たんのだんのブログ

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Clint Eastwood on politics, in Esquire magazine's "What I've Learned"

(Clint Eastwood was elected mayor of Carmel, California in 1986, and served two years.)

"Winning the election is a good-news, bad-news kind of thing. Okay, now you’re the mayor. The bad news is, now you’re the mayor."

"It’s making sure that the words “public servant” are not forgotten. That’s why I did it. ‘Cause I thought, I don’t need this. The fact that I didn’t need it made me think I could do more. It’s the people who need it that I’m suspect of."

by dantanno | 2016-03-31 12:10 | 日々研鑽 | Comments(0)

モノを売ったことがあるか

今は「通訳」を売って生きているが、人生で一番最初に売ったものはザリガニだった。



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小学生のころ。
毎週末、家族4人で千葉・外房の山小屋に行っていた。

野良仕事を手伝うかたわら、弟と近くの田んぼの水路で、ザリガニやどじょう、タニシ、フナの赤ちゃんなどを取って遊び、家で飼ったりした。



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あるとき、ザリガニをたくさん、、、といっても10匹ぐらいだが、たくさん取った。


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その、たくさんのザリガニたちを東京に連れて帰り、四谷のZOOというペットショップに売りに行った。
残念ながら取引は成立しなかったが、これが自分の初の商業行為だった。

(ちなみにこのZOOというペットショップはとってもおもしろいところなので、ぜひ一度足を踏み入れてほしい。ウェブサイトはこちら(音が出るサイトなので注意)。)



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ザリガニの次は、キーウィーフルーツの販売に取り組んだ。


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キーウィー・フルーツは、父がその山小屋周辺で、趣味で栽培していた。
豊作の年があって、人にあげてもあげてもまだ無くならないので、売ってみることにした。

ビニール袋に詰められるだけパンパンに詰めて、弟と共に、近所の八百屋を訪ねた。
一袋千円で持ちかけたところ、交渉の末、店主のおじさんが買ってくれた。

店頭に並べるために仕入れてくれたのか、あるいは自家消費のためかは分からない。
きっと、キーウィー・フルーツをビニールに入れて売り歩く外国人風の幼い兄弟を不憫に思ったのだろう。。。



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大学時代は、ニュージーランドの輸入住宅を日本で別荘用に売る仕事をした。
大学をサボり、父の車を借りて那須や伊豆の別荘地に行き、「別荘販売」とか「別荘建築」といった看板を見つけては、当時まだ珍しかった携帯電話(IDO)で電話をかけ、住宅の部材のサンプルを持って飛び込み営業していた。実際、千葉県のマザー牧場には当時販売し、建設にも携わった貸別荘や売店の建物が今も稼働している。



そうした「モノを売る」活動がとても楽しかったこともあり、就職先は商社に決めた。

入社後、エネルギー部門に配属された。

商社は、自ら上流(アップストリーム)の油田などに投資しリターンを追及するという、ある意味華々しいビジネスもやりつつ、一方ではベタベタの代行業、口銭商売もしている。僕が入社後間も無く、自ら志望して担当になったのは、そうした従来型の、売り手と買い手の間に入って、、、みたいなベタな仕事だった。そこでは、エネルギー(具体的には天然ガス)を売ってくださる売主にも気を遣い、買ってくださる買主にはもちろん超気を遣う、という板挟み的な立場をこれでもかというほど経験出来、とても勉強になった。



ーーー



こうして人生の局面局面でモノを売る経験をして来たわけだが、いずれも本腰を入れて取り組んだとは言えず、ちょっと中途半端だったと思う。
そして、今から思うと、この「モノを売る」という仕事にもっと真剣に向き合い、努力すればよかった、と悔やまれる。極めるまではいかないまでも、「真剣に取り組んだ」と自信を持って言えるようにすればよかった。

そう思うのは、通訳者になった今、モノを売ることの重要性を感じるからだ。


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売る対象がなんであれ、何か「モノを売る」という経験は、出来ればこの世の全ての人が経験するといいと思う。

そのモノを、今はそれをほしいと思っていない人に、いかにして喜んでお金を出していただくか。
暴力を振るったり、ウソをついて騙したりするのではなく、いかにして、あくまでも正攻法でその人を説得(Persuade)し、Change his/her mindしてもらうか。そして、そのモノを買った結果、いかに喜んでもらうか。

相手の立場に立ち、どうやって「営業」し、どうやって実際の「販売」まで持って行くかを考え、実行するプロセスは、全ての人にとって貴重な経験になるのではないかと思っている。

ある会社のCEOのことば

"My advice to young people is always, along the way, have a sales job. You could be selling sweaters. You could be selling ice cream on the street. It doesn’t matter. Selling something to somebody who doesn’t want to buy it is a lifelong skill. I can tell when somebody comes in for an interview and they’ve never had any responsibility for sales."


