たんのだんのブログ

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モノを売ったことがあるか

今は「通訳」を売って生きているが、人生で一番最初に売ったものはザリガニだった。



ーーー



小学生のころ。
毎週末、家族4人で千葉・外房の山小屋に行っていた。

野良仕事を手伝うかたわら、弟と近くの田んぼの水路で、ザリガニやどじょう、タニシ、フナの赤ちゃんなどを取って遊び、家で飼ったりした。



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あるとき、ザリガニをたくさん、、、といっても10匹ぐらいだが、たくさん取った。


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その、たくさんのザリガニたちを東京に連れて帰り、四谷のZOOというペットショップに売りに行った。
残念ながら取引は成立しなかったが、これが自分の初の商業行為だった。

(ちなみにこのZOOというペットショップはとってもおもしろいところなので、ぜひ一度足を踏み入れてほしい。ウェブサイトはこちら(音が出るサイトなので注意)。)



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ザリガニの次は、キーウィーフルーツの販売に取り組んだ。


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キーウィー・フルーツは、父がその山小屋周辺で、趣味で栽培していた。
豊作の年があって、人にあげてもあげてもまだ無くならないので、売ってみることにした。

ビニール袋に詰められるだけパンパンに詰めて、弟と共に、近所の八百屋を訪ねた。
一袋千円で持ちかけたところ、交渉の末、店主のおじさんが買ってくれた。

店頭に並べるために仕入れてくれたのか、あるいは自家消費のためかは分からない。
きっと、キーウィー・フルーツをビニールに入れて売り歩く外国人風の幼い兄弟を不憫に思ったのだろう。。。



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大学時代は、ニュージーランドの輸入住宅を日本で別荘用に売る仕事をした。
大学をサボり、父の車を借りて那須や伊豆の別荘地に行き、「別荘販売」とか「別荘建築」といった看板を見つけては、当時まだ珍しかった携帯電話(IDO)で電話をかけ、住宅の部材のサンプルを持って飛び込み営業していた。実際、千葉県のマザー牧場には当時販売し、建設にも携わった貸別荘や売店の建物が今も稼働している。



そうした「モノを売る」活動がとても楽しかったこともあり、就職先は商社に決めた。

入社後、エネルギー部門に配属された。

商社は、自ら上流(アップストリーム)の油田などに投資しリターンを追及するという、ある意味華々しいビジネスもやりつつ、一方ではベタベタの代行業、口銭商売もしている。僕が入社後間も無く、自ら志望して担当になったのは、そうした従来型の、売り手と買い手の間に入って、、、みたいなベタな仕事だった。そこでは、エネルギー(具体的には天然ガス)を売ってくださる売主にも気を遣い、買ってくださる買主にはもちろん超気を遣う、という板挟み的な立場をこれでもかというほど経験出来、とても勉強になった。



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こうして人生の局面局面でモノを売る経験をして来たわけだが、いずれも本腰を入れて取り組んだとは言えず、ちょっと中途半端だったと思う。
そして、今から思うと、この「モノを売る」という仕事にもっと真剣に向き合い、努力すればよかった、と悔やまれる。極めるまではいかないまでも、「真剣に取り組んだ」と自信を持って言えるようにすればよかった。

そう思うのは、通訳者になった今、モノを売ることの重要性を感じるからだ。


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売る対象がなんであれ、何か「モノを売る」という経験は、出来ればこの世の全ての人が経験するといいと思う。

そのモノを、今はそれをほしいと思っていない人に、いかにして喜んでお金を出していただくか。
暴力を振るったり、ウソをついて騙したりするのではなく、いかにして、あくまでも正攻法でその人を説得(Persuade)し、Change his/her mindしてもらうか。そして、そのモノを買った結果、いかに喜んでもらうか。

相手の立場に立ち、どうやって「営業」し、どうやって実際の「販売」まで持って行くかを考え、実行するプロセスは、全ての人にとって貴重な経験になるのではないかと思っている。

ある会社のCEOのことば

"My advice to young people is always, along the way, have a sales job. You could be selling sweaters. You could be selling ice cream on the street. It doesn’t matter. Selling something to somebody who doesn’t want to buy it is a lifelong skill. I can tell when somebody comes in for an interview and they’ve never had any responsibility for sales."


テキトーな訳

「若い人にいつも言うのは、キャリアのどこかでセールスの仕事を経験した方がいい、ということ。セーターを売るもよし、街でアイスクリームを売るもよし。なんでもいいから何かを、それを「買いたいと思っていない人」に売り込む、という経験は一生モノのスキルになる。(ウチの会社に入社したいと)面接に来た候補者にセールス経験があるかどうか、(面接をすれば)すぐに分かる。」



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営業活動を自分よりも長くやっている人は多いだろう。そうしたプロのセールスマンと比べれば、自分は完全にアマチュアだ。そして、上記の通りもっと真剣に取り組む余地はいくらでもあった。でも、例え少しだけであっても、営業の世界を体感したことは大きな財産になっている。

自分のこれまでの人生において、一度もザリガニや天然ガスを売った経験が無ければ、自分はどういう人間になっているだろう、と思う。



ーーー



今、自分が日々行っている通訳業務は、一見営業(Sales)とは縁遠い。でも、実は非常に近いのではないか、と思っている。

通訳をする際、考えていることはただ一つ、いかにして会議参加者を喜ばせられるか、ということだけだ。実際にそれが出来ているかどうかは別として、少なくとも、それだけに集中しようとしている。

それに対し、一番よくないのが「いかにミスをしないか」に集中し、ビクビクしながら訳しているときの自分の通訳だ。順番に並べてみると、




1. いかにして会議参加者を喜ばせられるか
2. いかに上手に訳すか
3. いかにミスをしないか




1.は、2.や3.と根本的に異なる。
1.が相手(会議参加者)目線であるのに対し、2.や3.は自分(通訳者)目線なのだ。



相手目線

1. いかにして会議参加者を喜ばせられるか
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
2. いかに上手に訳すか
3. いかにミスをしないか

自分目線



2.や3.は、狭義の「通訳業的」視点、あるいは職人的な視点だとも言える。もちろん相手のことも考慮しているが、弱い。メーカーで言えば「我が社製品」ありきで考えるメーカーとも言えるだろう。

それに対し1.は、非常に「営業(Sales)」に近い。自分を捨て、完全に相手のことしか考えていない。メーカーで言えば「お客様」ありきで考えるメーカーか。



「営業」という行為を突き詰めて考えてみると、それは全て「相手」のことである、という結論に僕は行き着く。そこに「自分」は全く無い。

自分が売ろうとしているモノ、例えば「ザリガニ」はもちろん関係しているが、ザリガニ=自分ではない。僕は人間である。

営業の現場に存在するのは、

1. 売る相手(お客様)、すなわちペットショップのZOOの店員や八百屋のおじさん、そして
2. 売ろうとしているモノ、つまりザリガニやキーウィー・フルーツだけだ。

売る人(例えば僕)ももちろんその場にいることはいるが、決して主役ではない。ポイントは僕ではなく、「1.お客様」が「2.そのモノ」を買うかどうか、それだけだ。

売る側からすると、自分を捨てる、、、というか、自分がそもそも関係無い。それが営業だと思う。



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さて、話転じて通訳。

通訳者と話したり、その訳を聴いたりしていて、非常に親近感を感じることがある一方、何かこう、とても大きな断絶みたいなものを感じることもある。それがなんなのかはよく分からないのだが、もしかしたら営業的視点の有無も関係しているのかもしれない、と思う。

例えば大学等の学校を出て、すぐに通訳者になった人。あるいは、学校の後何かワンクッション置いて通訳者になったものの、そのワンクッションが営業(Sales)とは無縁の仕事だった人。
そういう人は、「モノを売る」という視点を持っていなくても不思議ではない。だって、売ったことが無いんだから。

そういう通訳者に「通訳はサービス業だと思うか」と問いかければ、Yesと答えるかもしれない。が、それは「製造業ではないし、、、」的な消去法の結果であって、通訳業を積極的に「サービス業である」あるいは「営業(Sales)行為である」ととらえた結果ではないかもしれない。

そこに、通訳という仕事の独特の商流も関係してくる。通訳者たちは、日々クライアントを回り「お願いですから仕事をください」と頭を下げているわけではない。依頼は、どちらかというと「向こうから来る」ものであり、それを「お受けします」あるいは「お断り」するのが通訳者だ。元々営業経験が無い人が、そういう独特の商流の中で仕事をしていると、どうしても「モノを売る」という視点・姿勢が身につきにくいと思う。



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一方で、人気のある通訳者たちに共通するものは何か、を考えてみると、意外と「通訳の上手さ」以外の何かではないか、という気がしてくる。
いや、もちろん通訳はある程度上手なのだが、それが決め手ではない気がする。

決め手になっているのは、営業(Sales)的な視点ではないか。

人気のある通訳者たちは、通訳者になる前、何か「モノを売った」経験があり、その視点に立って日々通訳をしているのではないか。
あるいは、モノを売った経験は無いものの、何らかの理由・経緯でそうした営業的な視点を身につけていて、それを活かして日々通訳をしているのではないか。

この考え方を使えば、「通訳者ではないのに通訳が上手な人」もある程度説明出来る。
ときどき、通訳者ではなく、普通のサラリーマンで、通訳が上手な人がいる。日々通訳をしているわけではなく、通訳学校に行ったこともない人たちだ。言葉のセンス、そして一定のインテリジェンスがあるのはもちろんだろうが、それに加え、営業的な視点も併せ持った人たちなのではないか。

ーーー

興味深いのは、営業的な視点を身につけるのに、実際にモノを売った経験は必ずしも必要無い、という点だ。
長く営業をしていても、それに中途半端に向き合えば身にならないだろうし、一度もモノを売ったことが無くても、相手の立場に立つことが上手な人もいる。

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翻って、自分はどうか。

通訳者になる前の営業活動には、今一つ本腰を入れて取り組まなかったこと、そしてそれをちょっと悔やんでいることは既に書いた。
だとしたら、今目の前にある「通訳」という仕事を今まで以上に「営業(Sales)活動」としてとらえ、この機会に「モノを売る」という行為に本腰を入れて取り組んでみるのもいいな、と思う。


# by dantanno | 2016-03-21 14:45 | 日々研鑽 | Comments(0)

通訳業の「経費」について

毎年この時期になると、通訳業の「経費」について考えさせられる。

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世のほとんどの通訳者は、収入のわずか10%ほどしか源泉徴収されていないにもかかわらず、そこからさらに還付を受けている。つまり、国に養っていただいている存在とも言える。

一方で、多くの付加価値を提供し、その見合いに多額の報酬を得て、多額の税金を支払っている通訳者も、ごく少数ながら存在する。実際今日も、納税額が数百万円にのぼることを嘆く通訳者と飲んできたので、間違いない。

(個人的には、我らが通訳業界が「国に養っていただく」存在から脱し、国を養ってやるぐらいの気概を持った業界になってほしいと願っているが、今回のブログで書きたいのはその点についてではない。)

そういう、多額の納税をしている通訳者にとって、「通訳業の経費」というのは死活問題だ。

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例えば、90円でモノを仕入れ、それを100円で売る商売であれば、
(話を分かりやすくするため、販管費は無視)

