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映画「幼な子われらにうまれ」を観て

映画「幼な子われらに生まれ」を、妻と二人で観た。

ほんっっっっとうにひさしぶりに、しっかりと考えさせられ、かつエンターテイニングな映画を観た。


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家族とは。

親であること、子であること、夫婦であること。

なぜ結婚するのか、なぜ離婚するのか。
なぜ再婚するのか、しないのか。

いろんなことを考えさせられた。

ーーー

浅野忠信をはじめ、役者たちの演技がとても自然だった。

日本のTVドラマを観ていると、演技があまりにも演技っぽくて、不自然で、「子供の学芸会か・・・」と、つい毒づいてしまう。演技がヘタ、と思ってしまう。
これはきっと僕の間違い。演技がヘタだから不自然になってしまうのではなく、そもそも「自然な演技を目指そうと思っていない」から不自然なんだろう。

刑事物で、デスクに座るエライ刑事を取り巻いて立つ4人の刑事たちが一人一行、順番にセリフを言っていく。それがよしとされている。
ドラマはほとんどがそうだし、邦画も多くがそうだと思う。

演技が「演劇」風なのだ。舞台っぽいんだ。「これは創られた虚構である」という事実を前面に出してもいい、というルールというか、しきたりなんだ。
だから、観ている方が「日常生活では絶対そんな発言しないでしょ」というセリフを、「そんな言い方するか、フツー?」な言い方でしゃべって演じる役者たちを、我々は眺め続けることになる。「絶対そんな服着ないんだけど・・・」という洋服で着飾るパリコレのモデルを観るように。

批判したいのではない。それはそれでいいことだと思う。観る方もそれを求めていて、全体が予定調和的に着地するのであれば、演技は「不自然」でもいい。そうした不自然な演技の方がかえって「非日常」が演出されていい、という人も多いのかもしれない。

でも僕はそうではなく、普段着を観たい、とずっと思っている。役者がセリフをはくたびに「これは全て虚構です」という事実をリマインドさせられると、どうしても感情移入できない。
「これはドラマだ、映画だ、虚構だ」というのを忘れさせてくれる、そんな自然な演技を観たい。そして感情移入して楽しみたい。
でも、そんな演技はほとんど存在しない。

ーーー

そんな困った状況の僕にとって、この映画は僥倖だった。

浅野さん演じる「田中」の演技は、これ以上無いぐらい自然。まるで、田中の本当の日常を、特別にちょっと垣間見させてもらっているような感じ。
子役たちもすばらしかった。
宮藤官九郎も寺島しのぶもよかった。
「田中」の妻役の田中麗奈(たまたま同じ名字)の演技が、最初ちょっと演技っぽく感じたけど、でも実際こういう人もいるよなあ、、と途中から思えた。

唯一モロに演技をしていると感じたのが、田中の上司(?)役みたいな人。バーで田中と飲むシーンがあるが、TVドラマ風の、いわゆる演技っぽい演技だった。

ーーー

パンフレットを見ていて、「エチュード手法」という表現が気になった。

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「(役者たちが、)台本を重視しながらも時には即興で演じる撮影」とのこと。なるほどなあ。全ての作品をこの手法で創ってくれたらいいのに(笑)。
三島有紀子監督、すごいです。

ーーー

男女のあり方はいろいろある。

今の時代、幸いなことに「好きになる対象は異性でないといけない」というわけでもない。
そして、結婚する人もいるし、しない人もいる。
離婚は不幸なことかもしれないけど、「映画を観た後に感想を語り合いたい」と心から思えない相手とずっと夫婦で居続けることもまた不幸かもしれない。

そういう多様な価値観を、学校で教えたらいいと思う。
この映画を教材にしたらいいと思う。

へんな価値観に縛られたまま大人になり、その価値観に基づいて結婚し、後で「実は違った」と気付いて離婚に至ってしまっているケースも多いと思う。

はたまた、本当は離婚したいのに出来ていない夫婦もものすごく多いと思う。離婚しない一番の理由が「子供」ではないか。子供を傷つけたくないから。
でももし、子供たちが学校で「離婚は、出来ることなら避けた方がいいけれど、でも決して悪いことではないんだよ」とか、「家族のあり方は実に多用で、普段TVで観るような理想的な4人家族だけが「家族」じゃないんだよ」とか、「再婚は当たり前のことで、再婚した場合、前のパートナーとの子供がいたりいなかったりするんだよ」とか、そうした大人たちはみんな知ってる当たり前を教わっていたらどうか。

サンタはいる、と心から信じているからこそ、実はそうではないことを知ったときに傷つく。
夫婦や家族のあり方については、「正解は無く、実に多様なものである」という正解を早い内に教えるべきだ。それは夢を壊すことと同義ではない。

学校でそう教わった子供であれば、自身の結婚(あるいは離婚、あるいはそもそも結婚しないこと)について、もっとオープンに考えられるようになるだろう。また、親の離婚をそこまでショックに感じずに、「親たちが前に進む」という、むしろポジティブなこととして受け止められるようになるのではないか。

