




国民車(A peoples car): 値段が安くて、実用的な、国産の(小型)自動車


といった定義のようですが、僕はそこに、「安全な」とか「法に則った」という文言も入れたい。




今からでも遅くはありません。かなり遅いですが、遅すぎる、ということはありません。

国民が納得感を持って守れるような、新たな速度規制に切り換えて、

その「新」速度規制を大きく超過して走行できないような「適正速度車」を、新たな国民車として導入してはどうか。

いや、それは難しすぎる、というのであれば、せめて、今すぐにでも始められる、高速道路でのETCを使った速度取り締まり。そして、その次のステップとして、ナビ情報と連動した、一般道での速度取り締まり。


来年の東京オリンピックはとてもいい機会です。

日本を訪れる多くの外国人が、速度違反の(ほとんど)無い日本を目にしたら、とても驚くでしょう。

日本が世界に対し範を示すすばらしい機会です。


国民のための

国民の安全を守る

国民に愛される

国民が誇りに思える


そんな、安全な「新」国民車を、ハードの面から、あるいはソフト(運用)の面から、創れたらどんなにすばらしいか、と思います。

そんなクルマをモデル・ラインアップに加える自動車メーカーが、たったの1社でもいたらとてもかっこいいし、国や警察がETC・ナビ情報を使った速度コントロールに乗り出してくれれば、それこそが真の正義の味方だと思います。国民の「安心・安全」を守ることに本気なのであれば、ぜひご一考を!!


(完)


# by dantanno | 2019-06-24 18:46 | 提言・発明 | Comments(0)

家族でアムステルダムにお引っ越し

先月、オランダに引っ越しました。

家族でアムステルダムにお引っ越し_d0237270_17284722.jpg



奥さんと、3人の子供(5歳、3歳、0歳)と一緒に。

家族でアムステルダムにお引っ越し_d0237270_17451416.jpg




これからは、オランダでの生活についても書いていきます。


家族でアムステルダムにお引っ越し_d0237270_17445804.jpg

# by dantanno | 2019-06-18 17:46 | プライベート | Comments(0)

パンツ

自分のパンツだと思って、出張に持って来たら、、、

パンツ_d0237270_02411576.jpg

なんと、、

パンツ_d0237270_02415136.jpg

娘のズボン。

# by dantanno | 2019-06-03 02:40 | プライベート | Comments(0)

GW中のAmazon

連休中、いろいろとモノを買う必要があり、ネットを物色。

日本の小売業界がAmazonの1強にならないよう、普段モノを買うとき、なるべくAmazonだけでなく、他の(日本の)ネット通販会社もバランスよく活用するという、涙ぐましくも不毛な努力を一消費者として続けています。

今回も、まずはAmazon以外であれこれモノを物色。
そして、「よし、これにしよう!」と思うものを見つけ、注文画面に進み、「納期」を確認すると、、、

「ま、GW明けにでもゆっくり考えますわ」

的な、実にのんびりしたことを言っている。(正確には、「注文の受付はゴールデンウィーク明けになります。出荷はそのさらに後になります。お手元にいつ届くかは未定です」みたいなことを言っている。)

一方、Amazonで同じモノを検索すると、「明日届けます」と息巻いている。



ーーー



大きく勝つ者は、他の者たちがみないっせいにある方向を見て、同じことを考えているときに、それとは別の方向を見、別のことを考え、そして地道な努力を続けている。


GW中のAmazon_d0237270_06001392.jpeg

AmazonがGW中も翌日配送をしている間、日本の業者の人たちはどこで何をやっているのか?
彼ら・彼女らは、東名高速の50キロの渋滞の中にいる。人でごった返す観光地にいる。満室で、もう予約が取れない宿泊施設にいる(あるいは、そこの予約を取ろうとPCの前で頑張っている)。

その間、我が家にはAmazonのダンボール箱が続々と積み上がる。



なんだか、いろんなことを考え直すべき時期に来ているような気もします。

# by dantanno | 2019-04-29 06:00 | Comments(0)

ことばをすっ飛ばしたB2B(Brain-to-brain)コミュニケーション

恐れていたことが、実現しつつある。。。


 


脳波から、その人が「言いたいこと」を読み取り、それをことばにして発する技術。



脳などの損傷により、意識があるにもかかわらず思っていることを口に出して話せない、という症状・状況に悩んでいる人にとってはすごい朗報だろうし、ぜひ実現してほしい技術。

でも、我々通訳者にとっては大問題(笑)。



ーーー



通訳者にとって、自動通訳・機械通訳は大きな脅威になりつつある。

日本の通訳者の中には、こう思っている人もいるかもしれない:

「自動通訳技術の進歩は、確かに気になる。でも、最初にその影響を受けるのは、英語・フランス語間とか、似通った言語間の通訳だろう。
一方、日本語・英語のように文法などが大きく異なる言語間の自動通訳はなかなか難しい(現に、まだ実現していない)。
だから、未来永劫ずっと大丈夫とは言わないが、当面の間は日・英の通訳は大丈夫なのではないか。」

僕もこう思っている。確かに日・英間の、しかも一定のクオリティを保った上での自動通訳はハードルが高いんだろうと思う。



しかし、日本語・英語のように大きく異なる言語間の通訳については、ことばを介した自動通訳よりも先に、そもそもことばをすっ飛ばした自動通訳になるだろう、と思っている。
そうなると、「ことばを使わない」ので、自動通訳がどうとか以前に、そもそも「通訳」が不要ということになる。



ーーー



ことばを介したコミュニケーションはロスが大きすぎる。
話し手は自分の思いをことばにし、聴き手はそのことばを手がかりに話し手の思いを探りに行くわけだが、思い→ことば→思いの変換プロセスにおけるロスが大きすぎて、聴き手の心に届く「思い」は、当初の、つまり話し手の心の中の「思い」とは大きく異なることが多い。



ことばをすっ飛ばしたB2B(Brain-to-brain)コミュニケーション_d0237270_05140434.png


ことばなんて必要悪。
出来ることなら、ことばを使わずに、思っていることをそのまま相手に伝えられればベスト。




ことばをすっ飛ばしたB2B(Brain-to-brain)コミュニケーション_d0237270_05141510.jpeg



例えで言うと、
「寒いなぁ、暖を取りたいなぁ」
と思ったときに、


1. 地中に埋まっている石油を掘り出して、それを燃やして電力を作り、その電力を送電し、届いた電力を使って電気ヒーターで暖をとるのと、
2. 石油を燃やして暖をとるのと、
どっちが効率的なのか、みたいな話。


