たんのだんのブログ

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カテゴリ:日々研鑽( 25 )

40過ぎのIR通訳者が初めて「投資」について考える 〜その② 「出会い」編〜

(前回の記事はこちら

さっそく本屋にやって来ました。

買いたいのは
「必ず儲かる! 投資必勝法」
みたいな本ではなく、一方で
「デリバティブ研究の最前線 〜規制環境の変化を受けて〜」
とかでもありません。

得たいのは「何に投資すればいいか」という知識・情報ではなく、「投資についての基本的な考え方」です。

ーーー

こうした姿勢は、子育てをする身になった今、とても大事なことだと感じています。

子供に対し、"What to think"、すなわち「何が正解か」を押しつけるのはよくない。
「これが正解だ」と特定の考え方、価値観、宗教等を押しつけてしまうのは犯罪的だとすら思います。

「押しつけてしまいたい」という親の欲望をがんばって抑え、"How to think"(考えるための方法論)を教えるのがいい親だと思います。

視野の広さでいえば、「これが正解だ」と子供の視野を狭めるのではなく、その逆を行くべき。もし子供が特定の考え方に凝り固まりそうになってしまっていたら、「こういう考え方もある、ああいう考え方もある」と視野を広げてあげて、その中から子供が自分で選んでいくことが大事だと思います。

ーーー

さて、そうした考え方の元に選んだのがこの本。

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John Kay著 "the long and the short of it"

今気付きましたが、CAPITAL LETTERS(大文字)全盛の時代にあって、あえて全部小文字、という点も好感が持てます。

サブタイトルは a guide to finance and investment for normally intelligent people who aren't in the industry。いいですね。「ベースの賢さはあるんだけど、金融の専門家ではない人のための指南本」みたいな意味でしょうか。

推薦のことばの中には、元イングランド銀行総裁Mervyn Kingの 
"To manage your money well means that you should understand a few key principles. John Kay explains all that you need to understand."
という、心強いことばも並んでいます。

John Kayはこういう人です:

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左下のシミはこぼしたグレープジュース。

ウェブサイトもありました。

ーーー

本書については、次のブログ記事で詳しく見ていきたいと思うんですが、いろいろと示唆に富んでいます。投資における分散の重要性とか、専門家に頼るなとか、いろいろと言っています(pay less, diversify more, and resist conventional thinking)。

中でもおもしろいと思ったのが:

the most rewarding strategy for the intelligent investor is to construct a low-risk portfolio from a collection of assets which the conventional investor perceives as risky

つまり、「世の一般的な(従来型の・伝統的な)投資家の逆を行け。そういう従来型の投資家が盲目的に「これはリスクが高い」と避けるような投資をうまく組み合わせ、ポートフォリオを構築すると、比較的ローリスクで一定のリターンを追究できる」みたいなことを言っているんだと解釈しました。

<続く>

by dantanno | 2017-08-11 16:46 | 日々研鑽 | Comments(0)

40過ぎのIR通訳者が初めて「投資」について考える 〜その① 「気付き」編〜

今までずっと「投資」というものをして来なかった。
もう40歳を過ぎたというのに。

それについて思うことは2つ:
1.恥ずかしがれよ
2.実は「投資」している

それぞれについて考えていきます。

1.恥ずかしがれよ

まず、なぜ今まで投資をして来なかったのか。

ー 他のことで忙しいから
ー 元手が無いから

この辺は、パッと思い付く浅い理由。

では、自分が今まで投資をして来なかったことの深い、根本的な理由は何か?

ー 投資は「悪いこと、恥ずかしいこと」みたいなイメージがあった

「私は投資が好きです」って言うのって、ちょっと勇気がいります。お金の亡者(?)みたいに思われちゃいそうで。
それに対し、「僕は投資なんてやってません、興味ありません」は、なんだか安心して言える気がします。ちょっと清貧な感じ(?)。下世話ではない感じ?
(もっとも、そう思うのは最近までの僕であれば、です。今では、まさにこの記事のこのセクションで書いている通り、「投資に興味無い」って言ってしまうことは「国際政治になんて興味ありません」同様、ちょっと恥ずかしいことだと思っています、今さらですが。)

付き合いのある外国人投資家たちから「これだけIRミーティングの通訳をして、いろんな会社や投資家を見て来て、相当詳しいでしょ。ダン自身の投資はどうしてるの?」と聞かれる度に、ヘラヘラと「いや、僕は投資なんてしてなくて、ムニャムニャ・・・」と答えてきました。最初の頃はまだよかったんですが、だんだん恥ずかしくなってきました。

投資に限らず、何かに「興味が無い」というのはやっぱり恥ずかしいことなんだと思います。特に最近そう思います。本当に興味が無いんだったらしょうがないし、別にそれでいいわけですが、それが食わず嫌いだったり思い込みの結果だったりしたらもったいない可能性がある。

ーーー

投資をして来なかった根本的な理由はもう一つあります。それは

ー Financial literacyが無いから。つまり、「投資」というものについて全然分かってないから

ひとえに僕の勉強不足です。

自分が投資について全然分かっていないことを実感、、いや、痛感したのは、この後ブログでも触れようと思っている、実際に「投資をしよう」という段になってでした。そこで初めて気付きました。