売上 100円
売上原価 90円
-------
課税所得 10円
税率   30%
-------
税額    3円

となる。ところが、通訳業の場合、

売上   100円
売上原価   0円
-------
課税所得 100円
税率    30%
-------
税額    30円

と、税額が10倍になりかねない。

通訳業の場合、売上原価に相当する費用項目が無いのである。かかっているのは販管費だけで、それとて、「現場に行くための電車賃」とか「ノートを買いました」とか「携帯電話料金(の一部)」とか、微々たるものでしかない。残りは全部「利益」、すなわち課税対象の所得とみなされてしまう。

実際、経費がほとんどかかっていないからしょうがないのだが、本当にその考え方でいいのか。通訳業は本当に「経費」がほとんど無く、ボロもうけなのか。



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例えば自分の場合、今こうしてまがりなりにも通訳業を営めているのは、子供の頃に授かった教育のおかげが大きい。

特に裕福なわけではなかったし、かつ、Expatなどでもなかったため、国や勤め先企業が学費を出してくれたわけでもないのに、高額な学費を払ってインターナショナル・スクールに通わせてもらった時期がある。
また、小学校の時にインターナショナル・スクールに転校したはいいものの、英語力が不足していたため、インターの長い夏休みを利用して単身海外に「留学」したこともあった。

そうした取り組みの目的はひとえに「英語を学ぶため」、そして「国際感覚を身につけるため」であった。いずれも、通訳者にとって不可欠な能力だ。

そう考えると、今自分が通訳者として収入を得られるのは、過去のこうした多額の犠牲があったおかげであって、出来るものならそうした費用を今、時間差で計上してしまいたい思いにかられる。



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我々通訳者にとって、もう一つ大きな費用項目、それは「時間」である。

たった1時間の会議の通訳をするために、その前の日を丸々予習に費やすことだってあり得る。そこまでしないにしても、ある日に受けようと思えば受けられたであろう通訳案件を、その翌日の通訳案件の予習をするために泣く泣く断った経験がある通訳者も多いだろう。

その場合、予習に費やした時間、および断った案件で得られたであろう収入(機会費用)は、当日その通訳案件を引き受け、その収入を得るための「経費」と言えないか。

また、子供の頃の話で言えば、友だちが遊んでいる間にBBCのビデオを見せられたり、公文で国語を勉強したりしていた「時間」も支払っている。



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どこまでを「見えない経費」として捉えるかは、通訳者によって異なるだろうが、我々通訳者の仕事にこうした「見えない経費」が存在することは間違いないと思う。
そしてこの「見えない経費」は、通訳以外のどの仕事にも存在するが、通訳業については特に大きいと思う。



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税務署は、こうした見えない経費や、(見えるものの)タイムラグが大きすぎる経費を税務上の経費として認めてくれない。それを嘆く通訳者の気持ちもよく分かる。

でもその一方で、税務署の「見えないものは考慮しない」という方針のおかげで我々通訳者がとても助かっている側面も実はあると思う。



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我々がすばらしい通訳をし、その場の成功に貢献し、会議参加者にとても喜ばれ、ほめられたり感謝されたりしたときに感じる喜び、充実感。それは金銭的報酬とは別の「見えない報酬」であると言える。
通訳者によっては、金銭的報酬よりも、こうした見えない報酬の方がやりがいにつながっている人もいるだろう。

もし税務署が、こうした見えない報酬も「課税報酬」として課税をするとなったら、我々の納税額は一気に何倍にも増えてしまう。



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税務署には、見える/見えないではなく、「実質的にどうなのか」を基準に課税してほしいものだ。でも、それが実務的に難しいのも分かる。

であるならば、通訳業に伴う見えない経費を計上出来ないもどかしさを感じる一方、見えない報酬については課税をお目こぼしいただいていることを踏まえ、プラスマイナスで考えるとまあいいのかな、と思う。

見えない経費も大きいが、実は、見えない報酬はそれを大きく上回るのではないか。そう思わせてくれるステキな商売、それが通訳業だと思う。

# by dantanno | 2016-03-09 02:58 | 提言・発明 | Comments(0)

エライ人たちと仕事をしていて思うこと

40歳を過ぎたのにまるで小学生の作文みたいなタイトルですが、最近思うことについて書いてみます。

通訳という職業柄、ときどき各界のエライ人たちと一緒に仕事をします。
大企業の社長、政治家、官僚のトップの方々など。

そういう人と「名刺交換をしたことがある」とか、「一応、同じ部屋に1時間いました」とかにとどまらず、例えば一週間かけて一緒に海外を旅したりします。自然、仲良くなり、お互いに関する情報をいろいろ交換します。

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同じエライ人と、数ヶ月の間を空けたあと、再び仕事をする機会に恵まれることがあります。そういうとき、

エライ人 「あ、そろそろ二人目が産まれるんでしたっけ?」

とか、

エライ人 「ダンさん、この前こう言ってましたよね。」

といったことまで覚え、気にかけてくれている。

一方の僕はどうか。相手が言ったことなんて、よほど心に刺さった内容とか、自分に関係する内容以外、てんで忘れている。

このギャップは一体何か。
エライ人は僕よりもはるかにエラく、はるかに忙しく、覚えていなければいけないこと、考えなければいけないこともはるかに多いにもかかわらず、である。

エライ人は、なんで周りの人間の、そんな細かいディテールまで覚えているのか、ずっと考えて来た。

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考えられるとすれば、以下の3つのどれか、あるいはその組み合わせしか無いと思う:

1.記憶力がいい
2.(記憶力がいいわけではないが)覚えようと懸命に努力している
3.人に興味がある


1.や2.もあるのかもしれませんが、やっぱり「3.人に興味がある」ということなのかな、と思うんです。

もしそれが正しいとすれば、それと比べ僕などは、周りの人に興味を持っていない、ということなのでしょうか。興味が無いから、いろんなディテールを覚えていないのでしょうか。もしそうだとすれば、ちょっとショックです。

最近読んだ本からの抜粋:
It is the individual who is not interested in his fellow men who has the greatest difficulties in life and provides the greatest injury to others. It is from among such individuals that all human failures spring.

要するに、「周りの人に興味を持たない人物は、多くの困難に見舞われ、他者も傷つける。あらゆる「人災」を引き起こすのも、そういう人物だ」的な手厳しいことが書いてあって、でもまあ一理あるのかなあ、、、と思うわけです。

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決して人に興味が無いわけではないんですけどね。
実際、人と会い、自分のことを話すだけでなく相手の話を聞きたい、とも思っていますが、でも、エライ人たちと比べるとやっぱり相当劣っているんだな、と認めざるを得ない。

「人に興味を持った方がトクだから、興味を持つようにしよう」ではあまりにも不純だし、持とうと思って持てるものなら苦労はしないわけですが、実際自分の周りの人に興味を持ち、その人たちがどういうことを考えて日々生きているのかに思いを馳せながら生きるのはとても楽しいだろうし、それが出来る人間はきっと魅力的だろうなと思うので、少しずつそういう方向に舵を切っていこうと思います。

# by dantanno | 2016-03-05 18:30 | 自戒ネタ | Comments(0)

選ばれし者たちの、楽園

以前、「不動産」をテーマにしたIRツアーに同行し、通訳をしたことがあります。
数日間にわたり、外国人投資家のご一行と一緒に、都内の不動産デベロッパーやリートを訪問し、IRミーティングをしました。ミーティングだけでなく、不動産の見学もしました。ショッピングセンターとか、倉庫とか。その一環で、販売中のマンション・ギャラリーに行ったときの話です。

一般的にマンション・ギャラリーでは、入口で受付を済ませ、まず最初に物件の模型とか、位置関係を示す地図を見たりします。
で、シアタールームでプレゼンのビデオを観て、その後モデルルームを見学、といった流れが多いかと思います。
そのシアタールームで事(こと)は起きました。

ーーー

投資家たちにパナガイド(同時通訳機器)を付けてもらい、僕も一緒にシアタールームに入り、ビデオの音声を同時通訳することにしました。

プロの声優さんのかっこいい声で、マンションの説明/アピールが始まります。

話の細かい内容はもう忘れましたが、例えば

「24時間動き続ける国際都市、東京。
その、まさに中心となる、**区、**(街の名前)。
今、新たな時代が動き出す!!」

的なオープニング。
この「新たな時代が動き出す!!」を訳したところで、投資家たちから軽い笑いが起きました。

「JR線と、地下鉄2路線へのダイレクト・アクセス。
そして、銀座から*km圏の利便性。」

立地の説明の後は、マンションそのものの紹介に入ります。

「緑に溢れたプロムナードを抜けると、そこは光が降り注ぐエントランス・ホール。
共用部には、ゲスト・ルームや託児スペースを配置。」

そして、いよいよ締めです。

「ここは、都市の中のアーバン・リゾート。
選ばれし者たちの、楽園。
**アイランド・ヒルズ・クレセント・タワー(仮称)! → ジャーン♪」 (終了)

といった感じのビデオ音声でした。

ーーー

この「選ばれし者たちの、楽園」をどう訳そうか、悩みました。
ええい、もうそのまま訳しちゃえ、ということで、雰囲気を出すためにちょっと声優チックな声で

A paradise for the chosen ones.

みたいに訳しました。
もっといい訳もあるでしょうが、ここでは訳し方を話し合いたいわけではないので、論を進めます。

"A paradise 〜" を聞いた海外投資家たちが、狭いシアタールームの中で一同大笑い。

同席していた不動産会社の方々、そして証券会社の方々は当惑気味です。別に笑うところじゃないのに、って。

僕としても、その頃はすっかり仲良くなっていた投資家たちに対し、(あんたたち、マジメに聞きなさい(苦笑))的な気持ちでしたが、でも、彼らがおもしろがる気持ちも分かるんです。確かにややハイエンドな物件ではあったものの、まあ言ってみればフツーのマンションです。その売り文句が「選ばれし者たちの、楽園」だと、それをおもしろく感じるんですよね。

幸い、日本サイドの方々も(まあ、確かにちょっとおもしろいか・・・)と思ってくれたのか、その場は和やかに終わりました。

ーーー

このとき、通訳者の役割について、改めて考えました。
正解の無いテーマなので、あくまでも僕の勝手な考えですが、通訳者は、双方の間に入って言葉を置き換えているだけではなく、文化の架け橋でもある、と思っています。架け橋であるからには、「選ばれし者たちの、楽園」がマジメな売り文句であり、揺らぐ心のまま4度目のマンション・ギャラリー訪問中のパパの心の、最後の最後の一押しをその売り文句がすることもある、ということが分からないといけないし、一方で、その売り文句を聞いてゲラゲラ笑い転げる気っ風のいい外国人の気持ちも分かる必要がある。一緒になって笑い転げてはいけないし、「何がおかしいんだ!!」と腹を立ててもいけない。
だからこそ通訳は、他の仕事以上に「視野の広さ」、そして何よりも「心の広さ」が求められる、ステキな仕事だと思うんです。






# by dantanno | 2016-02-29 23:37 | IR通訳 | Comments(0)

B. B. King's words

"I don't like anybody to be angry with me. I'd rather have friends. If there's any static or whatever that causes somebody to be mad at me about something or to think I'm at fault about something, I'll get on my knees to apologize. I just believe that life is good like that."