「石油/電気」の場合、もしかしたら意外と1.の方が効率的なのかもしれないが(笑)、「思い/ことば」の場合、ことばを介さなくていい方が間違い無く効率的。

だって、
1. 話し手が、その思いをことばに変換する際に正確性がかなり失われるし、
2. (異言語間の会話であれば)通訳者が話し手の発言を訳す際にロスが生じるし、
3. 聴き手はえてして話をちゃんと聞いていないし、
4. 聴き手は、聞いた話を(きっとこういう意味だろう・・・)と解釈するが、その解釈はえてして不正確


子供の「伝言ゲーム」のように、出発点である「話し手の思い」は、聴き手の脳に届くまでにはかなり大きく曲解・損傷されてしまっている。そしてそれが各種誤解や摩擦を生んでいる。

これは、同一言語間のコミュニケーションのときもそう。そして、通訳を介する異言語間のコミュニケーションの場合は、そのロスはさらに大きく増幅される。(上手な通訳者はそのロスを最小限にとどめることが出来る)。



ことばを介したコミュニケーションに対し、話し手の思いをそのまま(電気信号、という形で)聴き手の脳に届けられたら?Brain to brainでコミュニケーション出来ちゃったら?

「思い→電気信号」の変換がどの程度正確に出来るのか次第だが、もしそれがある程度正確に出来るのであれば、「ことばをすっ飛ばしたコミュニケーション」は、複数段階のロスが発生する「ことばおよび通訳を介したコミュニケーション」よりもはるかにすばらしい。

そしてこれは、通訳を使わない、つまり同じ国の人同士のコミュニケーションも大幅に改善させる力を持っている。



ーーー



上記記事の事例は、話し手の「思い→言葉」の部分のコンバージョンを機械が代わりに出来るようになります、という話。だから、僕が恐れている「ことばをすっ飛ばしたコミュニケーション」そのものではないが、それへの第一歩。

次の一歩は、「思い→思い」という感じで、話し手の思いをそのまま「思い」として聴き手の脳(耳ではなく)に伝える、というステップに行く。そうなると、ことばが不要になり、通訳が不要になる。



ーーー



もし我々の子供が、親である我々を見て
「パパ、わたしも通訳者になりたい」
なーんてうれしいことを言ってくれた場合、それにどう答えればいいのか。実に複雑な気持ちになる。

「ぜひがんばって。すばらしい仕事だよ」
と言いたい気持ちが強いが、一方で
「これからの時代、やめておいた方がいいかもよ。。」
とも言いたいかもしれない。悩ましい。

きっと近い内に来るであろう、機械通訳の時代に向け、我々人間通訳者はどうすればいいのか。
今から転職活動をした方がいいのか?



思うに、「普通の」通訳はもう生き残れないと思う。
会議参加者に(これだったら機械使った方がいいや。。。)と思われてしまうような通訳は、文字通り不要となる。



いや、「普通の」どころか「上手な」通訳も、早晩不要になると思う。
多少上手に、正確に訳せている程度では、ALEXAに勝てない(笑)。

極端な言い方をすれば、我々の先輩方のレベルではもうダメなんだと思う。



なんらかの面で突出した、Outstandingな通訳者になれれば、機械通訳・自動通訳の時代が来ても、世に求められ続けると思うし、観客を喜ばせ、感動させ、ある程度の料金を払ってでも使いたい、と思い続けてもらえると思う。

通訳全般で言えば、例えば、話し手の一つ一つの発言毎に、(今のはどの訳し方で行こうかな)と、訳を調整出来る人。例えば、ですが。
我らがIR通訳で言えば、投資家の仮説をベースにIRミーティングの流れを自ら作り出せる人。
そういう人であれば生き残れる(あるいは、一番最後まで生き残っている)だろうと思う。



我々通訳者は、この逆風の中で「通訳者になる」とか「通訳者を続ける」という決断を下すのであれば、目指すべきはそこ(Outstandingな通訳者)、ただ一つだと思う。
打倒ALEXA! 打倒ポケトーク!

# by dantanno | 2019-04-26 05:15 | プレミアム通訳者への道 | Comments(0)

めんどくさい男(笑)

幼なじみたちと別荘に来ました。

めんどくさい男(笑)_d0237270_17264332.jpeg

何年も会っていない時期もありましたが、それを乗り越えての関係が続いています。

めんどくさい男(笑)_d0237270_17280487.jpg

宴もたけなわの頃、2人に聞いてみました。
「オレの欠点ってどういうところ?」


2人とも、一秒たりとも間を空けずに即答:
「めんどくさいとこ」


でもその後に2人とも
「でも、結局それって長所の裏返しだから、まあいいんじゃん?」
と付け足してくれたので、とりあえず一安心(?)。



散々飲んだあとは、会場を二階に移して長渕剛のコンサート。

めんどくさい男(笑)_d0237270_17354506.jpg

これからもめんどくさく生きていきますが、末永くよろしくお願いします。

めんどくさい男(笑)_d0237270_17385939.jpeg

# by dantanno | 2019-04-11 17:25 | プライベート | Comments(0)

IRISの、ワークショップと通訳者登録についての考え方

ときおり、通訳者から「IRISに登録したい」という連絡をいただきます。
とてもうれしいし、ありがたいことです。

そういう場合、
「では、まずはワークショップにご参加ください。」
と言うようにしています。



IRISでは定期的に通訳ワークショップを開催しています。

ワークショップではいろいろなことをやりますが、必ず通訳の演習も行っています。
何らかの音声を再生し、それを参加者全員で通訳します。
そこで高い通訳力を確認出来た方に対し、登録を打診しています。

ちなみにこのワークショップ、有料で行っています。

ーーー

これまでの話をまとめると、

1.IRISへの登録を希望する方は、ワークショップに参加してください。
2.ワークショップは有料です。

ということになります。

さて、この1.と2.。
それぞれ単独で見ると別に違和感は無い(少なくとも私は)のですが、
こうして2つを並べて見ると、

1.登録を希望する方は、ワークショップに参加してください。
2.ワークショップは有料です。
     
登録を希望する方は  <中略>  お金を払ってください

のように見えます。「見える」というか、実際そうです。
つまり、「IRISは登録料を取ります」という印象を与えても仕方が無いな、と感じました。

そこで、このブログ記事を使って話を整理することにしました。



ーーー



<IRISへの登録は無料です>
IRISには「登録料」はありません。
無料で登録いただけます。



<IRISでは、ワークショップを行っています>
前述の通り。



<なんのためにワークショップをやっているのか>
いくつか理由があります。重要性の順に並べます。

・楽しいから
・いい通訳者を発掘するため
・登録通訳者のさらなるレベルアップのため
・丹埜自身の個人的なレベルアップのため

間違っても「お金のため」ではありません(笑)。



<ワークショップは、(少なくとも金銭的には)割りに合わない>
私はいくつかの仕事をしています。

・通訳者
・翻訳者
・通訳エージェントの運営
・通訳の指導(於大学院)
・ワークショップの主宰(プロ通訳者向け)

