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通訳における「仮」案件について

通訳エージェントを立ち上げてみて、いろいろと発見がありました。
その内の一つが「仮」案件というもの。

もちろん、エージェントを立ち上げる前から仮案件のことは知っていました。
仮案件というのは要するに、まだ案件実施の確度が見えない、あるいは低いため、クライアントが「しばらく「仮」としておいてください」みたいに言ってくる案件。

その存在を知ってはいたのですが、通訳者から
「この案件は仮ですか、確定ですか?」
と聞かれたとき、恥ずかしながら、最初はどう答えていいのか分かりませんでした。

クライアントが特に明確に指定していない場合、その案件は「仮」なのか、あるいは「確定」なのか。
通訳者から確認を求められた時点で、あるいはその前から僕が自主的に、クライアントに対し「この案件は仮ですか、それとも確定ですか?」と尋ねるべきなのか。
あるいは、クライアントとIRIS、IRISと通訳者はそれぞれ別個に「確定」とか「仮」とかを決めて行くべきなのか。つまり、通訳者に対し「仮」と答えるか「確定」と答えるかは僕次第なのか。
この辺がよく分かっていなかったんです。

ーーー

仮と確定がどう違うかというと、要するに「キャンセル料がかかるかどうか」が大きな違いだろうと思います。

確定案件であれば、そのエージェントが規定するキャンセル規定が適用されます。
でも、仮案件は文字通り「仮」なので、キャンセル料がかからない。キャンセル規定の対象外。

もっとも、通訳業界におけるキャンセル規定はかなり緩いのが現状で、それが適用されようがされまいが、実はそれほど大きな差にはならないこともある。
例えばIRISの場合、設立時に大手エージェントの規程にならい、5営業日前から段階的に発生する仕組みにしました。今でもその仕組みで運用しています。
確定案件であれば、この「5営業日前からキャンセル料が発生」という決まりが適用されるわけですが、言い換えると6営業日前まではおとがめ無しでキャンセル可能なわけです。だから、確定案件か仮案件かは実はそれほど決定的な差は無いのが実情。
(もちろん、「確定」案件を6営業日前にキャンセルすることを繰り返せば、そのクライアントはエージェント and/or 通訳者から敬遠されるようになるでしょうが。まあでも理論的にはそれが出来てしまうし、実際たまにそういうことが発生する、ということ。
一方、前日キャンセル→キャンセル料100%、という僥倖もまれに起きるのも事実。)

通訳者からすると、当然確定案件の方が仮案件よりもいいし、ありがたい。
それは「キャンセル規程が適用される」という面でもそうですし、それと並んで、「案件実施の確度が高い」という面でもそうでしょう。

通訳者が「この案件は仮ですか、確定ですか?」と聞いてきた場合、要するに何を聞いているかというと、「キャンセル規定は適用されますか?」ということでもあるわけですが、一方で「この案件が実施される確度はどれぐらいですか。私としては、どの程度心づもりしておけばいいんでしょうか。今後同じ日程で他の引き合いが来た場合、それをどう考え、どう捌けばいいんでしょうか」という意味合いもかなり強いのではないかと思います。
(特に、前述の通りキャンセル料発生期日までは確定案件であってもノーペナルティーでキャンセル出来てしまうことを踏まえると、キャンセル規程適用の如何よりも案件の確度を知りたがっている可能性が高い。)

ずっと仮で引っ張られた上、いとも簡単にリリースされてしまうことだって多々あるわけです。通訳者はそういう苦い経験を経て、そう聞いてきているわけです。
まあ、仮ではなく確定で引っ張られた上で、(キャンセル料無しで)リリースされるよりもマシ、とも言えますが。

ーーー

一旦仮予約を受けると、それが「仮」だからといって、通訳者の都合で勝手に日程をリリースし、別の案件を受ける、ということは出来なくなります。
一応、クライアントにお伺いを立てないといけない。そして、お伺いを立てた時点で期限を(例えば2日後とか)に決めて、それまでに「確定」としてもらうか、あるいは予定をリリースしてもらうか、を選んでもらうことになります。
クライアントはいつでも(一方的な通知だけで)自由に仮案件をキャンセル出来るのに、通訳者サイドはそれが出来ない。まあ、通訳案件の性質を考えると当然そうなりますけどね。通訳者サイドがいつでも自由に仮予約を外すことが出来れば、そもそも仮予約の意味が全く無くなりますから。

ーーー

さて、この「仮」案件というものについてずっと考えて来て思うことは以下の通り。

1.原始時代には、「仮」案件など無かった
2.仮案件は、キャンセル規定の適用除外であり、実質的に「値下げ」と同様の効果を持つ
3.仮案件がイヤなら、つっぱねればいい
4.現実的な解

ーーー

1.原始時代には、「仮」案件など無かった

原始時代(?)に遡れば、全ての通訳案件は「確定」だった。その頃は、キャンセル料に関する規定がしっかりと適用されていました(だって、そのためのキャンセル規定ですよね)。
「確定だった」っていうか、そもそも「確定」ということばすら無かったはずです、原始時代には。だって全部「確定」だから。それが普通だったわけです。


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そこに、あるクライアントが「この案件、実施するかどうかがちょっとまだ見えていなくて、「仮」でお願い出来ないでしょうか」とヘンなことを言ってきた。
全ての通訳エージェントおよび通訳者がそれをつっぱねればよかったわけですが、どこかのエージェント and/or 通訳者が「いいですよ、仮で」、つまり「キャンセル規定の適用を免除してもいいですよ」と言ってしまった。そこから、この「仮と確定」の長い歴史が始まったんだと思います。

言い換えると、「仮」案件というのは、クライアントが我々通訳サイド(エージェント+通訳者)に押しつけているのではなく、我々がそれを受け入れた、と認識することが大事だと思います。確かに、最初にそれを提案して来たのはクライアント側でしょうが、それを受け入れたのは我々側だということです。
この点をしっかりと認識しておかないと、いつまでも「クライアントが理不尽なことを言っている・・・」という行き場の無い不満を抱えながら通訳をしていくことになってしまいます。まずは潔く「これは我々の責任(でもある)」と認めるのがいいと思います。その上で、どうするかを考えればいい。

2.仮案件は、キャンセル規定の適用除外であり、実質的に「値下げ」と同様の効果を持つ

仮というのは、要するに(通常かかるはずの)キャンセル料がかからない、ということです。
そういう意味では、通訳サイド(エージェント and/or 通訳者)による、対クライアントの「条件緩和」です。

例えば通訳における海外出張案件を考えてみます。
そのエージェントの決まりが「通訳者のチケットはビジネスクラスでお願いします」だとしましょう。IRISでもそうしています。
それに対し、クライアントが「今回は予算が限られているので、あるいは飛行距離が短いので、エコノミーでお願い出来ないでしょうか」と言ってきたとします。
それをつっぱねることも出来ますし、あるいは「はい、エコノミーでもOKです」と、それを飲むことも出来ます。
突っぱねれば「条件維持」、エコノミーを飲めば「条件の緩和」ということになろうかと思います。

仮と確定の話も同じ考え方ができます。
「あくまでも確定で」とクライアントの要求をつっぱねればよかったものの、我々通訳サイドが「仮でいいですよ」と折れたから、つまり条件の緩和に同意したから、仮というものが生まれたし、今でもはびこっているわけです。

通訳の「仮」案件について嘆くことは、「通訳料金の相場が低い/安い」と嘆くことととても近いと思います。どちらも「条件緩和」の結果です。
そして、それは確かに嘆かわしいことではあるものの、なんとかならないかというと、そうでもない。

3.仮案件がイヤなら、つっぱねればいい

一度受け入れてしまったからといって、二度とそれから自由になれないわけでもありません。今からでも、仮案件を無くすことは出来る。
世の中全体から無くす(Eradicate)することは出来ないでしょうが、少なくとも自分の予定表からは仮案件を無くすことが出来る。

(エージェント経由)クライアントに対し、「私は確定案件しか受けません」と言えばいいだけの話です。

こう言うと、通訳者からは「そんなこと出来るわけがない」という反応が返ってくるでしょう。確かに、IRISでも仮案件というものを受け入れている以上、「そんなのつっぱねればいいじゃないか」という僕の意見は無責任だな、と自分でも思います。でも、決して不可能なことではない。

上記2.で論じたように、仮案件というのは要するに条件の緩和であり、実質的に値下げしたのと一緒です。
だから、それがイヤなら「値上げ」すればいい。
クライアントに「この通訳エージェントのサービスは素晴らしい」と思わせたり、「この通訳者は超優秀だ!ぜひまたお願いしたい!!」と思わせることが出来れば、それ以降、仮案件は全てつっぱね、確定案件だけを受けることは、可能は可能です。

そうした場合、もちろん仕事量は減るでしょう。値上げしたのと同じですから、当たり前の話です。
スケジュールをびっしり埋めたければどんどん条件を緩和して予定を埋めればいい。
一方、案件をSelectiveに受けたいのであれば、予定がある程度空いてしまうことは覚悟しないといけない。当たり前の話です。

4.現実的な解

上記3.がどうしても「非現実的」だと言うのであれば(僕はそう思いませんが・・)、現実的な解は何なのか、ということになります。
それは、「仮案件でもOK。ただし、こちらが求めた場合には、その瞬間以降、キャンセル料100%にしてください」というやり方ではないか、と今の時点では思っています。

クライアントがここまで「仮案件」というものに馴染んでしまった以上、確かに仮案件の依頼を頭からはねつけてしまうのは難しいかもしれない。だから、一旦は受ける。

その後、別の依頼が来たり、あるいはその日程を家族との時間にあてたくなったりした場合、クライアントに対応を迫ればいいわけですが、大事なのはこのとき単に「確定してください」と言わないことです。単に「確定してください」と言うのではなく、「確定してください。その場合、今からキャンセル料100%です」と迫るのがいいのではないか、と思っています。

前述した通り、通訳業界のキャンセル規定はゆるゆるで、「確定」と言えどもペナルティーは結構甘い。キャンセル規定適用期限まではキャンセル料無料キャンペーン中!超甘い。例えば航空券をキャンセルした場合と比べると超ゆるいです。

だから、「確定にしてください」と迫るだけでは不十分です。「確定」の定義をさらに厳しくし、「現時点からキャンセル料100%」とすればいい。
そして、通常のキャンセル規定は、それはそれとしてちょっと脇に置いておいて、
「本件については今からキャンセル料100%。それなら受けます。さあ、確定 OR リリース、どっちですか?」と迫ればいい。

IRISではこのやり方を部分的に導入していて、今のところとても上手く行っています。
これなら、「仮案件は全てつっぱねる」の非現実感も無いし、一方で「仮でも何でも全て受け入れる」に伴う悲壮感もありません。

ーーー

仮と確定。
僕はもちろん、通訳業界全体を長く悩ませてきて、そしてこれからも悩ませるであろう、この不思議な仕組み。

でもそれを嘆くばかりでなく、Proactiveに対応して行く余地はいろいろとあります。僕の考え方は上記の通りですが、他の通訳者の中にはそれぞれ独自の考え方を持っている人がいて、中にはそれを聞いていて、今後の通訳業界が楽しみに思える、そういう考え方の人も結構いることが僕にとっては大きな救いになっています。嘆いているだけでは全く意味無いです。

それぞれの持ち場で、それぞれのやり方で、「仮」案件というものとこれからも対峙していきましょう。

# by dantanno | 2018-05-08 18:23 | 通訳 | Comments(0)

GW、断食合宿に挑戦中!

前からずっと、「断食」というものに興味がありました。

念願叶って(?)、今、3泊4日の合宿に参加中。今日が初日。


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日頃、決して暴飲暴食する方ではないんですが、でもずっと(必要以上にモノを食べてるよなあ・・・)と気になってきました。

例えばラーメンを食べるとします。
半分ぐらい食べ進んだところで、ときどき自問自答してみるんです、(まだ食べる必要あるか?)って。
そういうときに返ってくる答えは(いや、もうお腹的にはほぼ満足)
でも、気持ち的に食べたいんですよね。。つまり、不必要に食べている。 まあ、そういう楽しみも人生に彩りを与えていいと思いますけど。

さらに、ハタチの頃からコンスタントに続けている飲酒も。。 量はそれほど飲まないんですが、「継続は力なり」で、ほぼ毎晩飲んでいます。

ーーー

ダイエットに苦心している人に怒られそうですが、、どんなに飲んでも食べてもまったく太らない体質ということもあり、食べ過ぎの問題は、少なくともカラダ的にはあまり気にしていません。
(でも、当然見えないところでの影響はあるわけで、本当は気にした方がいい。)

僕が一番気になっているのは、マインドとか、気の持ちようとか、やる気とか、元気さとか、そういうメンタルな面への「食べ過ぎ」の影響です。
過食によって脳・アタマが疲れてしまっていないか。通訳パフォーマンスへの影響は無いか。
食べたり飲んだりする量を減らせば、きっともっとポジティブで元気になるような気がする。。。

そんなにそう思うなら、食べたり飲んだりする量を減らせばいいわけですが、目の前にラーメンがあるとどうしても全部たいらげてしまう。ときにはライスをつけてしまう。ついつい気が大きくなって生ビールを飲んでしまう。

そういう「食」そして「飲」の楽しみもとても大事だと思うから、正直まだ断食とか粗食とか玄米とかそういうキーワードに対し抵抗感が強い。
でも一度体験して、そういう世界を垣間見てみたい。

そんなわけで、ネットでちょっと調べた結果一番良さそうだった合宿に参加しています。

こういうのって、みんなは興味があるのかどうか分かりませんが、もしかしたらちょっと興味ある人もいるかもしれないから、実際どんな感じなのか、レポートしていくつもりです。

<続く>


# by dantanno | 2018-04-30 20:14 | プライベート | Comments(0)

再生不可能エネルギー

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# by dantanno | 2018-04-21 08:47 | 提言・発明 | Comments(0)

すごくないからこそ、秘書

秘書を雇いました。


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この僕が「秘書」なんて、、、と思う方。お気持ち分かります。

秘書というのは、エライ人、忙しい人、お金持ちの人、大企業の幹部などなど、およそ僕とは無縁のすごい人たちが雇ったり、あるいは会社から付けてもらうものだと思っていました。

でも、あるとき、もしかしたら逆の考え方もアリかも、って思いました。

つまり、僕みたいに「すごくない」人こそ秘書が必要、という考え方もあるのではないか、と。

自分のことをちゃんと自分でできる人は、ある意味、秘書などいらない。
でも、ちゃんと出来ない人もいて、ちゃんと出来ないから秘書が必要、という考え方です。

ーーー

人生において、いろいろやりたい(けどまだ出来ていない)ことがあります。
それは仕事面、すなわちProfessionalな面においてもそうだし、プライベートな面においてもそうです。

そして、出来ていない理由の一端は、日々雑務に忙殺されているから、というのもあります。
だったら、その雑務を手伝ってくれる人を雇ってみたら、、、そうしたら自分の人生はどうなるだろう、という好奇心が出発点でした。

「雑務」というとちょっとことばが悪いですが、要するに事務です。大事なことではあるけれど、僕(本人)じゃなくても出来るし、僕の人生において一番のコアとなる部分ではない業務。これを手伝ってもらうことにしたんです。

ーーー

実際に秘書(Yさん)に付いてもらい、仕組みを回し始めて数ヶ月。
僕の心の平静に大きく貢献してくれています。

Yさん、これからもよろしくお願いします!


# by dantanno | 2018-04-19 21:24 | 経営 | Comments(0)

「女人」ではなく、「根拠レスなルール」こそ禁制にすべき

相撲協会、人命より「女人禁制」優先が物議…「土俵下りて」謝罪で若手行司に責任押し付け


この騒ぎを機に、「そもそもなんで女性は土俵に上がっちゃいけないんだっけ?」という、当たり前の議論が巻き起こることを期待する。
「ブレない」ことも大事だが、ときには「すみません、全然根拠ありませんでした!!」といさぎよく認めることも重要。



僕が大好きな奈良に、女人禁制の山がある。
実際に登山してきて、この目で確かめてきたが、確かに女人禁制と書いてあった。

奈良、大峰山の女人結界門! この先「女性」立ち入り禁止!!