あと、決して世の中のせいにするつもりは無いんですが、こういうのってもっと小学校とかで教えたらいいと思うんですよね。投資とか、株とか、金利とか、為替とか。
そういう世界は、一部のプロの人たち(あるいは強欲なシロウトたち)だけの世界ではなく、実は我々フツーの人たちも気付かずに参加している世界だし、もっと主体的に参加して楽しんだり資産形成出来る世界のはずですからね、実際は。
日本の個人金融資産(1,500兆円?)がなかなか動かないのも、この辺に原因があるような気がします。と、自分の勉強不足を棚に上げて風呂敷を広げてしまいました。


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ということで、僕が今まで投資をして来なかった理由を挙げてきましたが、それら理由の多くが恥ずかしいことだと判明しました。
考えてみると、「元手が無いから」ってのも実に恥ずかしい。しかも、それは今まで「投資」というものにちゃんと向き合わず、自分自身のファイナンシャル・プランニングから逃げてきた結果、とも言えます。

ー 他のことで忙しいから
ー 元手が無いから →恥
ー 投資は「悪いこと、恥ずかしいこと」みたいなイメージがあった →恥
ー Financial literacyが無いから。つまり、投資について全然分かってないから →恥

ということで、まずはちゃんと投資について勉強してみて、その上で実際に投資をしてみよう、と思い立った。

さっそく本屋へ。

<続きはこちら

by dantanno | 2017-08-08 13:42 | 日々研鑽 | Comments(0)

ふたたび、大好きな奈良へ

今日は金魚のまち、大和郡山ヘ。

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ふらっと歩いていたらみつけた素敵な書店。

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最近、翻訳の締め切りを蔑ろ(ないがしろ)にしがちなので、その反省を兼ねて購入。

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書店の子どもたちに案内してもらい、道の反対側のケーコーヒーへ。

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ここは電話ボックスの金魚で名高い。

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家で待つ 子らへのみやげ 紙ふうせん

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ひとりで旅をすることが多い。仕事でも、遊びでも。

旅をするとき、そのとき、その旅のテーマ的なものをなにかしら設定することがままあって、それはたいていは
「今の自分はこういうとこがよくないから、もっと頑張らなければ」
みたいなテーマになりがち。もともと内向的で、かつ自分を許さない自分に酔いたがりなクセがあるので。

そうやって自分にハッパをかける旅も、一見ネガティブに見えて実はけっこうポジティブで、とても好き。

でも、そんな僕が、なぜか奈良にくると「まあいっか〜」とか「これはこれでけっこう幸せだなー」と感じ、それが旅のテーマになってしまう。

今はひとり旅をしてるから、当然奥さんと一緒にいないわけだけど、奥さんがすぐとなりにいるような気持ちになる、奈良では。

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また来ます。
次回は家族をつれて。


by dantanno | 2016-10-09 14:06 | 日々研鑽 | Comments(0)

"Have a nice trip!"をどう訳すか

この前、ある日本企業のIRにお供して、その企業の方々とアメリカの投資家たちを訪問したときのこと。

わざわざ訪問するぐらいですから、基本的にFace to faceのミーティングなわけですが、今日の記事で取り上げるそのミーティングは電話会議形式で行われました。

例えばアメリカへのIR出張であれば、ニューヨークとかサンフランシスコとかシカゴとか、外国人投資家たちがたくさんいる街に行って、各地の投資家と面談します。でも、中にはデンバーとかデモインとか、結構マニアックな場所に本拠地を置いている投資家もいて、そういう投資家とは(こちらからアメリカに出張してきているにもかかわらず)電話会議をすることもあります。証券会社の現地オフィスや、宿泊先ホテルの会議室から。

今日の記事も、そうした「海外IR出張中の電話会議」が舞台です。

ーーー

ミーティングの冒頭、電話の向こうから、投資家が
"Well, thank you very much for taking the call. I hope you've been having a good trip so far."
みたいなことを言いました。

IRミーティングの冒頭の挨拶(投資家側、および企業側)については、状況によって訳したり訳さなかったりしています、僕の場合。"Thank you very much for meeting me"とかだったら、日本企業の方々も分かるかな、と思ってあえて訳さないこともあるし。冒頭の型どおりの挨拶は、重要性がそれほど高くないこともあるし。また、冒頭の挨拶ぐらいは自分でやりたい、という日本企業の方もいると思うからです。

で、問題の電話会議のときは、雰囲気的に(一応、訳した方がいいかな)と思ったので、訳すことにしました。

さて。
"Well, thank you very much for taking the call. I hope you've been having a good trip so far."
を、どう料理するか。

ーーー

投資家のこの発言の、前半部分は結構簡単というか、Straightforwardだと思うんですよね。
直訳すれば、例えば「この電話会議を受けていただき、どうもありがとうございます。」みたいな感じでしょうか。
意訳すれば、例えば「今日はお時間をいただき、どうもありがとうございます。」みたいな感じでいいと思うんですよね。

問題は、発言の後半の "I hope you've been having a good trip so far."の部分です。

ーーー

モロに直訳すれば、例えば「これまでのご出張が実り多きものであったことを願っています。」みたいな感じでしょうか。でもそれだと明らかにおかしいというか、ぎこちないじゃないですか。

で、結局どうしたかというと、思いっきり訳から落としました。つまり、投資家が
"Well, thank you very much for taking the call. I hope you've been having a good trip so far."
と言ったのを、
「今日はお時間をいただき、どうもありがとうございます。」
とだけ訳しました。