テキトーな訳

「若い人にいつも言うのは、キャリアのどこかでセールスの仕事を経験した方がいい、ということ。セーターを売るもよし、街でアイスクリームを売るもよし。なんでもいいから何かを、それを「買いたいと思っていない人」に売り込む、という経験は一生モノのスキルになる。(ウチの会社に入社したいと)面接に来た候補者にセールス経験があるかどうか、(面接をすれば)すぐに分かる。」



ーーー



営業活動を自分よりも長くやっている人は多いだろう。そうしたプロのセールスマンと比べれば、自分は完全にアマチュアだ。そして、上記の通りもっと真剣に取り組む余地はいくらでもあった。でも、例え少しだけであっても、営業の世界を体感したことは大きな財産になっている。

自分のこれまでの人生において、一度もザリガニや天然ガスを売った経験が無ければ、自分はどういう人間になっているだろう、と思う。



ーーー



今、自分が日々行っている通訳業務は、一見営業(Sales)とは縁遠い。でも、実は非常に近いのではないか、と思っている。

通訳をする際、考えていることはただ一つ、いかにして会議参加者を喜ばせられるか、ということだけだ。実際にそれが出来ているかどうかは別として、少なくとも、それだけに集中しようとしている。

それに対し、一番よくないのが「いかにミスをしないか」に集中し、ビクビクしながら訳しているときの自分の通訳だ。順番に並べてみると、




1. いかにして会議参加者を喜ばせられるか
2. いかに上手に訳すか
3. いかにミスをしないか




1.は、2.や3.と根本的に異なる。
1.が相手(会議参加者)目線であるのに対し、2.や3.は自分(通訳者)目線なのだ。



相手目線

1. いかにして会議参加者を喜ばせられるか
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
2. いかに上手に訳すか
3. いかにミスをしないか

自分目線



2.や3.は、狭義の「通訳業的」視点、あるいは職人的な視点だとも言える。もちろん相手のことも考慮しているが、弱い。メーカーで言えば「我が社製品」ありきで考えるメーカーとも言えるだろう。

それに対し1.は、非常に「営業(Sales)」に近い。自分を捨て、完全に相手のことしか考えていない。メーカーで言えば「お客様」ありきで考えるメーカーか。



「営業」という行為を突き詰めて考えてみると、それは全て「相手」のことである、という結論に僕は行き着く。そこに「自分」は全く無い。

自分が売ろうとしているモノ、例えば「ザリガニ」はもちろん関係しているが、ザリガニ=自分ではない。僕は人間である。

営業の現場に存在するのは、

1. 売る相手(お客様)、すなわちペットショップのZOOの店員や八百屋のおじさん、そして
2. 売ろうとしているモノ、つまりザリガニやキーウィー・フルーツだけだ。

売る人(例えば僕)ももちろんその場にいることはいるが、決して主役ではない。ポイントは僕ではなく、「1.お客様」が「2.そのモノ」を買うかどうか、それだけだ。

売る側からすると、自分を捨てる、、、というか、自分がそもそも関係無い。それが営業だと思う。



ーーー



さて、話転じて通訳。

通訳者と話したり、その訳を聴いたりしていて、非常に親近感を感じることがある一方、何かこう、とても大きな断絶みたいなものを感じることもある。それがなんなのかはよく分からないのだが、もしかしたら営業的視点の有無も関係しているのかもしれない、と思う。

例えば大学等の学校を出て、すぐに通訳者になった人。あるいは、学校の後何かワンクッション置いて通訳者になったものの、そのワンクッションが営業(Sales)とは無縁の仕事だった人。
そういう人は、「モノを売る」という視点を持っていなくても不思議ではない。だって、売ったことが無いんだから。

そういう通訳者に「通訳はサービス業だと思うか」と問いかければ、Yesと答えるかもしれない。が、それは「製造業ではないし、、、」的な消去法の結果であって、通訳業を積極的に「サービス業である」あるいは「営業(Sales)行為である」ととらえた結果ではないかもしれない。

そこに、通訳という仕事の独特の商流も関係してくる。通訳者たちは、日々クライアントを回り「お願いですから仕事をください」と頭を下げているわけではない。依頼は、どちらかというと「向こうから来る」ものであり、それを「お受けします」あるいは「お断り」するのが通訳者だ。元々営業経験が無い人が、そういう独特の商流の中で仕事をしていると、どうしても「モノを売る」という視点・姿勢が身につきにくいと思う。



ーーー



一方で、人気のある通訳者たちに共通するものは何か、を考えてみると、意外と「通訳の上手さ」以外の何かではないか、という気がしてくる。
いや、もちろん通訳はある程度上手なのだが、それが決め手ではない気がする。