後半の「通訳の指導」と「ワークショップの主宰」については、金銭的には「割りに合わない」です。「金銭以外」のインセンティブでやっています。



<ワークショップを行う理由が「儲けるため」ではないのであれば、無料にすればいいではないか>
確かに。

元々は無料だったんです。
でも、無料にすると、主に2つの問題が生じました。

まず、私自身があまり張り合いを感じられない、やる気が出にくい、という問題です(だったらやらなければいいんですが)。
(どうせお金取ってないんだし・・・)的な、そんなズルズルした気持ちが出てしまうんですよね。

もう一つの問題は、「タダなら参加してみるか」みたいな人が来てしまう、ということです。
実際にそういう人がゾロゾロ来てしまって困った、ということでもないんですが、まあ理論的にはこういうこともあり得る、ということです。



<ワークショップは有料>
ということで、ワークショップが有料になりました。
当初は1万円にしましたが、もっと上げる必要を感じ、今は3万円にしています。

有料にしたのは、ひとことで言うと、バーを上げるためです。

講師サイド: 一定のお金を取るからには、ちゃんと「仕事」として、しっかりとしたものを提供しないといけない
参加者サイド: この金額を払ってでも参加したい、という強い意欲を持った方だけが集まる

この2つの効果から、有料化後はワークショップのクオリティーが上がった気がしています。



<ワークショップで、通訳者の通訳力を見定める>
「IRISに登録したい」と言って来てくださる方は、多くの場合、経歴書を添付してくれます。
せっかく送って来てくださったのでありがたく目を通しますが、経歴書は全く、一切参考にしません。

それはなぜかというと、今までたくさん、「経歴は見事なのに、通訳力が低い」通訳者を見て来たからです。
また、経歴がまっさらなのに、とても通訳が上手な通訳者を(数は少ないものの)見て来たからです。

なにより、私自身がフリーランス通訳者としてデビューした当時、
「経験が無いから仕事を紹介してもらいにくい」
「仕事を紹介してもらいにくいので、経験を積みにくい」
という苦い思いをしたから、自分がエージェントをやるときは絶対に経歴なんて見ないぞ、と決めたからです。

経歴書をちゃんと見ないので、同じ通訳者と会う度に「あなたはどういう経歴でしたっけ?」という話で何度でも盛り上がれる、といううれしい副産物までありました。



通訳者の通訳力の評価については、すべてワークショップ、あるいはそれ以外の場で、実際に通訳を聴かせていただいて評価しています。



<なぜ 「登録したければ、ワークショップ(有料)へ」 という仕組みになっているのか>
なぜIRISが今のような仕組みになっているのか、を改めて考えてみたんですが、それはIRISがワークショップをその中心に据えていて、ワークショップがIRISにとってはとても重要な場である、ということが一つ。ワークショップは、通訳者発掘の場でもあるし、私を含む「IRIS登録者」にとってのさらなるレベルアップのための場でもあります。道場なんですよ、通訳の。

そして、もう一つの背景は、IRISでは、通訳者からの問い合わせについてはどちらかというと「登録したい」よりも「ワークショップに参加したい」という問い合わせをメインに想定して仕組みを構築しているから、だと思いました。

「ワークショップに参加したい」 → ワークショップに参加する → そこで実力を示す → 「登録しませんか?」

という流れを想定して仕組みを作ったんですが、でもこれがときどき

「登録したい」 → 「では、ワークショップ(有料)にご参加ください。」

となるから話がおかしくなる(ことがある)んでしょうね。



<「登録したければ、ワークショップ(有料)へ」の矛盾をどうするか>
いろいろな経緯・背景があって現状の

ワークショップ参加 → 登録

という仕組みに至っているんですが、確かにこれは、見方によっては「登録したければお金を払ってください」という、なんかヘンなことを言っていることにもつながります。難しいですね。。。

こう説明すればいいですかね。

IRISへの登録に際し、有料ワークショップへの参加は必須ではありません。
「登録したい」と思ってくださった場合、何らかの方法で通訳力、人柄、向上心などを見せていただき、安心感を与えていただければ、その後登録いただき、国内外の通訳案件をご紹介します。

たまたまIRISではワークショップを行っていて、そこで「通訳の演習」をやるので、それが通訳を確認するための一つの場として機能していますが、別にそこでなくてもいいわけです。

例えば通訳案件において私とブースで組ませていただくとか、そういう方法もとてもいいです。



<通訳者選考会みたいなことはやらないのか>
ワークショップ(有料)とは別の場として、例えば通訳者選考会(無料)のようなことをやったらどうか、という意見もあるかもしれません。
一理ありますが、一方で今、そんなに一生懸命通訳者を募集していない、という現状もあります。
案件は少しずつ増えていますが、通訳者も少しずつ増えており(去年は3人増やしました)、今この瞬間は別にそれほど登録者を求めていません。

ロンドン・欧州はちょっと例外で、事業拡大に伴い、優秀な通訳者を積極的に求めています。

これは決して「登録を受け付けていない」ということではなく、いいな、と思う方がいればこちらから頭を下げて登録いただきたいわけですが、選考会のようなことをやってまでは通訳者を求めておらず、たまたま、それこそワークショップなどで「おっ、いいな」と思う方がいれば登録を打診したい、という状況です。



<まとめ>
IRISに登録したいと思ってくださった方、本当にありがとうございます。通訳者の方からそう言われるのは、「IRISをがんばって来てよかった」と思う貴重な瞬間の一つです。

1.有料で申し訳ありませんが、ワークショップという場があるので、もしワークショップの内容自体に興味が持てて、(登録云々とは別に)単にスタンドアローンの「ワークショップ」として、有料でも参加したい、と思えるようであれば、ぜひご参加ください。そこで通訳を聴かせていただき、通訳力が高いと判断出来た場合は、こちらから登録を打診させていただきます。

なお、IRIS登録後は、ワークショップは全て無料で参加出来るようになります。

2.ワークショップは必須ではないので、それ以外の場で実力を証明してくださるのもウェルカムです。



すばらしいIR通訳を通し、日本のIRを国内外で盛り上げつつ、通訳という仕事のプレミアム化に一緒に取り組んでくれる仲間を求めています。我こそは、と思う方、ぜひワークショップ(あるいはそれ以外の場)でお会いしましょう!