ーーー

訳を落とす際、、、つまり、発言者が言ったことを全て訳さずにある程度はしょって訳す際、決めているルールが一つあって、それは「訳せなかったから落としたわけではないよね?」と自分に問いかける、というルールです。意図的・戦略的に落としたのであればいいと思うんですよ。その方がいい訳になるとか、その方がその場がうまく収まると思ったとか、そういう理由であれば。一方、自分の実力不足・知識不足で落とさざるを得なかったのであれば、それはそれで問題だからなんとかしないといけないと感じます。

今回の、発言の後半部分の
"I hope you've been having a good trip so far."
ですが、これは訳さなくていい、と思ったんですよ。もっと言うと、訳さない方がいいと判断したんですよね。そのまま訳そうとすると、例えばさっき書いたように「これまでのご出張が実り多きものであったことを願っています。」みたいにぎこちなくなっちゃうから。

「これは訳さなくていい」という自分の判断にほぼ絶対の自信を感じつつ、残りのミーティングをまあ滞りなく進め、証券会社の会議室を後にし、ニューヨークの街に出ました。でも、その日その後のミーティングをこなしている間中ずっと、さっき訳さなかった"I hope you've been having a good trip so far."がなんだか引っかかります。気になります。

まったく意味の無い発言(例えば本題に入る前の「アー」とか「ウー」みたいな音とか)であれば、訳から落としても別に罪悪感を感じないんですよね。でも、今回投資家は"I hope you've been having a good trip so far."と発言することで、多分何かを伝えたいと思っていたはずで、それがなんなのか、そしてそれを自分は伝えなくてよかったのか、ずっと引っかかっていました。もし投資家が意図的にこの発言をしたのであれば、通訳者として、その気持ちを大事にし、ちゃんと訳に反映させてあげるべきだったと思い始めました。

じゃあ、仮に落とさずにちゃんと訳してあげた方がよかったとして、でも、だからといってこれまでのご出張が実り多きものであったことを願っています。という訳がいいとは思えない。訳から丸ごと落としてしまう自分を許すことは出来ないけど、一方でこれまでのご出張が実り多きものであったことを願っています。みたいな、そんなぎこちない、いかにも訳っぽい訳をすることを許すわけにもいかない。じゃあ、一体どうすれば良かったのか。ずっと考え続けました。

ーーー

こういう発言を訳す際に一番大事なのは、発言者の言葉尻にとらわれないことだと思うんですよね。一見(一聴?)訳しにくい発言だからこそ、そのまま訳してはいけない。だから、投資家が
"I hope you've been having a good trip so far."
と言ったとき、すぐに+自動的に
これまでのご出張が実り多きものであったことを願っています。
と置き換えてしまうのではなく、一歩引いて、「発言者である投資家の意図はなんなんだろう」というところから急がば回れをすればいいんだと思いました。

思うに、"I hope you've been having a good trip so far."という発言を通して投資家が伝えたかったメッセージは、「私はあなたがたの出張について慮って(おもんぱかって)いますよ、気にかけていますよ」ということだったのではないかと思いました。だからこそミーティングの冒頭でこういう発言をしたのではないか。それによって場の空気を和らげたい、という狙いもあったかもしれません。だとしたら、やっぱりそれは訳において大事に訳してあげた方がよかった。

訳から落としてしまうのではなく、一方これまでのご出張が実り多きものであったことを願っています。みたいに訳してしまうのでもない、第三の道を模索し続けること、結局それが「いい通訳」ということなのかな、と思います。で、今回の発言の場合、いろいろなことを総合的に判断して、

「今日はお時間をいただきありがとうございます。ご出張、お疲れさまです。」

みたいに訳せばよかったな、と感じました。人によって(特に「通訳者によって」)異論はあるかもしれませんが、少なくとも僕にとっては、上記が一番しっくり来る訳だったな、と今さら思いました。

ーーー

投資家は
"I hope you've been having a good trip so far."
と言いました。

これは、ニュアンス的にポジティブ/ネガティブどちらかと言えば、ポジティブだと思います。"good trip"という語がそれを表していると思います。

一方で、「今日はお時間をいただきありがとうございます。ご出張、お疲れさまです。」の「お疲れさまです」は、ネガティブと言うと言いすぎかもしれませんが、少なくともポジティブではないというか、どちらかというと「大変ですね」みたいなニュアンスを感じます。だからこそ、元ネタのポジティブさをこうしてちょっとネガティブに仕上げてしまうことに多少の抵抗も感じるわけですが、でもそれでいいと思うんですよね、英語→日本語の訳は。

"Have a good trip!!!"
も、
「よい旅を!」
と訳してもいいし、あるいは
「お気を付けて」
と訳してもいい。

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前者の訳は、元ネタのポジティブさをそのまま伝える、それはそれでいい訳だと思います。確かに直訳っぽいというか、いかにも「訳しました」的なぎこちなさは感じるものの、そういうニュアンスを含めて聞き手に伝えたいときもあるんですよね。素材感を強く出したい、というか。そういう場合、このようにちょっとそのまま感を残した訳がいいと思うときもあります。

一方後者は、元ネタで言わんとしていることはしっかりと伝えつつ、あえてちょっと「ネガティブ(?)」というか、コンサバ目に変換することで、絶妙に日本向けにローカライズさせた結果の、それはそれでとてもいい訳だと思います。

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どちらがいいかはケースバイケース。正解は無い世界ですが、訳してしまう(あるいは訳から落としてしまう)前に一度、頭の中で「これはどう訳すべきか」という、大袈裟に言えば訳の信念を問う、そういう瞬間を経た上での訳であることが絶対条件だと思うし、逆にそういうプロセスを経た上での訳であれば、例えそれがどのような訳であってもそれを尊重し、祝福するべきだと思います。


by dantanno | 2016-09-01 11:46 | 日々研鑽 | Comments(1)

Clint Eastwood on politics, in Esquire magazine's "What I've Learned"

(Clint Eastwood was elected mayor of Carmel, California in 1986, and served two years.)