もし夫婦でこの山をのぼりに行ったら、奥さんをこの門の外側に残し、僕一人でのぼらないといけない、ってことですよね。

女人禁制という「ルール」も、土俵も、この門も、どこかのおっさん(たち)が、自分たちの都合に基づき勝手に+人為的に作っただけのもの。
世の中にはこうしたおかしな「ルール」が結構あって、そんなものは守らないのはもちろん、むしろ積極的に壊していかないといけない。
(そうだ、登山に行ったとき、門を少しだけ壊して来てもよかったかも。。)

「今」を生きる我々としては、先人達が残してくれたいいものはちゃんと受け継ぎつつ、おかしなものはどんどん壊していくべきだと思う。
何が「いい」のか、何が「おかしい」のか、を見極めるのは難しい面もあるが、「ちゃんとした根拠があるかどうか」はとても有効なクライテリアだと思う。


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# by dantanno | 2018-04-05 22:46 | 提言・発明 | Comments(0)

「ゴミ持ち去り隊」

昔から不思議に思っていること。


ごみ持ち去り監視強化

資源物 春日部市と署28日協定

http://www.yomiuri.co.jp/local/saitama/news/20180327-OYTNT50052.html?from=yartcl_outbrain1



そこまでしてゴミを「持ち去」ってくれる人たちがいるのであれば、いっそのことその人たちにゴミを(無料で)渡した方が、税金をかけて指定業者に回収を委託するよりも、いろんな意味でベターなのではないか。

「ゴミ持ち去り隊」の人たち、まるでどろぼう扱いされているが、実はすごくありがたい存在な気がする。僕はいつも、心の中で応援しています(笑)。

# by dantanno | 2018-03-29 20:02 | 提言・発明 | Comments(0)

矛盾

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写真左: とびっきりの笑顔で、道行く人に聖書の素晴らしさ、神の偉大さと慈悲深さについて説く若者たち。

写真右: そのわずか7-8メートル先で、殺処分されるワンちゃん・ネコちゃんを一匹でも減らそうと寄付を募る若者たち。

「全知全能の神が存在するならば、なぜ悲劇は起きるのか」は宗教の分野でよく議論される論点だが、確かにそう思わずにいられない。なぜ、全知全能の神様(仮にそれが存在するとして)はワンちゃん・ネコちゃんたちを救わないのか。っていうか、救うも何も、なぜ罪の無い動物たちをそのような境遇にそもそも陥れるのか。神が陥れているのではないにしても、神がそれを防げるのに防いでいないとしたら、実質的に神がそうさせているのと同じではないのか。

なぜ動物チームの若者たちは、聖書チームの若者たちに対して怒らないのか。神様がポンと一億円寄付してくれたら、無数の命が救われるのに。ビル・ゲイツや孫正義に出来ることが、神には出来ないのか?

聖書チームのメンバーたちの頭の中では、これらの問題はスッキリと整理されているのかもしれない。だとしたら、それがどういう整理なのか知りたい。例えば、「これは神が与えたもうた試練なのです」とか?だとしたら、誰にとっての試練?人間?動物?疑問は尽きない。
駆け寄って聞いてみたいけど、勇気が無い。

もう一杯飲みながら考え、動物チームにわずかばかりの寄付を渡して家路につくことにする。

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# by dantanno | 2018-03-24 16:34 | プライベート | Comments(0)

第55回「宣伝会議賞」、あえなく選に漏れる。。

昨年に続き、第55回「宣伝会議賞」に応募した。
結果は、(昨年に続き)あえなく一次審査での落選だった。



この賞は、要するにコピー(キャッチコピー)を考え、応募する賞。
応募出来る部門としては、「コピー部門」や「CM部門」があり、いくつもの企業に何通でも応募出来る。

おもしろいのは、多くの企業がこの賞に協賛しており、それら企業の実際のコピーを考える賞である、という点。単なるアカデミックなイベントではなく、ビジネス、実務、実社会と密接につながっている点が好きだ。



プロのコピーライターはもちろんのこと、我々シロウトの中にも、いろんな商品やブランドのコピーを夢想して楽しんだ経験がある人はいると思う。

また、実際にCM等で使用されているコピーを見聞きし、不遜にも
(これで通用するの?だったら自分の方がいいコピーを思い付きそうだ・・・)などと妄想する人もいるかもしれない。僕もそう思ったりすることもたまにあるが、実際にコピーの賞に応募するとなると、いいコピーを思い付くのはなかなか難しいことに気付き、不遜だった自分へのいい戒めにもなる。



グランプリ作品はもちろんすごい。でも、それだけではない。

一次審査の入選者の一覧を見ていて(すごいなあ)と感心するのは、同じ応募者が、複数の企業のコピー部門やCM部門に多数入選している、そんな猛者がいること。
その人の名前をググってみると、プロのコピーライターだったりするのだが、それにしても実にすごい。

賞に参加している企業を一社選び、その会社やその会社の商品・ブランドについて、長い間考えに考え抜いて、その結果いいコピーをひとつ、あるいはいくつか思い付く、というのであればまだ分かる。それもすごく難しいことなのだが。

でも、この人たちがすごいのは、その作品が複数の企業で選ばれている、という点だ。
(一社で入選するのも大変なのに!)



ーーー



なぜ、自身がコピーライターではなく、コピーライターを目指してもいない僕(=通訳者)がこのような賞に年々応募しているのか。
それは、いい通訳者になるためだ。



この点については、通訳者になった頃に一度、結構考えた時期がある。
僕の場合、10年とか20年とかそういった悠長なスパンではなく、3年ぐらいで通訳のウデをかなり上げる必要があった(3年後に独立してエージェントを立ち上げる,という無謀な目標を持って証券会社のインハウス通訳者になったからだ。ちなみに、結果的に3年以上かかった。)



通訳のウデを一刻も早く上げるためには、

1.通訳の本番、およびそれに向けた予習、および通訳のトレーニング(リテンション、リプロダクション、メモ取りの練習、逐次・同通演習など)に専念するのがいいのか、

あるいは、通訳というものをもう少し広く捉え、

2,上記「狭義の通訳」関連の取り組みに加え、ことばに関連する他のいろいろな取り組みもした方がいいのか、

の2点で揺れ動いた。

通訳者の中には、1.寄りの人も2.寄りの人も、あるいはその中間のどこかの地点に位置する人もいるだろう。



「揺れ動いた」と書いたが、まあハラは最初から決まっていて、僕は断然2.のルートを選ぶことにした。一見遠回りでも、3年ぐらいのスパンで考えたとき、この適度な回り道(Detour)がちょうど良いだろう、と判断したのだ。

そして、何よりも僕は飽きっぽいので、通訳をあまり狭義に捉えてしまうと早晩飽きるだろう、という達観もあった。



では、「通訳そのもの」以外に、一体何をするのか。

絵本の翻訳コンテストがその一つだ。
これについても毎年熱心に応募し、毎年あえなく撃沈している。かすりもしない。(でも、今年は元教え子が見事入選したのでとてもうれしい。)



このブログを書くこともそうだ。

頭の中に何か伝えたいこと、相手に説明したいことがある場合、どうすればそれを分かりやすく説明出来るのか。それを日々トレーニングすることは、「話し手が言っていることを分かりやすく説明すること」とも定義出来る「通訳」という仕事をする際にきっと役に立つと感じた。

これは、直接的には実感しにくいが、きっと役に立っている、と思う。
話し手が話し終わった、その一瞬の間に(うーんと、今の話はどうやって説明すればいいかな・・・)と考える、そういう瞬間があるが、その作業を日々ブログ書きで経験しているのは多分役に立っていると思う。



コピーの賞である「宣伝会議賞」への応募も、この活動の一環だ。

コピーの対象(この場合は企業だったり、あるいはその製品やサービス)を説明する際、どうすれば「刺さる」のか。自分の思い上がりで放つことばは刺さらない(僕が毎年身をもってお示ししている通り)。やはり、聴き手の心に刺さらないといけないわけで、(このことばは、聴き手にどう伝わるだろうか・・・)を考える作業は,通訳力に直結する気がする。

毎年,優勝どころか一次審査さえも通らないということは、僕が放つことばがいかに独りよがりであるかの現れだ。(オレはコピーライターじゃないし(笑))などとうそぶいていてはいけない。ことばの専門家なんだから、グランプリとまでは行かないまでも、せめて一次審査を通る作品を1つでいいから作れないと恥ずかしい。

実際、落選が分かってから、自分が応募したコピーたちを改めて眺めてみて、かなり恥ずかしく思った。よくこんなので、(もしかしたら一次審査ぐらいは通過するかも♪)と思っていたなと、部屋で一人赤面した。。。
(そして、思い付いたことば/コピーをしばらく寝かせておく必要性も改めて痛感した。)

来年もぜひまた応募したい。



これからも、通訳というものをなるべく広く捉え、あらゆる「ことば関連の取り組み」に貪欲に取り組んでいきたい。それは通訳力アップのため、という口実もあるが、実のところ、単に楽しいからというのが大きい。

# by dantanno | 2018-03-21 12:24 | プレミアム通訳者への道 | Comments(0)

「単身渡米」について考える

「単身渡米」という言葉が、昔からものすごく気になる。

情熱大陸や「プロフェッショナル・仕事の流儀」のような番組で、
「田中は、23歳の時に単身渡米」
とかいうアレだ。

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時計の「たんしん」は「短針」、
IRの世界で「たんしん」といえば「(決算)短信」、
でもここで言っているのは「単身」、つまり alone, by himself/by herself ということだ。

ーーー

「単身渡米」の、いったい何がそんなに気になるのか。

まず思うのは、「渡米」「単身渡米」どう違うのか、ということ。
番組を演出するスタッフは、何を伝えたくて「渡米」の前に「単身」をつけているのか。

「田中は、23歳の時に渡米」
「田中は、23歳の時に単身渡米」

並べて分析してみると、確かに、、確かに何かが違う

「渡米」だけだと、なんだか「ふーん」という印象を受ける。アメリカに行ったのね、という感じ。

一方、後者「単身渡米」だと、なんだか「おおおおお」という印象を受ける。
荒波に勇ましく挑み、アメリカの地を踏む、、みたいな感じ。

なるほど、やっぱり「単身」には何かがある。

ーーー

そして、次に僕が考えたのは、「単身渡米」の反対語は何か、ということ。

最初に思い付くのは「単身不渡米」、つまり「一人で日本にいる」ということだ。
これは、「渡米」と言われたとき以上の「ふーん」感が漂う。「だから何?」みたいな。

もう一つ思い付く「単身渡米」の反対語、それは「大勢で渡米」だ。
「家族を連れて渡米」だったり、「当時付き合っていた恋人を連れて渡米」だったり、「三丁目住民みんなで渡米」だ。


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「単身渡米」という言葉について、ずっと考えて来た結果思うのは、

単身渡米 よりも 大勢で渡米 の方がよっぽど大変で、すごいことだ!

ということ。

「単身」は、勝手気ままである。フーテンである。
日本から、経済的に、そして心の支え的にサポートしてくれる人がたくさんいるからこそ、自分のやりたいことをやるためにアメリカに行く。周りの助けがあってこそ出来る「単身渡米」だ。
もちろん、一人で行く寂しさはあるだろうし、家庭の事情などで「一人で行かざるをえない」こともあるだろう。でも、独り身の気楽さは間違い無くある。

一方、大勢を引き連れての「渡米」は、多くの責任を伴う。

出発前、連れて行く人たちを説得しないといけない。
連れて行ってからは、現地でみんなを守らないといけない。
買い物をしないといけない。学校に行かせないといけない。コメや醤油をGetしないといけない。諸々の問題に直面し、対応しないといけない。
リスク的にも、経済的にも、ロジ的にも、一人で身軽に行くのの何倍ものコストと手間がかかる。
実に大変だ。

これは、自分の経験からも間違い無くそう言える。
僕はしょっちゅう仕事で海外に行っているが、一人で出張したり、一人で海外に長期滞在するのは実に簡単。
一方、家族を連れて海外に長期滞在するのはかなりハードルが高い(得るものもすごく大きいけど)。

家族連れで海外に出張するのと比べると、一人で出張するのなんて、「こんなんでお金もらっていいの??」って後ろめたく思うほどラクで簡単。

ウチのように短期滞在ではなく、3年とか、5年とか、あるいはそれ以上の期間、家族を連れて海外に行き、そこで子供たちを学校に通わせ、生活を成り立たせる人たちが大勢いる。そういうお父さんやお母さんたちの方が「単身渡米」よりもはるかにすごいし、リスペクトに値すると思います。

ーーー

もちろん、「単身渡米」が全くすごくない、というわけではない。

今の時代でもそうだし、昔であればなおさら、海外に出て勝負をする、というのはすばらしいこ
とだと思う。だから、23歳の時に勇気を出して「渡米」したことは大いに称賛に値する。
(また、この記事を書いた後、ある人から指摘いただいたのが、「単身で行く」ということは、日本にいる仲間(家族や友達)との交流を犠牲にしてでもそこに行きたい、という強い想いがあるわけで、それを表すための「単身渡米」なのかもしれない、ということ。確かにそういう面はあるかもしれない。)


「単身」は、それほどアピールに値しないと思う。
アピールするなら「大勢で渡米」した場合だ。一人で身軽に海外に行くことが出来た場合は、それを支えてくれている家族、友人、そして仕事上のパートナーやお客さんに感謝することの方がアピールよりも先決だ。





# by dantanno | 2018-03-13 23:14 | ことば | Comments(0)

映画 "Three Billboards Outside Ebbing, Missouri"を観て

とてもいい映画だった。

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娘を事件で失った母親が、警察の怠慢に怒り、家の近くのビルボードを3つ使って抗議をする、という話。それに伴い、一連のドタバタが起きる。

主演はFargoで婦人警官役を好演したFrances McDormand(フランシス・マクドーマンド)。

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ちょうど最近(2018年3月)、U.S.でのGun violenceに対してTeenagersが立ち上がって抗議していて、タイムリーな映画。

子を亡くした親の捨て身の執念。失うものが無い強さ。

全編を通して流れる、救いの無い感じと、それにマッチした音楽。でも、救いの無さの中にどこかコメディーがある。それが人生なのか?と考えさせられる。後味は不思議と悪くない

一番印象に残ったのは、物事の二面性、ということ。この映画は、一見
「警察(悪)に立ち向かう母親(善)」
というありがちな構図なのだが、観ている内に、物事はそうシンプルではないことに気付かされる。

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映画は、警察のマトモな面も描いているし、母親のおかしな面もあらわにする。一見「こう」としか思えない、「そう」としか見えないことにも、実は別の側面があり得る、ということに気付かされる。その「別の側面」が自分には見えていないだけに非常にイメージしにくいが、それは(見えていないだけで)実は存在するわけだから、それに想いを馳せることが重要。

最後のセリフの訳「道々考えればいい」がステキだと思った。

一人でじっくり観るも良し、大事な人と観て、その後飲みながら感想を話し合うのも良しな、貴重な作品。

# by dantanno | 2018-03-12 22:47 | プライベート | Comments(0)

芥川賞受賞作全文掲載の文藝春秋を読む

いつもうれしく思うことだけど、文学賞の全文掲載版の文藝春秋は結構おトクだと思います。受賞作品を単行本で買うよりも安い値段で、受賞作品以外のコンテンツもおまけに付いてくる。しかも今回は2作品も!