ーーー

観たい映画が無い、という冒頭の話に戻る。
せっかくNetflixを有料契約しているのに、ほとんどのコンテンツに食指が動かず、あまり活用出来ていない(キッズ向けのコンテンツには大変お世話になっているが)。

ま、まさか、オレは映画がキライなのか??そう考えるとなんだか愕然とする。
(それはそれで、「映画を好きでないといけない」という思い込みの産物だと思うけど)


いや、そんなことはない。自分は映画が結構好きなはず。
→ じゃあ、なんで観たい映画が全然無いんだ。なんで映画を観てもおもしろいと感じることがほとんど無いんだ?
その問いに対し、ここしばらく有効な答えを出せずにいた。



でも、「幼な子われらに生まれ」を観て思った。
自分は映画が好き。

足がとても大きい(あるいは小さい)人と同じだと思う。
靴は好きなんだ。履きたいんだ。でも、合うサイズの靴が滅多に無いだけなんだ。
もしあれば、喜んで履くんだ。

どの映画もあまねく好き、というわけではない、という意味で、確かにそこまでの映画好きではないのかもしれないけれど、僕は僕なりに映画がとても好きなんだということを気付かせてくれたすばらしい映画でした。

by dantanno | 2017-09-15 14:37 | プライベート | Comments(0)

死ぬことは、生きることと似たりと見つけたり

今から一年ほど前、母を亡くしました。
自分が初めて経験する身近な人の死。その過程で思ったことを書いてみます。

<背景>
母は、血液のガンで2年ほど闘病していました。それが治らない病気であることは本人も分かっていました。
入退院を繰り返していましたが、あるとき検査入院をしている途中に容態が急変しました。頭の中で出血が起き、意識が無くなり、我々家族が病院に呼び集められました。結局、夜を徹した緊急手術(6時間!)が成功し、何日か経ってようやく意識が少しだけ戻りました。その後、一ヶ月ぐらい一進一退を繰り返した後、安らかに亡くなりました。

というのがおおまかな背景です。では、思ったことを書いていきます。

<延命は(必ずしも)本人のためならず>
長く病状が安定していて元気に活動していた母が、頭内の出血により急に意識を失いました。病院に呼び集められた我々家族は、手術をするかどうか、決断を迫られました。

手術をするとなると、いろいろなリスクがありました。手術の際、血管が損傷し状況がさらに悪化してしまうかもしれない。カラダが既に相当弱っているため、全身麻酔から抜けることが出来ず、そのまま亡くなるかもしれない。仮に手術自体がうまく行ったとしても、その後肺炎等が起きて亡くなってしまうかもしれない。いずれにせよ、仮に手術が成功しても病状が大きく回復することはなく、これは延命のための手術でしかない、とのことでした。

じゃあ、手術をしなければどうなるのか。医師の説明は「はっきりしたことは言えませんが、数日中に亡くなる可能性が高いでしょう」とのことでした。で、どちらにしますか、とのこと。

この時点で、僕は少し腹を立てました。手術をしなければ恐らく数日中に亡くなるのであれば、例え諸々のリスクがあったとしても、手術をするに決まっているではないか。それを、まるでフィフティー・フィフティーの選択であるかのように我々家族に尋ねてくるのはどういうことか。当時はそう思ったんです。

結果的に手術は成功し、母はときおり意識を取り戻すところまで回復しました。でも、意識が100%戻ったわけではなかったし、寝たきりの状態が続き、その後しばらくして亡くなりました。医師の言った「延命のための手術でしかない」の言葉通りでした。

そのプロセスを経て考えたのは、(果たして母本人は、あの手術を望んだだろうか)ということ。

どうしますか、という医師の言葉に対し(選択の余地など無いではないか)とちょっと腹を立てていた僕ですが、その時の自分は他ならぬ母の気持ちを考えていたのかな、と。恥ずかしながら、あまり考えられませんでした。
結果的に母はうっすらと意識を取り戻したわけですが、それは我々家族や母の友人のために、一時的に「戻ってきてくれた」とも言える。でも母自身にとっては、長時間に渡る手術はもちろん、その後過ごした一月ほども相当な負担だったはずで、我々家族の一存で「当然手術するでしょう」と決めつけるのはおかしかったかな、と思いました。結果的に同じ結論になったとしても、結論に至るプロセスで母の意志に思いを馳せる瞬間があってもよかったな、と感じました。

<毎日がヤマだと、スケジュール管理が難しい>
よくTVドラマとかで、医者が家族に対し「今晩がヤマです」みたいに言ったりするシーンがあります。それを受け、家族は取るものも取りあえず病院に駆け付けることになります。実際にそういうシチュエーションもあるのでしょうが、ウチの場合、「今晩がヤマ」ではなく、毎晩がヤマでした。
母が最初に意識を失ったときに病院に呼ばれた日はもちろんヤマでしたが、その後もいつ何があるか分からない状態が数週間に渡り続きました。病院からも頻繁に「ちょっと状況がよくないので、ご家族のどなたか来てください」との呼び出しがありました。
小康状態を保っていた時期もわずかながらありましたが、基本的に「今日も、明日も、その次もまたヤマ」という状態が続きました。

