たんのだんのブログ

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カテゴリ:提言・発明( 96 )

「どうしても理解出来ない」という気持ちを大事にする(と、たまにいいこともある)

世の中の仕組みとか、もののあり方について、個人的に
「どうしても理解出来ない、納得が行かない」
ことってあるじゃないですか、たまに。
なんでそうなってるのかがどうしても分からない、みたいなとき。

そういうときって、大体の場合、理解出来ない自分の方が悪いというか、いい/悪いの問題ではないのかもしれないけど、要は自分がおかしいわけです。僕が何かを理解出来なかったり納得出来ない場合、ほとんどのケースにおいては何かしら僕の知識・視点・経験が欠けているから「おかしい」と思い込んでいるだけで、実はおかしいのは自分だったりします。



けど、ごくごくたまにその「理解出来ない、納得出来ない」という気持ちが正しかったことが判明することがあります。正しかったっていうほどではないんですけど、完全に間違っていたわけではなかった、と気付くこともある、という感じですね。ささやかな事例をあげて、その話をしたいです、今日は。



ーーー



カーナビの画面。
昔からずっと「なんで横長なの?縦長になればいいのに」と願ってきました。

(2011年10月に書いた記事)


その後、まずTeslaがやってくれて、


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今日ネットを見ていたら、なんとあのトヨタも!


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サイコーにうれしいです。



何かの事象について、自分の頭でどんなに一生懸命考えても「今、そうなっている理由」が思い付かず、人に尋ねてみてもどこからも納得の行く回答が得られず、その後何年もしっくり来ないという、そういう寂しい状態がずっと続く問題が僕の中で複数存在していて、その内容は実にしょうもない話から結構本質的な話までいろいろあって、横長のカーナビもそんな問題の一つだったわけですが、そういう問題って、その後解決されることもあるんだな、と勇気づけられました。

もう一つ、この話が僕にもたらす効果として「お前は意外とフツーなんだよ」という、僕的にはそれほどありがたくない(でもある意味安心する)メッセージの発信、という面もあります。縦長のカーナビを希望しているのがこの世で僕一人であれば、きっとカーナビはずっと横長のままのはずです。僕以外にも「縦長の方がいいじゃん」と思う人が複数いるからこそ縦長のカーナビが生まれるわけで、そう考えると僕の発想は決してそんなに突飛でエキセントリックではなく、意外とフツーである、ということになります。僕のように、自分が変わった人間であることを誇り(?)に思っている人からすると、実は結構フツーだったというのは正直ガッカリな面もあるんですが、その一方でちょっとうれしいというか、安心するところもあります。



このカーナビ云々の話はとても小さな話です。カーナビの画面については、それが縦長になったとしても、僕はTeslaあるいはプリウスの一ユーザーとしてのメリットを享受するだけです(あと、横長はおかしいとずっと思い続けていた自分が100%間違っていたわけではない、と気付かせてもらえるのがちょっとうれしい。)

でも、人生や仕事のもっと本質的なところで、自分自身の「これは理解出来ない、納得出来ない」という気持ちにずっと固執し続け、考え続ければ、とても大きな花が開くこともありうることを示唆している、そんな出来事のような気がします。


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by dantanno | 2016-11-03 01:42 | 提言・発明 | Comments(0)

通訳業の「経費」について

毎年この時期になると、通訳業の「経費」について考えさせられる。

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世のほとんどの通訳者は、収入のわずか10%ほどしか源泉徴収されていないにもかかわらず、そこからさらに還付を受けている。つまり、国に養っていただいている存在とも言える。

一方で、多くの付加価値を提供し、その見合いに多額の報酬を得て、多額の税金を支払っている通訳者も、ごく少数ながら存在する。実際今日も、納税額が数百万円にのぼることを嘆く通訳者と飲んできたので、間違いない。

(個人的には、我らが通訳業界が「国に養っていただく」存在から脱し、国を養ってやるぐらいの気概を持った業界になってほしいと願っているが、今回のブログで書きたいのはその点についてではない。)

そういう、多額の納税をしている通訳者にとって、「通訳業の経費」というのは死活問題だ。

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例えば、90円でモノを仕入れ、それを100円で売る商売であれば、
(話を分かりやすくするため、販管費は無視)