# by dantanno | 2019-03-20 10:17 | IRIS | Comments(0)

我々おじさん・おばさんに、もはや「平時」などない

今ふと気付いたんですが、僕もう44歳ですよ。
ハッキリ言っておじさんです。

気持ちの上ではまだまだ若いつもりだし、
いまだに下っ端気分が抜けない面もたくさんあるけど、
まあおじさんです。

ーーー

自分もそうなら、自分の周りもそうです。みんなおじさん・おばさんです。

もちろん、若い人たちや、子供たちとの接点はあります。
また、我々よりもさらに上の、おじいちゃん・おばあちゃん世代との接点もあります。

でも、自分と一番近い人たち、一番やり取りが多く発生する同年代の相手たちは、みなおじさん・おばさんです。

ーーー

自身、おじさんとなり、周りのおじさん・おばさんたちと日々やり取りしていて思うのは、

「我々おじさん・おばさんには、もはや「平時」なんて無い」

ということ。

ーーー

つまりですね、年齢的に、ほぼ常に、何かしら問題ありなわけです。

これは、「カラダのどこかが痛い」とか、そういった問題もそうです。

あと、自分の転職とか、クビとか、昇進出来るのか、とかもそうです。
倦怠期だの、なんとかレスだの、離婚だのなんだのもそうです。

ーーー

自分自身の問題だけじゃありません。
家族の「中間管理職」として、上下方向からの「問題」もあります。

親が病気になった。介護がどうだの、死んじゃった、だのもそう。
それが解決したと思ったら、今度は子供が熱出した。娘がグレかかってる。あかちゃんの世話が大変。高校生の息子が医者になりたいと言い出した。

自分の問題だけでも大変なのに、上下方向からのプレッシャーもすごい。

で、パソコンが壊れた、生命保険を見直すかどうか、クルマのバッテリーが上がった、役所がなんか言って来てる、塀にペンキ塗らなきゃ、etc. etc.

全方向から、問題に次ぐ問題です。

我々おじさん・おばさんに、もはや「平時」などない_d0237270_17170957.jpg


そう考えると、子供の頃はずいぶんよかったなあ(笑)。
当時は当時で「大変」だと感じていたのかもしれないけど、我々おじさん・おばさんから見れば、悩みなんて何もなく、超絶的にラクなようにも思える。ま、彼らもいろいろ大変なんでしょうが。

ーーー

さて。

「我々おじさん・おばさんには、もはや「平時」なんて(あまり)無い」

という考えをさらにもう一歩進めると、

「我々おじさん・おばさんには、もはや「平時」なんて無いわけだから、
「今は平時ではない」を、もはや一切言い訳に出来ない」

という気もしてきます。

ーーー

あなたが僕同様、おじさん(あるいはおばさん)だとしましょう。
で、サッカー選手だとします。
つまり、おじさん・おばさんサッカー選手だとします。

サッカー選手であれば、日々、ストレッチだのパス練習だの筋トレだの、そういったことをしないといけないわけです。
おじさん・おばさん選手であっても、、、 いや、おじさん・おばさん選手だからこそ、そういった日々の積み重ねが重要になります。若い世代みたいにほっといても成長しないので。

でも、その一方で、人生におけるなんらかの「問題」を抱えているわけです。
夫婦間の問題かもしれないし、親の問題、子の問題かもしれません。カネの問題かもしれない。なにしろ全方向から来ますから。

そんなときに、
「オレは、今は○○の問題を抱えていて、これは要するに有事であり、平時ではない。
だから、自分が日頃やるべきこと(ストレッチ、筋トレ云々)が 今は出来ない
って、普通はそう思うし、そうなるじゃないですか。それで許されるじゃないですか。

でも、我々おじさん・おばさんにとっては、日々有事なわけですよね、世代的に。
自分のこともそうだし、上下世代に起因する問題も続々待ち受けています。もはや平時なんてない。

だから、要するに何を言いたいかというと、
「今は平時ではないから」
って、そんなの、日々やるべきことをやらない理由になんて、もはやならないんじゃないか、ということなんです。有事がもうデフォルトなんだから。

ーーー

我々おじさん・おばさんは、「もはや平時なんてない」ことを心に刻み、
むしろ「常に有事」であることを前提に、
その上でいかにして「日々やるべきこと」を粛々と進めていくか、にフォーカスしていくべきだし、
前進したいのであれば、もはやそうするしかないと感じます。
「この件が落ち着いたら・・・」 → 「次の件」が待ってます。平時なんて、永遠に来ない。



日々有事な中で、それを前提に作戦・戦略をたて、大変さを周囲にあまり見せずに前にどんどん進んでいく、そういうのがかっこいいおじさん・おばさんだと思うし、自分もそうありたいと思いました。


我々おじさん・おばさんに、もはや「平時」などない_d0237270_17162060.jpeg


# by dantanno | 2019-03-18 17:17 | 自戒ネタ | Comments(0)

IRミーティングで、投資家の「仮説」をあぶり出す

「IR通訳をするのに、財務・会計、ファイナンスの知識は必要ですか?」

と聞かれることが多い。


これに対する考え方は、 No系、Yes系、その他系 と、いろいろありうると思う。

「No」
・ IRミーティングで話される内容は「財務・会計」ではない。あくまでも「ビジネス」であり「戦略」であり「リスク」であり、フツーの、、、つまり、財務・会計の専門家以外の人間に分かる内容である。
・ 1時間のIRミーティングで、財務・会計系の話題が全く出ないことだってある。出たとしても、5分とかのことが多い。
・ 例えば「グリーンボンド」とか「圧縮積立金」とか「種類株」とか、財務・会計系の用語・話題が出た場合は、その場はとりあえず(会議参加者に確認しながら)なんとかしのぎ、あとで、家に帰ってから徹底的に調べ、次にその話題が出たらComfortableに訳せるようにすればいい、という考え方もアリだと思う。
・ 財務・会計の知識がゼロでも、IR通訳は出来る。しかも、「上手に」出来る。大事なのは知識ではなく、通訳力だと思う。