"Winning the election is a good-news, bad-news kind of thing. Okay, now you’re the mayor. The bad news is, now you’re the mayor."

"It’s making sure that the words “public servant” are not forgotten. That’s why I did it. ‘Cause I thought, I don’t need this. The fact that I didn’t need it made me think I could do more. It’s the people who need it that I’m suspect of."

by dantanno | 2016-03-31 12:10 | 日々研鑽 | Comments(0)

モノを売ったことがあるか

今は「通訳」を売って生きているが、人生で一番最初に売ったものはザリガニだった。



ーーー



小学生のころ。
毎週末、家族4人で千葉・外房の山小屋に行っていた。

野良仕事を手伝うかたわら、弟と近くの田んぼの水路で、ザリガニやどじょう、タニシ、フナの赤ちゃんなどを取って遊び、家で飼ったりした。



ーーー



あるとき、ザリガニをたくさん、、、といっても10匹ぐらいだが、たくさん取った。


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その、たくさんのザリガニたちを東京に連れて帰り、四谷のZOOというペットショップに売りに行った。
残念ながら取引は成立しなかったが、これが自分の初の商業行為だった。

(ちなみにこのZOOというペットショップはとってもおもしろいところなので、ぜひ一度足を踏み入れてほしい。ウェブサイトはこちら(音が出るサイトなので注意)。)



ーーー



ザリガニの次は、キーウィーフルーツの販売に取り組んだ。


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キーウィー・フルーツは、父がその山小屋周辺で、趣味で栽培していた。
豊作の年があって、人にあげてもあげてもまだ無くならないので、売ってみることにした。

ビニール袋に詰められるだけパンパンに詰めて、弟と共に、近所の八百屋を訪ねた。
一袋千円で持ちかけたところ、交渉の末、店主のおじさんが買ってくれた。

店頭に並べるために仕入れてくれたのか、あるいは自家消費のためかは分からない。
きっと、キーウィー・フルーツをビニールに入れて売り歩く外国人風の幼い兄弟を不憫に思ったのだろう。。。



ーーー



大学時代は、ニュージーランドの輸入住宅を日本で別荘用に売る仕事をした。
大学をサボり、父の車を借りて那須や伊豆の別荘地に行き、「別荘販売」とか「別荘建築」といった看板を見つけては、当時まだ珍しかった携帯電話(IDO)で電話をかけ、住宅の部材のサンプルを持って飛び込み営業していた。実際、千葉県のマザー牧場には当時販売し、建設にも携わった貸別荘や売店の建物が今も稼働している。



そうした「モノを売る」活動がとても楽しかったこともあり、就職先は商社に決めた。

入社後、エネルギー部門に配属された。

商社は、自ら上流(アップストリーム)の油田などに投資しリターンを追及するという、ある意味華々しいビジネスもやりつつ、一方ではベタベタの代行業、口銭商売もしている。僕が入社後間も無く、自ら志望して担当になったのは、そうした従来型の、売り手と買い手の間に入って、、、みたいなベタな仕事だった。そこでは、エネルギー(具体的には天然ガス)を売ってくださる売主にも気を遣い、買ってくださる買主にはもちろん超気を遣う、という板挟み的な立場をこれでもかというほど経験出来、とても勉強になった。



ーーー



こうして人生の局面局面でモノを売る経験をして来たわけだが、いずれも本腰を入れて取り組んだとは言えず、ちょっと中途半端だったと思う。
そして、今から思うと、この「モノを売る」という仕事にもっと真剣に向き合い、努力すればよかった、と悔やまれる。極めるまではいかないまでも、「真剣に取り組んだ」と自信を持って言えるようにすればよかった。

そう思うのは、通訳者になった今、モノを売ることの重要性を感じるからだ。


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売る対象がなんであれ、何か「モノを売る」という経験は、出来ればこの世の全ての人が経験するといいと思う。

そのモノを、今はそれをほしいと思っていない人に、いかにして喜んでお金を出していただくか。
暴力を振るったり、ウソをついて騙したりするのではなく、いかにして、あくまでも正攻法でその人を説得(Persuade)し、Change his/her mindしてもらうか。そして、そのモノを買った結果、いかに喜んでもらうか。

相手の立場に立ち、どうやって「営業」し、どうやって実際の「販売」まで持って行くかを考え、実行するプロセスは、全ての人にとって貴重な経験になるのではないかと思っている。

ある会社のCEOのことば

"My advice to young people is always, along the way, have a sales job. You could be selling sweaters. You could be selling ice cream on the street. It doesn’t matter. Selling something to somebody who doesn’t want to buy it is a lifelong skill. I can tell when somebody comes in for an interview and they’ve never had any responsibility for sales."