# by dantanno | 2016-02-29 13:21 | Comments(0)

サイマルのインターネット講座で「ノートテイキング」を学ぶ

サイマル・アカデミーのインターネット講座で、谷山 有花さんの「通訳のためのノート・テイキング」を受講した。

自分のノート・テイキング(以下「メモ取り」)は、やり方が既にある程度確立されている。特にIR通訳に関しては。
「確立されている」というと聞こえはいいが、悪く言えば「固まってしまっている」ということでもある。それをぶち壊すことで、文字通りブレイクスルー出来るのではないか、というのが今回この講座を受講した動機である。
自分以外の通訳者(谷山さん)がメモ取りについてどのように考え、実際どのようにメモを取っているのか、を学びたかった。また、通訳を教えている者として、他の方の指導法を参考にし、そこから学びたい、という動機もあった。

ーーー

受講してよかった。以下、感想をいくつか。

<いいショートカット>
メモ取りについての、講師役の通訳者による単なる好みの押しつけではなく、このような理論に基づく体系だった指導は、全ての通訳者が初期段階で経るべきだと思う。自分の場合、通訳学校に途中から編入(?)したこともあり、そういうプロセスが抜けてしまっている。

自分が今の時点で受講してもためになったが、駆け出しの頃に受講していたらもっとよかったと思う。メモ取りについてはいろいろ試行錯誤しながら自己流で確立して来た。キャリアの初期の段階でこのような講座を受けていれば、もう少しショートカット出来ただろう。

ショートカットには「いいショートカット」と「悪いショートカット」があると思う。

いいショートカット: 「包丁は危ないから、もう少しお兄ちゃんになるまで触らないようにね。」
悪いショートカット: 「この問題の答えは○○だよ。あ、まだ解いてる途中だった?ゴメン、ゴメン(笑)。」

メモ取りについてのこうした指導は、いいショートカットだと思う。

<絵の多用がすばらしい>
講義では、例えば「話す」というメモを取るときに口の絵を描いたり、「〜と聞いた」をメモするときは耳の絵を描いたり、というように絵が多用されていた。この辺は、もしかしたら女性ならではのセンスなのだろうか。自分からはあまり出ない、いい発想だと感じた。
これは、自分のメモでも取り入れる余地が大きい。さっそく明日の逐次トレーニングの際、絵を使ってメモることを自分に強制してみて、どのような結果になるのか試してみたい。

<ロジックの取り方も参考に>
自分は、例えば「前年比3%増」という発言を「LY比+3%」とメモっている。
一方、講義での参考例は「+3%/前」みたいな感じだった。そっちの方がいいな、と思った。
コンパクトであることに加え、英語の順番になっているから。自分のメモだと、仮にそのままの順番で訳すと
"last year compared to up 3%"
と意味不明になってしまうので、訳す際に順番を入れ替える必要がある。でも、講義の参考例であれば、そのまま訳してしまっても
"up 3% from last year"
と、そのまま訳として使える。下ごしらえが自分よりも一歩進んでいる、いいメモだと思った。

<「メモは縦方向に取る」という原則・・・>
講義の中で谷山さんは、「ノート・テイキングの方法は、講師のやり方が唯一の正解というわけではない。最終的には、各通訳者が自分で考え、自分のやり方を確立していくべきだ」的なことをおっしゃっている。まさにそうだと思う。

その前提があった上で、講義の中で何度も「メモは縦方向に取る」というメッセージが登場する。これは、この講義に限ったことではなく、あらゆる場面で唱えられている「通訳の原則」であり、常識である。自分も、通訳学校で、そしてそれ以外の場面(本など)で何度も繰り返し「メモは縦に取る」と教わり、実際メモを縦に取って来た。

でも、最近は横に取ることも多い。2色で。
青で横にバーッと取り、次の発言は赤でその右側に取っていく。紙の端まで行ったら折り返し、次の行に行く、という感じ。

(色を変えることにあまり深い意味は無いが、これから訳す箇所と既に訳し終えた箇所との区別を付けやすくするためにやっている。1色だけでメモを取ると、訳し終えた箇所のメモをシャーっと消す必要が生じるが、その時間と労力を「戦略的な訳」に振り向けたい。)

もしメモを「縦方向に取る」べきなのであれば、他の取り方(例えば横とか、斜め(?)とか、それ以外の方法)に対し、縦方向のメモが何らかの面で具体的・客観的に優れている必要がある。そうでなければ、「縦でなくてもいい」という指導になるはずだから。でも、少なくとも自分は今まで、「縦方向以外に、どのような取り方があるのか」、そして「それらの各方法と比べ、なぜ縦方向が優れているのか。他はどのような面で劣っているのか」について、教わった記憶は無い。

「メモは縦」の根拠でよく言われるのが「話の展開や、論理の流れを分かりやすく/見やすくするため」という点がある。でも、完全にランダムにあっちこっちにメモってしまうのであれば別だが、例えば「横向き」のメモであっても、話の流れを分かりやすく追うことは出来る。目をスクロールさせる向きが異なるだけのような気もする。

恥ずかしながら自分は、海外の大学院等で通訳を学んだり、外国人の通訳者と接する機会がそれほど多くないので分からないのだが、「メモは縦に」は世界共通なのか、あるいは日本人通訳者特有の話なのか?
日本では文字を縦に読むことに慣れているから、通訳時のメモも縦に取った方が「目で追いやすい」のだろうか。それに対し、例えば欧米の文化であれば、目は縦ではなく「左から右」に動くことに慣れている、という違いがあるのだろうか。今度、内外の通訳者に聞いてみよう。

話を自分に戻すと、メモを横に取ることもあれば、初期の頃のように縦に取ることもある。
でも、一番多いのは、「四角に取る」パターン。

縦でも横でもなく、「縦 X 横 = 四角」に取る。面で取る、という言い方も出来るだろう。
「いい通訳」は、言葉に囚われずに「メッセージ」を訳すことである、という観点からすると、メモを縦でも横でもなく四角に取り、一つのメッセージを一つの「絵」、あるいはパワポのスライドのようなものとして捉える、というのはおもしろい方法だと思っていて、目下多用している。

メモを縦(横でもいいけど)に取る問題点は、一番上の箇所を訳しているとき、「先が見えにくい」という点にあると思う。もちろん目を大きくスクロールして一番下まで行けば「見える」わけだが、本番中、余裕があまり無い状態の中、それを毎回やるのはなかなか難しい。だからこそ、メモを縦に長く取ると、結果的に編集作業があまり行われず、メモの一番上からそのまま順番に訳していくことになりやすい。それ以外の訳し方が難しいからだ。

定量的/客観的に分析したことはないが、通訳学校で「正統派」の通訳教育を何年にも渡って受けてきた通訳者ほど、メモの一番上から順に、悪く言えば機械的に、訳していく傾向があるかもしれない。
それに対し、メモを縦にではなく四角に取ると、全体を一つの絵として把握しやすくなる。そして、発言のロジックの各アイテムがひとまとまりに近寄っていれば、起承転結も把握しやすくなり、自分が好む「戦略的な訳」がしやすくなる。

最近、自分が特によくやるのが、メモを大まかに4つのブロックに分けること。左上、左下、右上、右下と、大きく4象限に分け、それぞれのブロックの間の関係を考えながら訳を構築すると、やりやすい。(例: 左上の部分はイントロダクション、左下の部分が問題提起。右上が裏付けとなるデータで、右下がオチ、みたいな感じ。)

縦、横、四角、その他の方法。。。この辺は好みの問題でもあるだろう。冒頭の「メモ取りに唯一の正解無し」の通りだ。

いずれにせよ、メモは(必ずしも)縦に取らなくてもいい、というのが今のところの自分の実感である。もちろん、どの先生も「縦に取れ」と押しつけてはいない。「メモは縦に」という点に限らずだが、谷山さんのように「自分の指導内容が唯一の正解ではない」とわざわざ前置きしてくれている先生も多いし、仮にその前置きをしていなくても、それは前置きを省略しているだけで、通訳を教える人はほぼ全員そういうつもりで教えている。
そういう大前提があるのはよく分かる。でもそれにしても、どこを向いても「メモは縦」の大合唱の中、駆け出しの通訳者は他のメモ取り方法を試すどころか、それが存在することに気付くのも難しいだろうな、ということで、ちょっと一石を投じさせてもらいました。

# by dantanno | 2016-02-09 00:15 | プレミアム通訳者への道 | Comments(0)

小さい階段(本人談)

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# by dantanno | 2016-02-07 15:40 | Comments(0)

Michael J. Fox's words

パーキンソン病と闘ってきたマイケル・J・フォックスの言葉。

One of the things the illness has given me is a degree of death. There's a certain amount of loss, and whenever you have a loss, it's a step toward death. So if you can accept loss, you can accept the fact that there's gonna be the big loss. Once you can accept that, you can accept anything. So then I think, Well, given that that's the case, let's tip myself a break. Let's tip everybody a break.

# by dantanno | 2016-01-31 13:10 | プライベート | Comments(0)

中と外を一致させる

最近のこと。

ふと気付くと、ちょっとしかめっつらというか、目つきが厳しめになっていることがある。ここのところ、子育ての関係でよく眠れていない、というのがあるけれど、表情の変化にはその前から気付いていた。昔はこんなこと無かったんですけどね。


他の人はどうなのか知りたくなった。そこで、街を歩くとき、他の人たちがどういう表情をしているか観察してみた。

買い物をしに行った先のデパートのエスカレーターで、向こうから来る見知らぬ人たちの顔を見てみる。とてもうれしそうで、用も無いのにこちらから何か話しかけたくなってしまう、そんなニコやかな七福神のような表情をした人もいれば、この世の不幸を一身に背負った歯痛の般若みたいな人もいる。

七福神も般若も、きっと同じようにうれしいことを経験したり、仕事やプライベートで課題を抱えていたりと、要するに大体似たような人生を歩んでいるのだろうに、ここまで対照/対極的とはおもしろい。


自分の場合、機嫌はとてもいいはずなので、顔つきが厳しめになるのは年のせいか?原因がなんであれもったいないので、意識的に目を大きく見開き、口元を笑顔っぽくし、身の回りの明るいことを考えるようにして、心の持ちようをダイレクトに顔に出して行こうと思った。


# by dantanno | 2016-01-25 17:01 | プライベート | Comments(0)

携帯電話会社のTV CM

携帯電話会社のCMを観ると、どこか小馬鹿にされたような気になってしまう。
3社のCMすべてそう。

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でもこれは、ちょっと考えればすぐに僕がおかしいと分かる。

ーーー

携帯電話会社(+広告代理店)は、なんのために高いお金と手間暇をかけ、TV CMを作り、放映しているのか。

その目的は、
1.収益を増やすため(直接的、定量的)
2.知名度やイメージをアップさせるため(間接的、定性的)

2.の「知名度やイメージをアップさせる」というのも、企業の存続意義を考えると、究極的には1.の「収益を増やすため」につながる。

いずれにせよ、僕を小馬鹿にするためのCMではない。

上記に照らし、携帯電話会社のCMの場合、その目的は
1.サービス加入者を獲得したり維持/Retainする
2.知名度やイメージをアップさせる
ためにあるのだろう。