そういう状態になると、家族にとって、予定の入れ方が非常に難しくなってきます。「今晩がヤマ」なら全てを投げ出して駆け付ければいいのかもしれませんが、ヒマラヤ山脈みたいにヤマが脈々と続いているときに、自分の予定をどうしていけばいいのか。今後入れる/入れないを判断出来る予定もありますが、ヤマ状態になる前から入っていた先約もあります。それをごめんなさい、やっぱり出来ませんというのか、日程を変えてもらったり他の人に代わってもらったりするのか。

例えば僕の場合、かなり前から予定されていた海外出張を他の通訳者に代わってもらいました。どうしても行けないのか、というとそんなことはないし、自分が日本に残ったからといって母の状況を大きく改善させることが出来るのか、と言えばそんなこともありません。クライアントとの信用問題でもありますからかなり悩みましたが、結局ワガママを言って他の通訳者に代わってもらいました。

自分のプロ意識とか、家族についての考え方とか、いろいろと考えさせられました。

<次は自分の番>
親が元気な内は、なかなか子供である自分の死をイメージしにくい。でも、親が亡くなると「次は自分だ」という意識が強く芽生えました。

嬉々として退院して行く人と、退院出来ずに残る人との間には、実はそれほど大差が無い>
宇宙の歴史と比べれば、我々の人生なんてどの道ほとんどゼロ。ゼロとゼロの間に大差は無い。

<どうせ死ぬんだ>
これは、必ずしもネガティブな、ヤケのヤンパチ的な思いではなく、むしろポジティブ。どうせ死ぬんだから、この地球上で与えられた僅かな時間、もっと好きなことをして生きようと思いました。

また、より現実的な話でいくと、例えば食生活。母の食生活は非常に健康的で、栄養のあるものをちゃんと適量食べ、ジャンクフード、酒、たばこなどは一切やりませんでした。それでも病気になるときは病気になるし、事故に遭うときは事故に遭う。だったら、今目の前にカツ丼(大盛り)と生ビールが置いてあったら、どうせ死ぬんだから、あまり後ろめたく思わずにガンガン食べちゃってもいいのかな、とちょっと思いました。

<俺はなにをやってるんだ>
意識が無く、病院のベッドで寝たきりの状態の母。
その母の病室に向かう途中すれ違った、僕と同い年ぐらいかもしれない、やつれきった女性。
廊下で遊ぶ、髪の毛が全部抜けた状態の、車いすの子供たち。まだ小さな子供たち。

それに対し、自分は自由に外の世界の、当時春だったので暖かい春の日差しの中に飛び出していき、好きなことが出来る。走り回ったり、旅をしたり、苦痛の無い状態でものを考えたり、なんでも出来る。それをどこか申し訳なく/後ろめたく思うと同時に、そんなに自由なのに、自分は日々一体なにをやっているんだろう、と強く感じました。もっと時間を有効活用しないと・・・的なことを越えた、何か根本的な問題意識を当時感じました。

これには後日談があって、あのときあんなに強く(自分はなにをやっているんだ)と思ったはずなのに、その後一年、僕の日々の暮らしぶりは特に変わっていない。なんなんでしょうね。でもその問題意識は間違い無く自分の中に存在しているので、そのうちなんとかするのかもしれません。

<面会時間の制限について>
今まで、入院している人を見舞いに病院に行って、面会時間外だったためにお会い出来なかったことがありました。ちゃんと事前に調べてから行けばよかったわけですが、心が狭い僕は、(なんで面会時間をそこまで制限するんだ)とちょっと不満に思ったりもしました。

面会時間の制限は、患者本人の負担を軽減することに加え、病院のオペレーション上必要な面もあると思います。そして今回の経験で気付いたのは、病人の家族のためのものでもある、ということ。
24時間いつでも面会・見舞いに行けてしまうと、キリがなくなります。面会時間の制限があるおかげで、(ああ、もう時間制限が来ちゃうから家に帰らないと・・・)と、心の中での言い訳が出来る。これは、特に我々のケースのように入院期間がある程度長期に渡る場合において、家族の精神衛生上とても大事なことだと思いました。

<悲しくない>
昔、付き合っていた女性に「あなたには感情が無いのよ!」と言われ、(ふーん、そうなのか)と無感情に思った記憶があります。
確かに自分にはそういうところがあって、今回、母が亡くなる過程で他の家族が悲しんでいる中、僕は悲しみを感じませんでした。

なぜ悲しくないのか。(自分はきっと、気持ちに無理にフタをしているんだろう)とか、(今は悲しみを感じないけど、きっと後からドッと来るはず)と当時は思いましたが、あまりそういうことでもなさそうです。本当に悲しくない。当時も今も。それはなぜなのか考えました。