テキトーな訳

「若い人にいつも言うのは、キャリアのどこかでセールスの仕事を経験した方がいい、ということ。セーターを売るもよし、街でアイスクリームを売るもよし。なんでもいいから何かを、それを「買いたいと思っていない人」に売り込む、という経験は一生モノのスキルになる。(ウチの会社に入社したいと)面接に来た候補者にセールス経験があるかどうか、(面接をすれば)すぐに分かる。」



ーーー



営業活動を自分よりも長くやっている人は多いだろう。そうしたプロのセールスマンと比べれば、自分は完全にアマチュアだ。そして、上記の通りもっと真剣に取り組む余地はいくらでもあった。でも、例え少しだけであっても、営業の世界を体感したことは大きな財産になっている。

自分のこれまでの人生において、一度もザリガニや天然ガスを売った経験が無ければ、自分はどういう人間になっているだろう、と思う。



ーーー



今、自分が日々行っている通訳業務は、一見営業(Sales)とは縁遠い。でも、実は非常に近いのではないか、と思っている。

通訳をする際、考えていることはただ一つ、いかにして会議参加者を喜ばせられるか、ということだけだ。実際にそれが出来ているかどうかは別として、少なくとも、それだけに集中しようとしている。

それに対し、一番よくないのが「いかにミスをしないか」に集中し、ビクビクしながら訳しているときの自分の通訳だ。順番に並べてみると、




1. いかにして会議参加者を喜ばせられるか
2. いかに上手に訳すか
3. いかにミスをしないか




1.は、2.や3.と根本的に異なる。
1.が相手(会議参加者)目線であるのに対し、2.や3.は自分(通訳者)目線なのだ。



相手目線

1. いかにして会議参加者を喜ばせられるか
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
2. いかに上手に訳すか
3. いかにミスをしないか

自分目線



2.や3.は、狭義の「通訳業的」視点、あるいは職人的な視点だとも言える。もちろん相手のことも考慮しているが、弱い。メーカーで言えば「我が社製品」ありきで考えるメーカーとも言えるだろう。

それに対し1.は、非常に「営業(Sales)」に近い。自分を捨て、完全に相手のことしか考えていない。メーカーで言えば「お客様」ありきで考えるメーカーか。



「営業」という行為を突き詰めて考えてみると、それは全て「相手」のことである、という結論に僕は行き着く。そこに「自分」は全く無い。

自分が売ろうとしているモノ、例えば「ザリガニ」はもちろん関係しているが、ザリガニ=自分ではない。僕は人間である。

営業の現場に存在するのは、

1. 売る相手(お客様)、すなわちペットショップのZOOの店員や八百屋のおじさん、そして
2. 売ろうとしているモノ、つまりザリガニやキーウィー・フルーツだけだ。

売る人(例えば僕)ももちろんその場にいることはいるが、決して主役ではない。ポイントは僕ではなく、「1.お客様」が「2.そのモノ」を買うかどうか、それだけだ。

売る側からすると、自分を捨てる、、、というか、自分がそもそも関係無い。それが営業だと思う。



ーーー



さて、話転じて通訳。

通訳者と話したり、その訳を聴いたりしていて、非常に親近感を感じることがある一方、何かこう、とても大きな断絶みたいなものを感じることもある。それがなんなのかはよく分からないのだが、もしかしたら営業的視点の有無も関係しているのかもしれない、と思う。

例えば大学等の学校を出て、すぐに通訳者になった人。あるいは、学校の後何かワンクッション置いて通訳者になったものの、そのワンクッションが営業(Sales)とは無縁の仕事だった人。
そういう人は、「モノを売る」という視点を持っていなくても不思議ではない。だって、売ったことが無いんだから。

そういう通訳者に「通訳はサービス業だと思うか」と問いかければ、Yesと答えるかもしれない。が、それは「製造業ではないし、、、」的な消去法の結果であって、通訳業を積極的に「サービス業である」あるいは「営業(Sales)行為である」ととらえた結果ではないかもしれない。

そこに、通訳という仕事の独特の商流も関係してくる。通訳者たちは、日々クライアントを回り「お願いですから仕事をください」と頭を下げているわけではない。依頼は、どちらかというと「向こうから来る」ものであり、それを「お受けします」あるいは「お断り」するのが通訳者だ。元々営業経験が無い人が、そういう独特の商流の中で仕事をしていると、どうしても「モノを売る」という視点・姿勢が身につきにくいと思う。



ーーー



一方で、人気のある通訳者たちに共通するものは何か、を考えてみると、意外と「通訳の上手さ」以外の何かではないか、という気がしてくる。
いや、もちろん通訳はある程度上手なのだが、それが決め手ではない気がする。

決め手になっているのは、営業(Sales)的な視点ではないか。

人気のある通訳者たちは、通訳者になる前、何か「モノを売った」経験があり、その視点に立って日々通訳をしているのではないか。
あるいは、モノを売った経験は無いものの、何らかの理由・経緯でそうした営業的な視点を身につけていて、それを活かして日々通訳をしているのではないか。