「Yes」
財務・会計の知識があるにこしたことはない。
特に、小手先の知識ではなく、バランスシートと損益計算書とキャッシュフロー計算書がどうつながっているかを理解していると、なんとなくラク。

その他
財務・会計の知識が必要かどうかを心配してるヒマがあれば、本屋に行って、財務・会計に関するよさげな本を一冊買って勉強しちゃった方が100倍早い。あと、TACとか東京商科学院(* 一時期通ってました。今もまだあるんでしょうか。。)とか、大原簿記学校とかの短期のコースに通ってみるのもいいと思います。

ーーー

さて。
「財務・会計の知識」もいいが、IR通訳者にとって、それよりもはるかに大事なことがある。それは、

外国人投資家が持っている「仮説」を、IRミーティング中にあぶり出し、それを(自らの訳に乗せて)企業に伝える

ことだ。

ーーー

投資家は、多くの場合、何らかの仮説をもってIRミーティングに臨んでいる。

仮説は、一階層だけのこともあれば(↓)、

「この製薬会社が今研究・開発中の肝炎の薬は、将来世界的な大ヒットになる可能性があるのではないか」

あるいは、二階層、三階層のこともある。

  1階層目 「今後、日本は○○なんじゃないか」
→ 2階層目 「そう考えると、日本の○○業界はこうなっていくんじゃないか」
→ 3階層目 「そんな中で、この会社は今後こういう役割を果たすんじゃないか」
→ 結論   「だから、この会社の株は買い(あるいは売り)なんじゃないか」

僕が言う「投資家の持っている仮説」というのは、例えばこういうことです。

ーーー

投資家が、IRミーティングの冒頭で、あるいは最後のWrap up的な話をしているときに
「自分はこういう仮説を持っている。今日は、それを検証するためにIRミーティングをお願いした」
みたいに言ってくれることも、ごくまれにだが、ある。その場合は、投資家のその発言をそのまま訳せばいい。

でも、多くの場合、投資家は自分の仮説をあまりハッキリとは言わない。

ーーー

なぜ投資家はその仮説をあまり明かさないのか。

もしかしたら、それこそが企業秘密なのかもしれない。

あるいはまた、(実はこれが結構多いのではないかと僕は思っているが)投資家自身が、自分は一体どういう仮説を持っているのか、をよく分かっていないこともあり、IRミーティングにおけるQ&Aのやり取りを通してその仮説を走りながら構築していきたい、と思っていることもある。

投資家がその仮説を自ら進んで明らかにしない場合(つまり、ほとんどの場合)、あるいは投資家がミーティング中に走りながら仮説を構築する、そういうパターンのミーティングの場合、その仮説を浮き彫りにし、あぶり出し、そしてそれを企業側に伝える/分からせるのがIR通訳者の大事な役割になる。そこがウデの見せ所だ。

ーーー

投資家の持っている「仮説」とは、例えばどういうことをいうのか。改めて、具体例をあげてみる。

投資家が今度、日本でスーパーを運営している小売業者A社と会うとしよう。

投資家の仮説は、例えば

「今、Amazonが世界的に伸びている。
欧米では、従来の大手小売業者(シアーズなど)が倒産・事業縮小の憂き目に遭っている。
日本でもアマゾン・ジャパンががんばっていて、小売業者が苦戦する、という傾向もあるだろう。
しかし、この小売業者A社は、意外と大丈夫なのではないか。
なぜなら、A社が運営するスーパーは、各地域に密着した、小規模な店舗が多く、ネットショッピングとあまり競合しないのではないか。つまり、eコマースに対する抵抗力が強いのではないか。
そして、日本の消費者は「商品を実際に手に取ってから買いたい」というニーズが強い、と聞いている。

今、世界的に小売業界がディスカウントされており、それにつられてか、A社の株価も下がっている。
が、これは実は売られすぎで、A社は過小評価されている(=割安)なのではないか」

といった仮説が考えられる。

ーーー

IRミーティングが始まる前の時点では、通訳者が持っている情報は「企業」についての情報だけである。

・この会社はどういう会社なのか。何をやっている会社で、どういうビジネスモデルで稼いでいるのか

そして、企業の方々と一緒に海外を旅する海外IRの場合であれば、

・今回同行しているマネジメントはどういう方々なのか
・今回の海外IRで、企業が伝えたいキーメッセージは何か

こういったことは、すべて「企業」側の情報である。投資家(およびその仮説)についての情報ではない。

だから、投資家の仮説については事前に調べることは(後述する、日本国内での投資家同行の案件以外では)ほぼ不可能であり、ミーティング中に徐々にあぶり出していくしかない。

ーーー

さて。
投資家がその頭の中に仮説を抱いており、それに基づいてIRミーティングを進めているとしよう。
その仮説を、通訳者は、一体どのようにして「あぶり出」せばいいのか。

なにも、通訳者が勝手に、企業の方に代わって、投資家に対し「さっきから質問聞いてると、あなた、こういう仮説を持ってるんですか?」みたいに質問してしまう、ということではない。
また、投資家がそんなこと発言していないのに、企業に対し勝手に「この投資家は、こういう仮説を持ってるんだと思いますよ」と、ミーティング中に発言してしまうことでもない。

そうではなく、仮説のあぶり出しはもっとちょっとした、実にさりげないことだ。

あまりにもさりげなく、かつ抽象的な話なので具体例を示すのが非常に難しいのだが、
通訳者は何をすべきかというと、まず第一に「この投資家は一体どういう仮説をもってミーティングに臨んでいるんだろう・・・」ということを考える、というのが第一歩だ。通訳作業をしながら、「今回の投資家の仮説は何か?」について自問自答し続ける、ということだ。

投資家が元々抱いていた仮説が、ミーティング中、Q&Aの結果変化・進化することだってある。
(こうじゃないか?)と思っていたのが、実はそうではなさそうだ、と分かった途端、(じゃあ、もしかしたらこうなんじゃないか?)という進化形の仮説が生まれることだってある。投資家はえてして七転び八起きであり、それを察知するのも通訳者の役割だ。

一方、投資家が「ミーティング中に仮説をじっくり構築していきたい」という、走りながら考える的な人の場合、その場合は文字通り、投資家と一緒になって走りながら考え、ミーティング中にリアルタイムで投資家の頭の中で構築されつつある仮説について、通訳者も一緒になって考える、ということが求められる。投資家の口から出てくる英語を日本語に訳すだけでは不十分なのだ。