売上 100円
売上原価 90円
-------
課税所得 10円
税率   30%
-------
税額    3円

となる。ところが、通訳業の場合、

売上   100円
売上原価   0円
-------
課税所得 100円
税率    30%
-------
税額    30円

と、税額が10倍になりかねない。

通訳業の場合、売上原価に相当する費用項目が無いのである。かかっているのは販管費だけで、それとて、「現場に行くための電車賃」とか「ノートを買いました」とか「携帯電話料金(の一部)」とか、微々たるものでしかない。残りは全部「利益」、すなわち課税対象の所得とみなされてしまう。

実際、経費がほとんどかかっていないからしょうがないのだが、本当にその考え方でいいのか。通訳業は本当に「経費」がほとんど無く、ボロもうけなのか。



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例えば自分の場合、今こうしてまがりなりにも通訳業を営めているのは、子供の頃に授かった教育のおかげが大きい。

特に裕福なわけではなかったし、かつ、Expatなどでもなかったため、国や勤め先企業が学費を出してくれたわけでもないのに、高額な学費を払ってインターナショナル・スクールに通わせてもらった時期がある。
また、小学校の時にインターナショナル・スクールに転校したはいいものの、英語力が不足していたため、インターの長い夏休みを利用して単身海外に「留学」したこともあった。

そうした取り組みの目的はひとえに「英語を学ぶため」、そして「国際感覚を身につけるため」であった。いずれも、通訳者にとって不可欠な能力だ。

そう考えると、今自分が通訳者として収入を得られるのは、過去のこうした多額の犠牲があったおかげであって、出来るものならそうした費用を今、時間差で計上してしまいたい思いにかられる。



---



我々通訳者にとって、もう一つ大きな費用項目、それは「時間」である。

たった1時間の会議の通訳をするために、その前の日を丸々予習に費やすことだってあり得る。そこまでしないにしても、ある日に受けようと思えば受けられたであろう通訳案件を、その翌日の通訳案件の予習をするために泣く泣く断った経験がある通訳者も多いだろう。

その場合、予習に費やした時間、および断った案件で得られたであろう収入(機会費用)は、当日その通訳案件を引き受け、その収入を得るための「経費」と言えないか。

また、子供の頃の話で言えば、友だちが遊んでいる間にBBCのビデオを見せられたり、公文で国語を勉強したりしていた「時間」も支払っている。



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どこまでを「見えない経費」として捉えるかは、通訳者によって異なるだろうが、我々通訳者の仕事にこうした「見えない経費」が存在することは間違いないと思う。
そしてこの「見えない経費」は、通訳以外のどの仕事にも存在するが、通訳業については特に大きいと思う。



ーーー



税務署は、こうした見えない経費や、(見えるものの)タイムラグが大きすぎる経費を税務上の経費として認めてくれない。それを嘆く通訳者の気持ちもよく分かる。

でもその一方で、税務署の「見えないものは考慮しない」という方針のおかげで我々通訳者がとても助かっている側面も実はあると思う。



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我々がすばらしい通訳をし、その場の成功に貢献し、会議参加者にとても喜ばれ、ほめられたり感謝されたりしたときに感じる喜び、充実感。それは金銭的報酬とは別の「見えない報酬」であると言える。
通訳者によっては、金銭的報酬よりも、こうした見えない報酬の方がやりがいにつながっている人もいるだろう。

もし税務署が、こうした見えない報酬も「課税報酬」として課税をするとなったら、我々の納税額は一気に何倍にも増えてしまう。



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税務署には、見える/見えないではなく、「実質的にどうなのか」を基準に課税してほしいものだ。でも、それが実務的に難しいのも分かる。

であるならば、通訳業に伴う見えない経費を計上出来ないもどかしさを感じる一方、見えない報酬については課税をお目こぼしいただいていることを踏まえ、プラスマイナスで考えるとまあいいのかな、と思う。

見えない経費も大きいが、実は、見えない報酬はそれを大きく上回るのではないか。そう思わせてくれるステキな商売、それが通訳業だと思う。

by dantanno | 2016-03-09 02:58 | 提言・発明 | Comments(0)

「お会計、1080円(税込)になります」

なぜ1,000円という価格設定にしたのか、という初心を思い出してほしい。
by dantanno | 2016-01-12 12:58 | 提言・発明 | Comments(1)