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受賞作と全く関係ない通常の文芸春秋の記事が付いてくるのはもちろん、受賞作品の著者インタビューや、選者による評が特におもしろい。

「おトク」と書いたけれど、ここで読んだ受賞作品があまりにも良くて結局単行本も買う羽目に陥るケースもある。「コンビニ人間」とかがまさにそうだった。トクさは減じるものの、それはそれでうれしい誤算。

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# by dantanno | 2018-02-13 11:10 | プライベート | Comments(0)

大事な話は右耳から?

Wall Street Journalに載っていた記事。

One way to get your child to listen
https://www.wsj.com/articles/hint-to-parents-your-kids-process-words-better-in-their-right-ears-1517580001
(リンクがうまく開かない場合、当ブログ記事の一番下の記事のコピペをご参照ください。)

子供に言うことを聞かせたいなら、、、いや、僕の解釈では「子供に話をちゃんと聞いてほしいなら」、左耳ではなく右耳に聞こえるように話した方がいい、という内容。

right-ear advantage (右耳の優位性?)という現象だそうです。

なぜそういうことになるかというと、
左耳から聞いた情報は、まずは右脳に行き、そこから左脳に転送されるが、
右耳から聞いた情報は、直接(言語を処理する)左脳に行くので、理解が早い、ということらしい。

気のせいかもしれないが、そう言われてみると確かにそういう気がする。
右耳で聞いた情報はスッと入ってくるけど、左耳から聞いた情報は一度プロセシングが必要な気がする。もっとも、これはこの記事を読んだからそう思い込み始めただけかもしれないけど。

ーーー

右耳優位の傾向は、大人でも見られるものの、子供においての方が強く出る、とのこと。それは、子供は(左耳から入った情報を)右脳から左脳に転送する仕組みがまだ十分確立されていないから。

子供が全然言うことを聞いてくれないとき、それはもしかしたら親の立ち位置が悪いのかもしれない(苦笑)。

ーーー

多くの人が電話を右耳で受けるのは、「右利きの人が多いから」というのもあるかもしれないけど、「右耳で聞いた方が理解しやすいから」というのもあるのかもしれませんね。

運転しているときに助手席の人が話しかけてきた場合、(運転に集中している分)話を聞くのがちょっと上の空になりがち。
日本車の場合は右ハンドルの車がほとんどで、運転者は左耳で助手席の人の話を聞くことになるから、その分「上の空」度が外車と比べてちょっと高いのかもしれない。


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通訳をするとき、事務局の方々から「ダンさんはどっち側に座りますか?」と聞かれるシチュエーションがときどきある。IRで、どこかの会社の社長さんに同行している場合、社長の右側に座るか、左側に座るか、ということ。

今までは「あ、どっちでも大丈夫です」と即答し、左右についてこだわりが全く無いことを(心のどこかで)誇りに思ってきた気がするけど、本当は気にかけた方がよかったのかも。社長に僕の通訳(日本語訳)を分かりやすく聞いてもらうためには、右耳から訳を聞かせてあげた方がいいわけだから、ええっと、、、僕が社長の右隣に座ればいいのか。そして、(左脳に直接届け〜)と思いながら訳せばいい。一方、社長が話をして、それを僕が聞く(そして訳す)とき、僕は社長の話を左耳から聞くことになってその分ちょっと理解面で不利になるわけだが、それも含めて通訳という仕事なんだろう。

次からはスピーカーの右隣に座るようにしてみよう。

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One Way to Get Your Child to Listen
Children process words better in their right ears; information reaches the language-processing side of the brain faster


Say what?

When speech funnels into your right ear, the initial signal reaches the side of the brain that processes language in about 20 milliseconds.

But if the information is captured by your left ear, it travels a longer, more circuitous route.

That’s not a problem if both ears hear the same words, but when each receives competing messages—think about being on the phone while someone is talking nearby—the information captured by the right ear will be processed more efficiently.

The phenomenon is known as the right-ear advantage

It helps explain why children, in particular, have trouble handling information when competing signals bombard each ear, and new evidence suggests it also may affect adults when they’re trying to absorb complex information.

“In children, the right ear has a huge advantage,” said Aurora Weaver, a professor in communication disorders at Auburn University. “It’s not that the left ear isn’t hearing. It’s that the brain can’t make use of the information and respond to it.”

Audiologists test the ability to process competing messages by presenting different material simultaneously to each ear, then asking the person to repeat it.

Traditionally, two digits are presented to each ear.

A typical 7-year- old child will accurately repeat the information presented to the right ear approximately 70% of the time, according to Frank Musiek, a professor of speech, language and hearing sciences at the University of Arizona. The same child will accurately repeat information presented to the left ear approximately 55% of the time.

“It’s part of what’s going on when you think a child is not paying attention,” Dr. Weaver said. “If a classmate is talking in the right ear, it’s harder to attend to what is being discussed in class.”

When speech is captured by the right ear, it generally travels directly to the left hemisphere of the brain, where, for most people, language is processed.

But speech collected by the left ear typically travels first to the right hemisphere. From there, it must be relayed to the left hemisphere through a broad band of nerve fibers that facilitates communication between the hemispheres and is known as the corpus callosum.

“When you have a direct shot from the right ear to the left hemisphere, you don’t have to cross the entire width of brain to get to other side,” Dr. Musiek said. “The signal from the left ear is put at a disadvantage.”

The relay could take as little as three to five milliseconds or as much as 300 milliseconds. “We’re talking about a definite difference,” Dr. Musiek said.

The right-ear advantage is more evident in children than adults because myelin, an insulating sheath that allows nerve impulses to move more quickly through the corpus callosum, hasn’t fully developed. As the myelin forms over a series of years, the relay of information from the right hemisphere to the left improves, and the right-ear advantage fades.

A 9-year-old receiving competing information in each ear will be approximately 80% accurate in the right ear and 75% accurate in the left, Dr. Musiek said. Children 11 and older will be approximately 90% accurate in each ear—about the same as an adult.

In adults, the right-ear advantage is generally considered clinically insignificant, but Dr. Weaver and her colleagues, who shared their findings in December at the annual conference of the Acoustical Society of America, tested this by presenting adults with complex streams of material.

“We included more pieces of information, from two digits in each ear to up to nine digits in each ear, which would be close to a phone number or social security number,” Dr. Weaver said.

The study, including 41 adults ages 19 to 28, found that as cognitive demand increased, the right-ear advantage persisted.

The ability among the test group to repeat information that exceeded their basic memory capacity was, on average, 7% greater in the right ear, and in some individuals, it was as much as 40% greater.

Other things could contribute to the results. For example, traditionally in tests like this, streams of competing information are kept brief to avoid confusing auditory processing with memory tasks, Dr. Musiek said.

But if you have an important message to deliver to someone, you might want to begin like this:

Lend me your ear. No, not that one. The other one.



# by dantanno | 2018-02-03 06:14 | プレミアム通訳者への道 | Comments(0)

コンビニの「2番目にお待ちのお客様どうぞ」に感じる違和感

いつも思うんだけど、実は「1番目にお待ちのお客様」なんじゃないかな~。

# by dantanno | 2017-12-23 00:29 | プライベート | Comments(0)

クレームを避けつつ恐れない、そんな通訳者になりたい

通訳をしていると、残念ながら受けてしまうことがある「クレーム」というものについて考えてみる。

章立ては以下の通り:

1.クレームについての基本的な考え方
クライアントを傷つかせる「クレーム」というものは、絶対に避けなければならない
「クレーム」よりも「不満」に目を向けることが大事
クレームは通訳エージェントの責任でもある
クレームは一方通行ではない
クレームをよく見てみると・・・
なぜクレームが入るのか

2.クレームを受けたときの考え方・対処法
「通訳そのものに対するクレームじゃなくてよかった・・・」というとらえ方について
クレームはアテにならない。クレームをする人よりも厳しいはずの「自分の目」
クレームは「一つの情報」として受け止める

3.その他の項目
クレームが来やすい雰囲気作り
通訳エージェントは、通訳者に対し、クレームがあったことを伝えるべきか

最終項: 「クレームゼロ」は可能か?



一通訳者として、そして一通訳エージェント運営者として、クレームについては思うところがいろいろあるようで、ついつい大業な章立てになってしまった。

上記章立てを見ると、互いに相反するというか、矛盾する項目もある。それは僕の頭の混乱の現れかもしれないが、それよりも、クレームというものがいかに千差万別で、ケースバイケースであるか、の現れでもあると言える。

さて、通訳に限らずほとんどのサービスについてあてはまると思うが、がんばって仕事をしていても(がんばっているからこそ?)クレームが入ってしまうことは必ずある。クレームが来た場合、それについてどう考え、どう対処するのがいいのか、以下で考えていく。



<1.クレームについての基本的な考え方>

クライアントを傷つかせる「クレーム」というものは、絶対に避けなければならない

確か本田宗一郎の本だったと思うが、「(製品を買った後に)クレームをしてくるお客さんは傷ついているんだ」というようなことを言っていて、
(なるほど、確かにそうだなあ・・・、偉大な経営者はいいことを言うものだなあ・・・)と感銘を受けたのを覚えている。

通訳案件終了後、クレームをしてくるクライアント、あるいは会議参加者(以下広義の「クライアント」に含める)は、怒っていることは怒っているのだが、それよりも、傷ついている。悲しんでいる。口惜しがっている。
クライアントの表面的な「怒り」に気をとらわれてしまうと、クレームの受け手たる我々もついつい身構え、逆ギレの一つもしたくなってしまうかもしれない。あるいは、とりあえずヘイヘイと頭を下げ、嵐が過ぎ去るのを待つという、非本質的な対応を取るかもしれない。だが、その裏側にある傷、悲しみ、口惜しさ、そういったものに目を向ければ、我々の対応方法も変わってこよう。

だからこそ、クライアントを傷つかせるクレームというものは絶対に避けなければならない、と改めて思う。



「クレーム」よりも「不満」に目を向けることが大事

「クレームが入ったかどうか」は表面的なことだ。
それよりも大事な 「クライアントが満足したかどうか」という本質 を重視することで、「クレームには至らなかったが、クライアントが不満を感じたケース」、つまり目に見えない部分をしっかりと捕捉することが出来る。


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クライアントは、何らかの不満を感じたからクレームをするわけだが、「不満を感じたのにクレームをしない」ことだってたくさんある。

「ほどではない」パターン:  不満は不満だが、クレームをするほどではない
勇気パターン:  クレームをする勇気が無いクライアントだっているでしょう
サイフ・パターン: 会議に参加していても、通訳代を支払っているのが自分ではない場合、クレームするのを躊躇することがある
あきらめパターン: 「クレームしてもしょうがないだろうから、もういいや別に。」ある意味これが一番怖い。

特にIR通訳の場合、ミーティングの形態上、クレームが入りにくい仕組みになっている。だからなおさら「クレーム」ではなく「不満」に目を向ける必要がある。(この点については過去記事「IR通訳のジレンマ」ご参照)



クレームは通訳エージェントの責任でもある

「でもある」というか、責任の過半はエージェントにある、とも言える。
通訳者が、ある個性を持ち、ある一定の通訳能力を有すること、それ自体は「悪いこと」ではない。それが多少変わった個性であれ、それほど高くない通訳能力であれ、それ自体は悪いことではない。それは単なる事実であり、しょうがないことであって、悪いのは、その通訳者をその案件/そのクライアントにはめ込んだ通訳エージェントである、という考え方だ。
これもケースバイケースだよなあ、、、と思うが、クライアントからクレームが入った場合、それが「通訳者」に対するクレームだからといってエージェントは責任ゼロということでは決してない、ということは少なくとも言える。僕のようなエージェントは、その当たり前を自覚して通訳者をアサインする必要がある。

一番よくないのは、エージェントがテキトーにアサインした通訳者にクレームが入り、それに対し

エージェント 「ああ、すみません〜。もうその通訳者は御社にはアサインしませんので〜」

と、罪の無い通訳者を、本人知らぬ間に勝手にブラックリストに載せてしまうことである。

ときには「アサイン出来るのにアサインしない勇気」も必要だなあ、と思う(難しいんですけどね)。

尚、この記事においてはエージェントの視点ではなく、通訳者の視点からクレームというものを考える。



クレームは一方通行ではない

クレームというと、どうしても「お客様→業者サイド」という流れをイメージしてしまうが、我々通訳者サイドにだって不満を感じたり、クレームをしたりする権利は当然ある。だから、クライアントだからといってあまり威張っているといいことありませんよ(笑)、という話。
必ずしも客がエライとは限らない、という点については過去記事ご参照。)

クレームが入る通訳案件はどういう案件かというと、案件を終えた通訳者がなんだか首をかしげながら、肩を落としながら帰ってくる通訳案件だ。通訳者が「今日のミーティングはとてもよかった!」という通訳案件はなかなかクレームにはならない。これは当たり前のようだが、意外と深い話だと思う。通訳者が気持ちよく通訳出来れば、クライアントだって満足するものなのである。

IRISではあまりそういう事例は無いが、世のいろいろなクライアントを見ていると、中には(自分で自分のクビを絞めてるなあ・・・)と感じさせるクライアントもある。通訳者に対して威圧的な態度を取り、ミーティング中もずっとプレッシャーをかけ続ければ、たいていの通訳者であれば、通訳パフォーマンスは低下する。それに対してクレームをする。まるで、通訳者のミスや焦りをクライアント自ら誘発しているようなものだ。悪循環である。

クレームをしたくなければ、まずは通訳者を大事にするところから始めてみるのもいいかもしれない。



クレームをよく見てみると・・・

クレームをよく見てみると、実はいろいろな種類があることに気付く。いわゆる「クレーム」と呼べるものから、それよりも少し軽めの「ネガティブ・フィードバック」的なもの。そして、「要望」に近いものだってある。今後もっといい通訳をしてもらうための「提案」めいたものだってある。だから、あまり「クレーム」と十把一絡げにしないことだ。

例えば、クライアントが「○○を A と訳していたが、正しくは A' なので、今後そう訳してほしい」と言ってきたとしよう。(これぐらいの軽いフィードバックであれば、通訳案件終了後というよりも、現場で直接通訳者に伝えられる可能性が高いだろう。)
このフィードバックは「文句」すなわちクレームととることも出来なくはないが、それよりも「改善のための提案」と受け止める方が正しいと思う。そしてそれは、その通訳者が気に入ったから、今後もその通訳者に仕事を依頼したいからこそなされる提案だろう。ということは、これは落ち込む対象ではなく、喜ぶべき対象、とも言える。
 
この記事を読んでくださっていて、改めて感じられた読者もいるかもしれないが、「クレーム」ということばにはとてもネガティブな力が宿っている。クライアントのその反応を「クレーム」と定義した時点で、それに対する我々の見方、および対応方法がある程度固まってしまう。だから、あえて「ネガティブ・フィードバック」とか「提案」とか「お客さんは傷ついている」とか、なんでもいいけど、ちょっと視点を変える必要があると思う。
(このブログ記事では、クレームというものをすごく広義に捉え、便宜的に「クレーム」という一語でまとめている。)



なぜクレームが入るのか

通訳案件において、クライアントからクレームが入るのはなぜか。

比較的よくあるクレームは、「業界特有の用語に精通していなかった」というものだ。これについては前述の通り、間に入るエージェントの調整力不足が大きいだろう。

通訳力が決定的に不足していたから、ということも中にはあろう。これについてもエージェントの調整力不足と言えそうだが、こういうケースは例外的だと思う。

クレームを誘発する原因で一番大きいのは、「通訳者がフレキシブルに対応出来なかった」ということだと思う。通訳力は十分あっても、「余裕」が無いと、いい立ち回りが出来ない。周囲を見回したり、機転をきかせたり、訳し方を調整してみたり、といった「遊び」が出来ないと、場がギクシャクし、通訳者も不満、クライアントも不満→クレーム、という流れになりやすい。
前述の本田宗一郎ではないが、オートバイのチェーンにしっかりと遊びをもたせてやり、潤滑油を塗っておかないと、チェーンがピンピンに張り詰めて切れてしまうのと似ている。



さて、これまでクレームというものについての基本的な考え方を整理してみた。ここからは、実際にクレームが来たときの受け止め方という、これまた大いに正解の無いテーマについて考えてみる。



<2.クレームを受けたときの考え方・対処法>

「通訳そのものに関するクレームじゃなくてよかった・・・」というとらえ方について

恥ずかしながら、僕も当然クレームと無縁ではない。

以前、証券会社でインハウス通訳者をしていたときのこと。
ある海外投資家と、ある日本企業の電話会議を通訳していた。投資家は複数人、海外のオフィスの会議室から参加していた。日本企業も、日本にある自社のオフィスから、僕は証券会社の会議室から、3拠点をつないでの電話会議である。

ミーティングの途中、投資家・企業の間で「これはちょっとプレゼン資料を見ながら話した方がいいですね〜」ということになった。
そこで、海外投資家数名の内、若手の1名が資料をプリントアウトしに行く間、ちょっとブレイクしましょう、ということになった。

僕は証券会社に通訳者として入社してまだ間もない頃で、自分が属している部の顧客である海外投資家に対し挨拶をしたかったこともあり、その4-5分の中断時間の間、海外投資家の内、先方の会議室に残っていた人と軽く挨拶/雑談をした。それもすぐに終わり、その後2-3分の中断時間を経て、会議は無事再開された。

ーーー

ミーティング終了後、上長に呼ばれた。

「今のミーティング、どうだった?」
「いや、特に問題無かったと思いますけど・・・」

そうしたやり取りの後、日本企業の方からクレームがあったことを明かされた。
「電話会議が中断している間、通訳者が投資家と親しそうに話をしていた」ことに対するクレームだった。

ーーー

このクレームに対し、僕自身の心境の変化を「実況中継」してみる。

クレームを受けたその日: ただただショック

2日目〜3日目: クレームが入ったことは残念だし、申し訳ないが、通訳そのものに対するクレームじゃなくてよかった

つまり、「通訳のレベルが低すぎる」とか「誤訳がとても多かった」とか、通訳そのものに対するクレームじゃなくてよかったな、と思ったんです。本質的なクレームではなく、表面的(?)な、テクニカル(?)なクレームだったのが不幸中の幸いだったな、と思ったんです。

4日目〜5日目: 「通訳そのものに対するクレームじゃなくてよかった」と胸をなで下ろしている場合じゃないだろう!