当時、母が闘病しているさなかに、二人目の子供が産まれました。家族はもちろん、多くの人が「とても喜ばしいこと」として喜び、祝福してくれました。

とても大切な人の誕生と、とても大切な人の死を短時間の内に両方経験し、生と死についていろいろ思いを馳せました。その結果至った、今のところの僕の結論は、「生と死はとても似ている」ということ。生が「+1」で死が「−1」だとしたら、符号の向きが逆なだけであって、要は同じことなのかな、と思いました。まあ、符号の向きが逆なのが問題なわけですが。

別の言い方をすると、人生は一冊の本のようなものであって、生はその1ページ目、死はその最後のページだと思いました。

今、手元にとてもステキな本(≓人生)があるとします。その1ページ目はとても素晴らしく、喜びと輝きに満ちたものである一方、その最後のページはとても悲しく、イヤで、涙涙なものである、というのはなんだかおかしい気がするんです。1ページ目も2ページ目も、そして最後のページもその前のページも、全て等しく「1ページ」であり、そのステキな本を構成する大事な一部です。

「だから、悲しむ必要なんて無いんじゃないか」的な話を当時、嘆き悲しんでいた弟にしました。すると、「別に、必要があるから悲しんでるわけじゃないんだよね」と返されました。もっともですね。


(母の手帳に貼ってあった紙)
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<死は救いでもある>
本人にとって、そして家族にとって、死は救いでもあると感じました。

<本当に戦っているのは誰か>
ちょっと話が横道にそれます。
母が入院していた病院は、大手新聞社の本社ビルの隣にありました。その新聞社に抗議をするため、街宣車に乗った人たちが連日やって来て、高層階にある母の病室までハッキリと聞こえる大音量で軍歌を鳴らし続け、連日「○○新聞ふざけんなゴルア〜!」的にがなり立てていました。

まず思ったのは、これって合法なのかな、ということ。病院の隣でこういうことをするのは許されるのか、と。
まあでもきっと合法なのでしょう、残念ながら。パトカーも温かく見守ってたし。だとしたら今後は、その人たちの持つモラルに期待します。大きな日の丸を掲げる彼らが本当に我々日本人のことを思いやってくれるならば、その行動もいずれ変わってくると思います。

もう一つ、強く感じたのは、(本当に戦っているのは誰か)ということでした。

その人たちは、みな迷彩服や特攻服に身を包み、勇ましい軍歌を流しています。一見、とても「戦っている」ように見えます。でも、その様子を上から眺めている僕には、本当に戦っているのは決してこの人たちではない、と感じました。本当に戦っているのはウチの母であり、車いすの子供たちやそのご家族です。また、患者たちを救ったり延命させようと、外から漏れ入る大騒音の中、懸命にがんばっている医師や看護師たちです。

ある人が本当に戦っているかは、決してその見た目では分からないことを学びました。

<亡くなる前に、いろいろと話をしておいた方がいい>
今回の我々のケースでは、前述の通り母が「戻ってきてくれた」こともあり、亡くなる前に言っておきたいことなどをある程度言えた気がするし、心の準備も少し出来ました。でも、それでも一定の心残りというか、もっと聞いておきたかった、言っておきたかったことはあります。

我々のようなケースでもそうですから、例えばもっと若くして亡くなってしまった場合とか、事故などで突然亡くなってしまった場合とか、残された家族の心残り感はとても大きいだろう、と思います。
だからこそ、亡くなる前にいろいろと話をしておいた方がいい。

話しておくべきテーマは、まずは自分の死後、どうしてほしいのか、ということですよね。お葬式とか財産とか事業の承継・処理とか。

もう一つ話しておくべきテーマは、死後についてではなく、今この瞬間のこと、そして今までについてだと思います。感謝の気持ちとか、あなたはとても大事な存在であるとか、あのときはごめんなさいとか、そういうこと。あるいは、「お父さんはあのとき、どういう考えでああしたの?」とか、「お母さん、人生で一番大事なことってなんだと思う?」とか、別になんでもいいですけど、そういう超照れくさい話です。そういったことはぜひ亡くなる前に話しておいた方がいい。亡くなったらもう話せないから。

死後どうしてほしいとか、今までありがとうとか、そういう話は非常にしにくい。だから、ほっておいたらそういう話にはならない。そういう話がされないまま亡くなってしまいます。だからこそ、例えば親子間であれば親サイド、あるいは子サイドから相手方に「そういう話をしよう」と持ちかける必要があります。

では、親サイド・子サイド、どっちから話を持ちかければいいのか。どちらサイドから切り出すのも非常に難しいですが、子サイドから切り出すのは尚難しいと思います。「ねえねえ、オヤジが死んだ後のことだけどさあ・・・」 → 「なに!俺はもうすぐ死ぬのか!」とか、「財産目当てか?!」みたいな誤解が生じるかもしれません。それに、前述の通り「死」というものをよりリアルにイメージ出来るのは子供ではなく親です。