この考え方を使えば、「通訳者ではないのに通訳が上手な人」もある程度説明出来る。
ときどき、通訳者ではなく、普通のサラリーマンで、通訳が上手な人がいる。日々通訳をしているわけではなく、通訳学校に行ったこともない人たちだ。言葉のセンス、そして一定のインテリジェンスがあるのはもちろんだろうが、それに加え、営業的な視点も併せ持った人たちなのではないか。

ーーー

興味深いのは、営業的な視点を身につけるのに、実際にモノを売った経験は必ずしも必要無い、という点だ。
長く営業をしていても、それに中途半端に向き合えば身にならないだろうし、一度もモノを売ったことが無くても、相手の立場に立つことが上手な人もいる。

ーーー

翻って、自分はどうか。

通訳者になる前の営業活動には、今一つ本腰を入れて取り組まなかったこと、そしてそれをちょっと悔やんでいることは既に書いた。
だとしたら、今目の前にある「通訳」という仕事を今まで以上に「営業(Sales)活動」としてとらえ、この機会に「モノを売る」という行為に本腰を入れて取り組んでみるのもいいな、と思う。


by dantanno | 2016-03-21 14:45 | 日々研鑽 | Comments(0)

絵本翻訳、ふたたび!

去年に続き、絵本翻訳コンテストに挑戦しています。
今月末が締め切り。

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「しています」と言いつつ、翻訳作業を始めたのは今日。
長いフライトの後、何時間か昼寝して、頭をカラッポにした状態で対象作品を初めてひもときました。お菓子ほおばりながら(笑)。
訳しがいがありそう。



去年、生まれて初めて「絵本翻訳」という作業に取り組み、コンテストに応募しました。
翻訳する過程で、絵本翻訳の難しさを痛感しました。

応募した後、長く心待ちにしていた結果が届くと、あえなく落選。
最優秀賞はもちろん、複数選ばれた「優秀作品群」みたいな一群にも入りませんでした。

思いのほかガッカリしている自分を見て、(一体何を期待していたんだろう・・・)と不思議に思いました。

こういう経験はいいですね。
普段、IR、金融、ビジネスに関連した通訳・翻訳ばかりやって、自分の小さく硬い殻に籠もりがちになったり、あるいはヘンな自信やプライドがこびりついてしまったりします。

「世界は広い」ということや、「自分はそこまで優秀ではない」という当たり前の事実を客観的に突きつけられるのは実にすがすがしいものです。負け惜しみもあると思うけど。



ことし再度挑戦するにあたって、去年何を考えたかを思いだしてみました。
ビジネス系の訳と違い、絵本翻訳は訳の候補の振れ幅がすごい。ああも訳せるし、こうも訳せるし、どちらも間違いではない。じゃあ、どうすればいいの?と混乱していたのを思い出します。結局審査員のさじ加減一つじゃん!と、ちょっと投げやりに思ったのも覚えています。

・ 想定読者として、子供を想定すればいいのか、あるいは代わりに/一緒に読んでくれるママ・パパを想定すればいいのか。
・ どの程度マジメに、あるいはおちゃらけて訳すか。
・ 英語を日本語に訳す際、日本には無い概念(Tea partyなど)をどの程度ローカライズするか。
・ ひらがなか、漢字か。

こういった判断は、ビジネスの訳においてはあまり求められません。

何が正解なのか、さっぱり分からない。
一度訳したものを推敲しているときもそう。手を加えたことが前進につながっているのか、あるいは訳を後退させてしまっているのか、全然分からない。なぜ手を加えるのか、と聞かれれば説明出来るけど、じゃあ元の訳ではダメなのか、と言われるとそうでもない。

すごく難しかったし、ちょっとFrustratingで、かつWaveringだった。

結局落ちたわけですが、何がいけなくて落ちたのか、どうだったらよかったのか、は分かりません。
そうだ、優勝作品と自分の訳を見比べていろいろ考える時間を設けようと思っていたのに、全然やってなかった。今度やろう。



絵本翻訳を難しく感じた理由は、絵本翻訳が難しいからという以外に、僕が慣れていないから、そして「勉強していないから」というのもありました。
そこで、順番が逆になりましたが、応募した後にこの本を買い、勉強しました。

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実際に行ったワークショップを元にした構成になっていて、ためになりました。
著者の訳例も載っていて、(なるほど、そういう視点があったか)という気付きもいくつか。

あまりあれこれ勉強しても目移りしてしまい、いろんな意見が頭の中でこだましてしまいそうなので、当面はこれ一本に絞り、読み返すことで理解を深めようと思っています。



さて、今年。
今年は「自分が納得の行く訳をしよう」と思っています。
審査員がどう思うかではなく、自分が好きになれる訳かどうか。
自分が訳した版が日本で実際に出版されるとして、世に問うのが恥ずかしくない訳かどうか。
批判されたり笑われたりしたときに、(戦おうと思えば)戦える訳かどうか。なぜそう訳したのか、を自信を持って相手に、、、いや、自分に説明出来るかどうか。
自分の子供が対象年齢になったときに読んで聞かせたいと思える訳かどうか。

そういう姿勢で臨もうと決め、さっき初めてひもといてみました。
読んでみると、遊びがあるし、Rhymeもあるし、なかなか手強そう。楽しく明るくもあるけれど、どこか哀愁を帯びた作品に感じました。

これから1週間かけてじっくり訳し、応募します。
by dantanno | 2015-11-22 04:07 | 日々研鑽 | Comments(0)

