たんのだんのブログ

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おでかけ

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by dantanno | 2015-11-27 18:40 | 子育て | Comments(0)

絵本翻訳、ふたたび!

去年に続き、絵本翻訳コンテストに挑戦しています。
今月末が締め切り。

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「しています」と言いつつ、翻訳作業を始めたのは今日。
長いフライトの後、何時間か昼寝して、頭をカラッポにした状態で対象作品を初めてひもときました。お菓子ほおばりながら(笑)。
訳しがいがありそう。



去年、生まれて初めて「絵本翻訳」という作業に取り組み、コンテストに応募しました。
翻訳する過程で、絵本翻訳の難しさを痛感しました。

応募した後、長く心待ちにしていた結果が届くと、あえなく落選。
最優秀賞はもちろん、複数選ばれた「優秀作品群」みたいな一群にも入りませんでした。

思いのほかガッカリしている自分を見て、(一体何を期待していたんだろう・・・)と不思議に思いました。

こういう経験はいいですね。
普段、IR、金融、ビジネスに関連した通訳・翻訳ばかりやって、自分の小さく硬い殻に籠もりがちになったり、あるいはヘンな自信やプライドがこびりついてしまったりします。

「世界は広い」ということや、「自分はそこまで優秀ではない」という当たり前の事実を客観的に突きつけられるのは実にすがすがしいものです。負け惜しみもあると思うけど。



ことし再度挑戦するにあたって、去年何を考えたかを思いだしてみました。
ビジネス系の訳と違い、絵本翻訳は訳の候補の振れ幅がすごい。ああも訳せるし、こうも訳せるし、どちらも間違いではない。じゃあ、どうすればいいの?と混乱していたのを思い出します。結局審査員のさじ加減一つじゃん!と、ちょっと投げやりに思ったのも覚えています。

・ 想定読者として、子供を想定すればいいのか、あるいは代わりに/一緒に読んでくれるママ・パパを想定すればいいのか。
・ どの程度マジメに、あるいはおちゃらけて訳すか。
・ 英語を日本語に訳す際、日本には無い概念(Tea partyなど)をどの程度ローカライズするか。
・ ひらがなか、漢字か。

こういった判断は、ビジネスの訳においてはあまり求められません。

何が正解なのか、さっぱり分からない。
一度訳したものを推敲しているときもそう。手を加えたことが前進につながっているのか、あるいは訳を後退させてしまっているのか、全然分からない。なぜ手を加えるのか、と聞かれれば説明出来るけど、じゃあ元の訳ではダメなのか、と言われるとそうでもない。

すごく難しかったし、ちょっとFrustratingで、かつWaveringだった。

結局落ちたわけですが、何がいけなくて落ちたのか、どうだったらよかったのか、は分かりません。
そうだ、優勝作品と自分の訳を見比べていろいろ考える時間を設けようと思っていたのに、全然やってなかった。今度やろう。



絵本翻訳を難しく感じた理由は、絵本翻訳が難しいからという以外に、僕が慣れていないから、そして「勉強していないから」というのもありました。
そこで、順番が逆になりましたが、応募した後にこの本を買い、勉強しました。

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実際に行ったワークショップを元にした構成になっていて、ためになりました。
著者の訳例も載っていて、(なるほど、そういう視点があったか)という気付きもいくつか。

あまりあれこれ勉強しても目移りしてしまい、いろんな意見が頭の中でこだましてしまいそうなので、当面はこれ一本に絞り、読み返すことで理解を深めようと思っています。



さて、今年。
今年は「自分が納得の行く訳をしよう」と思っています。
審査員がどう思うかではなく、自分が好きになれる訳かどうか。
自分が訳した版が日本で実際に出版されるとして、世に問うのが恥ずかしくない訳かどうか。
批判されたり笑われたりしたときに、(戦おうと思えば)戦える訳かどうか。なぜそう訳したのか、を自信を持って相手に、、、いや、自分に説明出来るかどうか。
自分の子供が対象年齢になったときに読んで聞かせたいと思える訳かどうか。

そういう姿勢で臨もうと決め、さっき初めてひもといてみました。
読んでみると、遊びがあるし、Rhymeもあるし、なかなか手強そう。楽しく明るくもあるけれど、どこか哀愁を帯びた作品に感じました。

これから1週間かけてじっくり訳し、応募します。
by dantanno | 2015-11-22 04:07 | 日々研鑽 | Comments(0)

「信仰」のもたらす害

パリで、恐ろしい事件が起きました。
こういう事件が起きてしまう背景について、マクロ・ミクロの両面から考えてみました。

マクロ: 「自分が信じる神/宗教/思想が正しく、他の人々が間違っている」という思い。
ミクロ: 「自分が信じる神/宗教のために死ねば(つまり、殉教すれば)、直ちに天国に行くことが出来る」という思い。自爆テロ犯はそう教わって説得されることがあるそうです。