決め手になっているのは、営業(Sales)的な視点ではないか。

人気のある通訳者たちは、通訳者になる前、何か「モノを売った」経験があり、その視点に立って日々通訳をしているのではないか。
あるいは、モノを売った経験は無いものの、何らかの理由・経緯でそうした営業的な視点を身につけていて、それを活かして日々通訳をしているのではないか。

この考え方を使えば、「通訳者ではないのに通訳が上手な人」もある程度説明出来る。
ときどき、通訳者ではなく、普通のサラリーマンで、通訳が上手な人がいる。日々通訳をしているわけではなく、通訳学校に行ったこともない人たちだ。言葉のセンス、そして一定のインテリジェンスがあるのはもちろんだろうが、それに加え、営業的な視点も併せ持った人たちなのではないか。

ーーー

興味深いのは、営業的な視点を身につけるのに、実際にモノを売った経験は必ずしも必要無い、という点だ。
長く営業をしていても、それに中途半端に向き合えば身にならないだろうし、一度もモノを売ったことが無くても、相手の立場に立つことが上手な人もいる。

ーーー

翻って、自分はどうか。

通訳者になる前の営業活動には、今一つ本腰を入れて取り組まなかったこと、そしてそれをちょっと悔やんでいることは既に書いた。
だとしたら、今目の前にある「通訳」という仕事を今まで以上に「営業(Sales)活動」としてとらえ、この機会に「モノを売る」という行為に本腰を入れて取り組んでみるのもいいな、と思う。


by dantanno | 2016-03-21 14:45 | 日々研鑽 | Comments(0)

通訳業の「経費」について

毎年この時期になると、通訳業の「経費」について考えさせられる。

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世のほとんどの通訳者は、収入のわずか10%ほどしか源泉徴収されていないにもかかわらず、そこからさらに還付を受けている。つまり、国に養っていただいている存在とも言える。

一方で、多くの付加価値を提供し、その見合いに多額の報酬を得て、多額の税金を支払っている通訳者も、ごく少数ながら存在する。実際今日も、納税額が数百万円にのぼることを嘆く通訳者と飲んできたので、間違いない。

(個人的には、我らが通訳業界が「国に養っていただく」存在から脱し、国を養ってやるぐらいの気概を持った業界になってほしいと願っているが、今回のブログで書きたいのはその点についてではない。)

そういう、多額の納税をしている通訳者にとって、「通訳業の経費」というのは死活問題だ。

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例えば、90円でモノを仕入れ、それを100円で売る商売であれば、
(話を分かりやすくするため、販管費は無視)

売上 100円
売上原価 90円
-------
課税所得 10円
税率   30%
-------
税額    3円

となる。ところが、通訳業の場合、

売上   100円
売上原価   0円
-------
課税所得 100円
税率    30%
-------
税額    30円

と、税額が10倍になりかねない。

通訳業の場合、売上原価に相当する費用項目が無いのである。かかっているのは販管費だけで、それとて、「現場に行くための電車賃」とか「ノートを買いました」とか「携帯電話料金(の一部)」とか、微々たるものでしかない。残りは全部「利益」、すなわち課税対象の所得とみなされてしまう。

実際、経費がほとんどかかっていないからしょうがないのだが、本当にその考え方でいいのか。通訳業は本当に「経費」がほとんど無く、ボロもうけなのか。



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例えば自分の場合、今こうしてまがりなりにも通訳業を営めているのは、子供の頃に授かった教育のおかげが大きい。

特に裕福なわけではなかったし、かつ、Expatなどでもなかったため、国や勤め先企業が学費を出してくれたわけでもないのに、高額な学費を払ってインターナショナル・スクールに通わせてもらった時期がある。
また、小学校の時にインターナショナル・スクールに転校したはいいものの、英語力が不足していたため、インターの長い夏休みを利用して単身海外に「留学」したこともあった。

そうした取り組みの目的はひとえに「英語を学ぶため」、そして「国際感覚を身につけるため」であった。いずれも、通訳者にとって不可欠な能力だ。

そう考えると、今自分が通訳者として収入を得られるのは、過去のこうした多額の犠牲があったおかげであって、出来るものならそうした費用を今、時間差で計上してしまいたい思いにかられる。



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我々通訳者にとって、もう一つ大きな費用項目、それは「時間」である。

たった1時間の会議の通訳をするために、その前の日を丸々予習に費やすことだってあり得る。そこまでしないにしても、ある日に受けようと思えば受けられたであろう通訳案件を、その翌日の通訳案件の予習をするために泣く泣く断った経験がある通訳者も多いだろう。

その場合、予習に費やした時間、および断った案件で得られたであろう収入(機会費用)は、当日その通訳案件を引き受け、その収入を得るための「経費」と言えないか。

また、子供の頃の話で言えば、友だちが遊んでいる間にBBCのビデオを見せられたり、公文で国語を勉強したりしていた「時間」も支払っている。



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どこまでを「見えない経費」として捉えるかは、通訳者によって異なるだろうが、我々通訳者の仕事にこうした「見えない経費」が存在することは間違いないと思う。
そしてこの「見えない経費」は、通訳以外のどの仕事にも存在するが、通訳業については特に大きいと思う。