やっぱ負けだなあ、と思ったんです。「それも含めて通訳だろうが、お前」と思ったんです。
あと、通訳者は基本的に中立ですが、そのとき僕の「顧客」は海外投資家。だから海外投資家に対し挨拶をした。それに対して日本企業(Not 顧客)が多少不満を感じてもしょうがない、みたいなヘンな気持ちもそのときまであったんですが、全員満足させられなくて何が通訳者だよ、と思ったんです。それに、会議の一当事者である日本企業が(自分のせいで)不満を感じてしまっていたら、それはミーティングの成否に直結し、(自分の大事な顧客である)海外投資家にも悪影響を及ぼすじゃないか。何やってんだよお前!という具合です。

この時の、実に苦い経験から、僕は「通訳そのものに対するクレームじゃなくてよかった、ホッ」と絶対思わないようになりました。自分に対するクレームについても、他の通訳者に対するクレームであっても。どんな不満でも負けは負け。で、次はどうすれば勝てるかを考えればいい。

その後設立した通訳会社の社名を
IRI IR Interpreting(IR通訳)
ではなく
IRIS IR Interpreting Services(IR通訳サービス
としたのも、このときの忸怩たる想いがベースにあります。あと、語呂が良かったというのもあります。



クレームはアテにならない。クレームをする人よりも厳しいはずの「自分の目」

我々にクレームをしてくるのは誰か。クライアントです。会議参加者です。
つまり、通訳のシロウトです。
だから、クレームが来ると(シロウトに何が分かる)という気持ちも正直ゼロではありません。限りなくゼロに近いですけど。

クライアントはシロウトであり、クライアントからのクレームはそれほどアテにならない。だからこそ、プロである我々が、クライアント以上に厳しい目で、自分自身の通訳を日々見つめる(監視する?)必要があると思っています。

言い方を変えると、クライアントが大絶賛していても自分的には撃沈であれば、全然うれしくないですよね。
その逆も然りで、クライアントから大ブーイングがあったとしても、自分的には会心の通訳であれば、その晩はうまい酒を飲めばいい、そう思っています。



クレームは「一つの情報」として受け止める

耳が痛いからといって、クレームに耳を傾けないのはもったいない。的外れだ!とか「それを言われてどう対応しろというのか!」と逆ギレしてしまうのももったいない。「一つの情報」として。それ以上でもそれ以下でもない「一つの情報」として、しっかりと受け止めればいい。

といいつつ、一つ前のセクションで論じた通り、クライアントのクレームはそれほどアテにならない。あくまでも「一つの情報」に過ぎない。だからいちいち大慌てしない。単なる「一つの情報」として受け止めればいい。

そのクレームを受けて、「落ち込む」以外に何か対応を取るのか取らないのか。
今後、現場での立ち回り方を変えるのか。通訳のウデを上げるためにトレーニングをするのか。案件の受け方について、量 AND/OR 質を調整するのか。
それらは重要な判断である。
「一つの情報」でしかないクライアントからのクレーム、しかもシロウトの意見を、そういう大事な判断の根拠にする必要など無いと思う。
あくまでも、プロの通訳者である自分自身が、自分に対して下す自己分析・自己評価、それを今後の活動の判断根拠にすべきだと思う。

(ちなみにインハウス通訳者であれば、問題があった後、不満を感じてしまった人のところに行って何らかのフォローアップをするとか、そういった事後対応が可能なケースもありますよね。フリーランスだとそれがしにくいケースがほとんどなので、じゃあそのクレームを受けて今後の自分の通訳者としてのあり方を何かしら調整するのかしないのか、という話になることが多いと思います。)



さて、これで第2部も終わりました。以下では、ちょっとコラム的に第3部です。

<3.その他の項目>

クレームが来やすい(気安い?)雰囲気作り

(この人にクレームをしたら、超落ち込みそうだなあ・・・)
(この人にクレームをしたら、逆ギレしそうだなあ・・・)
(この人にクレームをしても、プラスの効果は生まれないだろうなあ・・・)

そう思われてしまったら、貴重な「一つの情報」であるクレームから遮断されてしまいます。だから、日頃からクレームが来やすい雰囲気作りをしておくことが大事だと思います。

今、ちょうど漢字を変換していて思ったんですが、何でも気軽に言える「気安い」雰囲気、それが現場でも、そして現場以外でも大事なのかもしれませんね、通訳者にとって。



通訳エージェントは、通訳者に対し、クレームがあったことを伝えるべきか

これはとても大きなテーマで、もしかしたら後日一つの記事で書いてみたいと思います。

IRISでは、それがポジティブな場合はもちろん、ネガティブだった場合でも、クライアントからのフィードバックは基本的にそのまま通訳者に伝えることにしています。
その勝率はまあ75%ぐらいで、中には(言わなきゃよかった・・・)と深く後悔するケースもあります。通訳者を無意味に傷つけてしまったと感じるときとか、「それを言われて、私にどうしろと言うんですか!」みたいな反応があるときです。まあケースバイケースなんでしょう、これも。

一応、僕がなぜ「基本的に伝える」方針をとっているかを書いておくと、「一つの情報」として貴重だと思うからです。クライアント、あるいは会議参加者は「そう思った」んです。クライアントがそう思ったことは、まぎれもない事実なんです。だから、それは「一つの情報」として、あくまでも「一つの情報として」、一定の重要性を持っていると思うんです。

僕がラーメン屋のオヤジだったら、僕のラーメンを食べて「まずい」と感じた客がいれば、それは情報として僕は知っておきたいだろうな、と思うんです。聞くのはイヤだし、しかも仮にその情報をもらってもスープの味や麺のゆで方を変えないんだったらそんな情報不必要じゃないか、という気もしますが、やはり情報として持っておきたい。

それと同様に、僕が通訳者であれば(通訳者ですが)、自分に対しネガティブ・フィードバックが入ったら、やっぱりそれを知りたい。イヤだけど知りたい。出来ることなら、実際にクレームがあった場合だけでなく、クライアントや会議参加者が心の中で不満に思った内容についても全部のぞき見したいぐらい。でもそれは無理だから、せめてそれが表面化した「クレーム」については必ず知りたい、と思うんです。

僕はそう思うけど、でもそう思わない通訳者もいるだろうし、僕の人間力を高めたり、伝え方ももっと工夫した方がいい面もあるでしょう。日々反省、日々精進です。



最終項: 「クレームゼロ」は可能か?

最後に、そこそこ大事なテーマを持って来てみました。
絶対にクレームが入らない、そんな「クレームゼロ」の通訳は可能か。



僕は可能だと思います。現に僕だって、前回クレームが入ってから今日まで「クレームゼロ」です(爆)。

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冗談はさておき、実際「絶対にクレームが入らない通訳」は可能だと思います。いくつか条件がありますが。

1.自分が精通した分野であること。
2.通訳力がそこそこ高いこと。
3.かなりフレキシブルに対応する心づもりがあること。
4.クレームをしにくい雰囲気を漂わせていること(笑)。

などなど。

ーーー

最近の自分を振り返ると、「絶対にクレームが入らない通訳」を目指してしまっている気がします。(それでもクレームは入るのがとんだお笑いぐさですが)。
訳す際も、(その場のキーマンは誰か、その人の英語力はどの程度か、どういう訳し方をすればその人は不満に思うだろうか)、みたいな、本質から外れたことばっかりに神経をすり減らしている、と感じることがときどきあります。そういう通訳は疲れるし、会場に感動も生まれにくい。

まだ駆け出しの通訳者だった頃は、そんな余計なこと考えていなかった。考える余裕が無かったわけですが、でもその方が自由でのびのびとした、いい通訳をしていた気もする。

クレームは、クライアントの「傷」だと冒頭で書きましたが、通訳者自身が受ける「キズ」でもあります。そして、挑戦しているときはキズがつきもの。
藪に飛び込んでツタや笹を刈れば、体にたくさんのキズがつくけど、でも、そのおかげで道が開け、次の次元に行けることもあるでしょう。



自戒の念を込めて。

通訳者は、クレームを絶対に避けなければならない。会議参加者を絶対に傷つけてはならない。

でもその一方で、通訳者はクレームなど恐れなくていい。クレームしてくる相手はシロウトです。
自分がそのとき、その場にとって一番いいと思う訳を、堂々と、のびのびと、大きく追究すればといい。

そして、クレームが入ったら、それは「一つの情報」として大事にし、そういう情報を蓄積しつつ、試行錯誤しながら自分の通訳を完成させていけばいい。

それこそが、一流の通訳者への、一番の近道だと思うんです。

# by dantanno | 2017-12-12 12:01 | プレミアム通訳者への道 | Comments(0)

超繁忙期は、通訳者にとって超大チャンス

毎年この時期(12月頭ぐらい)、日本の通訳業界は超繁忙期を迎える。
われらがIR業界において大きなイベントがあり、多くの通訳者がそれに駆り出されるためだ。

このイベントに駆り出される通訳者は、もちろん忙しい。
イベントに参加しない通訳者も、多くの通訳者がイベントに行っているのでよそで通訳者が不足し、結果的に忙しくなる。

今週の通訳案件について、IRの、そしてIR以外のいろいろなクライアントから何度
「誰かいませんか??」

と聞かれ、それに対し何度
「すいません、もう誰もいないんですよ〜」

と答えたか分からない。

ーーー

毎年この時期に超繁忙期を迎え、思うことが2つ。

1.なんでピーク時に値上げしないんだろう

旅行業界であれば、GWに値上げするのは当たり前。通訳業界では、毎年この時期が超絶的に忙しくなるのが分かっているのに、なんで値上げしないんだろう。
IRISでは、昨年から部分的に「繁忙期値上げ」を始めています。繁閑にかかわらず、通訳料金のプレミアム化につとめたい、とIRISでは思っていて、その一環です。
来年からはさらに拡大していく予定です。



2.通訳者不足がもたらす「大チャンス」

こっちが本題。

超繁忙期に通訳者が不足すると、興味深い現象がいろいろと起きる。

ーーー

IRのイベントで、誰もが知る超大企業の、しかも社長が登場する大事なIRミーティングに、
「IR通訳ほぼ初めてなんです〜、よろしくお願いします〜」

みたいな通訳者があてがわれたりと、平時であれば考えられない出来事が起きる。

これは、その企業、およびそのミーティングに参加する外国人投資家にとってはある意味悲劇だが、その場にいる駆け出し通訳者にとっては大チャンスである。

ーーー

IRイベントに多くの通訳者が行っているため、IR以外の分野でも大チャンスが頻発する。
平時であれば、いつもその案件を担当しているベテラン通訳者が担当するであろう重要案件(取締役会、海外の大型案件、などなど)が、一見さん通訳者にぐるっと回ってくる。大チャンスである。

こうした大チャンスは、日頃から通訳力を上げるための取り組みを続けている駆け出し通訳者にとって、下克上のいい機会である。

会議参加者、クライアント、あるいは通訳エージェントに
(あれ?この人今回初めてお願いしたけど、意外といいじゃん)

と思わせられれば勝ちである。

特に、日頃その案件を担当しているベテラン通訳者が、もはや惰性で仕事をするだけで進歩を放棄しているタイプの通訳者であれば、今後その案件の担当をひっくり返すのはそう難しくはない。

ーーー

通訳者になりたての頃、チャンスが全然巡ってこなくて焦った時期があった。
自分を証明したい。でも、案件の引き合いが行く先は「いつもその案件を担当している馴染みの通訳者」ばかりで、自分には全然チャンスが回ってこない。一生このままなんじゃないか、一生浮かばれなかったらどうしよう。

今から振り返れば杞憂にすぎないことが分かるが、当時はそう思ったものである。
そうした悶々とした駆け出しの通訳者にとって、超繁忙期は自分を証明し、状況を完全に引っ繰り返すすばらしい機会になるだろう。トランプゲームの大貧民でいうところの「革命」を起こせる。


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超繁忙期は、駆け出しの通訳者にとってはもちろん、我々ベテラン通訳者にとっても実は大チャンスである。

クライアントは、日頃の我々の通訳レベルにもう慣れてしまっている。
(このレベルが当たり前)と思ってしまっている。特別感が薄れている。
そして、馴染みのクライアントほど、我々の通訳に「馴染んで」しまっている

それが、超繁忙期になるとどうなるか。

馴染みのクライアントから依頼が来る。ぜひ担当したいところだが、超繁忙期のため、自分には別件が入ってしまっている。優秀な通訳者はもう軒並み押さえられている。
そこで、平時であれば自分(あるいは優秀な通訳者)が担当するはずのその案件に、一般的な通訳者がピンチヒッターとしてあてがわれる。

その通訳者のパフォーマンスを見た会議参加者やクライアントに
(ああ、**さん(=あなた)はやっぱすごいんだ。あれぐらいが当たり前、と思っちゃいけないんだな、ありがたやありがたや・・・)

と思わせられれば勝ちである。

その後、その案件/そのクライアントとあなたの結びつきはきっと強固になり、料金のプレミアム化(要するに値上げ)などもしやすくなるだろう。

ーーー

超繁忙期に我々通訳者が気にかけるべきは、いかに手帳を埋めるか、ではないと思っている。
超繁忙期なんだから、ある程度の通訳者であれば、ほっといても予定は埋まる。
ポイントは、いかに予定を埋めないかだ。

予定を空けておけば、直前になるとやってくる「大チャンス案件」を引き受けられる余地を残せる。

駆け出しの通訳者であれば、いかに案件を絞り、下克上案件でハチの一撃をかますかを考えるといい。超繁忙期を毎日朝から晩まで案件で埋めてしまうと、せっかくのハチも疲れ果て、ハエに見えてしまう。