ーーー

仮説をあぶり出す作業は、彫刻を彫る作業に似ている。

最初にあるのは、ただの岩だ。


IRミーティングで、投資家の「仮説」をあぶり出す_d0237270_17182025.jpg

IRミーティングでのQ&Aを通し、その岩を少しずつ削っていき、作品(つまり、投資家の仮説)が少しずつ明らかになっていく。

その作業は、芸術的でもあるし、求道者的でもある。

ーーー

よく、「IR通訳をするのであれば、株を買った方がいい」といったことが言われる。

まあそうなのかもしれない。

本ブログ記事のテーマ(投資家の仮説を探る)は、要するに「投資家の身になって考える」ということだとも言える。
そう考えると、通訳者自らが株式投資をしてみることで、投資家とOn the same boatに身を置き、株というものにより興味が持て、仕事に身が入り、結果IR通訳パフォーマンスが向上するのであれば、おおいに株を売買したらいいと思う。

自分はそれをやっていない。
なぜやらないかというと、通訳における姿勢が乱れそうな気がするからだ、自分の場合は。

自分が株主である会社のIR通訳をしたら。。。
あるいは、自分が株主である会社のライバル企業のIR通訳をしたら。。。

訳を考える際、いろいろな雑念が頭をよぎりそうだ。
その会社を(実体以上に)よく見せるため、あるいは悪く見せるため、訳を盛ったり削ったり、ということはさすがにしないと思うが、でも、そうしたまざりっけが全く無いかというと、もはや分からなくなってしまう。
せっかく今純粋な気持ちでIR通訳というものに向き合うことが出来ていて、それが心地いいのに、そのリズム、空気が乱れてしまいそうなのがイヤなのだ。

株を買ってしまうと、その分「いいIR通訳」から遠ざかる気がするので、買っていない。

ーーー

話が多少それた。

ーーー

投資家の「仮説」というものに慣れるためには、投資家同行が役立つ。
外国人投資家と一緒に、日本国内(主に都内)を回る仕事だ。

移動中のタクシー、あるいは食事中、投資家にガンガン聞いたらいい。

私は証券会社のインハウス時代、そうしていたが、よくなかったのは、最初の頃、

"What do you want to talk about in the next meeting?"
とか
"What kind of questions will you ask in the next meeting?"
と聞いていたことだ。これはあまりよくない。

投資家の中には、次のミーティング用の質問リストを見せてくれる人もいて、僕は(ラッキー!)と、それをむさぼるように眺めていた。

しかし、我々通訳者が本当に知るべきは、「投資家が聞く質問」ではないのだ。
それは手がかりでしかない。そして、それはどうせミーティング中に明らかにされる。

我々通訳者が本当に興味を持つべき対象は、投資家の口から出る質問ではなく、投資家の心の中の「想い」だ。それが仮説なのだ。

だから、我々通訳者が投資家に聞くべき質問は、「次のミーティングでどんな質問するの?」ではなく、

"What brought you to Japan this time?"
であり、
"Why do you want to meet Company A?"
であり、
"What is the underlying idea, or hypothesis, behind this next meeting?"
であるべきなのだ。それに気付いたのは、IR通訳者になってだいぶ経ってからだった。

ーーー

さて。
がんばって投資家の仮説を察知したとして、通訳者は、今度はそれをどうやって企業の方々に「伝え」ればいいのか?
ミーティングを遮って「この投資家の仮説はこうだとおもいまーーす」とやるのでないのであれば、どうやって仮説を伝えるのか。

それは、訳をほんの少し微調整することで行う。

私は、話し手が言っていないことを勝手に付け加えたり、言ったことを勝手に落としたりする訳があまり好きではない。(これは好みの問題でもある。)
だから、訳を調整するとしたら、ほんのわずかな微調整だ。

ーーー

<春のIR通訳ワークショップ>
毎年、春にIR通訳ワークショップを行っている。

今年、もし開催するとしたら、例年通り一日かけて、それを前半と後半に分け、前半はIR通訳の基礎的な話、そして後半は、本ブログ記事のテーマである「投資家の仮説をあぶり出す」をテーマにしてみたいと思っている。
1.どうやって投資家の仮説をあぶり出すか。
そして、
2.どうやってそれを企業の方々にさりげなく伝えるか。

興味がある方がいれば、事務局までご連絡ください。

iris@iris-japan.jp
担当: 松山

ーーー

<まとめ>
IRミーティングは、そんなに超絶的に楽しいかというと、正直そうでもない。
まあ、言ってみれば仕事だし、そんなに毎日毎日がものすごく楽しいわけではない。

でも、そんな中、ゾクゾクするIRミーティングだってある。これだったらタダで、、、いや、お金を払ってでも続けたい、と思うミーティング。
そしてそれは、単なる偶然ではない。多分に通訳者が創り出しているのだ。

IR通訳者にとって、ゾクゾク・モーメントはいくつかある。

投資家の仮説の片鱗が見えた!と思った瞬間。
それをうまく(かつさりげなく)企業の方々に伝えられた、と感じる瞬間。
そして、自らがあぶり出した仮説を中心に、投資家、企業の方、通訳者の3者が一体となって、同じリズムに乗ってミーティングの終盤に向かうあの快感はハンパない。IRミーティングは、本当はとても楽しいのだ。それを楽しめていないとしたら、我々通訳者のせいなのかもしれない。そして、IR通訳を楽しむべく、今日からでも出来ることはいくらでもある。

ーーー

IR通訳者の役割は、IRミーティングのなるべく早いタイミングで投資家の仮説をあぶり出し、それを企業に伝えること。
ミーティング中、投資家の立場に立ち、その仮説の変化・進化を察知し、それを企業に伝えること。
ときには投資家自身ですら気付いていない、その「仮説」が、通訳者を仲介して日本企業の方々と共有され、一つでも多くの「ゾクゾク・モーメント」を創り出す。日本のIRをより楽しく、充実したものにする。

これこそ、我々IR通訳者が担う真の役割ではないかと思う。

# by dantanno | 2019-02-18 17:33 | プレミアム通訳者への道 | Comments(0)

朝は、ネガティブなニュース禁止(笑)

今、新幹線で移動中。

朝の新鮮な空気の中新幹線に乗り込み、本を読んだり、あれこれ考え事をしたり。とてもいい時間です。



朝は、ネガティブなニュース禁止(笑)_d0237270_09143978.jpg





そんな中、ニュースのテロップが。



朝は、ネガティブなニュース禁止(笑)_d0237270_09101412.jpg
朝は、ネガティブなニュース禁止(笑)_d0237270_09102882.jpg
朝は、ネガティブなニュース禁止(笑)_d0237270_09104118.jpg
朝は、ネガティブなニュース禁止(笑)_d0237270_09111381.jpg
朝は、ネガティブなニュース禁止(笑)_d0237270_09131786.jpg
朝は、ネガティブなニュース禁止(笑)_d0237270_09135790.jpg
朝は、ネガティブなニュース禁止(笑)_d0237270_09141679.jpg




(せっかく僕のブログを読みに来てくれたのに、ネガティブな気持ちにさせてしまいごめんなさい。)





このテロップ、東京から大阪までのあいだ、なんと5回も流れました(笑)!