ニッポンの山

僕の知る限り、この世で最もみにくい建造物。



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千葉県の、高滝湖パーキングエリア(圏央道)にあります。


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今は見る影もありませんが、元々はとても小さな山だったんだと思います。木も生えていて、動物も住んでいたんでしょう。


ーーー


この山、、、じゃなくて、建造物は、


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僕にはこう見える:


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この工事に、土砂崩れ防止とか、何らかの「理由」があるのであろうことは、反対派の僕にも推測出来る。でも、戦争にだって「理由」はある。やっぱり、人間として、絶対にこういう工事をしてはいけないと思う。

こういう工事を発注する際、直感的・本能的に「何かがおかしい」と思うべき。

受注側もそうだ。
「もしウチが断れば、この仕事は他の業者に流れてしまい、そこが受注しちゃうんだろうな」と思ったとしても、こういう工事を断る矜持を持ってほしいものだ。



ーーー



ここをクルマで通るたびに、こういう工事を発注してしまう人、そしてそれを受注してしまう人がいる世の中であることをくやしく思う。家族のため、カネのため、やむを得なかったのかもしれないけど、やはり許されることではない。転じて僕の場合、仕事でこのような判断を求められることは無いかもしれないが、ここをクルマで通るたびに、(自分は絶対こういう仕事をしないぞ)、と心に誓っています。

by dantanno | 2015-12-28 09:46 | 提言・発明 | Comments(0)

ネットで人の悪口を言うことについて

以前、ある人に、数ヶ月間にわたりネットで悪口を書き続けられるという、得がたい(?)経験をした。
せっかくなので、その結果学んだことを時系列でまとめてみた。

1.当時、まさにその渦中にいたときに思ったこと
2.終息のプロセスで思ったこと
3.今、振り返って思うこと


ーーー


1.当時、まさにその渦中にいたときに思ったこと

・ショック、というか、恐い

ネットで悪口を言われる、という経験をしたことが無い幸運な読者の方々に、ちょっと想像してみてほしい。

インターネットという、日本を含む世界の、とても多くの人間がいつでも自由に見られる場所に、
自分に関するネガティブな発言・投稿が複数書かれていて、
それが今後ずっと存在し続けるかもしれない、いや、今後ずっと増殖し続けるかもしれない

のは恐ろしい。



何が恐いって、そのような悪口を
① それを読んでいる人がいる、と思うと恐い
② 自分が目にするのも恐い
③ そういうことをネットに書くほど自分を嫌っている人がこの世に存在する、という事実が恐い
(恐い上に、その人をそのような行為に駆り立てたのが自分である、という後ろめたさと恥ずかしさも強い)



・家族に相談出来ない/しにくい

その人(「Aさん」)が書いている悪口を、ある日たまたま発見した。そして、その後日々増えていく悪口を見ながら、家族(奥さん)に相談するかどうか、考えた。

結局そのときは相談せず、(この問題が終息したら打ち明けよう)と思った。なぜ相談しなかったかというと、してもしょうがないと思ったから。家族に「中傷対策が専門の弁護士」がいるなら別だが()、家族は、書かれている本人がその問題に対してそうであるように、ネットにおける悪口に対して無力である。

もちろん、書かれている本人が「自分は今そうした状況にあってしんどい」ということを家族に伝えるだけで肩の荷が下り、少しラクになるだろう。でもそれは、自分の肩に乗っていた荷を家族に不当に担がせるだけのような気がした。実際、僕がそうした状況にあると知ったら奥さんは、それに対して手を打てないもどかしさを感じる一方、僕がしんどい状況にあることを知って彼女自身もしんどくなるだろうし、だったら言わない方がいいな、と思った。

いつ終わるともしれないこの問題がもしいつか終息すれば、そのときに初めて「実はこうだったんだよ、ハハハ」と打ち明けようと決め、実際そうした。



・自信、ひいては判断力が低下する

悪口を書かれていた当時。何かアイデアが頭に浮かんだり、何かを発言したり、何か行動を起こす度に、
(これをAさんが見たら/聞いたら、どう思い、なんと投稿するだろうか) と毎回考えていた。