一方、ベテランの通訳者にとって超繁忙期は、少しゆっくりと時間を過ごし、日頃自分が担当している常連クライアントをちょっと「泳がせる」いい機会だ。
平時にクライアントを泳がせるとそのままどこかに行ってしまうリスクがあるが(笑)、そこは超繁忙期。どんな通訳者があてがわれているか分からない。
超繁忙期が終わった頃、あなたの良さに再度気付いたクライアントからの連絡が複数来れば、日頃自分がやるべきことをやって来た証明になるだろう。



駆け出しであれ、ベテランであれ、日頃がんばっている通訳者にとって、超繁忙期は大チャンス(逆も然り)。
ぜひ戦略的に取り組んで、キャリアの次元を上げていきたいものです。

# by dantanno | 2017-12-01 12:32 | プレミアム通訳者への道 | Comments(1)

通訳デバイスの進化を受けて

耳に装着すると、周囲の音声が自動で同時通訳されて聞こえるデバイスが発売された。

Googleバージョン

ベンチャー企業バージョン

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こうしたデバイスの普及により、一部の通訳者が別業界の、(その人にとって)より楽しく、自分らしくかつ生産的に働ける仕事にシフトしていくのはいいことだと思う。

一方で、これらデバイスによる同時通訳のどの辺が良くてどの辺がまだまだなのか、を分析することで、向上心のある通訳者がその通訳レベルをさらに高め、しっかりと生き残っていくのもいいことだと思う。

技術革新は、業界を破壊するのではなく、健全な状態にしてくれるカタリストになると思う。歓迎します。僕も一個買ってみよう。

ちなみに、今読み終えた本。
「働きたくないイタチと言葉がわかるロボット」。ジャケ買い。
サブタイトルは「人工知能から考える「人と言葉」」。


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そこそこおもしろいが、特におすすめするほどでもなし。

これを読んで、(上手な通訳者を越える機械通訳はまだ少し先なのかな、あるいは理論的に無理なのかな?)という安心感を得ることが出来た。
かといって、「上手な通訳者」でなければ淘汰の対象となると思うので、レベルアップが必須だと思った。

# by dantanno | 2017-11-05 15:54 | 通訳 | Comments(0)

「備忘録的に」という表現について考える

ブログとか、Facebookでの意見表明的な長めの投稿とかで、「備忘録的に」という表現を見かけることがあります。僕も使います。

「○○について考えた内容を、備忘録的にまとめておこうと思います」とか。あるいは
「この前、おもしろいことがあったので、備忘録を兼ねて書いておきます」とか。

この「備忘録的に/備忘録として」という表現、昔からずっと(おもしろいなぁ。。)と思って来ました。でも、自分が感じるおもしろさが具体的になんなのか、どの辺がツボなのか、がよく分かりませんでした。

最近、(この辺がおもしろいのかな・・?)というのが分かった気がするので、書いてみます。

ーーー

例えばブログ記事の冒頭に
「○○について、備忘録的に書いておきます」
と書く人は、なぜ「○○について書きます」ではなく、そこに「備忘録的に」という一言を入れるのか。それは一体何を意味するのか。

<本当に「備忘録として」書いている?>
最初に考えられるのは、本当に備忘録として書いている、ということ。


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確かに、40歳を過ぎてますます感じることですが、自分が考えたり思ったりしたことを紙とか音声とか、何らかの形に残しておかないと、それは跡形もなく雲散霧消してしまい、外部に対してはもちろん、自分に対しても記録が何も残りません。
だから、それを「備忘録的に」書いておく、というのはよく分かります。

<だとしたら、それを発表する意味は?>
書き手が、本当に「書いておかないと忘れてしまう」から、「単なる備忘録として」その文章を書いたのだとしましょう。だとすると、次に浮かぶ疑問は、「でも、それを発表する必要はあるのか?」ということ。

備忘録は誰のためのものか。備忘録というのは、「人様が忘れない」ためのものではなく、「自分が忘れない」ようにするためのものです。では、自分の備忘録として書いたその内容を、わざわざ世間に発表する意味は何か?発表なんかせず、手元に、あるいは自分のPCの中に置いておいて「備忘」に役立てればいいのではないか、という気もしてくる。

<まあ確かに、発表を前提として書いた方が記憶に残る>
ブログを書いたり、Facebookに自分の意見とかを結構長めの投稿で書いたりする人であれば同意いただけると思いますが、
1.単に自分のための記録として何かを書くのと、
2.それを世に発表する、という前提で何かを書くのとでは、
全く違います。

つまり、
書く、と
書く→発表する
は全然違う、ということです。

発表を前提に書く方が当然「ちゃんと」書くことが求められ、その分しっかり考えなければいけない。その過程でその内容がしっかりと頭に刻み込まれ、備忘録としての効果が倍増する。これはよく分かります。

でも僕は、「備忘録的に書いておきます」と書く人は、多くのケースにおいて、実は備忘録として書いているわけではないのではないか、と思っています。では何のために書いているのか?そして何のために「備忘録的に」という一言を入れるのか。

<発表を前提にすることのデメリット>
ちょっと本題から外れますが、「発表を前提として書く」ことには、上記「しっかりと考えることを求められる」といったメリットとともに、デメリットもあると思います。(特に、その文章を書く目的がもし本当に自分の備忘録として、なのであれば。)

そのデメリットは、書いた内容が「本音でなくなる」リスクが高い、ということ。

発表を前提としないプライベートな文章であれば、自分の感じたありのままをそこに書き殴ることが出来ます。何を書いても恥ずかしくありません。見られないんだから。

でも、発表を前提とした瞬間、書き手は読み手を意識し始めます。そこに書かれた文章は、「自分が本当に書きたいこと」から逸れ、「自分のことを読み手にどう思ってほしいか。自分は読み手にどう思われたいか」みたいな邪念が混じり始めてきます(経験者談)。その結果仕上がった文章は、自分が心から感じたありのままではない可能性が高く、そうなると備忘録としての正確さは少し失われることになります。

<書くことと、書いて発表することの違い>
上記の通り、自分だけの備忘録として、あるいはあくまでも自分の思考の整理のために「発表を前提とせずに」ものを書く場合と、発表を前提としてものを書く場合とでは、大きな隔たりがある。この2つは全くの別物です。

「発表する」ということは、要するに「表現する」ということですよね。その文章を通して自分を表現する、ということです。何かを書いて、それを引き出しにしまっておくだけでも広義の「表現」に含まれるのかもしれませんが、ちょっと違う気もします。

<書き手が「備忘録的に」と入れる理由>
なぜ文章に「備忘録的に書いておきます」という文言を入れるのか。
なぜ「備忘録的に」という一言を入れるのか。

それを考えるためには、一書き手としての僕自身を振り返るのが近道です。
ブログの記事の冒頭に「備忘録的に書いておきます」と挿入する際、僕は何を考えているのか?
「忘れないため」ではないことは明らかです、僕の場合。ではなぜそんな文言を書くのか?

それは、その文章を発表する意味を見出せないから、のような気がします。

読み手からの「これって発表する必要ある?」というツッコミが聞こえてくるんです。
その文章を読んだ人が、「うん、分かったけど、これってわざわざ世に発表する必要ある?」と言って来たら?実際にはわざわざ言って来ないわけですが、仮にそう言って来たら、それにどう返答すればいいのか。

「備忘録として書きました」

と言えばいいのではないでしょうか。

もっと言うと、ここで書き手が思いを馳せている対象は読者の感想でもありますが、自分自身の感想でもあると思います。
読者はもちろんのこと、自分自身でも、その文章を発表する必要性を見出せないときがあるんです。ある、というか、結構多いんです。

ーーー

つまり、「備忘録的に」という表現は、書き手が自分自身に対し(この文章って発表する必要ある?)という疑問を感じた場合に挿入されるのではないか。

僕自身も、ブログ記事を書き、「投稿」ボタンをクリックする度に(これって発表する必要ある??)という声が頭の中でこだまします。
そして、多くの場合、(べ、別に発表する必要無いです・・・)という結論に至る。場合によっては「必要無い」どころか「発表しない方がいい」という結論に至ることも多いです。

「書く」のはいいんですよ。なんでも、好きなだけ書けばいい。
ただ、それを「発表する」となると全く別問題なんです。

<発表するのに、理由なんていらない>
もしそうだとしたら。
もし「備忘録的に」という一言が、「これって発表する必要ある?」という読者、および書き手自身からのツッコミに対して身を守るために挿入しているのだとしたら。

だとしたら言いたいのは、「何かを発表するのに、理由なんていらない」ということです。これは声を大にして言いたい。

オレが、この文章を世に発表する意味は何か? → 別にありません。
オレが、この絵を展覧会に出展することの意味は? → ナシ
オレがこの事業を立ち上げることで、世の中にどういうインパクトがあるだろうか・・・ → 特にありません。いや、あるかもしれないけど、それは後から結果的についてくることであって、起業する前からあれこれ心配する必要なんてありません。

文章を書くのも、絵を描くのも、事業を興すのも、全部表現です。
で、表現したいから表現する。それでいいじゃないですか。

しかも、自分が何かを発表することの意味を考えるプロセスはすごく「オレがオレが」していて、ちょっと自己中心的なのかな、という気がしてきます。自分自身について当てはめてみると、まさにそうだと思います。

「オレが○○を表現する意味は?」みたいに考えるプロセスって、一見謙虚なようで、実はその逆で、かなり傲慢なことのような気がします。「オレ」および「オレの表現」を過大評価しているからこそ、その意味について一生懸命考えるのではないでしょうか。実際には「オレ」にも「オレの表現」にも、そこまでの意味はありません、きっと。でもそれでいい。

お前が何かを表現する意味なんて別に無い。だから、表現したいならあれこれ考えず、とっとと表現すればいいんじゃない?
このブログも、そう自分に言い聞かせ続けて書いてきました。

だから、文章に「備忘録的に」なんて、実はあんま入れなくていい。
「発表したいから発表します」
でいいと思います。

<実は、みんなそんなこととっくにお見通し?>
今ふと思ったんですが、、、
「備忘録的に」という文言を挿入する書き手も、それを読む人も、↑の内容なんてとっくに考察済みで、そんなの分かった上で「備忘録的に」と挿入したりそれを読んだりしているのかもしれない、と思いました。

「備忘録的に」は、誰かにモノをあげる際、「つまらないものですが・・・」と言うのと一緒なのでしょうか?

「備忘録的に」の真の意味は、
「自分が書いた駄文など、本来発表するに値しませんが、でもちょっと発表してみたいので、あくまでも備忘録的に発表させていただきます」
ということなのか?もしかしたらそうなのかもしれませんね。「備忘録的に」をそういう意味で使っている書き手もいるのかもしれません。

だとしたら、とても便利な言葉というか、深いなあ、と思います。そして、それは傲慢などではなく、謙虚、ということですよね。

ーーー

以上、「備忘録的に」という表現に対し自分が感じるおもしろさについてつらつらと考えた結果を、備忘録的に書いておこうと思いました。読んでいただきありがとうございます。

# by dantanno | 2017-10-20 16:09 | ことば | Comments(0)

ロンドンで一人メシ

ロンドンのPaddington駅周辺はとっても便利。市中心部へのアクセスもいいし、飲食店は無限にあるし、なんといってもヒースローからのアクセスがいい。電車ですぐ。
そんなPaddingtonで寂しく一人メシをすることに。
「辛いカレーを食べたい」というテーマを設定した自分にピッタリだったのがここ、Mughal's。

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他にも一人客がちらほら。インド人店員たちの適度なやる気の無さが心地いい。ロンドンで、気軽に一人で入れるレストランって貴重なんですよね〜。

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親切にWifiを提供してくれているものの、アクセスポイント名、パスワードともにほぼ解読不可能(笑)。

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食後、インドの雰囲気に浸ろうとチャイを頼んだら”We only have English tea(笑)"というローカライズぶり。

店を出て、汗を拭きながらすぐ隣のEspresso Barでコーヒーとシガーでフィニッシュ。

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意外と寂しくなかった一人メシとなりました!
一人の時はここに来てみてください。

# by dantanno | 2017-09-26 07:28 | グローバルに生きる | Comments(1)

映画「幼な子われらにうまれ」を観て

映画「幼な子われらに生まれ」を、妻と二人で観た。

ほんっっっっとうにひさしぶりに、しっかりと考えさせられ、かつエンターテイニングな映画を観た。


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家族とは。

親であること、子であること、夫婦であること。

なぜ結婚するのか、なぜ離婚するのか。
なぜ再婚するのか、しないのか。

いろんなことを考えさせられた。

ーーー

浅野忠信をはじめ、役者たちの演技がとても自然だった。

日本のTVドラマを観ていると、演技があまりにも演技っぽくて、不自然で、「子供の学芸会か・・・」と、つい毒づいてしまう。演技がヘタ、と思ってしまう。
これはきっと僕の間違い。演技がヘタだから不自然になってしまうのではなく、そもそも「自然な演技を目指そうと思っていない」から不自然なんだろう。

刑事物で、デスクに座るエライ刑事を取り巻いて立つ4人の刑事たちが一人一行、順番にセリフを言っていく。それがよしとされている。
ドラマはほとんどがそうだし、邦画も多くがそうだと思う。

演技が「演劇」風なのだ。舞台っぽいんだ。「これは創られた虚構である」という事実を前面に出してもいい、というルールというか、しきたりなんだ。
だから、観ている方が「日常生活では絶対そんな発言しないでしょ」というセリフを、「そんな言い方するか、フツー?」な言い方でしゃべって演じる役者たちを、我々は眺め続けることになる。「絶対そんな服着ないんだけど・・・」という洋服で着飾るパリコレのモデルを観るように。

批判したいのではない。それはそれでいいことだと思う。観る方もそれを求めていて、全体が予定調和的に着地するのであれば、演技は「不自然」でもいい。そうした不自然な演技の方がかえって「非日常」が演出されていい、という人も多いのかもしれない。

でも僕はそうではなく、普段着を観たい、とずっと思っている。役者がセリフをはくたびに「これは全て虚構です」という事実をリマインドさせられると、どうしても感情移入できない。
「これはドラマだ、映画だ、虚構だ」というのを忘れさせてくれる、そんな自然な演技を観たい。そして感情移入して楽しみたい。
でも、そんな演技はほとんど存在しない。

ーーー

そんな困った状況の僕にとって、この映画は僥倖だった。

浅野さん演じる「田中」の演技は、これ以上無いぐらい自然。まるで、田中の本当の日常を、特別にちょっと垣間見させてもらっているような感じ。
子役たちもすばらしかった。
宮藤官九郎も寺島しのぶもよかった。
「田中」の妻役の田中麗奈(たまたま同じ名字)の演技が、最初ちょっと演技っぽく感じたけど、でも実際こういう人もいるよなあ、、と途中から思えた。

唯一モロに演技をしていると感じたのが、田中の上司(?)役みたいな人。バーで田中と飲むシーンがあるが、TVドラマ風の、いわゆる演技っぽい演技だった。

ーーー

パンフレットを見ていて、「エチュード手法」という表現が気になった。

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「(役者たちが、)台本を重視しながらも時には即興で演じる撮影」とのこと。なるほどなあ。全ての作品をこの手法で創ってくれたらいいのに(笑)。
三島有紀子監督、すごいです。

ーーー

男女のあり方はいろいろある。

今の時代、幸いなことに「好きになる対象は異性でないといけない」というわけでもない。
そして、結婚する人もいるし、しない人もいる。
離婚は不幸なことかもしれないけど、「映画を観た後に感想を語り合いたい」と心から思えない相手とずっと夫婦で居続けることもまた不幸かもしれない。