僕の場合、どういうときに「小馬鹿にされた気がする」のかというと、「こうしたなんとか太郎とか犬とかよく分からない家族とかがあれこれおもしろおかしくやっているCMを流しておけば、それを観た者はその結果ウチと契約したがったり、ウチに引き留まったり、ウチに対する知名度・イメージをアップさせるだろう」と思われていると思うと、ちょっとどうなのかな、と思ってしまうのだ。

ーーー

ちょっと余談だが、僕の友人で、広告会社を経営し成功させている人がいる。彼の独特のものの見方には、昔から一目置いている。


よく、生命保険会社のCMなどで、感動的な「いい話」が流れて、それを観た人たちがFacebookとかで「チョー感動した!」とか「涙が止まらなすぎる!!」と称賛の嵐になることがある。確かに僕も感動するのだが、そんなとき、広告会社経営の彼は横から冷静かつ愚直に

「で、いくら売れたの?」

とツッコミを入れたりしている。そのCMが、どれぐらいの売上増につながったのか、ということだ。


彼のこういう姿勢は実に正しいと思う。結局CMは、観る人を感動させるためではなく、「収益を増大させるため」に放映されるものだからだ。それを観て喜んだり感動したりするのは「番組そのもの」でやればいい話で、TV CMの役割ではないと思う。


「いいCM」とは、その制作費を大きく上回るリターンを企業にもたらすCMのことをいうのだと思う。ドライだが、そういうことなんだと思う。


ーーー

携帯電話会社のCMに話を戻す。

これは皮肉でもなんでもなく、素直に
(きっと、いいCMなんだろうな)
と思う。
(たまたま僕は観る度に小馬鹿にされた気分になるけど、それは僕が少数派なんであって、きっといいCMなんだろうな)
と思う、本当に。

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実際、多くの人がこうしたCMを観て、その携帯会社に対するイメージをアップさせたり、「今加入している別の携帯会社との契約を解約して、この会社にナンバー・ポータビリティーしよう」と思うのだろう。そういう意味でこれらCMは、CMとしての本来の機能を果たしていると言える。

ーーー

なんの皮肉もなく、素直に(きっと、いいCMなんだろうな)と思うのと同時に、
なんのひねくれでもなく、素直に(自分は、これをいいCMだと思う人じゃなくてよかった)とも思う。

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先日、大手携帯電話会社との契約を解約し、MVNO?SIMフリー?にしました。いいですね、これ。

その結果、従来は毎月1万円以上かかっていた携帯電話代が、月3,000円程度になりました。
差額の7,000円は、恐らくTV CM制作費でしょう。そのTV CMを観て喜ぶ人が負担するという、受益者負担の原則がフェアだと思います。

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# by dantanno | 2016-01-24 04:42 | プライベート | Comments(0)

Sherlock Holmes and Watson

One night, on a camping trip, Sherlock Holmes wakes up Watson and says, "Look at the stars. What do you deduce?"
Watson thinks for a minute and says, "Well, I see millions of stars, many of which resemble our sun, which most likely have their own planets, which most likely have life-forms like us, so I deduce that there is life on other planets."
And Sherlock says, "No, you idiot, someone's stolen our tent."

# by dantanno | 2016-01-23 13:02 | プライベート | Comments(0)

テレビが(半分だけ)無い生活

年末の引っ越しに合わせ、テレビをリビングからベッドルームに移してみました。それについての話です。

ーーー

自分がテレビを観るシチュエーションを大別すると、
1.ちゃんと、本腰を入れて観る
2.中途半端に観る
3.観ていないのに「観る」

それぞれについて考察しました。

ーーー

1.ちゃんと、本腰を入れて観る
お笑いが大好きなんです。だから、「アメトーーク!」とか「ロンドンハーツ」、「すべらない話」などを、ビールとかワイン飲みながら、奥さんとゆっくり観るのが至福なんです。
娯楽として楽しいのはもちろんで、それが主目的です。それに加え、笑うたびに「今のはなんでおもしろいんだろう」を考えるのも楽しい。また、こういう番組を観ることについては、ことばを使う者としての職業的な興味もあります。話し言葉であれ、書き言葉であれ、どうすればもっと分かりやすく、おもしろく話を伝えられるのか、といった勉強になると思うんです。

そんなわけで至福なんですが、お笑いを観始めるのは大抵夜遅くで、冬のちょっと寒い日なんかに、電気じゅうたんの上で寝っ転がりながらそれをやるとほぼ100%そのまま寝てしまい、午前3時ぐらいに僕か奥さん、どっちかがハタと目を覚まし、「もう二度とテレビ観ながら寝ない!」と後悔しながら二階に上がってショボショボとベッドに潜り込む、みたいなことが結構な頻度で起きる。


2.中途半端に観る
食事をしながら観る、というのはなるべく避けていましたが、それでも食事の前後のちょっとした時間とか、ふとしたときになんとなくリモコンに手が伸び、その後は観るともなしになんとなく観る、みたいなことが結構ありました。一人の時はもちろん、家族と一緒のときも。
家族と一緒なら団らんでもすればよさそうなものですが、(別に、あえて今話したいネタとか、今報告・相談すべき事項があるわけでもなし・・・)ということで、なんとなくリモコンに手が伸びる。


3.観ていないのに「観る」
人がテレビを観始めるのはいつからか。それは、リモコンでテレビの電源を入れた直後からです。でも、実はその前からテレビのことを考えている。だからこそリモコンに手が伸びたのだ。つまり、テレビを観ていないときでも、頭の片隅でテレビのことを考えている。テレビに気を取られているという意味では、観ているのと実質的に同じ。

たばこと似ている。
僕も昔、ちょっと吸っていた時期があって、23歳の時にやめた。当時の経験から思ったのは、スモーカーは、今まさにたばこを吸っているときはもちろん「たばこのことを考えている」が、吸っていないときでも頭のどこかで(ああ、たばこ吸いたいな)とか、(次はいつ頃火を付けるか)とか、(たばこ切れてないかな?)とか、(この店はたばこを吸える環境だろう)とか、(これは灰皿?それとも醤油皿?)みたいなことをグルグルと延々とずっと考えている。それは意識的だったり、無意識でだったりする。
僕の場合、健康がどうこうよりも、そういう無駄な思考に脳のキャパを振り向けるのがもったいなくてたばこをやめた、というのも大きい。

ーーー

ということで、引っ越した先の家では、テレビをリビングではなく、ベッドルームに置きました。結果は、、、

すばらしい!

何がどう変わったか。上記3シチュエーション毎に分析しました:


1.ちゃんと、本腰を入れて観るとき
そういうときは、寝支度を終え、お酒を持ってベッドルームに行き、ベッドに入ってテレビを観る。そのまま寝てしまってもOK、というのがとてもいい。元々至福だった時間が超至福にレベルアップした。

2.中途半端に観るとき
新しい家に引っ越してからしばらくは、リビングでふと(あ、テレビでも観よっかな)と思ったりしていた。でも、リビングにテレビは無いので、それは現実的な選択肢ではない。観たいなら、ベッドルームに行って見ることが出来るが、そこまでして観たいわけでもない。ということで、中途半端に観ることがなくなった。

3.観ていないのに「観る」
引っ越した当初はリビングにいても心のどこかでテレビのことを考えていて、それは幻肢痛にちょっと似ていたが、今はもう無くなった。無いものは無い。観たければベッドルームに行く。

ーーー

リビングからテレビを追い出した結果、最大の成果は「家族との会話が増えた」こと。

前述の通り、元々食事中は観ないようにしていたテレビだが、ちょっとした時間の切れっぱしになんとなく観ることが多かった。でも、今はそれが出来ない。出来ないとなると、家族と何か話すしかない。話すことが思いつかなければ、頭を絞って何か思いつくしかない。結果的に家族との会話が増えた。

引っ越し前後での、頭の中での自問自答の変化を分析すると、

ビフォア: どうせ今話すこと無いよね?ね?ね? よし、テレビつけよっと。

と、せっかくの「有」を「無」にするようなヘンな努力をしていたのが、

アフター: 何か話すこと無いかな・・。何かあるでしょう。。あ、そうだ!アレについて話そう!「あのね、、、」

と、「無」から「有」を生み出すいい努力に変わった。

ーーー

テレビを置かない代わりに、以前は僕の部屋に置いていてあまり聴いていなかったオーディオをリビングに置いてみた。朝、昼、晩、これで音楽をかけ、聴くとはなしに聴いている。

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従来無意識に(いつテレビつけよっかな・・・)と脳のキャパを浪費していたのが、今は無意識に(いつオーディオかけよっかな・・・)と脳のキャパを浪費するのに横滑りしているだけのような気もする。でもそれは置いておいて、より本質的な話↓。



朝の日差しの中で、モーツァルトを聴きながら家族と話すのと、

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朝のテレビのニュースで
「昨夜、**県**市で火事があり、焼け跡から二人が遺体で発見されました。この家に住む60代の夫婦とみられます。警察によると・・・」
という、それを観たところで、ネガティブな気持ちになる以外何も打つ手が無いニュースを見聞きさせられるのとでは天と地、、、いや、天国と地獄ほどの違いがある。余談ですが僕は、朝一でこうした「それを知っても何もアクションを起こしようが無く、気が滅入るだけのニュース」を流してはいけない、というルールを制定してもいいのではないか、と昔から思っている。こんなものは「ニュース」ではなく、ただの「ノイズ」だと思う。ついつい観てしまう、こうしたセンセーショナルなノイズに朝一から触れた結果、無駄にストレスフルな状態になって通勤・通学している人もいるのではないか。その結果、世の中は確実に少し「悪く」なっている。

ーーー

リビングからテレビがいなくなって、当初はちょっとさみしい気持ちにもなりましたが、今は平気です。ベッドルームでがんばってくれているテレビと、とてもいい距離感が取れている気がします。昔はテレビを付けたり観たりすることに感じていた一抹の罪悪感も薄れました。

我が家では、テレビを家から丸ごと追放してしまうなんてとても無理。だから、家の中での「テレビの引っ越し」をしてみました。テレビの引っ越しは、ウチと同じく、手放しはしたくないけどテレビとの距離感を調整してみたいという家庭に、一つの選択肢としてオススメです。

# by dantanno | 2016-01-20 13:41 | プライベート | Comments(0)

「お会計、1080円(税込)になります」

なぜ1,000円という価格設定にしたのか、という初心を思い出してほしい。
# by dantanno | 2016-01-12 12:58 | 提言・発明 | Comments(1)

船着き場への階段を作りました

天気がいいので、川沿いの土地へ。

今日は階段を作りました。川の近くまで降りやすくするために。

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お隣さんにいただいた板とか、その辺に転がってる石とか、いろいろ使ってみました。

下からの眺め。

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見た目はともかく、、、まあまあ頑丈のようです。

笹もだいぶ切ったので、川が見えるようになりました。

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船着き場建設まで、まだだいぶ時間がかかりそうですが、その遅さを楽しんでいます。
# by dantanno | 2016-01-08 15:18 | プライベート | Comments(1)