「信仰」のもたらす害

パリで、恐ろしい事件が起きました。
こういう事件が起きてしまう背景について、マクロ・ミクロの両面から考えてみました。

マクロ: 「自分が信じる神/宗教/思想が正しく、他の人々が間違っている」という思い。
ミクロ: 「自分が信じる神/宗教のために死ねば(つまり、殉教すれば)、直ちに天国に行くことが出来る」という思い。自爆テロ犯はそう教わって説得されることがあるそうです。

どちらも、実は全くそんなこと無いのに。。。

上記2つの思いは、良く言えば「信仰」、悪く言えばただの思い込みです。

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信仰(Faith)とは何か。

それは、

科学的・客観的根拠(以下「根拠」)が無いにも関わらず、何かを信じること

とも言えないか。

何かに根拠があれば、それが事実だと信じるのに「信仰心」など必要ありません。
根拠が無いからこそ、信仰する気持ちが必要になります。

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僕は昔から、宗教系のエライ人が着飾れば着飾るほど、(実はウソなのではないか・・・)と疑ってしまうクセがあります。

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だって、もし「本当」なのであれば、Tシャツに短パンでOKなはず。

本当に力のある人、しっかりとした実績がある人、つまり「根拠のある人」ということですが、そういう人は無理に着飾ったりしない、という例をいくつか見てきたからそう思うのかもしれません。

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根拠を大事にするアプローチ、それは「科学的なアプローチ」という言い方も出来るかもしれませんが、そういうアプローチでは:

根拠がある → 事実として受け止める。もしその後、何らかの理由で根拠が崩れれば、また考え直す。
根拠が(今はまだ)無い → 「分からない」、あるいは「どちらとも言えない」というスタンスを取る。そして、根拠を見出すべく、研究・努力する。

一方、「信仰」的なアプローチは:

自分の宗教、聖典、頭の中で聞こえる神の声、etc., etc.がそう言っているんだから、それは正しい。信仰を疑うことは悪であり、弱さである。

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多くの場合、「信仰」はその人の頭の中だけで完結せず、具体的な行動を伴います。

・ 毎週日曜日に教会に行く
・ 画数を気にする
・ 厄払い
・ ブタは「汚れている」から食べない
・ 牛は聖なる生き物だから大事にする
・ 子供に自分の宗教を押しつける
・ テロ行為

上記に共通するのは、いずれも信仰心、すなわち根拠無く何かを信じる気持ち、から生まれた行為だという点です。

「毎週日曜日に教会に行く」と「テロ行為」を同列に並べることの違和感。
それはどこから生じるのか?以下、具体例を挙げて考えてみます。

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ここに、頭ポカポカ教という宗教があるとしましょう。
教義は、「毎日、自分の頭をポカポカたたき続ければ、聖人として天国に行ける」というものです。

科学的アプローチを取れば、「その教義は本当に正しいのか?」という疑問が生じ、研究が行われ、「実は間違いだった」、あるいは「実は根拠が無かった」ということが分かり、自分の頭をポカポカしなくなるでしょう。

一方、「信仰」的アプローチを取れば、根拠があろうと無かろうとそれは「正しい」わけだから、毎日頭をポカポカたたき続けることになります。痛いです。

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上記ポカポカ教は、愚かではあるものの、人様に迷惑をかけてはいません。
その観点から行くと、さきほど箇条書きした「信仰に基づく行動」についても、人様に迷惑をかけるかどうか、という線引きが出来るでしょう。

・ 毎週日曜日に教会に行く
・ 画数を気にする
・ 厄払い
・ ブタは「汚れている」から食べない
・ 牛は聖なる生き物だから大事にする
・ 子供に自分の宗教を押しつける
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・ テロ行為

いや、正しい線の位置はここでしょうか。

・ 毎週日曜日に教会に行く
・ 画数を気にする
・ 厄払い
・ ブタは「汚れている」から食べない
・ 牛は聖なる生き物だから大事にする
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・ 子供に自分の宗教を押しつける
・ テロ行為

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人様に迷惑をかけない信仰を、仮に「自己完結型の信仰」と呼びます。
自己完結型の信仰は、もしそれが正しいのであれば何も問題無いし、仮にそれが間違っているとしても迷惑を蒙るのは本人だけだから、周りがとやかく言うべきではないのか。
いや、僕はそんなことは無いと思います。

自己完結型の信仰にも害はあります。
それは、根拠無く何かを信じ、その信じる心に従って行動することを認め、肯定し、促し助長する、という点です。

毎週礼拝を欠かさない優しいおばあちゃんも、そして一見その対極にあるような自爆テロ犯も、

「自分の神・宗教が正しい。
その神・宗教が求める通りに行動すれば天国に行ける」

と固く、科学的根拠無く信じ、それに従って行動している、という面においては似ています。

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以下のような教えの宗教はこの世に無いものでしょうか。

・根拠が無いのであれば、「今はまだ分からない」ことを認める。そして、根拠を見つけるよう、研究したり、勉強したり、努力する。
・自分が正しいと決めつけず、人の意見を尊重する。


あればすぐにでも入信したいです。

いや、考えてみれば、我々の多くは上記を既に「信じて」います。
矛盾しているかもしれませんが、宗教を信じている人でも、宗教から離れた日常生活では、上記を信じている人も多いでしょう。