どちらも、実は全くそんなこと無いのに。。。

上記2つの思いは、良く言えば「信仰」、悪く言えばただの思い込みです。

ーーー

信仰(Faith)とは何か。

それは、

科学的・客観的根拠(以下「根拠」)が無いにも関わらず、何かを信じること

とも言えないか。

何かに根拠があれば、それが事実だと信じるのに「信仰心」など必要ありません。
根拠が無いからこそ、信仰する気持ちが必要になります。

ーーー

僕は昔から、宗教系のエライ人が着飾れば着飾るほど、(実はウソなのではないか・・・)と疑ってしまうクセがあります。

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だって、もし「本当」なのであれば、Tシャツに短パンでOKなはず。

本当に力のある人、しっかりとした実績がある人、つまり「根拠のある人」ということですが、そういう人は無理に着飾ったりしない、という例をいくつか見てきたからそう思うのかもしれません。

ーーー

根拠を大事にするアプローチ、それは「科学的なアプローチ」という言い方も出来るかもしれませんが、そういうアプローチでは:

根拠がある → 事実として受け止める。もしその後、何らかの理由で根拠が崩れれば、また考え直す。
根拠が(今はまだ)無い → 「分からない」、あるいは「どちらとも言えない」というスタンスを取る。そして、根拠を見出すべく、研究・努力する。

一方、「信仰」的なアプローチは:

自分の宗教、聖典、頭の中で聞こえる神の声、etc., etc.がそう言っているんだから、それは正しい。信仰を疑うことは悪であり、弱さである。

ーーー

多くの場合、「信仰」はその人の頭の中だけで完結せず、具体的な行動を伴います。

・ 毎週日曜日に教会に行く
・ 画数を気にする
・ 厄払い
・ ブタは「汚れている」から食べない
・ 牛は聖なる生き物だから大事にする
・ 子供に自分の宗教を押しつける
・ テロ行為

上記に共通するのは、いずれも信仰心、すなわち根拠無く何かを信じる気持ち、から生まれた行為だという点です。

「毎週日曜日に教会に行く」と「テロ行為」を同列に並べることの違和感。
それはどこから生じるのか?以下、具体例を挙げて考えてみます。

ーーー

ここに、頭ポカポカ教という宗教があるとしましょう。
教義は、「毎日、自分の頭をポカポカたたき続ければ、聖人として天国に行ける」というものです。

科学的アプローチを取れば、「その教義は本当に正しいのか?」という疑問が生じ、研究が行われ、「実は間違いだった」、あるいは「実は根拠が無かった」ということが分かり、自分の頭をポカポカしなくなるでしょう。

一方、「信仰」的アプローチを取れば、根拠があろうと無かろうとそれは「正しい」わけだから、毎日頭をポカポカたたき続けることになります。痛いです。

ーーー

上記ポカポカ教は、愚かではあるものの、人様に迷惑をかけてはいません。
その観点から行くと、さきほど箇条書きした「信仰に基づく行動」についても、人様に迷惑をかけるかどうか、という線引きが出来るでしょう。

・ 毎週日曜日に教会に行く
・ 画数を気にする
・ 厄払い
・ ブタは「汚れている」から食べない
・ 牛は聖なる生き物だから大事にする
・ 子供に自分の宗教を押しつける
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・ テロ行為

いや、正しい線の位置はここでしょうか。

・ 毎週日曜日に教会に行く
・ 画数を気にする
・ 厄払い
・ ブタは「汚れている」から食べない
・ 牛は聖なる生き物だから大事にする
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・ 子供に自分の宗教を押しつける
・ テロ行為

ーーー

人様に迷惑をかけない信仰を、仮に「自己完結型の信仰」と呼びます。
自己完結型の信仰は、もしそれが正しいのであれば何も問題無いし、仮にそれが間違っているとしても迷惑を蒙るのは本人だけだから、周りがとやかく言うべきではないのか。
いや、僕はそんなことは無いと思います。

自己完結型の信仰にも害はあります。
それは、根拠無く何かを信じ、その信じる心に従って行動することを認め、肯定し、促し助長する、という点です。

毎週礼拝を欠かさない優しいおばあちゃんも、そして一見その対極にあるような自爆テロ犯も、

「自分の神・宗教が正しい。
その神・宗教が求める通りに行動すれば天国に行ける」

と固く、科学的根拠無く信じ、それに従って行動している、という面においては似ています。

ーーー

以下のような教えの宗教はこの世に無いものでしょうか。

・根拠が無いのであれば、「今はまだ分からない」ことを認める。そして、根拠を見つけるよう、研究したり、勉強したり、努力する。
・自分が正しいと決めつけず、人の意見を尊重する。


あればすぐにでも入信したいです。

いや、考えてみれば、我々の多くは上記を既に「信じて」います。
矛盾しているかもしれませんが、宗教を信じている人でも、宗教から離れた日常生活では、上記を信じている人も多いでしょう。

根拠無く何かを信じることはなるべくやめて、謙虚に努力し続ければいいのでしょう。
みんながそう信じ、行動すれば、卑劣なテロ行為は無くなると思います。
by dantanno | 2015-11-16 23:21 | 日々研鑽 | Comments(0)