その結果取りやめた思考・発言・行動も多いと思うし、判断力・決断力・行動力が大きく低下したと思う。

こうした「遠慮」は、問題が終息した今はあまり意識しないが、それは遠慮が「無くなった」からではなく弱まっただけ、そして僕がそれに対して不感症になっただけで、今も存在していると思うし、残念ながらこれからもずっと無くならないと思う。
ネットに悪口を書く人には、そうした傷を相手に負わせる可能性があることを自覚してほしい。「それでも書くんだ!」という人間はあまりいないと思う。



・実は相手(書く側)は、自分を100%「嫌い」なわけではない

ヤマト運輸の元社長で、宅急便事業を始めた功労者である小倉昌男さんの著書「経営学」を読んだ。この本は、経営に対する興味の有る無しにかかわらず、おすすめ。

そこからの引用:

会社の帰りに、会社の同僚と赤提灯の店に立ち寄り、上司の悪口を言いながら一杯飲むのはどういうわけだろう。会社が嫌いなら、また、上司が嫌いなら、会社のことなど忘れて自宅に帰ればよいものを、わざわざ悪口を言うために赤提灯に立ち寄るのは、会社が嫌いだからだとは思えない。むしろ会社が好きだから、一杯飲みながら批判的な意見を口にするのではないだろうか。



僕が経験した本件の場合、「好き」ということは無いかもしれないが、相手(Aさん)が自分に関心があることは確かで、プラスに解釈すると、僕に「良くなってほしい」という想いがあるからこそ、あれこれ言ってくれている可能性もある。



・実は自分(書かれる側)も、100%「イヤ」なわけでもない

当時、一日の仕事が終わったときとか、日中ふとしたときに(今日は何か書かれてるかな?) と、漁で仕掛けた網を引き上げるような思いで、悪口が書かれているサイトを覗きに行っていた。 (もう見るのはやめよう)と何度も思ったが、疲れたときとか、お酒が入ったときとか、ついつい見てしまう。

そのサイトを開くときに感じる、あのなんとも言えない感じ。

ドキドキ・ヒヤヒヤするし、マウスを持つ手が瞬時に汗ばむのが分かる。
自分がこの後傷つく可能性が高いことが分かっているから、それに備えようと自分の心を防御する。
そして、(頼むから今日は何も書いていないでくれ)と祈るのと同時に、心のどこかで、(何か書かれているといいな)という、悪口を楽しみにするような、信じられない気持ちもあった。

例えネガティブな内容であっても、自分についてあれこれ言われるのはどこか快感なのだろう。全く無視されるよりは、悪口を言ってくれる方がうれしいものなのか。



・なぜ、Webの掲示板や質問コーナーには、辛辣な意見の人が多いのか

最近、Webの投稿サイトに悪口を書こうとする人に対し、「本当にこの内容で投稿しますか?」的な「再考促し」ボタンを設置するアイデアを提唱した女の子が話題になった。とてもいいことだと思う。
そして、そのボタンが一定の効果をあげるということは、そうした投稿が結構安易であることを表しているし、そうしたボタンが「いいアイデアだ」ともてはやされるということは、それだけネットで人の悪口や中傷を書いている人が多く、また、それによって傷ついている人も多い、ということだろう。なぜそうなってしまうのか。

今、自分の目の前にいない「見えない相手」に対しては、人は生まれ持った優しさを失いやすいのかもしれない。人種差別とかヘイトスピーチをする人は、その相手・対象と離れた場所にいるからこそ、相手及び自分の行為に対して不感症になりやすい。

また、匿名性も影響しているだろう。 Aさんは、自身についても僕についても、ハッキリとは名前を出さずに投稿していた。それでも、分かる人にはちゃんと分かるようになっていたから厄介だった。

もし
1.書き手が、自分が誰であるのかを堂々と名乗り出て、
2.自分がこれから誰について投稿するのかも明確化
した上であれば、安易な悪口は書きにくい。



・「悪口」とは

そもそも「悪口」とは何か。「建設的な批判」とどう違うのか。

再度、ヤマトの小倉さんの著書からの引用:

「俺が社長なら会社をこうする」、「俺が課長ならやり方を変えてこうやる」。社長は、とか、課長は、とか批判するのは、自分を会社の中に置いて、参画意識の元で常に考えているからではないだろうか。赤提灯で会社の悪口を言うのは、むしろ会社が好きな証拠ではないか。本当は建設的な態度なのだと私は思う。ただ、自分の考えを、インフォーマルな場で表明するか、フォーマルな場で表明するか、そこが問題である。それぞれの社員が会社に対して意見を持っているが、インフォーマルな場で言えば批判的な言葉になり、フォーマルな場で言えば建設的な言葉になる。



この次の項目である「表現の自由」とも絡むが、なぜ悪口を書いてはいけないのか。いや、そもそも「いけなくない」ではないか。そして、何をもって「悪口」と「建設的批判」を区別するのか。それは単に読み手の主観に基づく判断ではないか。

仮に何らかの方法で、両者を客観的に区別出来たとしよう。その場合、「建設的批判」なら良くて、「悪口」はダメ、という道理も無いだろう。

でもその一方で、僕が今感じているこの耐えがたくイヤな気持ちはどうしたものか。書かれる側は、ずっとそれに耐え続けるしかないのか。気にする方がいけないのか。自分に自信が無いから気にしてしまうのか。

いろいろな切り口があって、この問題は非常に興味深い。




・結局「キライ」ということなんだろう

Aさんが日々書き連ねる悪口を見ていて思った。(結局、僕はこの人に嫌われてしまったんだな)と。キライだから、僕が何を言っても、何をやっても、どこに行こうが誰と会おうが、全て気にくわなく、文句の対象になってしまう。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、ということか。

この状態から問題を解決に導くためには、Aさんが投稿で指摘しているあれこれの事項を一つ一つ直していってもしょうがない。大元の「キライ」という感情が病巣であり、口から出る悪口はその症状/Symptomsでしかない。病巣を退治するためには、Aさんに「なぜ自分はこの人(=僕)がキライなのか」という難しい問題に向き合ってもらい、そこから出た答え(病巣)に対し、共に力を合わせて挑んでいくしかない。それはそれで大プロジェクトであり、信頼関係が痛んでいる状態でなかなか出来るものではない。



2.終息のプロセスで思ったこと

結局、数ヶ月経ったある日、僕からAさんにアプローチして、一連の投稿について話し合う場を設けたことでこの問題は終息した。ここからは、その終息のプロセスで感じたことをリストアップしてみる。



・表現の自由

日々書き続けられる悪口を見ながら、(いつかはAさんと向き合わないといけないな)と思っていた。問題は、そのときに何を言うかだ。

「悪口を書かないでください。」 と言いたい気持ちが強いが、果たしてそれはいいことなのか。 Aさんは、僕に対する思いを自由に表現しているだけであり、それをやめてくれだとか、今まで書いたものを削除してくれだとか、仮にそう切に願う気持ちが僕の側にあったとしても、それを相手にお願いするのはおかしいのではないか。表現の自由に反するではないか。

ラーメンを食べに行ったらまずかった。それをネットに書いてはいけないのか。別にいいでしょう。その投稿に対し、ラーメン店側が「削除してくれ」と要請したら、それこそおかしい。



「悪口を書かないでください。」とお願いするのはやめよう。だとしたら、僕はAさんと何を話すのか。
結局、この問題については多少見切り発車的になった。一体何を話すのか、という明確な道筋は見えなかったが、(もう、このままではダメだ・・・)という思いが強くなりすぎ、限界を感じた時点でAさんと話し合った。



話し合いの場でAさんは、最初は「なんのことでしょうか」という感じだった。
その後、「あの悪口が全部自分のことだと思うのであれば、被害妄想ですよ」と笑った。
さらにその後、今度は涙ながらに謝ってくれて、「削除します。そして、もう書かないと約束します」と言ってくれた。それに対し、「いや、それはいいんです。ネットに何を書くかは、あなたの自由ですから」と、想定通りに返答をした。じゃあ、この会話の目的はなんなんだ、と自分にツッコミを入れつつ。

Aさんに「すみません、削除します」と言わせることが本当の目的でも解決でも無いのであれば、一体何が解決なのか。僕が生まれ変わって、、、あるいは今、この歳からでも、人様に悪口を言われないような立派な人間になることなのか。いろいろ考えさせられた。