だから、出来れば親から子供に対し、ちょっと照れくさいし、まだ気が早いと思うけど、今の内からそういう話をしておこうよ、と持ちかけてほしいです、まだまだ元気な内に。

<最後に>
長く続く入院生活、看病生活。母本人はもちろん、家族も徐々にしんどさが増していきます。今後、多少の状況改善はあるかもしれないものの、根本的な治療・回復は見込めないだけになおのこと。

そんなある日、うっすらとしか意識が無い母親を見守りながら、パイプ椅子で僕がウトウトしかけていると、看護師さんが一人、病室に入ってきました。

(点滴を取り替えるのかな、採血かな)などと思いながら見ていると、看護師さんは母のところに行き、その手をさすりながら

丹埜さん、こんにちは〜、聞こえるかなあ。
あたしね、今日は担当じゃないんだけど、ちょっと気になったから様子見に来たよ〜。
今日は調子よさそうだね、よかったよかった。じゃ、また来るからね〜

と言って、パタパタと病室を後にして出て行きました。

それは実に突然の出来事で、かつ、看護師さんの立ち回りがあまりにも自然で、そして、いろいろとしんどいことばかりが続く病院生活の中であまり無いうれしい出来事だったため、僕はついあっけにとられ、「あ、あ、」で止まってしまい、ちゃんとお礼を言えませんでした。もし今看護師さんを追いかけて、廊下でお礼を言ったら泣いてしまいそうな気がして、追いかけられませんでした。

だから、ここで改めてお礼を言いたいです。あのときの、その日当番ではなかったのに立ち寄ってくれた看護師さん、母をシャワーに入れてくれた看護師さん、母が亡くなったときにカラダを拭いてくれ、合掌してくれた看護師さんたち、そして一生懸命努力してくれた医師の方々、本当にありがとうございました。

そしてお母さん、最期までみんなのためにがんばってくれてありがとう。


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by dantanno | 2017-03-15 22:51 | プライベート | Comments(4)

買い物のヒット率

洋服とか、家電とか、本とか。

何かモノを買って、それが「買ってよかった♪」となるか、「買わなきゃよかった・・・」となるか、そのヒット率すなわち打率は何割ぐらいか。その打率は、世間一般では大体何割ぐらいで、自分に限って言うと何割ぐらいか。

あまり考えてみたことが無かったが、いざ考えてみると、打率はそんなに高くはないだろう、と思う。こと自分に限っては、それほど深く考えずにモノを買うことも多いし、ネットで、実際のモノを手に取らずに買うこともある。本などは、その性質上、中身をよく知らずに買うことになる。それらの背景を総合すると、買い物の全部が全部「買ってよかった♪」となるはずがない。打率は結構低いはずだ。


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自分の「買い物打率」を、仮に3割程度とする。一流の野球選手の打率だってそれぐらいなわけで、自分の買い物打率はそれを超えないだろう、というのは妥当な線のような気がする。

では、自分がそうやって買ったいろいろなモノを「捨てる」割合はどれくらいか?
洋服、家電、本を計10個買ったとして、その内どれくらいを比較的早いタイミングで捨てているか。損切りしているか。

ちなみにここで言う「捨てる」は、寿命が来たから捨てるとか、壊れたから捨てるとか、あるいは引っ越しとか年末の大掃除のタイミングで思い切って捨てる、といった捨て方は含めていない。そうではなくて、買い物をした後、比較的早いタイミングで「これは失敗だった」という認識のもと、損切りの気持ちで捨てるという、そういった「捨てる」を指している。

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買い物の「打率」が仮に3割だとすると、残りの7割は「失敗」ということになる。そして、その買い物が「失敗」だったことに、我々は実は結構早いタイミングで気付いているはずだ(気付こうとしていれば、の話だが)。と考えると、買ったモノの約7割を、買った後比較的早いタイミングで損切りをして捨てていてもおかしくない。でも、実際はそんなに捨てていない。自分の場合、7割どころか3割も、、、いや、1割も損切り的な捨て方をしていない気がする。しかし、冒頭で論じた自分の「買い物の打率の低さ」を考慮すると、買ったモノの内7割とか、かなり高い割合のモノを損切り的に捨てているべきというか、はずであって、それをしていないのはおかしい、ということになる。
なぜ損切り的に捨てていないのか。

<買い物が失敗だった、と認めたくない>
心のどこかで「この買い物は失敗だった」と分かっているのに、それを認めたくない。認めてしまうと、失敗だったという事実に向き合わないといけなくなり、自分を否定することになる(ような気がする)から。実際は買い物の失敗=自分の否定、みたいに結びつける必要なんて全然無いんですけどね。

<考えたことが無い>
自分の買い物の打率が結構低い、という事実に気付いていない。っていうか、今まで考えたことが無い。

<「反・断捨離」的思考>
「捨てるのがもったいない」とか「いつか使うかも」とか「誰かにあげたら喜ばれるかもしれないから一応取っておく」といった、通常の「反・断捨離」的なものの考え方