もし同時通訳が好きなのであれば、それを前面に出してもいいと思う

今まで、いろいろな同時通訳案件を、いろいろな通訳者と組んでおこなってきた。

IRISの通訳者と組んだこともある。一方、他のエージェントから派遣された通訳者と組むことも多く、今日はそれについて書く。

<通訳の分担決め>
ペアで行うことが多い同時通訳においては、通訳をどのように分担するかを決める必要がある。分担は、事前に通訳エージェント等が決めておいてくれることもあるし、その場で通訳者間で決めることもある。決め方は、例えば「15分交替」といったように時間に基づいて決めることもあるし、スピーチが原稿に基づいて行われる場合、原稿の分量(最初の何ページ分を通訳者1が、残りを通訳者2が、など)で決めることもある。

その日組む通訳者と対面し、挨拶を終えた後、相手から
「分担を決めていただけますか?」
と言われることが多い。僕が昔社員をしていた証券会社の仕事のときなど、特にそうだ。

「分担を決めていただけますか?」
の後に
「なるべく多くやってください。」
と言われることがある。今まで数多く同時通訳をして来たが、その内の、恐らく半分以上の案件でこう言われてきた。中には
「なんだったら全部やってもらっても構わないんですけど(笑)。」
のように言われることもある(笑)。

言われるタイミングは、ブースの中で相手の通訳者と二人きりの時もあるし、クライアントを交えた事前打ち合わせの際に言われることもある。

これを言われるとなんだかちょっと萎えるというのが今日のブログ記事のテーマ。

ーーー

まず、相手の通訳者が何を考え、どういう思いでこれを僕に言っているのか、を考える。

<本気?冗談?>
本気で言っていることもあるだろう。
冗談で言っていることもあるだろう。
多分、本気と冗談が入り交じっている場合が多いのではないか。

<上から/下から>
「私の方が上(?)なんだから、あなたが多めにやって、より多く汗をかきなさいよ」という意味なのか。「私はあまり疲れたくないのよ」とか、「午後の案件に向けて、スタミナを温存しておきたいのよ」ということなのか。こういうこともあるにはあるだろうが、多分、ほとんど無いと思う。

「私の方が下(?)なので、(上である)あなたが多めにやってください」という意味なのか。上記証券会社の仕事の場合など、相手の通訳者の方が謙遜/遠慮し、このように下手に出てくださっていることもあるだろう。僕が知らないだけで、もしかしたら通訳学校などで「同時通訳の際、相手通訳者に対する礼儀として「多めにやってください」と言いなさい」と教わるのかもしれない。そんなことはないか。

ーーー

どのような考えや思いがあるかにかかわらず、
「あなたがなるべく多くやってください」
というのは、良くて中立的、ともすれば周囲に対しネガティブなメッセージとして伝わると思う。その言葉を額面通りに受け取れば、「自分はなるべくやりたくない」という意味にも取れてしまうから。

同時通訳の現場に来ている通訳者は、同時通訳を含む「通訳」という仕事がきっと好きなはずだ。だとしたら、それと正反対の印象を残しかねないメッセージを、特にクライアントの前で発するのはもったいない。

ーーー

同時通訳の分担の話から少し離れ、もっと広く「通訳」全般について考える。

他の業界の方からすると信じられないかもしれないが、「通訳がイヤでイヤでしょうがない」という空気をまき散らしながら日々活動している通訳者もいる。


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その対極には「通訳が大好き」というポジティブな雰囲気をいつも醸し出している通訳者もいて、その差は一目瞭然だ。通訳ブース内の雰囲気も、組む相手の通訳者次第で極寒のシベリアからうららかなお花畑ぐらいの振れ幅を行ったり来たりする。

もし本当に通訳がイヤなのであれば、受ける案件の種類とか、仕事の受け方とか、自分の実力とか、レートとか、何かを根本的に見直すのがいいと思うし、そうすれば楽しめるようになる可能性が高いと思う。そして、中には本当に通訳に向いていない人もいるだろう。僕が商社マンに向いていなかったのと同様に。であれば、早く他の道を追及した方がハッピーになれると思う。

一方、実は通訳が好きなのであれば(そうであることを切に願う)、その「好きな気持ち」をもっとストレートに出してしまってもいいと思う。

ーーー

<プロ意識の現れ?>
イヤそうに、、、  より適切な表現もあるのかもしれないが、他の形容のしようが今は思い付かないので引き続きこの表現を使う。イヤそうに通訳している通訳者の中には、
「自分はプロなんだ」
という自負・意識が強い人もいるのではないかと思う。プロなんだから、仕事を紹介されたときに喜びを見せるのはおかしいし、本番中も務めてプロフェッショナリーに粛々と物事を進めようとしているのかもしれない。案件終了後も、「楽しかった」「ありがたい」「ぜひまたやってみたい」といった浮かれたところを見せるのを自制しているのかもしれない。こうした職人気質は、それはそれで理解出来るし、尊重するべきなのも分かる。だから、今後尊重するようにする。

でも、自分の仕事を好きである人こそ「プロフェッショナル」である、という見方もきっと出来て、このような考え方に基づき我々通訳者を評価しているクライアントや通訳エージェントもいるだろう。それを考えると、通訳に関する我々の言動が周囲(特にクライアント)にどう映っているかを意識し、通訳が好きなのであれば時折その一端を覗かせたり、少なくともその逆の印象を与えないようにするということは、プロ意識の高い通訳者こそやるべきことであるとも言える。

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# by dantanno | 2016-01-06 13:00 | プレミアム通訳者への道 | Comments(1)

「すべらない」@奥沢

奥さんに教えてもらった、スタバのコンセプト店舗@奥沢に来てみた。

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「チャーリーとチョコレート工場」の原作者でもあるRoald Dahlの本は、英語の勉強になる上に、story-tellingの技法も学べる気がするから好き。もっとも、「気がする」っていうだけで、この人のテクニックと想像力は到底マネ出来ないけど。
# by dantanno | 2016-01-05 10:09 | Comments(0)

横浜にお引越

あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いします。

いきなり昨年の話で恐縮なんですが、年末に引っ越しをしました。大田区馬込から、横浜に。そのてんまつ(course of events)を書いてみます。


ーーー


昨秋の、残暑がちょっと薄れ、涼しくなり始めたある日のこと。奥さん+さちと、横浜にドライブをしました。
目指していたエリアに着くと、そこにはすてきなカフェや本屋、潮風が吹く海沿いの公園、そして緑に囲まれた大型商業施設やペデストリアンデッキ(要するに歩道)などがあり、奥さんと僕はすっかり魅了(Mesmerize)されてしまいました。

「こんなとこ住んだら楽しいだろうねー」
「そうねー」

当時住んでいた家(@大田区馬込)に何か不満があったわけでは全然無いんです。実際、ちょうどその月に賃貸契約の更新をしたばかりで、馬込にさらに住み続ける気満々だったわけです。でも、もしあえて「気になる点を挙げろ」と言われていたら、挙げていたであろう点は「周りにお店が無いこと」だったかもしれません。ちょっとカフェでも行こうか、とか、今日は外食しようかとか、ちょっと家の近所でお買い物(スーパー、コンビニ以外)とか、そういうことが出来ない環境だったんです。

ついでに言うと、さちを連れて散歩出来るステキな公園がほしいなあ、という気持ちもあったかもしれません。そうだ、僕のジョギングが三日坊主で終わるのも、きっと僕の意思の弱さとかそういうことでは全然なく、ジョギングに適した環境の欠如、という外部要因のためでしょう。

それに対し、横浜のそのエリアは、これでもか!っていうぐらいお店やレストラン、カフェがあり、公園もあります。


ーーー


僕も奥さんも自営業者です。サラリーマン/OLではありません。
また、一口に「自営業者」と言ってもいろいろありますが我々の場合、例えば「お店をやる」とか、そういうタイプの自営業者ではありません。

何を言いたいかというと、平日の昼間に本屋に行き、そこで買った本を持ってカフェでゆっくり過ごし、読書に疲れたら17時ぐらいに明るいうちから生ビール、みたいなことが出来るわけです、やろうと思えば。その分、海外IRロードショー・シーズンは旅に出ずっぱりだったり、週末に翻訳をしたりするわけですが。

それと比べると僕のサラリーマン時代はかなり様相が違います。朝8時、まだお店が開いていない時間に家を出る。夕方、オフィス近くで残業飯を食べ、夜10時、もうとっくにお店が閉まっている時間に家に帰る毎日。こういう場合、もしステキな街に住んでいればそれをエンジョイ出来るのは主に土日となるわけですが、ステキな街だけに、土日は混むじゃないですか。そうした人混みがあまり好きではないタイプの人にとってはなかなか悩ましい。

でも通訳者であれば、どこで、どういう仕事をどの程度するか、は完全に自分次第です。なので、自分次第で、平日昼間にすいているカフェで過ごそうと思えば過ごせるなあ、と思ったんです。


「ひ、引っ越しちゃう??」

ステキな街に来ると僕がいつも口にする言葉を、ここでも口にしました。この時点ではまだ冗談でした。


ーーー


でもねー、賃貸契約を更新したばっかりだしねー、更新料払っちゃったしねー、引っ越し費用もかかるしねー、もう一回礼金払うのもねー、的な、それはそうだよね系の話を夫婦でしました。
それになんといっても、ある程度近い将来に引っ越し(横浜近辺への引っ越しとは別に)をする可能性が高いため、なおさらもったいない感が強かったんです。ほんの短かい期間(仮に1年程度としましょう)人生をエンジョイするために、わざわざ横浜に引っ越しをするのか、って。

それに対し、なんとか引っ越す方向に自分を説得したい、そんな僕のこじつけは以下の通り:

まず、馬込の家の更新料(ヘンな制度・・)については、経済学の「サンクコスト」の考え方を適用し、気にしなくていい、ということにしました。

残るは「無駄遣いじゃないか、贅沢じゃないか」という、決してそれほど裕福なわけではない我々家族にとって切実な問題だったわけですが、これについてもいろいろな考え方が出来ると思いました。必要に迫られていない引っ越しは、確かに無駄遣いといえば無駄遣いです。でも、人生における「1年」という期間をより充実させることが出来るのであれば、それはとてもいいお金の使い方ではないか、とも言える。逆に言うと、そのお金を節約するためだけに、1年もの間、ちょっと充実度を落とした生活(すなわち人生)を送るのであれば、じゃあ「お前の人生の価値はその程度なのか」という気がしてくるのも事実。

そんなこんなで、頭の中のこじつけ作業が続いていたある日、決定的な視点(?)に到達してしまいました。

もし今、馬込ではなく横浜に住んでいたとして、馬込に引っ越すか? → 引っ越しません。
なんで引っ越さないの? → 横浜に住みたいから。
だったら、たまたま今馬込に住んでいるからといって、横浜に引っ越すことを躊躇(Hesitate)するのはおかしいじゃないか。

なんか、この2段?3段?論法で、決意が固まってしまいました。
(もし横浜にいれば、他の場所への引っ越しはしたくないのに、馬込→横浜への引っ越しを躊躇する、というのはきっと何らかの心理学的なバイアスなんだろうと思います。最近、自分のそういうバイアスを分析するのがとても楽しい。)