・匿名で悪口を言うこと

Aさんに「被害妄想だ」と笑われたときに思ったが、人の悪口を匿名で言うことには、自分は安全な場所から遠隔攻撃しているズルさに加え、いざとなったときに話をぼかせるというズルさも伴う。

一般的には、相手を名指しした悪口の方が攻撃力がありそうだし、実際あるのだろうが、Aさんのように「自分が誰の悪口を書いているのかをやんわりとぼかす」ことで、もし今回のように相手(悪口を書かれている側)と直接対峙する羽目になった場合はもちろん、Aさんの心の中の罪悪感(もしそれがあるのであれば)も薄めることが出来るのだろう。



・被害妄想

Aさんに「被害妄想だ」と言われ、(確かにそうだな)と思った。
Aさんがあの時期に書いていた悪口の多くは自分に向けられたものだったと今でも思うが、中にはそうではないものもあったかもしれない。それまで含めて(自分に対する悪口だ)と思っていたのであれば、まさに被害妄想だ。

当時、その日の「悪口チェック(仮称)」をするとき、一生懸命、悪口の内容を自分と結びつけようとしていたのを思い出す。それは、雑誌の後ろの方にある占いや性格診断を読んで、自分にあてはまる箇所を一生懸命探す作業に似ている。



・直接言ってくれたらいいのに・・・

「火のない所に煙は立たない」とはよく言ったもので、Aさんの投稿には(確かにその通り)と僕をうならせるものも中にはあった。そして、Aさんの投稿は、例えば僕の生い立ちとか容姿に関連するものとか、どうにも対処しようがない悪口もある一方で、僕が努力すれば改善出来る内容もあった。実際、今でもそれらの点を改善しようと努力している。 だからこそ、余計思う。(直接言ってくれたらよかったのに・・・)って。そうすれば、ただの「悪口」が「建設的批判」に昇華し、僕も改善に向けて努力したのに。っていうか、してるし。
そしてまた、Aさんの不満の要因となった僕のそういう面が改善されれば、Aさん自身にとってもいいことで、みんなハッピーなのに。



3.今、振り返って思うこと

その後Aさんの投稿をチェックしていないので実際のところは分からないが、僕の中ではこの問題は「終息」したことになっている。問題が一応の終息を見た今、思うことをまとめてみる。主に、こうした問題への対処法について。



・悪口は気にしない

何かすれば、必ず批判されるし、悪口を言われる。寄付をすれば偽善者だ。
何もしなければ、それはそれで文句を言われる。寄付をしなければ守銭奴だ。

そう考えると、自分で自分を好きでいることさえ出来れば、こうした悪口は気にしなくていいんだな、と思った。気にしないのは無理だから困っているのだが、気にしなくていいのだろう。



・批判をなるべくアングラ化させない努力

せっかくの「建設的批判」がただの「悪口」にアングラ化しないように努力・配慮をすべきだと思った。無駄に敵を作らない、といういい方も出来ると思う。

また、批判や文句を自分に言いやすい環境・雰囲気を作っておくことも重要。「怖い人」と思われてはいけないし、「言ってもどうせ聞かない人」と思われてもいけない。あの人だったら、自分の批判を建設的に受け止め、改善に向けて努力し、かつ、批判した自分を怒るのではなく、かえって感謝するだろう、と思われるような人物であれば、批判はアングラ化しない。



・自分の問題ではなく、相手の問題にする。Make it more about them than about you

どんなに努力や配慮をしていても、悪口を言われる/書かれてしまうことはあるだろう。その場合どうするか。まあどうしようも無いのだが、向き合える方法はいろいろある。 一番いいのは、もっといい人間になること。その悪口を聞かされた人が、(え、あんないい人に対して、なんでそんな悪口を言うの?)と疑問/不信に思うような人間に自分がなればいい。

そうすれば、ネガティブな「悪口」は減っていき、ポジティブな「建設的批判」だけが残るだろう。そうなったら、そのようないい批判をありがたく受け止めて、さらに魅力的な人間になる、それが一番の悪口対処法だと思う。

by dantanno | 2015-09-22 06:30 | 提言・発明 | Comments(1)

記者会見やプレゼン後のQ&Aのあるべき姿

記者会見やプレゼンの基本形は

1. スピーカーによるスピーチ/プレゼン
2. 質疑応答(Q&A)