そういう多様な価値観を、学校で教えたらいいと思う。
この映画を教材にしたらいいと思う。

へんな価値観に縛られたまま大人になり、その価値観に基づいて結婚し、後で「実は違った」と気付いて離婚に至ってしまっているケースも多いと思う。

はたまた、本当は離婚したいのに出来ていない夫婦もものすごく多いと思う。離婚しない一番の理由が「子供」ではないか。子供を傷つけたくないから。
でももし、子供たちが学校で「離婚は、出来ることなら避けた方がいいけれど、でも決して悪いことではないんだよ」とか、「家族のあり方は実に多用で、普段TVで観るような理想的な4人家族だけが「家族」じゃないんだよ」とか、「再婚は当たり前のことで、再婚した場合、前のパートナーとの子供がいたりいなかったりするんだよ」とか、そうした大人たちはみんな知ってる当たり前を教わっていたらどうか。

サンタはいる、と心から信じているからこそ、実はそうではないことを知ったときに傷つく。
夫婦や家族のあり方については、「正解は無く、実に多様なものである」という正解を早い内に教えるべきだ。それは夢を壊すことと同義ではない。

学校でそう教わった子供であれば、自身の結婚(あるいは離婚、あるいはそもそも結婚しないこと)について、もっとオープンに考えられるようになるだろう。また、親の離婚をそこまでショックに感じずに、「親たちが前に進む」という、むしろポジティブなこととして受け止められるようになるのではないか。

ーーー

観たい映画が無い、という冒頭の話に戻る。
せっかくNetflixを有料契約しているのに、ほとんどのコンテンツに食指が動かず、あまり活用出来ていない(キッズ向けのコンテンツには大変お世話になっているが)。

ま、まさか、オレは映画がキライなのか??そう考えるとなんだか愕然とする。
(それはそれで、「映画を好きでないといけない」という思い込みの産物だと思うけど)


いや、そんなことはない。自分は映画が結構好きなはず。
→ じゃあ、なんで観たい映画が全然無いんだ。なんで映画を観てもおもしろいと感じることがほとんど無いんだ?
その問いに対し、ここしばらく有効な答えを出せずにいた。



でも、「幼な子われらに生まれ」を観て思った。
自分は映画が好き。

足がとても大きい(あるいは小さい)人と同じだと思う。
靴は好きなんだ。履きたいんだ。でも、合うサイズの靴が滅多に無いだけなんだ。
もしあれば、喜んで履くんだ。

どの映画もあまねく好き、というわけではない、という意味で、確かにそこまでの映画好きではないのかもしれないけれど、僕は僕なりに映画がとても好きなんだということを気付かせてくれたすばらしい映画でした。

# by dantanno | 2017-09-15 14:37 | プライベート | Comments(0)

40過ぎのIR通訳者が初めて「投資」について考える 〜その② 「出会い」編〜

(前回の記事はこちら

さっそく本屋にやって来ました。

買いたいのは
「必ず儲かる! 投資必勝法」
みたいな本ではなく、一方で
「デリバティブ研究の最前線 〜規制環境の変化を受けて〜」
とかでもありません。

得たいのは「何に投資すればいいか」という知識・情報ではなく、「投資についての基本的な考え方」です。

ーーー

こうした姿勢は、子育てをする身になった今、とても大事なことだと感じています。

子供に対し、"What to think"、すなわち「何が正解か」を押しつけるのはよくない。
「これが正解だ」と特定の考え方、価値観、宗教等を押しつけてしまうのは犯罪的だとすら思います。

「押しつけてしまいたい」という親の欲望をがんばって抑え、"How to think"(考えるための方法論)を教えるのがいい親だと思います。

視野の広さでいえば、「これが正解だ」と子供の視野を狭めるのではなく、その逆を行くべき。もし子供が特定の考え方に凝り固まりそうになってしまっていたら、「こういう考え方もある、ああいう考え方もある」と視野を広げてあげて、その中から子供が自分で選んでいくことが大事だと思います。

ーーー

さて、そうした考え方の元に選んだのがこの本。

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John Kay著 "the long and the short of it"

今気付きましたが、CAPITAL LETTERS(大文字)全盛の時代にあって、あえて全部小文字、という点も好感が持てます。

サブタイトルは a guide to finance and investment for normally intelligent people who aren't in the industry。いいですね。「ベースの賢さはあるんだけど、金融の専門家ではない人のための指南本」みたいな意味でしょうか。

推薦のことばの中には、元イングランド銀行総裁Mervyn Kingの 
"To manage your money well means that you should understand a few key principles. John Kay explains all that you need to understand."
という、心強いことばも並んでいます。

John Kayはこういう人です:

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左下のシミはこぼしたグレープジュース。

ウェブサイトもありました。

ーーー

本書については、次のブログ記事で詳しく見ていきたいと思うんですが、いろいろと示唆に富んでいます。投資における分散の重要性とか、専門家に頼るなとか、いろいろと言っています(pay less, diversify more, and resist conventional thinking)。

中でもおもしろいと思ったのが:

the most rewarding strategy for the intelligent investor is to construct a low-risk portfolio from a collection of assets which the conventional investor perceives as risky

つまり、「世の一般的な(従来型の・伝統的な)投資家の逆を行け。そういう従来型の投資家が盲目的に「これはリスクが高い」と避けるような投資をうまく組み合わせ、ポートフォリオを構築すると、比較的ローリスクで一定のリターンを追究できる」みたいなことを言っているんだと解釈しました。

<続く>

# by dantanno | 2017-08-11 16:46 | 日々研鑽 | Comments(1)

40過ぎのIR通訳者が初めて「投資」について考える 〜その① 「気付き」編〜

今までずっと「投資」というものをして来なかった。
もう40歳を過ぎたというのに。

それについて思うことは2つ:
1.恥ずかしがれよ
2.実は「投資」している

それぞれについて考えていきます。

1.恥ずかしがれよ

まず、なぜ今まで投資をして来なかったのか。

ー 他のことで忙しいから
ー 元手が無いから

この辺は、パッと思い付く浅い理由。

では、自分が今まで投資をして来なかったことの深い、根本的な理由は何か?

ー 投資は「悪いこと、恥ずかしいこと」みたいなイメージがあった

「私は投資が好きです」って言うのって、ちょっと勇気がいります。お金の亡者(?)みたいに思われちゃいそうで。
それに対し、「僕は投資なんてやってません、興味ありません」は、なんだか安心して言える気がします。ちょっと清貧な感じ(?)。下世話ではない感じ?
(もっとも、そう思うのは最近までの僕であれば、です。今では、まさにこの記事のこのセクションで書いている通り、「投資に興味無い」って言ってしまうことは「国際政治になんて興味ありません」同様、ちょっと恥ずかしいことだと思っています、今さらですが。)

付き合いのある外国人投資家たちから「これだけIRミーティングの通訳をして、いろんな会社や投資家を見て来て、相当詳しいでしょ。ダン自身の投資はどうしてるの?」と聞かれる度に、ヘラヘラと「いや、僕は投資なんてしてなくて、ムニャムニャ・・・」と答えてきました。最初の頃はまだよかったんですが、だんだん恥ずかしくなってきました。

投資に限らず、何かに「興味が無い」というのはやっぱり恥ずかしいことなんだと思います。特に最近そう思います。本当に興味が無いんだったらしょうがないし、別にそれでいいわけですが、それが食わず嫌いだったり思い込みの結果だったりしたらもったいない可能性がある。

ーーー

投資をして来なかった根本的な理由はもう一つあります。それは

ー Financial literacyが無いから。つまり、「投資」というものについて全然分かってないから

ひとえに僕の勉強不足です。

自分が投資について全然分かっていないことを実感、、いや、痛感したのは、この後ブログでも触れようと思っている、実際に「投資をしよう」という段になってでした。そこで初めて気付きました。

あと、決して世の中のせいにするつもりは無いんですが、こういうのってもっと小学校とかで教えたらいいと思うんですよね。投資とか、株とか、金利とか、為替とか。
そういう世界は、一部のプロの人たち(あるいは強欲なシロウトたち)だけの世界ではなく、実は我々フツーの人たちも気付かずに参加している世界だし、もっと主体的に参加して楽しんだり資産形成出来る世界のはずですからね、実際は。
日本の個人金融資産(1,500兆円?)がなかなか動かないのも、この辺に原因があるような気がします。と、自分の勉強不足を棚に上げて風呂敷を広げてしまいました。


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ということで、僕が今まで投資をして来なかった理由を挙げてきましたが、それら理由の多くが恥ずかしいことだと判明しました。
考えてみると、「元手が無いから」ってのも実に恥ずかしい。しかも、それは今まで「投資」というものにちゃんと向き合わず、自分自身のファイナンシャル・プランニングから逃げてきた結果、とも言えます。

ー 他のことで忙しいから
ー 元手が無いから →恥
ー 投資は「悪いこと、恥ずかしいこと」みたいなイメージがあった →恥
ー Financial literacyが無いから。つまり、投資について全然分かってないから →恥

ということで、まずはちゃんと投資について勉強してみて、その上で実際に投資をしてみよう、と思い立った。

さっそく本屋へ。

<続きはこちら

# by dantanno | 2017-08-08 13:42 | 日々研鑽 | Comments(0)

よく気付いたな、という感じ

「頭がよさ」とは、一見無関係な事柄の間のつながりを見いだす力のことを指す、と言ってた人がいたが、確かにそうだと思う。


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# by dantanno | 2017-07-24 13:41 | Comments(0)

AI時代のことばとやさしさ

最近、家族を連れてロンドンに2ヶ月滞在した。

用語の定義は不明確だが、期間が2ヶ月ともなると、これは「旅行」や「出張」ではない。「滞在」であり、あわや「居住」だ。

住むとなると、ことばのやり取り的にはホテルにチェックインするときやタクシーに乗るときのそれだけでなく、「生活」に伴うことばのやり取りが必要になる。床屋に行ったり、クリーニング屋さんに行ったり、マンションの管理人に何かを質問したり、というような。

ーーー

ロンドン市内で滞在するエリアを選ぶ際、なるべく「白人ばかり」ではなく、人種のるつぼ的なエリアを選びたかったし、実際そうした。具体的には、Brixton、Shoreditch、Kilburnなどを選び、家族で転々とした。(日本では残念ながらあまり目にしない黒人の人たち、中東系の人たちをウチの子供らがしげしげと眺めているのを見て、うれしく思った。)

そういうエリアに滞在していると、流暢な英語ではなく、ブロークンな英語を耳にすることが多くなる。「多くなる」というか、耳にする英語のほとんどがブロークンだ。

ーーー

僕が滞在したエリアに限らず、ロンドンではブロークンな英語を耳にする機会が多い。移民が多いからでしょうか。

今回何社かの日本企業に同行したが、その内の一社の社長が
「こっち(ロンドン)の人の英語は結構ブロークンだな。それでもまあ通じる、ってことだよな」
と言っていたが、まさにそうだ。


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ブロークンな英語を話す移民的な人たちと、「チェックインプリーズ」みたいなある意味型どおりなやり取りではなくややこしいことばのやり取りをする。

そうなると、相手が何を言っているのか分からないときがある。

曲がりなりにも通訳を生業としていることもあり、さすがに英語が「分からない」ことは無いわけだが、ちょっと分かりにくいというか、一瞬分からなくてひるむ、という事態が頻発する。

ーーー

相手のことばを聴いただけでは、相手が何を言っているのかが分かりにくい。
となると、ことばの意味を把握する際に音声以外の、何か別の手段/ルートも活用せざるを得なくなってくる。

ーーー

まずは相手の表情・言い方

相手が、優しそうな顔でウチの子供を眺めながら

「#()$’#”(%’」

と言った場合、「かわいいね」とか、何かあやす系の優しいことを言ってくれている可能性が高い。

一方、怒った顔や口調で
「#()$’#”(%’」
と言ったのであれば、何かを注意してくれていたり苦言を呈している可能性が高い。

そんなの当たり前じゃないか、と思うでしょう。自分でもそう思いますが、「相手の言っていることが(視覚ではなく)音だけで完璧に理解出来る」という暮らしを日頃日本で続けていると、相手の表情や言い方に頼った意味の理解をすることはあまり無く、そうした理解方法が必要となる異国での生活は貴重な体験となった。

(片寄った見方かもしれないが、中東系(?)の人たちは怒ったような表情や口調でとても優しいことを言ってたりするのでまぎらわしいことがあると感じた。)

ーーー

分かりにくい発言を理解するもう一つの理解方法は、その発言が発せられた場の状況

駅の改札口付近で、我々家族がベビーカーを押しながらあちこちウロウロしている、という状況のときに駅員さんが

「#()$’#”(%’」

と言った場合、(もしかしたら「こっちの自動改札機の方が広いから、ベビーカーでも通れますよ」と言ってくれたのかもしれない)といった推察がはたらく。

ーーー

(この状況であれば、相手はこう言うかもしれないな)と考えるのは、相手の立場に立つ、相手の気持ちをおもんぱかることにほかならない。

そして、前述の「相手の表情や口調を観察する」のも、(自分の立場ではなく)相手の立場に立ち、相手の気持ちを読み取ろうとする行為だ。

これこそコミュニケーションではないか!

<いったん話をまとめる>
異国に来て、分かりにくい/聴き取りにくいことばのやり取りを日々続けていると、音だけでなく相手の表情や口調、およびその場の状況によって、発せられたことばの意味を考えることを余儀なくされる。そうした「音を越えたコミュニケーション」は、要するに相手の立場に立ち、相手のことを考える、ということである。

ーーー

ちょっと話がそれるが、AI(Artificial Intelligence)について。AIが通訳・翻訳に対して及ぼす影響について。ここのところ、通訳者たちと飲んでいてもよく話題になるトピックだ。

これは要するに我々訳者の代わりに(あるいは訳者のサポート的に)機械が通訳・翻訳してくれる、という話。

そうした「機械による訳」に関する研究・実証と並行して行われているのが、そもそもことばをすっとばしちゃうことに関する研究。

ーーー

通訳は必要悪であるが、通訳の対象となる「ことば」も必要悪である。
僕はことばというものが大好きで、日々通訳をしたり、ブログを書いたりと「ことば」の世界で楽しく生きているが、でもその「ことば」が必要悪であることは認めざるを得ない。

<余談: 「必要悪」という概念について>
通訳・翻訳やことばは「必要悪」と言うと、それがなんだか「悪い」みたいだが決してそういうことではない。
そもそも「必要悪」という言葉がいけない。
この言葉はどうしても聴き手に悪い印象を与えるが、警察も医者も言ってみれば「必要悪」(犯罪を犯す人がいなければ警察は要らない)であり、さらに深く突き詰めれば全ての職業や機能が必要悪、とも言えてしまう。(お腹がすかなければレストランなんて要らない、というように。)
だから僕は「必要悪」であるからといって必ずしも「悪」だとは限らないと思っていて、必要悪という言葉の「悪」ではなくむしろ「必要」という側面に目を当てるべきだと思っている。)

ーーー

必要悪である「ことば」をすっ飛ばし、脳が発する電気信号を活用して「思っていることがそのまま相手に伝わる」方が効率がいいのかもしれない。それが善か悪かについては議論の余地が大きいが、「想いを正確に、効率的に相手に伝える」という意味では、ことばではなく脳の電気信号を使ったコミュニケーションの方が優れているのかもしれない。

<具体的なイメージ>
スマホのようなデバイスを通したコミュニケーションになると思う。
話し手、、、いや、ことばを使わないのでもはや話し手ではないですね、じゃあ発信側。
発信側が、受信側に対して「昨日、こんなおもしろいことがあってさ」という想いを伝えたいとする。発信側が「伝えたい!」と感じている状態でスマホのアプリを開くと、画面に

「昨日、こんなおもしろいことがあった」という想いを相手に伝えますか、Yes or No?」

と表示される。Yesを選ぶと、アプリが発信側の脳の信号を読み取り、それを信号の形でそのまま、あるいは信号を読み取った結果を受信側に伝える。ことばは必要無く、受信側はClear/Vividに「昨日あったおもしろいこと」を理解出来る。