ーーー


さて、引っ越してみて思ったんですが、実にいいですね、横浜って。

20代ぐらいの頃の僕は、「横浜に住んでます」って人がいると、心の中で(なんで横浜に住んでるんだろう・・・)と不思議に思っていました。いや、例えば「宇都宮」とか「静岡」とかに住んでるんだったらなんとなく分かるというか、納得感があったんですけど、でも「横浜」って、もうほぼ東京じゃないですか。横浜で生まれ育った人からすると「一緒にしないでくれ」って話なのかもしれませんが、シロウト的には横浜 ニアリーイコール 東京って、そう思ってました。で、ほぼ東京なのであれば、だったら東京に住めばいいじゃん、みたいに思ってたんです。

でも、実際に横浜に住んでみると、ここは違いますね、東京とは。そして、東京ももちろんいいけど、実に快適ですね、横浜は。前述の通りお店はすごく多くて便利だし、環境もいいし、交通アクセスもハンパありません。例えば大手町に行くのであれば、馬込の家よりも横浜の家からの方が早く着きます。東横線の相互接続もとても便利だし、YCATもいい感じです。

高くつきましたが、でも僕はこのように、気が向いたらいつでもフラッと引っ越しをする、そういう人生を生きていこうと思います。そうそう、引っ越しをする際の断捨離もとてもよかった。

金銭的には、どこかひとつところに家を買い、そのローンを返済していく方がトクなのは分かります。でも、人生というもっと広い見地から考えると、自分にはノマド的な非定住型の生き方のほうが合っていると感じました。近い内にまた引っ越すのが、今からもう楽しみです。


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# by dantanno | 2016-01-03 23:53 | グローバルに生きる | Comments(0)

桜の木を植えに

二人目(男)が、もういつ産まれてもおかしくないこの時期に、川沿いの土地に向かいました。


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途中、コメリ大多喜店に立ち寄り、吉野桜の苗木(ベビー)を6本購入。


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穴を掘って、


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なんかそれっぽいの(笑)を入れて、


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完成!


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子供も苗木も、すくすく育ってほしい。

# by dantanno | 2015-12-30 23:31 | プライベート | Comments(0)

ニッポンの山

僕の知る限り、この世で最もみにくい建造物。



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千葉県の、高滝湖パーキングエリア(圏央道)にあります。


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今は見る影もありませんが、元々はとても小さな山だったんだと思います。木も生えていて、動物も住んでいたんでしょう。


ーーー


この山、、、じゃなくて、建造物は、


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僕にはこう見える:


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この工事に、土砂崩れ防止とか、何らかの「理由」があるのであろうことは、反対派の僕にも推測出来る。でも、戦争にだって「理由」はある。やっぱり、人間として、絶対にこういう工事をしてはいけないと思う。

こういう工事を発注する際、直感的・本能的に「何かがおかしい」と思うべき。

受注側もそうだ。
「もしウチが断れば、この仕事は他の業者に流れてしまい、そこが受注しちゃうんだろうな」と思ったとしても、こういう工事を断る矜持を持ってほしいものだ。



ーーー



ここをクルマで通るたびに、こういう工事を発注してしまう人、そしてそれを受注してしまう人がいる世の中であることをくやしく思う。家族のため、カネのため、やむを得なかったのかもしれないけど、やはり許されることではない。転じて僕の場合、仕事でこのような判断を求められることは無いかもしれないが、ここをクルマで通るたびに、(自分は絶対こういう仕事をしないぞ)、と心に誓っています。

# by dantanno | 2015-12-28 09:46 | 提言・発明 | Comments(0)

英語表現力以上のものを学ぶ

通訳者としての僕の、一番の課題は「英語表現力の不足」だと思う。
普段、IR通訳をしているときはそれほど感じないが、記者会見の通訳など、畑違いの通訳をすると、それを強く感じる。

四十を過ぎてサッカーをし、頭ではこう動きたいのにカラダがついて行かないもどかしさに似ている。もっとうまく訳せるはずなのは分かってるんだけど、口(から出る表現)がそれについて行かないもどかしさ。

そこで、表現力のエクササイズを始めることにした。
「今はまだ自分のモノになっていないけれど、モノにすると便利な表現」を求め、この本をひもといた。


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Brandon Stantonの"Humans of New York"のStories版。ウチの奥さんが大好きな本。債券トレーダーをやめた著者が、ニューヨークの街で見かけた人にインタビューし、写真を撮らせてもらったものをまとめた本。

こういう、なんだか微笑ましい話もあれば、


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なるほど、と、ちょっと考えさせられるものもある。


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これを読めば、アメリカのフツーの人のフツーの表現が身につくかな、と思ったんですよ。

「どの表現が勉強になるのか?」と問われれば、確かに明確に「これです」というのはあまり無い。が、この旋律というか、流れというか、そういうのがとても勉強になる。そして、それが実は「表現」なのかな、と思う。

表現力というと、一見例えば"drop"以外に"plummet"という言い方も身につけることにより、TPOに応じて使い分けられることを指すのかな、と思う。実際それも一理あると思うけれど、もっと深いレベルでの「表現力」は、そうした小手先の言葉の使い回しだけでなく、旋律めいたものをいかに自分のモノにして、自然に再現出来るか、だと思う。
この本の、どれか好きなページを一つ見つけ、それを一語一句覚えてしまうまで何度も読み返すことによって、そのことばの旋律を自分のモノに出来ると期待している。

そして、エクササイズをしながら、もっと大きな野望も浮かんできた。それは、そのインタビューをじっくり読むことで、そこで取り上げられている人の考え方までも吸収出来るのではないか、ということ。

ーーー

通訳において、表現力と並んで大事なのが「寛容さ」だと思う。

通訳をする際、「訳」そのもののプロセス以前に、発されたことば(素材)としっかりと向き合う、というプロセスがある。全ての出発点だ。その際、発言者の発言を聞いて、「これはきっとこういう意味だ!」と一面的に決めつけてしまうのではなく、「もしかしたら他の意味もあるかもしれない」という健全な疑いを持つこと。もっと言うと、あえてファジーな理解にとどめるという、一見遠回りが出来るかどうか。

発言を聞いたとき、回転の速い訳者ほど「A」という明確な形に解釈を瞬時に落とし込むだろう。自分も頭の調子がいいときほどそういう傾向があるが、それは実はもったいないことをしているのかもしれない、と不安になることがある。
訳者である自分は「A」と解釈したかもしれないが、発言者の心の中のイメージはきっと、、、というか絶対、「A」とぴったりイコールではない。A'であったり、A+であったり、A*だったりする。そうした’とか+とか*といった遊びの部分を瞬時にそぎ落とし、「A」という解釈に落とし込んで訳せば、確かに表面的にはキレイかもしれないし、何よりも、速い。速さは、通訳という仕事において大事な要素だ。そして、’とか+とか*といった要素が落ちてしまっていることを会場から指摘されることも少ない。通訳という仕事の性質上、我々の「お客様」となる発言者・聞き手はどちらか一方の言語しか出来ないことが多く、何かが落ちてしまっていてもそれに気付かないから。

でも、本当にそれでいいのか、と疑問に思うことがある。一見キレイに訳せてしまい、場がうまく収まり、会議参加者も満足して終わった会議のときほど、言いようのない罪悪感を感じることがある。それは、その会議の間中ずっと、無数の’や+や*を落としていることに、無意識ながらも気付いているからだと思う。そういうとき、商社時代の上司の小言を思い出す。

「丹埜はさあ、なんかこう、サーッとキレイにやっちゃおうとするんだよ。仕事ってのはな、違うんだよ、ぞうきん掛けなんだよ!だからさ、お前のやり方でいいからさ、丹埜's wayでいいからさ、もっと汚くやれよ。」

当時は意味がよく分からなかったけど、当時から(きっとそうなんだろうなあ・・・)と思った。そして、通訳においても自分にはそういう面があると思う。

ーーー

この本を読んでいると、当たり前だけど、実にいろんな人がいるんだなあ、と気付く。そして、全ての人が何らかのドラマを抱えていたり、今まさにそうしたドラマの渦中にあることに気付く。それはハッピーなものだったり、アンハッピーだったり、あるいはアンハッピーだったものが年を経てハッピーなもの、笑えるものになっていたりする。

我々通訳者が現場で対面する発言者も、そういう多くの人間の中の1人なんだから、その発言の裏にはいろいろなドラマがあり、その発言には無数の意味が含まれていることを認める、それが「いい通訳」への第一歩だと思う。もちろん、それを瞬時に訳さないといけない、という義務は変わらず残っているので、いつまでも「へー、いろんな解釈のし方があるなあ、深いなあ。。。」とお茶飲みながら味わっているわけにはいかず、瞬時に決断を下し、訳を開始しないといけない。でも、その訳出開始前のほんのほんの一瞬の間に無数の解釈候補を一度頭の中に並べてみること、そしてそれ以前に、そのような無数の解釈が存在しうる、、、っていうか、しうるどころか、存在する可能性が非常に高い、ということに気付くことが大事だと思う。

そういう意味で、英語の表現力以上の貴重な何かをこの本から得られると期待すると共に、通訳の勉強は結局人生の勉強につながっていることの好例が今回の表現力エクササイズだと思った。

# by dantanno | 2015-12-27 11:25 | Comments(0)

ルービックキューブ

半年間で通訳を次の次元に持って行くために、まずやったことは、ルービックキューブを買うこと。

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子供の頃、遊んだ方も多いかもしれません。
元々は、ルービックさんという建築家が、彼の教え子に対する指導用に作ったツールだそうです。
BBC: ルービックさんがルービックキューブについて語る動画

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「通訳」と「ルービックキューブ」と、どういうつながりがあるのか?と思われるかもしれません。

野球は、カラダを使って行うスポーツです。だから野球選手は、日々の試合をこなすだけでなく、ストレッチ、筋トレ、ジョギングなどをして、カラダのコンディションを維持向上させています。
通訳は、脳を使う仕事です。だから、通訳者である僕は、日々の通訳案件をこなすだけでなく、***などをして、脳のコンディションを維持向上させます。

というだけの話です。

「***」にはいろいろなものが入るでしょう。
これまで、僕もいろいろなことをしています。算数の文章題、脳トレ(任天堂DS)、百ます計算、数独など。今回はルービックキューブに挑戦です。

元々は、さちのおもちゃを見におもちゃ屋に行ったとき、三角形のものを見かけたところから興味が湧きました。

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いろんなバージョンがあるんですね。

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ルービックキューブを使って鍛えようと思っているのは、

1. じっくり考える能力
2. 反射的に考える能力

という、一見相反する能力です。

まず、買ってきたばかりのキレイな状態をグチャグチャにし、そのグチャグチャになる過程を分析しようと思います。その上で、どうすれば元の状態に戻せるのか、その攻略法をじっくり考えます。

攻略法が思い付いたら、それに基づき、様々なシチュエーションにあるキューブを実際に攻略することで、2.の反射力を鍛えようと思っています。通訳に直接役立つのは、こちらの反射的な思考力ではないかと思っています。