これ、どういう意志決定の仕組みを通して決まっているのか分からないんだけど、
「朝の新幹線で、このニュース・テロップを5回流そう」
と決めた人に聞いてみたい。

「その必要ある??」って。
「なんのために? 誰のために流してるの?」
って。





これは、普段TVで朝のワイドショーを観ていても思うことです。朝の大事な時間にそんなもの観ないけど、仮に観たとしたらそう思うだろうな、という意味です。



「昨日、70代の女性一人が亡くなった栃木県○○市の住宅火災について。栃木県警は「放火の疑いもある」と見て捜査を進めています。」


いや、だから、、、

なんのために??

誰に何を伝えたくてこれを報じてるの?




朝。
これから出社・登校して、今日も一日がんばろう!と思っている人に対し、このネガティブ・ニュースを伝える意味は?



ちなみに、僕がここで「ネガティブ・ニュース」と言っているのは、例えば難民の問題とか、地球温暖化を食い止めましょうとか、そういうことを指して言っているのではない。そういうニュースも「ネガティブ」に分類出来るかもしれないけど、でも「いいネガティブさ」ですよね。有害な、どうにもしようがないネガティブさではないですよね。この社会に生きる者として、知っておいた方がいいことです。

僕がここで「ネガティブ・ニュース」と呼んでいるのは、栃木県の放火殺人事件しかり、あおり運転による殺人しかり、芸能人が不倫したとかしないとかしかり。そういった(文字通り)ワイドショー的な、野次馬根性的なニュースのことを指します。



亡くなった方はかわいそうだし、放火は許されない重大犯罪だし、あおり運転は論外です。こういう事象などどうでもいいと言いたいのではありません。大事です。でも、それをこういう形でみんなに繰り返し放映する意味は?誰のためにやっているのか。私はこのネガティブ・ニュースを観て、今からどうすればいいのか。




イヤな気持ちになって、チャンネルを変えてみたら、他局も全く同じニュース(笑)。

めげずに再度チャンネルを変えてみると、なんと、どこから見つけてきたのか、もっとネガティブなニュースを放映している始末(笑)。



「ネガティブなニュースを観ると気が滅入るから、報道するな」とは言いません。
でも、例えば午前中とか、それが無理なら少なくとも朝の、これから新たな一日が始まる、という一番大事な時間(以下「ポジティブ時間」と命名)に、こういうネガティブ・ニュースを流すのはやめてもらえないでしょうか。それを流すメリットとデメリットを天秤にかければ、そうした方がいいことはすぐにでも分かるでしょう。




思うに、テレビ局側は、ちゃんとメリットとデメリットを天秤にかけた上で、「メリットがデメリットを上回る」と判断し、ネガティブなニュースを放映しているのでしょう、きっと。

つまり、、、要するに、、、ネガティブなニュースの方が、我々視聴者側の食いつきがいいんでしょう。

ってことは、、、
このブログ記事の趣旨と真っ向から矛盾しますけど、結局我々視聴者がネガティブなニュースを求めている。だからテレビ局はそれを報道する、という流れがあるんでしょうね。誰のために? → 視聴者のために放映してくださっているのでしょう。

僕が訴えかけるべき相手は、発信する側(テレビ局)ではなく、それを受信する側、つまり我々視聴者に対して、なんでしょう。




視聴者のみなさん。

こういうネガティブなニュースが放映されたら、
「それを受けて、今からすぐに現地入りしてボランティア活動をする」
とか、そういう特殊なケースを除き、チャンネルを変えませんか?

チャンネルを変えたところで、どうせ他局もネガティブなニュースを放映しているから、いっそのこと、朝の「ポジティブ時間」中はTVを消しましょう、テレビ局側が報道姿勢を改めるまでは。

ネガティブ・ニュースは、あなたの一日に悪影響を及ぼすし、子供の教育上もよくない。子供に関して言うと、例えば受動喫煙はもちろんよくないけど、「朝のポジティブ時間に観させられるネガティブ・ニュース」はある意味それ以上の精神的な害悪だと思う。




朝、こんなニュースで身も心も満たされた人が、その日一日、いい仕事をするとは思えない。その人の本来のポテンシャルをフルに発揮出来るわけがない。
そして、「ストレスが・・・」とか言っている。そりゃそうだ。朝っぱらから栃木県の放火殺人事件のニュースで満たされるような生活を自ら進んで送っていたら、ストレスがたまるに決まってる(笑)。




朝は、ネガティブ・ニュースではなく、ポジティブな情報や、大好きな本や、モーツァルト(?。じゃなくてもいいけど)の音楽とか、そういうポジティブなもので頭を満たしませんか、明日からは?