僕の専門であるIRの分野でも同様。
「来年度の設備投資について、相手に伝えますか、Yes or No?」
でYesを選択すればその想いが外国人投資家に自動的に伝わる。通訳は必要無いし、そもそもことばが必要無い。

ーーー

このような「ことばを使わないコミュニケーション」はきっと実現すると思う。

現在の「ことば」を通したコミュニケーションはとてもステキなものだけど、「想いを正確に、効率的に伝える」という観点(そこそこ大事な観点!)からすると、非常に非効率。ことばを操るのが上手な人同士でも誤解が生じることがあるし、世の中にはことばを操るのが上手ではない人も多い。

しかも国・地域によって言語が異なってしまっている、というこれはこれでステキな状況が、その非効率をさらに何倍にも増幅させる。



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<話を再度まとめる>
こちら(受け手側)が一生懸命推察しなくても、相手の想っていることが正確・効率的に伝わるのはとても合理的なことのように思える。それは「相手を理解する」ことに他ならないが、そうなると「相手のことを理解しよう」という我々受け手側の気持ちはどうなるんだろうか。
相手に対するEmpathy/empathizingが不要になると、我々はどうなるのか。


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太郎君は私のことをどう思っているのかしら、はたして好きなのかしら、という大事な問題について考えた場合、「好きなのかどうか」ももちろん大事なのだが、私(花子)が太郎君の気持ちをあれこれ推察する、考える、おもんぱかること、これも結構大事なのではないか。

相手が発することばから、相手が伝えたいメッセージを必死に考える。相手の表情や口調から、どういう想いでそのことばを発したのかを推察する。また、場の状況から判断して、(こういう状況であればこう言いたくなるだろうな)と相手のことをおもんぱかる。

電気信号を介して正確・効率的にコミュニケーション出来るようになると、相手に対するこうした配慮は不要になり、失われてしまうのか。(不要なだけに)必要悪ですらなくなってしまうのか。

コミュニケーションにおいて大事なのは、「思っていることを正確・効率的に伝える」ことであるのは間違い無いが、一方でもっと大事なのかもしれないのが「相手の立場に立つ、相手のことをおもんぱかる」ことであって、異国に滞在・居住することでその重要性に改めて気付いたわけだが、AI時代のコミュニケーションではそうした「相手に対する思いやり」はどうなるのか。不要になるのか、あるいは依然として残るのか。

オチの無い記事で恐縮ですが、思考があれこれ拡散してしまっている当方の今の状況をおもんぱかり、温かく読んでいただければありがたいです。




# by dantanno | 2017-07-20 05:02 | Comments(0)

慣れと先見の明

慣れって恐いな、、、というか、慣れってすごいな、と思います。

昔はあんなに不便に感じてたはずのスマホを、今では結構便利に感じる。

ーーー

昔は、スマホでウェブサイトを見るとか、動画を観るとか、あるいは文字入力をするとかがとても煩わしく、出来る限り、なるべくPCを使いたいと感じていました。

そういうPC寄りの気持ちは今でも多少残っていますが、だいぶスマホが追いついてきた気がします。スマホを使うことに慣れたんだと思います。

今では、スマホで動画を観るなんて日常茶飯事。気付けば何時間もYoutubeを観てしまっています。すぐとなりにPCがあるのに、あえてスマホで!不思議。。
また、スマホでの文字入力は単なる不快な作業だったはずが、今ではむしろ楽しく感じることすらあるから驚きです。


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もちろんユーザーである自分の「慣れ」だけでなく、外的要因もあると思います。

昔)「スマホでウェブサイトを見るのは避けたい」 → スマホ向けに作成されたウェブサイトが増えた → 今)スマホでウェブサイトを見るのは不快ではない

昔)「スマホで文字入力なんて面倒」 → スマホでの入力画面の改善。ATOKやGoogle等の文字入力サービスの普及 → 今)スマホで文字入力がラクになった


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そうした外部要因もあるにはありますが、やはり慣れの部分は大きいと思う。
そういえば、電子書籍についても最初は「絶対イヤ」と思ったけど、実際に電子書籍を読んでみるとそれほど悪くない(僕はやはり紙の本の方がまだ好きですが)。

どんなものでも、最初に感じる抵抗感は「慣れ」で乗り切れてしまうものなのかもしれません。

そう考えると、

① 当初の抵抗を乗り越え、自分を別の人間に生まれ変わらせる(re-invent oneself)ことは意外と簡単なのかもしれない。 そして

② 何か新しいサービス、モノ、技術を目にしたとき、自分がそれに抵抗を感じるからといって、それが普及しないとは全く限らないんだな、と思います。

ーーー

だいぶ前、世の一部の経営者が「これからはスマホだ!」と言っていたとき、正直、僕にはスマホの何がこんなにすごいのか分かりませんでした。What's the big deal?って思ってました。でも、今電車に乗ると運転手を含め、、、ってのは冗談ですが乗っている人のほぼ全員がスマホを眺めていたり、自分自身のスマホに対する「慣れ」を感じると、彼ら/彼女ら経営者たちには先見の明があったんだな、と思います。

そう言えば僕は1998年(平成10年)に新卒で会社に入り、生まれて初めて「電子メール」というものに接したとき、「こんなものは絶対普及しない」と一刀両断しました。だってFaxの方がはるかに便利じゃん!と感じたのを覚えています。。。先見の明、ここに極まれり、ですね(汗)。


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表面的かつ一時的な抵抗を越え、物事の本質が見抜ければ、時代の流れといった大事なものが見えるようになるのでしょう。
e-mailとかスマホとか、自分の専門外の分野では見抜けなくてもいいけど、ことばとか通訳とか、専門分野では大きな潮流が見抜けるようになりたいものです。



# by dantanno | 2017-07-17 16:37 | Comments(0)

通訳をする際の「自信」と「不安」のいいバランス

まずは、何はともあれこの3分の動画を観てもらえませんか、とてもいいから。




American Idolという、日本の「スター誕生」みたいな番組の一シーンです。
Joshua Ledetという若手/駆け出しの歌手が「イマジン」を歌っています。

ーーー

音楽は好きなものの歌とか演奏について全く造詣は深くない僕ですが、それでもこの人のこの歌は何度聴いても鳥肌がたちます。

で、なんでなのかな、なんで鳥肌がたつのかな、なにがそんなにすごいのかな、とずっと考えてきたんですが、行き着いた結論は、この人の歌は「いい通訳」に近いんじゃないか、自分の仕事と関係してるんじゃないか、だからグッとくるんじゃないか、という結論でした。

ーーー

何ごとも、自分に甘く、人に厳しくするのが好きです。
自分自身の通訳に対しては評価がとても甘い僕ですが(汗)、人様の通訳、特に「IRISに登録したい」と言ってくださる通訳者の通訳を聴くときは、厳しい外国人投資家、および日本企業の厳しいIR担当者の気持ちになってそれを聴こうとします。実際には厳しく聴く、というよりも楽しみに聴くわけですが。

時折「おおおおお」と感動する通訳を目の当たりにすることがあって、しかもそれがベテランとか大御所な通訳者ではなくごく一般的な、あるいはときにはまだ駆け出しの通訳者による通訳だったりして、その通訳の一体何がそんなに感動を呼び起こすのかな、と考えます。

ーーー

思い至った結論は、その通訳者の 自信(強さ) VS 不安(優しさ)のバランス なのかな、ということです。

ーーー

通訳は英語では"Interpreting"といい、文字通り解釈(Interpret)をする仕事です。
何を解釈するかというと、話し手が話す話の内容です。

話し手が何か言う。それを、「なるほど、きっとこういう意味だな」と解釈し、それを別言語で再表現するわけですが、訳し始めてしまう前に、まずは一旦網を広げる必要がある。



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「今の発言を、私はこういう意味だと思ったが、はたして本当にそうか。もしかしたら別の解釈もあり得るんじゃないか」と、なるべく解釈・理解の網を広げる必要があります。

解釈の網を広げる一方、表現の網も大きく広げます。「今のを説明するのに、この表現を使ったらどうか、それで聴き手に伝わるか、別の表現は無いか」と。

網を広げる上で大事になるのは(自分の解釈および表現ははたして正しいんだろうか・・)という不安であり、優しさだと思います。

ーーー

「こういう解釈もあり得る、ああいう表現もあり得る、etc. etc.」と網を広げきった上で、今度はその網を思いっきり狭めていかないといけない。いつまでも「こうかも、ああかも」と言ってたら訳せないから。

無限の可能性を思い浮かべた上で、「でも、今の発言はきっとこういう意味だ。よし、それをこう表現するぞ!」と、ハラを括って自分の解釈を観客(聴き手)に披露するしかない。

網を広げるときと対称的に、網を狭める上で大事になるのは自信です。表面的にではなく、根底で自分を好きである力です。

つまり、不安と自信が両方大事ということで、いい通訳者はこの自信(強さ)と不安(優しさ)のバランスが優れているんだろうと思うんです。

ちょっと余談になりますが、最近の自分はどうかと言うと、このバランスがやや崩れてしまっている気がします。
自信と不安の黄金比は8:2ぐらいかな、と思っています。9:1だと思い込みが強くなりすぎるし、6:4だと通訳がちょっと弱く、背骨の無い状態になりがちです。
最近の自分は自信:不安が7:3ぐらいで、ちょっと不安側に片寄ってしまっていると感じます。特にいけないのが、訳す際、聴き手ではなく話し手のことばかり意識してしまい、聴き手にちゃんと伝わっているかがおろそかになってしまう点です。これは、例えば企業の社長さん(日本人)の話を英語に訳す際、その社長さんが結構英語が分かる人だったりすると顕著に表れます。自分の英訳が、話し手である社長さんにどう伝わっているかばかり気にしてしまい、外国人投資家にどう聞こえているかはそっちのけになることがあるので、それは改めないといけないと反省しています。でも、それってある程度原文から逸れた訳をする、ということでもあり、かなり勇気がいるんですよね。。

ーーー

冒頭のJoshua Ledetの話に戻ります。

この人のパフォーマンスを観ていると、その軸の強さに心を打たれます。
音楽的に言えば、例えば歌唱力とかリズム感とかがきっとものすごいんでしょうし、確かにそれは間違いなくすごいんですが、僕が一番感銘を受けるのはこの人が自分のことが好きで、自分に自信があり、自分の解釈や表現に誇りを持ち、それを観客の前で披露する勇気を持っている、という点です。

でもその一方で、観客に対する配慮を忘れないし、そして何よりもジョン・レノンの原作に対するリスペクトを保ち続けている気がします。
原作を一度咀嚼し、それを自分なりに解釈し、観客に披露していると思うんです。
To break the rules, you must first master them的な考え方にも少しカブるでしょうか、カブらないでしょうか。

ーーー

通訳の仕事も全くそうで、話し手(原作者)に対するリスペクトを絶対的に保ち、その人の発言に「何も足さない、何も引かない」の原則を忠実に守りつつ、でもそこに自分の解釈、自分の色を出していくのが「いい通訳」なんじゃないかと思います。

通訳という仕事が言語と言語を飛びこえる仕事である以上、どうしても「そのまま機械的に訳す」ということは出来ないと思うんですよね。

リンゴ であれば Apple と機械的に訳すことも出来るでしょうが、"I love you"とか「出前一丁」とか"Just do it"とかになってくると途端に通訳者というフィルターを通して解釈する必要が生じてきて、それが(我々通訳者が日頃相手をしている)より長い発言になればなおさらです。

いい通訳者というのは、根底で自分のことが好きで、自分に対する自信をしっかりと保ちつつ、でもそんな自分を疑ったり、笑ったりする勇気を合わせ持った人のことをいうんだと思います。そしてそれこそが本当の意味で「自分に自信がある」ということの現れだと感じます。

自信と不安、強さと優しさ、プライドと謙虚さ、そうした通訳において必須のバランスに想いを馳せつつ、もう一度動画を観てみてほしいです。




何度観ても、やっぱり「いい通訳」を目の当たりにしたときと同じ感動を覚えます。
この人の目線、間の取り方、全てに強さと優しさの両方を感じます。この場にいた観客はなんと幸せだろう、と思います。

ーーー

いい通訳を通して観客(それは聴き手はもちろん、話し手も含む)を感動させることはきっと可能で、僕もJoshua Ledetのような通訳を目指し続けたいと強く思います。

# by dantanno | 2017-07-11 23:44 | プレミアム通訳者への道 | Comments(0)

通訳者を介する「メリット」を考える

田中さんとスミスさんが、何かの話をしたがっているとしましょう。

以下、二通りのケースを考えます。

A. ことばの壁が無い: 田中さんが英語ペラペラ、あるいはスミスさんが日本語堪能。2人は英語、あるいは日本語で直接話し合えます。

B. ことばの壁がある: 「田中さんは日本語しか出来ない + スミスさんは英語オンリー」であれば、通訳者を介して話すことになります。

田中さんとスミスさんが同一言語で直接話し合える場合(上記A)と比べ、Bの「通訳者を介して話す」ことのメリット/デメリットを考えてみます。

ーーー

まず通訳者を使うことによるデメリットですが、

・時間がかかる
・お金(通訳料金)がかかる
・通訳者が優秀であればいいが、そうでない場合、意思疎通が困難になってしまう

など、いくつか挙げられます。

通訳者がどんなに優秀であっても、そもそもことばの壁が存在せず、田中さんとスミスさんが直接話し合える「A」の方が、通訳者が必要となる「B」よりもベターなのは確かです。

では一方で、通訳者を介することに何かメリットはあるのか。

ことばの壁がある場合、通訳者がいないと2人の間の会話はそもそも成り立たないわけで(だからこそ我々通訳者が現場に呼ばれている)、それ自体が絶大なメリットです。

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でもそれは、ことばの壁がある前提(Bの状態)で1.通訳者を使う VS 2.通訳者を使わない、という選択を比べています。
つまり、↓の表の右上 VS 右下を比べているわけで、そりゃあ右上の「○」の方が右下の「×」よりもいいに決まってる。


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(ちょっと余談ですが、右下の「×」状態になることも実際にはあります。つまり、ことばの壁が存在するのに通訳者を介さないパターンです。通訳者が急に現場に来られなくなった、という場合もこうなるでしょう。もっと一般的なのは、田中さん/スミスさんのどちらか(あるいは両方)が「自分は外国語力がある」と判断し、通訳者を介さずに話をすることを選ぶパターンです。その場に同席し、たどたどしい外国語で交わされる話を聞きながら(通訳者を使った方がいいのに・・・)と思うこともあります。自分で外国語を操って話そうとするその姿勢はすばらしいのですが。)


僕がこのブログ記事でやりたいのは、↓の表の緑の箇所を比較することです。

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左下の「通訳者を介さなくても自由に意思疎通出来る」状態がベストなのは認めた上で、右上の「通訳者を介して会話する」ことならではのメリットが無いか、を考えたいんです。

いくつか考えられます。

<誤解が少なくなる>
通訳者を介した方が誤解が少なくなるなんて、そんなことあり得るのか、と思われるかもしれませんが、あります。
話が分かりにくい人の話を訳す際、通訳者の頭の中で編集作業をしたり、話し手に確認を入れたりして、話を分かりやすく作り替えることがあります(ただし、話し手が伝えようとしているメッセージは変えずに)。

ある通訳者がこんなエピソードを披露してくれました。
どこかの会社の社長さんのプレゼンの通訳をし終えると、その会社の事務局の方(英語堪能)から
「普段、ウチの社長が何言ってるか全然分かんないんですけど、今日、通訳者さんの英語を聴いて初めて社長が言いたいことが分かりました(笑)」
と、冗談とも本気ともつかない口調でほめられた、というエピソードです。そういうことです。

<話し手が、言いたいことを全部言えるようになる>
2人の人が同一言語で(通訳者無しで)話しているのを隣で聴いていると、相手の話を途中で遮ることがものすごく多いことに気付きます。つまり、話し手からすると、何か言いたいことがあるのにそれを最後まで言えていない。聴き手も、(相手がまだ何か言おうとしているのに自分がそれを遮ってしまうため)せっかくの貴重な話を最後まで聴けていない。