根拠無く何かを信じることはなるべくやめて、謙虚に努力し続ければいいのでしょう。
みんながそう信じ、行動すれば、卑劣なテロ行為は無くなると思います。
by dantanno | 2015-11-16 23:21 | 日々研鑽 | Comments(0)

日々研鑽(2015/04/15): 全部自分のせい

駆け出しの通訳者だった頃。

「オレがなかなか上達しないのは、仕事が少なすぎるからだ」

と思っていました。
通訳案件を経験すれば、それに基づきウデもどんどん上がるだろうに、なかなか現場を経験させてもらえない。だからこそいつまで経ってもウデが上がらない。だからいつまでも案件を紹介してもらえない。この悪循環をどう断ち切ればいいのか、悩んでいました。



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その後、数年経ちました。
今度は

「仕事が多すぎて、通訳のトレーニングに時間を割けない」

と言っています。
もしオリンピックに「言い訳」という種目があれば、一躍スターになれるでしょう。



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そんな僕が、今日も現場に出て、通訳をしてきました。
自分を蹴っ飛ばしたくなる、くやしいミスをしました。
誰の、あるいは何のせいでしょうか。



クライアントのせい
エージェントのせい
一緒に組んだ通訳者のせい

通訳案件が少なすぎるせい
通訳案件が多すぎるせい

スピーカーの話が回りくどいせい
資料が直前まで出なかったせい
音声がよく聞き取れなかったせい

天気のせい
山手線のせい
昼食べた弁当のせい



どんなことでも、自分以外の誰かの、あるいは何かのせいに出来てしまいます。外部化しようと思えば。

一方その逆に、本当は自分のせいでは無いことまで(自分にもっと通訳力があれば・・・)内部化し、それを糧にレベルアップに精進することも出来ます。



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これまで通訳をやってきて思うのは、通訳者にとって一番大事なのは

・いかに固定客(クライアント)を獲得するか、とか
・いかにエージェントとうまく交渉し、いいレートを引き出すかとか、


そういうことではなくて、

「全て自分のせいである」ことに一刻も早く気付いて、それをなんとかするために具体的な努力をすることではないか、と思います。

(今日の研鑽時間: 上記テーマについてあれこれ考えた1時間)

by dantanno | 2015-04-15 13:59 | 日々研鑽 | Comments(0)

日々研鑽(2015/04/11): 教えて学ぶ

新年度、新学期。


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今年最初の講義は、「通訳者によるThinking out loudセッション」を行いました。



いつもみたいに生徒にあてて通訳をしてもらうのではなく、3時間、僕が通訳し続けました。

そして、単に「通訳を実演する」だけでなく、通訳者の頭の中がどうなっているかを知ってもらうために、以下のプロセスを全て開示しました:

・ どうメモを取るか (ホワイトボードに大きくメモを取りました)
・ 訳出を開始する前に、一体何を考えるか
   - メモをどう「編集」するか
   - 編集した結果に基づき、どういう戦略を立てるか
   - どの程度「通訳者による解釈」を交えるか
   - 一つ前の訳とのつながりの持たせ方
   - Anticipation(何をどうAnticipateするのか。Anticipateすると、どういういいことがあるのか)
   - うまく訳せないから落とそう/ごまかそう、と思う箇所(笑)、及びそのごまかし方
・ 実際の訳出



いつも、スポーツを観ていて思うことがあります。
例えばゴルフだったら、我々の目に入るのはその選手がどういうショットを打ったか、という結果だけです。
でも、僕が一番知りたいのは「その選手の頭の中がどうなっているか」だったりします。

Tiger Woodsが上手なショットを打つのを観るのはもちろん楽しいんだけど、Tiger Woodsの頭の中を覗いてみることが出来たら。。。

(今日はショットの調子がいいから、強気に攻めてみよう。
あそこの池の右側、そうだなあ、、、大体10ヤードぐらいのところに落として、後は傾斜を使って少し転がす感じで行ってみよう。)

→ 実際に打つ

(あ、思ったよりもスライスしたなあ、、なんでだろ。そうか、ちょっと腰の回転が速かったかな?)



とか、そういうことを知りたいんです。

通訳も同様。
通訳者による通訳そのものにはもちろん興味があるんですが、通訳者の頭の中を覗き、どういうプロセスを経てその訳が出てきているのか、にもっと興味があります。

今でも興味がありますが、自分が駆け出しの頃に現役バリバリの通訳者がそういう機会を与えてくれたら、どんなにすばらしかったか、と思うんです。
だから、今自分がやっています。

生徒たちも喜んでくれたようでうれしい。



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「通訳を教える」ということを始めてから3年ぐらいが経ちます。


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当初は「教える」ということを強く意識していましたが、最近は「自分が学ぶ」ことも結構意識しています。

今日のような実演は、自分が普段何をどう考えて通訳をしているのかを客観的にあぶり出す、とてもいいきっかけになりました。

実際、それによって新たな課題が見えたと共に、通訳のプロセスを人に説明する際のヒントも得ることが出来ました。



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興味深いのは、このような形式の講義を行うと、通訳案件に伴う疲労とは全く性質の異なる疲労を感じる点。
これはこれで心地いい。

出し切ったというか、やりきった充実感を感じつつ、生徒たちと飲み会へ・・・。

(今日の研鑽時間: 3時間ちょっと)


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by dantanno | 2015-04-12 09:39 | 日々研鑽 | Comments(2)