とりあえず思い付いたのは上記3つだが、いずれも自分にしっかりとあてはまっていると思う。

ーーー

買い物もそうだし、人生もそうだが、「やってみなきゃ分からない」という面がある。買い物の例で言えば、実際にそのモノを買ってみて、手に取ったり、家に置いて眺めてみたり、日常的に使ってみたりして初めて「自分にはこれは要らない」とか「これは自分に合っていない」、そして「自分がほしいのはこれではなく、○○だ!」と気付くこともたくさんある。だから、「やってみる」ことは悪いことではなく、むしろいいこと。そして、挑戦に失敗はつきもの。つきなみな言葉だが、失敗していないということは挑戦していないことの表れでもある。

だからこそ、まずは自分の打率の低さを自覚した上で、その買い物が果たして自分にとって成功だったのか失敗だったのかを冷静に吟味して、失敗だったと判断したなら潔く損切りをし、前に進む、そういうやり方をしていこうと思った。買い物においても、人生においても。

by dantanno | 2016-11-07 16:00 | プライベート | Comments(0)

ブレスト中に賢く見えるための小技集

おもしろすぎる。。




さっそく本を購入。


飛行機で移動中のときに読もう、っと。

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by dantanno | 2016-10-03 11:20 | プライベート | Comments(0)

Michael J. Fox's words

パーキンソン病と闘ってきたマイケル・J・フォックスの言葉。

One of the things the illness has given me is a degree of death. There's a certain amount of loss, and whenever you have a loss, it's a step toward death. So if you can accept loss, you can accept the fact that there's gonna be the big loss. Once you can accept that, you can accept anything. So then I think, Well, given that that's the case, let's tip myself a break. Let's tip everybody a break.

by dantanno | 2016-01-31 13:10 | プライベート | Comments(0)

中と外を一致させる

最近のこと。

ふと気付くと、ちょっとしかめっつらというか、目つきが厳しめになっていることがある。ここのところ、子育ての関係でよく眠れていない、というのがあるけれど、表情の変化にはその前から気付いていた。昔はこんなこと無かったんですけどね。


他の人はどうなのか知りたくなった。そこで、街を歩くとき、他の人たちがどういう表情をしているか観察してみた。

買い物をしに行った先のデパートのエスカレーターで、向こうから来る見知らぬ人たちの顔を見てみる。とてもうれしそうで、用も無いのにこちらから何か話しかけたくなってしまう、そんなニコやかな七福神のような表情をした人もいれば、この世の不幸を一身に背負った歯痛の般若みたいな人もいる。

七福神も般若も、きっと同じようにうれしいことを経験したり、仕事やプライベートで課題を抱えていたりと、要するに大体似たような人生を歩んでいるのだろうに、ここまで対照/対極的とはおもしろい。


自分の場合、機嫌はとてもいいはずなので、顔つきが厳しめになるのは年のせいか?原因がなんであれもったいないので、意識的に目を大きく見開き、口元を笑顔っぽくし、身の回りの明るいことを考えるようにして、心の持ちようをダイレクトに顔に出して行こうと思った。


by dantanno | 2016-01-25 17:01 | プライベート | Comments(0)

携帯電話会社のTV CM

携帯電話会社のCMを観ると、どこか小馬鹿にされたような気になってしまう。
3社のCMすべてそう。

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でもこれは、ちょっと考えればすぐに僕がおかしいと分かる。

ーーー

携帯電話会社(+広告代理店)は、なんのために高いお金と手間暇をかけ、TV CMを作り、放映しているのか。

その目的は、
1.収益を増やすため(直接的、定量的)
2.知名度やイメージをアップさせるため(間接的、定性的)

2.の「知名度やイメージをアップさせる」というのも、企業の存続意義を考えると、究極的には1.の「収益を増やすため」につながる。

いずれにせよ、僕を小馬鹿にするためのCMではない。

上記に照らし、携帯電話会社のCMの場合、その目的は
1.サービス加入者を獲得したり維持/Retainする
2.知名度やイメージをアップさせる
ためにあるのだろう。

僕の場合、どういうときに「小馬鹿にされた気がする」のかというと、「こうしたなんとか太郎とか犬とかよく分からない家族とかがあれこれおもしろおかしくやっているCMを流しておけば、それを観た者はその結果ウチと契約したがったり、ウチに引き留まったり、ウチに対する知名度・イメージをアップさせるだろう」と思われていると思うと、ちょっとどうなのかな、と思ってしまうのだ。

ーーー

ちょっと余談だが、僕の友人で、広告会社を経営し成功させている人がいる。彼の独特のものの見方には、昔から一目置いている。


よく、生命保険会社のCMなどで、感動的な「いい話」が流れて、それを観た人たちがFacebookとかで「チョー感動した!」とか「涙が止まらなすぎる!!」と称賛の嵐になることがある。確かに僕も感動するのだが、そんなとき、広告会社経営の彼は横から冷静かつ愚直に