興味深いのは、この「相手の話の遮り」が、喧嘩の時はもちろん、フレンドリーな場(女子会等)でも頻繁に起きる、という点です。
相手の話なんか実はどうでもよく、自分が言いたいことを言ってスッキリしたいだけの場であれば遮りもいいでしょうが、相手の話をしっかりと聴くことが重要な場(つまりほとんどの場)においては、話を遮ることは百害あって一利無し。

なぜ話の遮りはよくないと思うか。「話を遮る」というのは大きく2つのメッセージを発します:

1.あなたの言いたいことなどどうでもいい。それよりもオレに話させろ
2.あなたの言いたいことはもう分かった → 早くそれに対する返しをしたい

1.→ 人と会って話をしていると、ついつい自分がしゃべって気持ちよくなってしまいますが、実は相手の話を聴いた方がトクですよね、きっと。
2.→ こういう場合、聴き手は得てして「分かって」いません。多少なりとも誤解しています(話をちゃんと最後まで聴いたとしても誤解が生じる可能性はそこそこあるのに、ちゃんと最後まで聴かなければなおさらです)。話し手が言いたいことは実は別のこと。あるいは「同じこと」でもニュアンスがちょっと聴き手の理解とは違っていて、聴き手が途中で話を遮ったことによって話のズレが生じる。ひとつひとつのズレは小さいかもしれないが、それが繰り返されると大きな亀裂になり、意思疎通が出来なくなる(同じ言語で話しているのに!)。

では、通訳者を介するとどうなるか。
他の通訳者はスタイルが異なるかもしれませんが、僕が通訳をしている場合、話し手が完全に話し終わるまで待ちます。まあ当たり前といえば当たり前ですが。
「遮らない」どころか、話し手が話し終わっても「もっと何か言いたいことはないか?」とちょっと促すぐらいの感じです。話し手が、言いたいキーメッセージを既に言い終え、語尾の部分をモゴモゴ言っているだけだとしても、それが終わるのを待ちます。ときにしびれを切らした聴き手が訳の開始を待ちきれずに僕の方をのぞき込むのを横目で感じても一切構わず、話し手が話を完全に終えるのをじっと待ちます。

横からのぞき込むせっかちな聴き手のことですから、僕(通訳者)が間に入っていなければ、結構な確率で話し手の話を遮ってしまっているでしょう。

「人の話を遮らない方がいい」という原則は間違っていないと思うのですが、僕の場合、通訳時にそれを一生懸命やっているのは「お客様のため」ではなく、自分のエゴです。聴き手からすると、早く訳を始めてくれ、と思っているかもしれません。一方話し手の方も、(そろそろ訳を始めてもらっちゃってもいいよ)と感じながら語尾を長めに続けているだけの可能性もあります。実際、「相手の話を遮り、それにかぶせて話し始める」のはあまりにも世に広く普及していて、それがひとつの文化(?)みたいになっている面もあり、必ずしも悪いことではなくなってしまっているというか、「相手を遮る、相手に遮られる」ことを前提に話す人もいるでしょう。
つまり、その場にいる人々は、話し手・聴き手ともに僕の「じっと待つ」姿勢を喜んでいない可能性もありますが、これはお客様のためではなく自分の好き嫌いでやっている面が強いので、あまり気にしていません。

<「考える時間を稼げる」>
日々、いろんな日本企業の社長たちに同行して海外IRをしていますが、結構多くの社長が言います。「通訳を使うと、答えを考える時間を稼げるから助かるんだよな」と。それを受け、周り(その会社のIR部の人たち、証券会社の人たち、等)もみな一斉に「そうですよね〜」と同調します。

これは確かにそうなんだろうと思いますが、ちょっと気になる面もあります。

通訳を使うと「時間を稼げる」というのはどういうことか。

例えば自分(社長)が話す際、話を3分割して話すとして、第1部を話す → それを通訳者が訳す → 第2部を話す → 訳 → 第3部 → 訳、となるわけですが、第1部を通訳者が訳してくれている間に第2部、第3部で何を言うかを考えられる、という意味の場合もあるでしょう。それはいいと思うんです。

一方、こういうケースも考えられます。
例えばIRの場合で言えば、海外投資家が何か質問をしますよね、英語で。その質問が終わり次第、通訳者による訳(@日本語)が始まるわけですが、投資家の質問を通訳者が訳している間に考える、というパターンです。つまり、この場合において社長たちが言っているのはどういうことかというと、「自分は投資家の質問(@英語)がある程度理解出来る。だから、英語を聞いた時点で(頭の中で)答えをまとめ始める。でも、すぐには答えがまとまらない。だから、投資家の質問が終わり、それを通訳者が日本語に訳している間に考えをまとめ上げる」ということですよね、おおざっぱに言うと。

これに対し、僕が気になるのは以下の2点:

1.投資家の質問(英語)を「分かった気」になっている可能性

英語がペラペラではないから通訳者をつけているわけですよね、そもそも。その社長が、投資家の質問(@英語)を聴いて「なるほど、そういうことを質問しているのか」という判断をするわけですが、その判断は必ずしも正しいとは限らない。母国語である日本語であっても、相手の話を誤解してしまう可能性は結構あります。であれば、苦手な英語の場合はなおさらです。

仮に誤解してしまっていても、その後通訳者の訳を聴くことで「なるほど、ワシは勘違いしてたわい・・・」と気付くせっかくのチャンスがあるわけですが、訳を聴いている間、答えをまとめ上げる作業に脳のキャパを振り向けてしまっていると、結局その誤解も解けずじまいになる可能性が高い。

2.もし「考える間があった方がいい」のであれば、その間に「通訳者の訳」というノイズは無い方がいい?

せっかくなら完全な静寂の中で考え、答えをまとめ上げた方がいい。通訳者の訳を聴くのであれば別ですが、聴かずに「考えをまとめ上げる」作業をするのであれば、じゃあノイズは無い方がいいかもしれませんよね。もちろん、実際には通訳者の訳を完全に聴いていない、ということはなく、ある程度聴いているわけですが。

社長の取るべき「正しいプロセス」は以下の通りだと思うんです:

i) 投資家の質問を聴く
ii) 回答を考える
iii) 回答する

実際にはi)とii)が同時進行になりますが、極端を承知で理想を言えばi)とii)、それぞれを別に行った方がいい。質問を聴きながら回答を考え始めると、テンポが速いというメリットはあるものの、質問の意図を正しく理解せずに回答してしまい、QとAが噛み合わなくなる、というリスクを伴います。まずは質問にちゃんと向き合い、「相手が何を質問しているのか」を理解することに脳のキャパを100%振り向け、その上で「それに対し、自分はどう答えたいのか」を考えるのが王道ではないでしょうか。

ーーー

以上、通訳を介することのメリットと、そこから派生しての考察をまとめてみました。

いいコミュニケーションは、ほっておくと実現しません。ことばの壁がある場合はなおさらです。
ことばの壁がある場合はぜひ優秀な通訳者を活用し、相手の話を遮らず、それをしっかりと聴き、実りある意思疎通を実現してほしいです。
一方、ことばの壁が無いからといってコミュニケーション成功に向けた努力をおろそかにせず、むしろ「同じ言語を使い、完璧に分かり合ったつもりでも、実は分かり合えていない可能性がそこそこある」という認識のもと、意思疎通を成功させてほしいです。

# by dantanno | 2017-06-26 22:45 | 通訳 | Comments(0)

休憩中

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# by dantanno | 2017-06-26 17:08 | Comments(0)

CDプレーヤーがCDを再生しなくなった。

ちょっと前の話。

CDプレーヤーがCDを再生しなくなった。

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メーカーの修理窓口に電話して相談すると、有償対応で、今度引き取りに行く、とのこと。修理代に加え、出張引き取り料がかかります、とのこと。

「じゃあお願いします」と頼んだところ、明日からお盆休みのため、実際に引き取りに行けるのはだいぶ先になります、だそう。トホホ。。。まあしょうがないか。あ、そうだ、例えば今日自分で持ち込めば、もっと早く修理してもらえたりしないかな?

「お盆中は、引き取りだけじゃなくて、修理自体もお休みですか?」
「はい、もちろんそうです」
「もちろんですよね、そうですよね♪」

もうお盆明けの引き取りでいいや。

「じゃあ、お盆明けの引き取りでお願いします。」
「はい、かしこまりました。今、修理の依頼が立て込んでおりまして、一番早くご案内出来るのがお盆明けのだいぶ先に・・・」

修理の依頼が立て込んでるのにもかかわらずゆっくりとお盆休みを取る修理担当者は、どういう心境で休むのか。余計なお世話を承知で心配すると、それで果たして本当に気が休まるのか。

ーーー

僕は、サラリーマンの仕事ぶりを見ていて「大変だなあ」とか「すごいなあ・・・」と感じることも多々あるけれど、こういう面においては我々自営業の方が大変というか、すごいと思う。

CDプレーヤーの唯一の役割は「CDを再生(プレー)」することであって、それをしない、ということはいわば職務放棄。無茶を承知で例えると、通訳で言えば「通訳をしない通訳者」ということになる。

案件当日に「ヘソを曲げたので、今日は通訳しません」は、我々の世界では許されない。万一そんなことをすれば、当然その案件の通訳料(CDプレーヤーの本体代金に相当)はもらえない。通訳していないので。その上さらに「機嫌を直してほしいなら、追加料金(修理代+出張引き取り料に相当)を払い、しかもお盆明けしばらく経った頃まで待つように」はなおさら通らない。通訳が必要となっている会議は、そのときにはもう終わってしまいます。

ーーー

機械は壊れるものであって、それを人間(通訳者)と同列に並べることは出来ないのは分かる。でも、機械の故障はやむを得ないものだとしても、壊れた機械の修理対応は心がけ次第でいくらでも改善出来る。そのメーカーが

「機械は壊れるものなんだから、CDプレーヤーがCDをプレーしなくても当然でしょう」と思うか、あるいは

「機械は壊れるものとはいえ、ウチの製品が壊れてしまい、そのせいでお客さんが困っているなんて恥ずかしい、口惜しい、申し訳ない。一刻も早く直したい!」と思うかどうかの違いだと思う。メーカーの中では恐らく、製品を作っている人は製品に対するプライドを持っているだろうが、修理対応部門でもそのプライドを共有出来ているか、はまた別の問題なのだと思う。

もちろんどのメーカーも口では「修理対応重視、お客様は神さま」と言うだろう。でも、口先だけではなく本当にそう思っているかは、実際の対応方法に現れる。休むなとはもちろん言わないが、ある意味メーカーの生命線とも言える修理窓口ぐらいは交代制にするとかして、何らかの対応が出来るようにする、というのもアリなんじゃないか、と思う。

別にクレームをしたいわけではないんですが、メーカーに修理を依頼するといつもこういうことを考えさせられるので、書いてみました。

# by dantanno | 2017-06-15 17:54 | 提言・発明 | Comments(0)

Let me give you a hand.

夏の間、ロンドンに滞在中。

日本は良くもわるくも「自分の面倒は自分で見る」文化だが、ロンドンに来ると、人間は持ちつ持たれつなんだな、ということに気付く。街で人に親切にされたり、逆に親切にしたり、が日常茶飯事になる。出掛ける度に必ず、必ず(笑)、ちょっとした「人情小咄イベント」が発生する。2人乗りベビーカーで街をウロウロしていると特に。

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親切のギブ・アンド・テイクを日々繰り返していて思うのは、"Can I give you a hand?"(お手伝いしましょうか?)もいいけど、"Let me give you a hand."(手伝いますよ)の方がその100倍親切だ、ってこと。

どちらも親切を申し出る言葉には違いないが、その言葉の受け手からすると、印象は大きく異なる。

前者だと、言われた瞬間、一瞬肩に力が入り、「いえ、大丈夫です・・」と遠慮した方がいいのかどうかの判断を迫られる。でも後者だと一気に脱力し「ああもうありがとうございますたすかります」とどっぷり甘えられる。

# by dantanno | 2017-06-11 09:40 | 自戒ネタ | Comments(0)

どうすればテロを無くせるか

ロンドンでテロ事件が発生した。

この事件の犯人たちは、偽物の爆弾をカラダに巻き付けていた。なぜか?犯行後、自分たちが確実に警察に「殺される」ためだ。殺されずに捕まってしまうと「殉教者」になれないから。

この事件の犯人たちはその望み通り射殺されてしまったので(なんと寂しい人生!)、実際のところどうなのかは分からないが、一般的にこのようなテロ行為をする人たちは神さまを信じていて、自分たちがやっていることは正しいと信じていて、天国を信じていて、このような行為をすれば自分たちは殉教者として天国に行って神さまと会える、と信じている。全部ウソなのに!

我々は犯人たちを「悪い人」と決めつけるが、実際にはそうとは限らない。むしろすごく「いい人」かもしれない。悪いのはこの人たちではなく、宗教だ。

宗教を信じていようがいまいがいい人はいいことをするし、悪い人は悪いことをする。でも、「いい人悪いことをさせる」ためには宗教が必要。
犯人たちは、自分たちが勇気を持って、正しいことを行っている、と固く信じていた。我々一般人が我々のルールに従って「いい人」であろうと日々努力しているのと全く同様、犯人たちは自身のルールに従って「いい人」であろうと願い、勇気を持って行動した「いい人」なのだ。いい人がこういうことをしてしまうから問題なのだ。

この事件を受けイギリスのメイ首相はテロ対策を強化する、と発表した。警備体制や、テロリスト候補者の監視を強化する、とのこと。もちろんそのような対策は必要だが、本質的な解決策にはならない。
言うは易しだが、本質的な解決策はテロ行為をするような人たちに対し「あなたが信じていることは、実は全部ウソなんですよ」ということを伝え、分かってもらうことだ。視野を広げてあげることだ。

仮に我々一般人がテロリストたちにそのようなメッセージを伝えるとする。でも、それを言っている我々自身が天国を信じてしまっていたり、"God save the Queen"とか"In God we trust"とかハレルヤハレルヤ言っていると、非常に説得力が無い。テロリストたちに言わせれば、「たまたま信じている内容が異なるだけで、お前たちも根拠無く何かを信じている、という意味では我々と同じではないか。だったら我々も根拠無く「テロ行為をすれば殉教者として天国に行ける」と信じてもいいではないか。信仰の自由万歳!」ということになってしまう。

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再び「言うは易し」だが、この世の全ての人が「根拠無く何かを信じること」をやめれば、テロ行為は無くなる。

子供たちに対し「神さまはいる、天国はある、いい子にしていれば天国に行ける」と洗脳することをやめるべきだ。子供時代にそのような洗脳を受けると、その後大人になってからは非常に洗脳から脱しにくいことは、我々大人たちが身をもって証明している。



「我々一般人の信仰は(テロリストのそれとは違い)人に害を与えないからいいではないか」という意見は一見もっともだが、根拠無く何かを信じることを肯定する、という意味で結果的にテロリズムを後押しすることになる。テロは、その加害者側のみならず、被害者側も同じような根拠レスな信仰を抱いてしまっているから厄介だ。神さまを信じる者がテロ行為を起こすと、被害者側は「神に祈りましょう」となる。そんな状態だから、テロの問題は非常に解決しにくい。



宗教を批判することにはものすごく強い抵抗感が伴う。でも、「宗教を批判してはいけない」というのも根拠無き思い込みの一つだ。我々が小さい頃から「宗教を批判してはいけない」と洗脳されてきた結果だと思う。宗教は文字通り聖域であり、それを批判することはタブー、という思い込みを信者はもちろん、信者以外にも持たせることに成功した、という点で宗教はすごい。でも、そうした思い込みから逃れることが前に進む第一歩になるのではないかと思う。



# by dantanno | 2017-06-05 21:31 | 提言・発明 | Comments(0)