スピーカーの話を聞きながら、様々な解釈の候補を思い付き、比べ、選択する力。
解釈を絞った上で、それをTarget languageで説明するためのピッタリな表現を脳内の引き出しから取ってくるスピード。
訳しながら聞き手の表情を観察し、それに基づき残りの訳を微調整する力、などなど。

また、上記攻略動画を見ていると、指を動かす速度や正確性も関係しているようですね。指を速く正確に動かすことで、間接的に脳を鍛えられそうで、一石二鳥かもしれません。

そうそう、一番上のルービックさんの動画に一瞬映るのですが、各面の一番真ん中の■だけ違う色になっている状態のものがありますね。そういう状態を作るゲームも楽しんでみようと思います。

ーーー

ある程度やって、もう大体分かったと思ったら、付属の攻略法を覗いてみて、自分が考えたものと同じなのか、あるいはより優れているのかを見てみようと思っています。

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Youtubeにもいろいろな動画が載っているようですから、それを観るのも楽しみです。

いい通訳は、実に奥が深い。

# by dantanno | 2015-12-21 12:15 | Comments(0)

したいのか、したくないのか

翻訳をするため、カフェに。

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作業の合間にボーッとしていると、店員さんが、テイクアウトのお客さんに対し
「お飲み物、袋に入れてもよろしいでしょうか?」
と聞いているのが耳に入る。

その後、クライアントに翻訳対象箇所を確認するメールを出す際、
「**の部分も翻訳するんでしょうか?」
と書きかけ、やっぱりやめて、
「**の部分も翻訳してよろしいでしょうか。」
にしてみた。

# by dantanno | 2015-12-17 11:39 | プレミアム通訳者への道 | Comments(0)

横浜のMUJICafeに初挑戦

初めて来てみました。

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有楽町店がいつも混んでるのを見て、(そんなにいいのかな?)と不思議に思ってましたが、いいですね、ここ!

料理がいろいろ選べて、おいしくて、クオリティの割には値段もリーズナブル。
店内も広々としていて、子供ウェルカムな感じ。

さちもご満悦。

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食事をしていると、お世話になっているクライアントから電話。

「放浪3日目にすみませ~ん。ちゃんと読んでますよ」

とのこと。うれしいですね。

この後はアンパンマンミュージアムに行って来ます。
# by dantanno | 2015-12-14 13:55 | Comments(0)

次の次元に行くための半年間

年内最後の出張から帰国したのがおととい、12月10日(木)。
次の仕事の予定は来年6月。
これから半年間、働きません。

人によるんだと思いますが僕の場合、日々忙しく働いていると、仕事以外の大事なことがおろそかになるんです。

・ 家族との時間
・ カラダの鍛練
・ 脳の鍛練(通訳においては特に重要)
・ 通訳トレーニング
・ 勉強・読書
・ 頭をカラッポにすること
・ ペンディング(つまり放置状態)になっている事務・雑用
 (順不同)

せっかく、半年に渡って仕事断ちをしてもその後なんとかなる仕組みがあるのなら、それを活かし、半年間仕事を入れないでみることにしました。

ーー

さて、そう意気込んではみたものの、出だしの12月11日(金)と12月12日(土)、さっそくなんとなくダラダラと過ごしてしまいました。

正確には、12/11はハードな出張の後ゆっくり休んで、12/12はさちとデートしたので、それはそれでとてもいい時間の過ごし方のはずなんです。でも、頭の中が整理されていない状態だと、(あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ)という後ろめたさがある中で「なんとなくダラダラ過ごしてしまった・・・」的な位置付けとなってしまい、実にもったいない。こういう状態から脱出することも、この半年間の大事な目標の一つです。

ーー

あ、一応、初日となる12/11はデスクの周りを掃除しました。まずは出発点として。

これも人によるんだと思いますが、デスクの周りがちらかっていると(つまり、僕にとってはほぼいつも・・・)、本当に目先の作業(例えば今晩締め切りの翻訳とか、明日中に役所に提出しないといけない書類とか)しか処理出来なくなってしまうんです、僕の場合。

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デスクをキレイにしたことで、まずは「よし、やろう!」というやる気が生まれたのと、頭が少しスッキリしたのを感じます。
まあ小さな第一歩ですね。

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あ、そうそう、初日にもう一つやったのが、IRIS通訳者数人と、大事な投資家と飲みに行くこと。
時差ボケのところ、たくさんたくさん飲み、2軒目で爆睡してしまいました。あ、夜眠くなるのは時差ボケとは言わないか。

ーー

半年の間に具体的に何をするかですが、大きな流れとしてはまず、
1. 頭の中を整理する
2. やらなきゃいけないことをやっつける → 「やりたいこと」だけが残っている状態にする。やりたいことは、概ね「遊び」と「自分を次の次元に持って行くための活動」に分けられる。
3. しっかり遊びつつ、
4. 自分を次の次元に持って行くための活動を行う。その際、インプットとアウトプットをバランスよく行う

4.の大事な柱となるのが「通訳トレーニング」です。
これは、大きく分けると①毎日のトレーニングと、②イベント的な取り組み(例えば半日かけて通訳に役立つ何かをやってみるとか、通訳者数人で集まってトレーニングしてみるとか)に分けられ、半年の間に両方やって行こうと思っています。

通訳トレーニングについては、駆け出しの通訳者はともかく、世の多くの通訳者が忙しい合間を縫ってなんとかちょっと出来たり、あるいは出来なかったりしているのではないかと思います。僕も、普段仕事をたくさん抱えている状態だとあまり出来ていません。
ですので、しっかりと時間を取って、「時間が無いから出来ない」という言い訳が出来ない状態に身を置くとどうなるのか、参考までにレポートしていこうと思います。インプットするだけでなく、その結果どうだったのかをブログに書いたりと、形に残す「アウトプット」も積極的にやってみます。

ブログでも、「次の次元に行くための半年間」という新しいカテゴリーを作ってみました。
ここにどんどんアップしていきます。

さてどうなることやら。結構楽しみです。。。

<半年間の、これまでの取り組み>
12月12日(土) 二日酔い。さちとデート
12月11日(金) 休養。デスクを掃除。投資家とIRIS通訳者たちと痛飲

# by dantanno | 2015-12-12 23:59 | Comments(0)

好きな場所

今日は風浪がすごい。
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この場所は、海、飛行機、山、クルマ、船など、好きなものがたくさん見えるから好き。

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# by dantanno | 2015-12-04 09:58 | プライベート | Comments(0)

損だと分かっていても・・・

目黒、22:30。

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この時間からこういうことをすると翌日どうなるかは、これまでの経験から分かっているはず。でも、我慢出来ない。
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店内は満席。
女性の姿もチラホラ。
みんなすごいなー。
# by dantanno | 2015-12-03 22:32 | プライベート | Comments(1)

おでかけ

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# by dantanno | 2015-11-27 18:40 | 子育て | Comments(0)

絵本翻訳、ふたたび!

去年に続き、絵本翻訳コンテストに挑戦しています。
今月末が締め切り。

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「しています」と言いつつ、翻訳作業を始めたのは今日。
長いフライトの後、何時間か昼寝して、頭をカラッポにした状態で対象作品を初めてひもときました。お菓子ほおばりながら(笑)。
訳しがいがありそう。



去年、生まれて初めて「絵本翻訳」という作業に取り組み、コンテストに応募しました。
翻訳する過程で、絵本翻訳の難しさを痛感しました。

応募した後、長く心待ちにしていた結果が届くと、あえなく落選。
最優秀賞はもちろん、複数選ばれた「優秀作品群」みたいな一群にも入りませんでした。

思いのほかガッカリしている自分を見て、(一体何を期待していたんだろう・・・)と不思議に思いました。

こういう経験はいいですね。
普段、IR、金融、ビジネスに関連した通訳・翻訳ばかりやって、自分の小さく硬い殻に籠もりがちになったり、あるいはヘンな自信やプライドがこびりついてしまったりします。

「世界は広い」ということや、「自分はそこまで優秀ではない」という当たり前の事実を客観的に突きつけられるのは実にすがすがしいものです。負け惜しみもあると思うけど。



ことし再度挑戦するにあたって、去年何を考えたかを思いだしてみました。
ビジネス系の訳と違い、絵本翻訳は訳の候補の振れ幅がすごい。ああも訳せるし、こうも訳せるし、どちらも間違いではない。じゃあ、どうすればいいの?と混乱していたのを思い出します。結局審査員のさじ加減一つじゃん!と、ちょっと投げやりに思ったのも覚えています。

・ 想定読者として、子供を想定すればいいのか、あるいは代わりに/一緒に読んでくれるママ・パパを想定すればいいのか。
・ どの程度マジメに、あるいはおちゃらけて訳すか。
・ 英語を日本語に訳す際、日本には無い概念(Tea partyなど)をどの程度ローカライズするか。
・ ひらがなか、漢字か。

こういった判断は、ビジネスの訳においてはあまり求められません。

何が正解なのか、さっぱり分からない。
一度訳したものを推敲しているときもそう。手を加えたことが前進につながっているのか、あるいは訳を後退させてしまっているのか、全然分からない。なぜ手を加えるのか、と聞かれれば説明出来るけど、じゃあ元の訳ではダメなのか、と言われるとそうでもない。

すごく難しかったし、ちょっとFrustratingで、かつWaveringだった。

結局落ちたわけですが、何がいけなくて落ちたのか、どうだったらよかったのか、は分かりません。
そうだ、優勝作品と自分の訳を見比べていろいろ考える時間を設けようと思っていたのに、全然やってなかった。今度やろう。



絵本翻訳を難しく感じた理由は、絵本翻訳が難しいからという以外に、僕が慣れていないから、そして「勉強していないから」というのもありました。
そこで、順番が逆になりましたが、応募した後にこの本を買い、勉強しました。

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実際に行ったワークショップを元にした構成になっていて、ためになりました。
著者の訳例も載っていて、(なるほど、そういう視点があったか)という気付きもいくつか。

あまりあれこれ勉強しても目移りしてしまい、いろんな意見が頭の中でこだましてしまいそうなので、当面はこれ一本に絞り、読み返すことで理解を深めようと思っています。



さて、今年。
今年は「自分が納得の行く訳をしよう」と思っています。
審査員がどう思うかではなく、自分が好きになれる訳かどうか。
自分が訳した版が日本で実際に出版されるとして、世に問うのが恥ずかしくない訳かどうか。
批判されたり笑われたりしたときに、(戦おうと思えば)戦える訳かどうか。なぜそう訳したのか、を自信を持って相手に、、、いや、自分に説明出来るかどうか。
自分の子供が対象年齢になったときに読んで聞かせたいと思える訳かどうか。

そういう姿勢で臨もうと決め、さっき初めてひもといてみました。
読んでみると、遊びがあるし、Rhymeもあるし、なかなか手強そう。楽しく明るくもあるけれど、どこか哀愁を帯びた作品に感じました。

これから1週間かけてじっくり訳し、応募します。
# by dantanno | 2015-11-22 04:07 | 日々研鑽 | Comments(0)

「信仰」のもたらす害

パリで、恐ろしい事件が起きました。
こういう事件が起きてしまう背景について、マクロ・ミクロの両面から考えてみました。

マクロ: 「自分が信じる神/宗教/思想が正しく、他の人々が間違っている」という思い。
ミクロ: 「自分が信じる神/宗教のために死ねば(つまり、殉教すれば)、直ちに天国に行くことが出来る」という思い。自爆テロ犯はそう教わって説得されることがあるそうです。