「で、いくら売れたの?」

とツッコミを入れたりしている。そのCMが、どれぐらいの売上増につながったのか、ということだ。


彼のこういう姿勢は実に正しいと思う。結局CMは、観る人を感動させるためではなく、「収益を増大させるため」に放映されるものだからだ。それを観て喜んだり感動したりするのは「番組そのもの」でやればいい話で、TV CMの役割ではないと思う。


「いいCM」とは、その制作費を大きく上回るリターンを企業にもたらすCMのことをいうのだと思う。ドライだが、そういうことなんだと思う。


ーーー

携帯電話会社のCMに話を戻す。

これは皮肉でもなんでもなく、素直に
(きっと、いいCMなんだろうな)
と思う。
(たまたま僕は観る度に小馬鹿にされた気分になるけど、それは僕が少数派なんであって、きっといいCMなんだろうな)
と思う、本当に。

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実際、多くの人がこうしたCMを観て、その携帯会社に対するイメージをアップさせたり、「今加入している別の携帯会社との契約を解約して、この会社にナンバー・ポータビリティーしよう」と思うのだろう。そういう意味でこれらCMは、CMとしての本来の機能を果たしていると言える。

ーーー

なんの皮肉もなく、素直に(きっと、いいCMなんだろうな)と思うのと同時に、
なんのひねくれでもなく、素直に(自分は、これをいいCMだと思う人じゃなくてよかった)とも思う。

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先日、大手携帯電話会社との契約を解約し、MVNO?SIMフリー?にしました。いいですね、これ。

その結果、従来は毎月1万円以上かかっていた携帯電話代が、月3,000円程度になりました。
差額の7,000円は、恐らくTV CM制作費でしょう。そのTV CMを観て喜ぶ人が負担するという、受益者負担の原則がフェアだと思います。

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by dantanno | 2016-01-24 04:42 | プライベート | Comments(0)

Sherlock Holmes and Watson

One night, on a camping trip, Sherlock Holmes wakes up Watson and says, "Look at the stars. What do you deduce?"
Watson thinks for a minute and says, "Well, I see millions of stars, many of which resemble our sun, which most likely have their own planets, which most likely have life-forms like us, so I deduce that there is life on other planets."
And Sherlock says, "No, you idiot, someone's stolen our tent."

by dantanno | 2016-01-23 13:02 | プライベート | Comments(0)

テレビが(半分だけ)無い生活

年末の引っ越しに合わせ、テレビをリビングからベッドルームに移してみました。それについての話です。

ーーー

自分がテレビを観るシチュエーションを大別すると、
1.ちゃんと、本腰を入れて観る
2.中途半端に観る
3.観ていないのに「観る」

それぞれについて考察しました。

ーーー

1.ちゃんと、本腰を入れて観る
お笑いが大好きなんです。だから、「アメトーーク!」とか「ロンドンハーツ」、「すべらない話」などを、ビールとかワイン飲みながら、奥さんとゆっくり観るのが至福なんです。
娯楽として楽しいのはもちろんで、それが主目的です。それに加え、笑うたびに「今のはなんでおもしろいんだろう」を考えるのも楽しい。また、こういう番組を観ることについては、ことばを使う者としての職業的な興味もあります。話し言葉であれ、書き言葉であれ、どうすればもっと分かりやすく、おもしろく話を伝えられるのか、といった勉強になると思うんです。

そんなわけで至福なんですが、お笑いを観始めるのは大抵夜遅くで、冬のちょっと寒い日なんかに、電気じゅうたんの上で寝っ転がりながらそれをやるとほぼ100%そのまま寝てしまい、午前3時ぐらいに僕か奥さん、どっちかがハタと目を覚まし、「もう二度とテレビ観ながら寝ない!」と後悔しながら二階に上がってショボショボとベッドに潜り込む、みたいなことが結構な頻度で起きる。


2.中途半端に観る
食事をしながら観る、というのはなるべく避けていましたが、それでも食事の前後のちょっとした時間とか、ふとしたときになんとなくリモコンに手が伸び、その後は観るともなしになんとなく観る、みたいなことが結構ありました。一人の時はもちろん、家族と一緒のときも。
家族と一緒なら団らんでもすればよさそうなものですが、(別に、あえて今話したいネタとか、今報告・相談すべき事項があるわけでもなし・・・)ということで、なんとなくリモコンに手が伸びる。


3.観ていないのに「観る」
人がテレビを観始めるのはいつからか。それは、リモコンでテレビの電源を入れた直後からです。でも、実はその前からテレビのことを考えている。だからこそリモコンに手が伸びたのだ。つまり、テレビを観ていないときでも、頭の片隅でテレビのことを考えている。テレビに気を取られているという意味では、観ているのと実質的に同じ。

たばこと似ている。
僕も昔、ちょっと吸っていた時期があって、23歳の時にやめた。当時の経験から思ったのは、スモーカーは、今まさにたばこを吸っているときはもちろん「たばこのことを考えている」が、吸っていないときでも頭のどこかで(ああ、たばこ吸いたいな)とか、(次はいつ頃火を付けるか)とか、(たばこ切れてないかな?)とか、(この店はたばこを吸える環境だろう)とか、(これは灰皿?それとも醤油皿?)みたいなことをグルグルと延々とずっと考えている。それは意識的だったり、無意識でだったりする。
僕の場合、健康がどうこうよりも、そういう無駄な思考に脳のキャパを振り向けるのがもったいなくてたばこをやめた、というのも大きい。

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ということで、引っ越した先の家では、テレビをリビングではなく、ベッドルームに置きました。結果は、、、

すばらしい!