朝は、ネガティブなニュース禁止(笑)_d0237270_09223994.jpg

# by dantanno | 2019-01-26 09:23 | 提言・発明 | Comments(0)

「危険」を作らないでください

韓国海軍の艦艇が、海上自衛隊のP1哨戒機に火器管制用のレーダーを照射した、とされるインシデント。


確か、何年か前にもこういった出来事がありましたね。



こういった出来事が起きる度に思うこと。
うまく言えないんですけど、なんと言いますか、、、

「危険」を作らないでください

という感じ。

韓国国防省: 「韓国軍は正常な作戦活動中であった」
だそうです。

日本の防衛省: 「海自第4航空団所属のP1哨戒機は警戒監視活動に当たっていた」
だそうです。



いや、だから、、、、、

お互い、余計なことをしないでくれればそれでいいのに、という感じ。


防衛大臣が「極めて危険」と言うのは、きっとその通りだと思うんです。
実際に韓国軍が海上自衛隊機にレーダーを照射していたとして、それを受けて海上自衛隊機が反撃(?)をしていたら、有事につながりかねない、というか、有事につながるわけですから。
さっきまではいたって「平時」だったのに。



「危険」を作らないでください_d0237270_09221115.jpeg


やや極端かもしれませんが、
韓国軍も、海上自衛隊も、「作戦」とか「警戒」とか「任務」とかをせずに、家でゴロゴロしていてくれたら、こんな危険なインシデントは起きなかっただろうと思うんです。



でも、軍には自ら「危険」や「有事」を創り出したい、という本能のようなものがあるんだろう、と思います。それが無いと、自らの付加価値を感じにくいですからね。
だから、いたって平和なのに何らかの「任務」を行い、その過程で、同じく「任務」を行っていた他の国の軍と何らかの衝突をし、それで大騒ぎしたい、という気持ちがあるんだろうと思います。

何かあるとすぐに「スクランブルだ!」と言って戦闘機を発進させていますが、あれなんかも(危ないなあ・・・)と思っています。当人は血が騒ぐんでしょうが、それが有事につながれば、迷惑するのは国民です。



一方で、例えば自衛隊は、災害の際に救助の任務にあたることがあり、それはとても大きな付加価値だと思います。
それこそ、僕なんかが家でゴロゴロしているとき、自衛隊の方々は被災地で必死に救助にあたっている。「それが仕事だから」と言えば確かにそうなのかもしれませんが、でもやっぱり頭が下がります。

そういったことはどんどんやってほしいんですが、何も危険が無かったところに危険を作りに行く作業はぜひやめてほしいです。



もし今回の件が実際に「有事」につながっていたら。
そして、結果的に「戦争」につながっていたら。
日本と韓国、両方で人がたくさん死んで、国が焼け野原になりますよね。

その焼け野原で、ポツンと残った人たちが、

「あれ? あんなに平和だったはずなのに。それが、なんでこんなことになったんだっけ?」

と考えたとき、

「ああ、そうか。 海上自衛隊のP1哨戒機が任務を行っていて、それに対して韓国海軍の艦艇(同じく任務中)が、火器管制用のレーダーを照射した、とされるインシデントがあったからか」

となるわけですが、なんとアホらしい理由ではないでしょうか。
あんなに平和だったのに。

そして、そのときに「余計な「危険」を作らないでください」と思うだろう、と思うんです。
有事→戦争のあとにそう思うのもいいけど、出来たら平時の内からそう考えておいた方がいい、と思いました。



軍には、出来れば余計なことをせず、余計な「危険」を自ら生み出さず、「国民の安全を守る」という観点から付加価値を発揮出来る分野以外ではなるべくおとなしくしていてほしいと思います。通訳同様、自らがある意味「必要悪」であり、求められた機能以外は発揮すべきでない、という事実をわきまえるのが「いい軍」だと思います。

# by dantanno | 2018-12-23 09:23 | 提言・発明 | Comments(0)

四分の一インチのドリル

『四分の一インチのドリルが売れたのは、人々が四分の一インチドリルを欲したからではなく、四分の一インチの穴を欲したからである』 (レオ・マックギブナ)

経営の本に書いてあったことばだが、まんま通訳にもあてはまる。
クライアント/会議参加者が求めているのは、実は『通訳』ではない。

四分の一インチのドリル_d0237270_10542541.jpg


通訳の現場において、客がどんな『穴』を求めているのかは、場によって異なる。
IPOのIRであれば、マクロで考えると『会社を上場させること』が穴に相当するし、ミクロで考えると『そのミーティングを有意義なものにする』が穴かもしれない。


四分の一インチのドリル_d0237270_10571028.jpg


いずれにせよ、常に意識しておきたいのは、客が求めているのは穴であって、それに対し我々通訳者はドリルであるということ。
そして、穴ではないことを謙虚に見つめつつ、ドリルであることを誇りに思い、ますますいいドリルになりたい!とaspireすること。これが通訳者にとって大事なんだろう。

# by dantanno | 2018-12-19 10:51 | プレミアム通訳者への道 | Comments(0)

「訳」と「役」

俳優・役者が書いた本を、とてもおもしろく感じる。

今までに読んで、おもしろかった「俳優・役者本」は以下の通り:



1.山崎努さんの「俳優のノート」。

「訳」と「役」_d0237270_11171023.jpg


ものごとを決めつけるのはよくない。
でも、この本、ほとんどの通訳者がおもしろく感じるはず! そう決めつけたくなる名本。



2.西村雅彦さんの「俳優入門」

「訳」と「役」_d0237270_11222091.jpg


多分、本書の一番の想定読者は「俳優を志す人」なんだろうと思うけど、我々通訳者にも役立つ内容。
発声法とか、声出しのトレーニング法といった具体的な話も参考になるし、役者としての考え方・哲学もおもしろい。



3.Michael Caineの"Blowing the Bloody Doors Off"

「訳」と「役」_d0237270_11203417.jpg

今読んでいる(Audibleで聴いている)のはこれ。
あ、どっかで観たことある!なこの人(笑)。
非常におもしろい。



ーーー



なんで、俳優や役者の方が書いた本をおもしろく感じるのか。

それは、通訳と演技、InterpretingとActingで、似ている部分が多々あるからではないかと思う。

今、サンプルが一人(僕)しか無いので確かなことは言えないが、僕の推測では、恐らく通訳者は(通訳者ではない人たちとくらべ)俳優・役者本をおもしろく感じる確率が高いのではないか、と思う。
そして、これまた推測だが、恐らく「翻訳者」よりも「通訳者」の方が、俳優・役者本をおもしろく感じるのではないか。



通訳には、以下のような特徴がある:

「練習(通訳トレ、あるいは予習)」 VS 「本番」のコントラスト。
本番の、あのライブ感。
話し手になりかわっての「演技」。
話(≓台本)を自分なりに解釈(Interpret)した上での、その再表現。
会場と一体になり、その「場」のうねりにうまく乗れたときの心地よさ。
終わった後の達成感。会場から喜ばれたときのうれしさ。



「訳」と「役」には共通点が多く、通訳者と役者は、お互いの考え方や哲学にシンパシー/エンパシーを感じられるのではないかと思います。

通訳者のみなさん、俳優・役者本、おすすめです(笑)!


「訳」と「役」_d0237270_11462144.jpeg

# by dantanno | 2018-12-07 11:46 | プレミアム通訳者への道 | Comments(0)