どちらも、実は全くそんなこと無いのに。。。

上記2つの思いは、良く言えば「信仰」、悪く言えばただの思い込みです。

ーーー

信仰(Faith)とは何か。

それは、

科学的・客観的根拠(以下「根拠」)が無いにも関わらず、何かを信じること

とも言えないか。

何かに根拠があれば、それが事実だと信じるのに「信仰心」など必要ありません。
根拠が無いからこそ、信仰する気持ちが必要になります。

ーーー

僕は昔から、宗教系のエライ人が着飾れば着飾るほど、(実はウソなのではないか・・・)と疑ってしまうクセがあります。

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だって、もし「本当」なのであれば、Tシャツに短パンでOKなはず。

本当に力のある人、しっかりとした実績がある人、つまり「根拠のある人」ということですが、そういう人は無理に着飾ったりしない、という例をいくつか見てきたからそう思うのかもしれません。

ーーー

根拠を大事にするアプローチ、それは「科学的なアプローチ」という言い方も出来るかもしれませんが、そういうアプローチでは:

根拠がある → 事実として受け止める。もしその後、何らかの理由で根拠が崩れれば、また考え直す。
根拠が(今はまだ)無い → 「分からない」、あるいは「どちらとも言えない」というスタンスを取る。そして、根拠を見出すべく、研究・努力する。

一方、「信仰」的なアプローチは:

自分の宗教、聖典、頭の中で聞こえる神の声、etc., etc.がそう言っているんだから、それは正しい。信仰を疑うことは悪であり、弱さである。

ーーー

多くの場合、「信仰」はその人の頭の中だけで完結せず、具体的な行動を伴います。

・ 毎週日曜日に教会に行く
・ 画数を気にする
・ 厄払い
・ ブタは「汚れている」から食べない
・ 牛は聖なる生き物だから大事にする
・ 子供に自分の宗教を押しつける
・ テロ行為

上記に共通するのは、いずれも信仰心、すなわち根拠無く何かを信じる気持ち、から生まれた行為だという点です。

「毎週日曜日に教会に行く」と「テロ行為」を同列に並べることの違和感。
それはどこから生じるのか?以下、具体例を挙げて考えてみます。

ーーー

ここに、頭ポカポカ教という宗教があるとしましょう。
教義は、「毎日、自分の頭をポカポカたたき続ければ、聖人として天国に行ける」というものです。

科学的アプローチを取れば、「その教義は本当に正しいのか?」という疑問が生じ、研究が行われ、「実は間違いだった」、あるいは「実は根拠が無かった」ということが分かり、自分の頭をポカポカしなくなるでしょう。

一方、「信仰」的アプローチを取れば、根拠があろうと無かろうとそれは「正しい」わけだから、毎日頭をポカポカたたき続けることになります。痛いです。

ーーー

上記ポカポカ教は、愚かではあるものの、人様に迷惑をかけてはいません。
その観点から行くと、さきほど箇条書きした「信仰に基づく行動」についても、人様に迷惑をかけるかどうか、という線引きが出来るでしょう。

・ 毎週日曜日に教会に行く
・ 画数を気にする
・ 厄払い
・ ブタは「汚れている」から食べない
・ 牛は聖なる生き物だから大事にする
・ 子供に自分の宗教を押しつける
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・ テロ行為

いや、正しい線の位置はここでしょうか。

・ 毎週日曜日に教会に行く
・ 画数を気にする
・ 厄払い
・ ブタは「汚れている」から食べない
・ 牛は聖なる生き物だから大事にする
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・ 子供に自分の宗教を押しつける
・ テロ行為

ーーー

人様に迷惑をかけない信仰を、仮に「自己完結型の信仰」と呼びます。
自己完結型の信仰は、もしそれが正しいのであれば何も問題無いし、仮にそれが間違っているとしても迷惑を蒙るのは本人だけだから、周りがとやかく言うべきではないのか。
いや、僕はそんなことは無いと思います。

自己完結型の信仰にも害はあります。
それは、根拠無く何かを信じ、その信じる心に従って行動することを認め、肯定し、促し助長する、という点です。

毎週礼拝を欠かさない優しいおばあちゃんも、そして一見その対極にあるような自爆テロ犯も、

「自分の神・宗教が正しい。
その神・宗教が求める通りに行動すれば天国に行ける」

と固く、科学的根拠無く信じ、それに従って行動している、という面においては似ています。

ーーー

以下のような教えの宗教はこの世に無いものでしょうか。

・根拠が無いのであれば、「今はまだ分からない」ことを認める。そして、根拠を見つけるよう、研究したり、勉強したり、努力する。
・自分が正しいと決めつけず、人の意見を尊重する。


あればすぐにでも入信したいです。

いや、考えてみれば、我々の多くは上記を既に「信じて」います。
矛盾しているかもしれませんが、宗教を信じている人でも、宗教から離れた日常生活では、上記を信じている人も多いでしょう。

根拠無く何かを信じることはなるべくやめて、謙虚に努力し続ければいいのでしょう。
みんながそう信じ、行動すれば、卑劣なテロ行為は無くなると思います。
# by dantanno | 2015-11-16 23:21 | 日々研鑽 | Comments(0)

ことばの裏にある想いを訳す、とは

通訳をするとき、
「表面的な"ことば"を訳すのではなく、その裏にある"想い"を伝える」

のをよしとする考え方があって、自分もそうするようにしています。

ただ、一般の人にとってはもちろん、我々通訳者にとっても、「ことばではなく想いを訳す」と言われてもちょっとピンと来にくいのも事実。


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例えば"Good morning"
その場にいる人たちの関係や場の雰囲気に応じて「おはよう」 VS 「おはようございます」的な訳し分けはするでしょうが、"Good morning"ということばの裏にある想いまで探りに行け、と言われてもなかなか難しい。

もっとも、「ことばではなく想いを訳す」のは、"Good morning"よりも長くて複雑なフレーズを訳す場合にあてはまることが多いわけですが。でも、長く複雑なフレーズを訳す場合でも、いくら自分(通訳者)がそう解釈したからといって、話し手が使ったことばから離れた内容を訳に盛り込みすぎると怒られます。



今度どこかの現場で「あ、これが「ことばではなく、想いを訳す」だなー」と思ったら、ブログで紹介したいです。



ーーー



「ことばではなく想いを訳す」そのものではないんですが、それとちょっと関連する話があったので、ご紹介したいと思います。



隔週で行っている通訳の講義@大学院で、Facebookに関する記事(英語)を取り上げました。
これです。

うまい具合に、日本語に翻訳されたバージョンもありました。



Facebookが今度、従来の「いいね!」ボタンに加え、様々な感情表現を可能にする「Reactions」という機能を試験的に導入する、という記事です。
そう言えば僕も、知人の投稿が例えば「テストに落ちた」とか、親戚のご不幸とか、そういうちょっと残念な内容だったとき、「いいね!」以外の表現で共感を示したい、と思ったこともあるような気がします。



この記事の中の

Facebook has for years resisted pressure from a cadre of users to add a "dislike" button. With Reactions, it's taking a different tack, one that allows for a spectrum of emotions to be expressed while avoiding the up- and down-voting of posts that occurs on YouTube, Reddit and many Internet forums. An overwhelmingly negative reaction to a post without an actual discussion taking place could alienate users and discourage them from sharing -- something Facebook wants to avoid.

という箇所。

日本語版では

「Dislike」(よくないね)ボタンを追加してほしいという要望が多数のユーザーから寄せられていたが、Facebookは何年もの間、それに応じることはなかった。Reactionsにおいて、同社は異なる方針を採用している。YouTubeやReddit、そして多くのインターネットフォーラムで採用されている、投稿を評価するかしないかという2択の投票を避けて、さまざまな感情を表現できるようにした。実際の議論がないままに投稿に対して否定的な反応が圧倒的に寄せられると、ユーザーは遠ざかり、共有する気をなくしてしまう恐れがある。それはFacebookが避けたい事態である。

の箇所です。

ここを読んでいて、「ことばではなく想いを訳す」を思い出しました。



この箇所を読み、僕が行った解釈(訳ではなく)は以下の通りです:



Facebookのコアなユーザーから"Dislike"ボタンを追加してくれ、との要望が出ていた。
(ちなみに、英文の"cadre of users"が「多数のユーザー」と訳されていますが、僕は「(Facebookの)コアなユーザー、ヘビー・ユーザー、熱烈なファン」と解釈しました。多数ではなく、むしろ少数?)

Facebook社としては、もちろんコア・ユーザーの声は重視したいものの、"Dislike"ボタンを導入してしまうと、ディスられた結果投稿する気を無くしてしまうユーザーが出るかもしれない。それも困る。

で、どうしたものかと考えていたところ、ふと気付いた。

コア・ユーザーからの「"Dislike"ボタンを作ってくれ」という声。その表面的なことばだけに注目すれば、文字通り「"Dislike"ボタンを作ってくれ」という声にしか過ぎないかもしれない。

でも、その「ことばの裏にある想い」に思いを馳せれば、それは「"Like"以外の感情も表現したい」という要望なのかもしれない。
仮にそうであれば、何も"Dislike"ボタンだけが解決策ではない。
いや、むしろ"Like"と"Dislike"の2択よりも、様々な感情表現が出来る方が尚いいのではないか。

こうした思考プロセスを経て、この度Reactions機能がテストされることになった。



実際にそういうことだったのかどうかはマークに聞いてみないと分からないので今度聞いておきますが、もしそういうことなのであれば、Facebook社はユーザーの表面的な声に惑わされることなく、その裏にある想いを考えて施策を打ち出したわけであり、まさに「ことばではなく想い・・・」を地で行ってるなあ、と思いました。



さて、上記青字の部分、つまり「この記事の当該箇所を読んだ結果僕が行った解釈」ですが、これはソース(原文)に基づきつつも、そこから少しだけ離れた、僕なりの解釈に基づくストーリー、と見ることも出来ます。

通訳であれ翻訳であれ、訳す対象となるソースの表面をなぞって訳すのではなく、通訳者としての自分の解釈に基づき、上記の通り少しストーリー仕立てにしてから訳すようにしています。もちろん、その余裕が無いケースも多いですが。
素材がまだゴツゴツしている状態でいきなり中華鍋に放り込んじゃうのではなく、ちょっと下ごしらえしてから調理を始める感じ。そして、話し手/書き手の心の中のストーリーと、僕が解釈し思い描いたストーリーがうまくシンクロすることがときどきあって、そういうときは訳していてとても楽しい。まるでJazzのセッションのような感じ。そして、終わった後の観客からの評価も高い気がします。

話された/書かれたことばをそのまま正確に対象言語に置き換え「訳す」のは簡単です。その程度の作業で本当に「訳した」と言えるのであれば、ですが。
あえて遠回りし、ストーリーを考え、構築しようと努力するプロセスこそが「ことばではなく想いを訳す」なのかもしれません。

# by dantanno | 2015-10-11 22:38 | 通訳 | Comments(0)