何がどう変わったか。上記3シチュエーション毎に分析しました:


1.ちゃんと、本腰を入れて観るとき
そういうときは、寝支度を終え、お酒を持ってベッドルームに行き、ベッドに入ってテレビを観る。そのまま寝てしまってもOK、というのがとてもいい。元々至福だった時間が超至福にレベルアップした。

2.中途半端に観るとき
新しい家に引っ越してからしばらくは、リビングでふと(あ、テレビでも観よっかな)と思ったりしていた。でも、リビングにテレビは無いので、それは現実的な選択肢ではない。観たいなら、ベッドルームに行って見ることが出来るが、そこまでして観たいわけでもない。ということで、中途半端に観ることがなくなった。

3.観ていないのに「観る」
引っ越した当初はリビングにいても心のどこかでテレビのことを考えていて、それは幻肢痛にちょっと似ていたが、今はもう無くなった。無いものは無い。観たければベッドルームに行く。

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リビングからテレビを追い出した結果、最大の成果は「家族との会話が増えた」こと。

前述の通り、元々食事中は観ないようにしていたテレビだが、ちょっとした時間の切れっぱしになんとなく観ることが多かった。でも、今はそれが出来ない。出来ないとなると、家族と何か話すしかない。話すことが思いつかなければ、頭を絞って何か思いつくしかない。結果的に家族との会話が増えた。

引っ越し前後での、頭の中での自問自答の変化を分析すると、

ビフォア: どうせ今話すこと無いよね?ね?ね? よし、テレビつけよっと。

と、せっかくの「有」を「無」にするようなヘンな努力をしていたのが、

アフター: 何か話すこと無いかな・・。何かあるでしょう。。あ、そうだ!アレについて話そう!「あのね、、、」

と、「無」から「有」を生み出すいい努力に変わった。

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テレビを置かない代わりに、以前は僕の部屋に置いていてあまり聴いていなかったオーディオをリビングに置いてみた。朝、昼、晩、これで音楽をかけ、聴くとはなしに聴いている。

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従来無意識に(いつテレビつけよっかな・・・)と脳のキャパを浪費していたのが、今は無意識に(いつオーディオかけよっかな・・・)と脳のキャパを浪費するのに横滑りしているだけのような気もする。でもそれは置いておいて、より本質的な話↓。



朝の日差しの中で、モーツァルトを聴きながら家族と話すのと、

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朝のテレビのニュースで
「昨夜、**県**市で火事があり、焼け跡から二人が遺体で発見されました。この家に住む60代の夫婦とみられます。警察によると・・・」
という、それを観たところで、ネガティブな気持ちになる以外何も打つ手が無いニュースを見聞きさせられるのとでは天と地、、、いや、天国と地獄ほどの違いがある。余談ですが僕は、朝一でこうした「それを知っても何もアクションを起こしようが無く、気が滅入るだけのニュース」を流してはいけない、というルールを制定してもいいのではないか、と昔から思っている。こんなものは「ニュース」ではなく、ただの「ノイズ」だと思う。ついつい観てしまう、こうしたセンセーショナルなノイズに朝一から触れた結果、無駄にストレスフルな状態になって通勤・通学している人もいるのではないか。その結果、世の中は確実に少し「悪く」なっている。

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リビングからテレビがいなくなって、当初はちょっとさみしい気持ちにもなりましたが、今は平気です。ベッドルームでがんばってくれているテレビと、とてもいい距離感が取れている気がします。昔はテレビを付けたり観たりすることに感じていた一抹の罪悪感も薄れました。

我が家では、テレビを家から丸ごと追放してしまうなんてとても無理。だから、家の中での「テレビの引っ越し」をしてみました。テレビの引っ越しは、ウチと同じく、手放しはしたくないけどテレビとの距離感を調整してみたいという家庭に、一つの選択肢としてオススメです。

by dantanno | 2016-01-20 13:41 | プライベート | Comments(0)

船着き場への階段を作りました

天気がいいので、川沿いの土地へ。

今日は階段を作りました。川の近くまで降りやすくするために。

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お隣さんにいただいた板とか、その辺に転がってる石とか、いろいろ使ってみました。

下からの眺め。

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見た目はともかく、、、まあまあ頑丈のようです。

笹もだいぶ切ったので、川が見えるようになりました。

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船着き場建設まで、まだだいぶ時間がかかりそうですが、その遅さを楽しんでいます。
by dantanno | 2016-01-08 15:18 | プライベート | Comments(1)