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税務署は、こうした見えない経費や、(見えるものの)タイムラグが大きすぎる経費を税務上の経費として認めてくれない。それを嘆く通訳者の気持ちもよく分かる。

でもその一方で、税務署の「見えないものは考慮しない」という方針のおかげで我々通訳者がとても助かっている側面も実はあると思う。



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我々がすばらしい通訳をし、その場の成功に貢献し、会議参加者にとても喜ばれ、ほめられたり感謝されたりしたときに感じる喜び、充実感。それは金銭的報酬とは別の「見えない報酬」であると言える。
通訳者によっては、金銭的報酬よりも、こうした見えない報酬の方がやりがいにつながっている人もいるだろう。

もし税務署が、こうした見えない報酬も「課税報酬」として課税をするとなったら、我々の納税額は一気に何倍にも増えてしまう。



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税務署には、見える/見えないではなく、「実質的にどうなのか」を基準に課税してほしいものだ。でも、それが実務的に難しいのも分かる。

であるならば、通訳業に伴う見えない経費を計上出来ないもどかしさを感じる一方、見えない報酬については課税をお目こぼしいただいていることを踏まえ、プラスマイナスで考えるとまあいいのかな、と思う。

見えない経費も大きいが、実は、見えない報酬はそれを大きく上回るのではないか。そう思わせてくれるステキな商売、それが通訳業だと思う。

by dantanno | 2016-03-09 02:58 | 提言・発明 | Comments(0)

エライ人たちと仕事をしていて思うこと

40歳を過ぎたのにまるで小学生の作文みたいなタイトルですが、最近思うことについて書いてみます。

通訳という職業柄、ときどき各界のエライ人たちと一緒に仕事をします。
大企業の社長、政治家、官僚のトップの方々など。

そういう人と「名刺交換をしたことがある」とか、「一応、同じ部屋に1時間いました」とかにとどまらず、例えば一週間かけて一緒に海外を旅したりします。自然、仲良くなり、お互いに関する情報をいろいろ交換します。

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同じエライ人と、数ヶ月の間を空けたあと、再び仕事をする機会に恵まれることがあります。そういうとき、

エライ人 「あ、そろそろ二人目が産まれるんでしたっけ?」

とか、

エライ人 「ダンさん、この前こう言ってましたよね。」

といったことまで覚え、気にかけてくれている。

一方の僕はどうか。相手が言ったことなんて、よほど心に刺さった内容とか、自分に関係する内容以外、てんで忘れている。

このギャップは一体何か。
エライ人は僕よりもはるかにエラく、はるかに忙しく、覚えていなければいけないこと、考えなければいけないこともはるかに多いにもかかわらず、である。

エライ人は、なんで周りの人間の、そんな細かいディテールまで覚えているのか、ずっと考えて来た。

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考えられるとすれば、以下の3つのどれか、あるいはその組み合わせしか無いと思う:

1.記憶力がいい
2.(記憶力がいいわけではないが)覚えようと懸命に努力している
3.人に興味がある


1.や2.もあるのかもしれませんが、やっぱり「3.人に興味がある」ということなのかな、と思うんです。

もしそれが正しいとすれば、それと比べ僕などは、周りの人に興味を持っていない、ということなのでしょうか。興味が無いから、いろんなディテールを覚えていないのでしょうか。もしそうだとすれば、ちょっとショックです。

最近読んだ本からの抜粋:
It is the individual who is not interested in his fellow men who has the greatest difficulties in life and provides the greatest injury to others. It is from among such individuals that all human failures spring.

要するに、「周りの人に興味を持たない人物は、多くの困難に見舞われ、他者も傷つける。あらゆる「人災」を引き起こすのも、そういう人物だ」的な手厳しいことが書いてあって、でもまあ一理あるのかなあ、、、と思うわけです。

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決して人に興味が無いわけではないんですけどね。
実際、人と会い、自分のことを話すだけでなく相手の話を聞きたい、とも思っていますが、でも、エライ人たちと比べるとやっぱり相当劣っているんだな、と認めざるを得ない。

「人に興味を持った方がトクだから、興味を持つようにしよう」ではあまりにも不純だし、持とうと思って持てるものなら苦労はしないわけですが、実際自分の周りの人に興味を持ち、その人たちがどういうことを考えて日々生きているのかに思いを馳せながら生きるのはとても楽しいだろうし、それが出来る人間はきっと魅力的だろうなと思うので、少しずつそういう方向に舵を切っていこうと思います。

by dantanno | 2016-03-05 18:30 | 自戒ネタ | Comments(0)