が多いですよね。

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通訳者として、あるいは一参加者として記者会見やプレゼンに参加し、そのQ&Aを訳したり、聞いたり、自分が質問したりすることがあります。

Q&Aを実りある場にするために、質問者が心がけられると思うことは以下の通り:



・ 所属と名前をはっきりと言う

・ 質問は短く: ①自分の意見は言わない

・ 質問は短く: ②何を聞きたいのかを明確に

・ 質問は短く: ③質問は一つに絞る

・ その日のテーマに関係無いことは聞かない

・ 参加者全員の「最大公約数」を質問する



それぞれについて考えてみます。



・ 所属と名前をはっきりと言う

これは、通訳者として参加しているときに強く思うことです。

質問者が、スピーカーに対する礼儀として、質問の冒頭に自分の所属と名前を言うことがあります。
あるいは、会議の主催者やモデレーターから「所属と名前をおっしゃってください (Please state your name and affiliationとか)」と言われることもあります。

せっかく所属と名前を言ってくれるのはいいのですが、はっきりと聞き取れないことが非常に多い。
実に半分ぐらい(!)のケースで、はっきりと聞き取れないような気がします。



なぜ、所属と名前をはっきりと聞き取れないのか。

まず、通訳者側の問題もあるでしょう。
世に存在する機関名や人名に詳しければ詳しいほど、聞き取りやすくなるはずです。
これについては、各通訳者が努力し続けるしかありません。

一方、質問者側の問題も大きい。
要するに、所属と名前をはっきりと言わない質問者が多い。
なぜか。

・緊張
質問者が緊張しているのもあるでしょう。こういう場で質問をするのは勇気が要りますよね。

・出だし
「所属と名前」を言うのは質問の冒頭です。
その時点ではまだ声のトーンが整っていなかったり、マイクとの距離感がつかめていないのもあると思います。

・当たり前
自分の所属と名前は自分(質問者)にとっては当たり前ですから、それを「はっきりと言わないと会場(通訳者含む)に伝わらないだろう」という気持ちが起きにくいのもあるかもしれません。

・不要論者
そもそも所属と名前を言う必要性に疑問を感じていている人もいるのかも。重要性が低いからはっきり言わないのかもしれません。
僕も、個人的には「所属と名前」はあまり要らないと思っています。
主催者、あるいはスピーカーがどうしても知りたい、という場合は別ですが。

・わざと(笑)?
中には、自分の所属と名前を明らかにしたくない人もいるかもしれません。
でも、司会者に「言うように」と指示されたし、ウソをつくわけにもいかないから、モゴモゴでやりすごしているのかもしれません。

楽しい空想は尽きません。



ーーー



「日経新聞の田中です」
とかならまだ、多少モゴモゴ話されても聞き取れるんですが、

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ちょっと国際的な場になるとすぐに
"I am DJFOEWJIDSF from IEFJOSDKFD News"
となって、相当はっきり言ってもらわないと聞き取れません。



ーーー



聞き取れないときは、しょうがないので訳から落とします。
せめて所属、あるいは名前のどちらかでも拾えた場合は、せめてそれを言っています。

今度、Q&Aで自分が質問に立ったとき、せっかく所属と名前を言ったのに、通訳者がそれをちゃんと訳していなかったら、、、
自分が果たしてはっきりと言ったかどうか、振り返ってみていただけるとありがたいです。



・ 質問は短く: ①自分の意見は言わない

会場に来ている参加者たちは、スピーカーの意見を聞きたいのであって、質問者の意見を聞きたいのではありません。

ではなぜQ&Aがあって、質問者として質問をする場が設けられているかというと、それはあくまでもスピーカーの考え・意見を引き出すためでしかありません。

それなのに、質問に入る前に自分の意見を長々と言う人がいます。
多少で済めばご愛敬ですが、あまり意見の開陳が長いと会場がうんざりし始めるのを感じます。

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通訳者もそうですが、質問者も脇役です。

そして、いい通訳は「なるべく無駄無く簡潔に」が基本であるように、いい質問も「無駄無く簡潔に」が基本だと思います。



・ 質問は短く: ②何を聞きたいのかを明確に

通訳していて、ときどき起きるヘンな出来事。

日本人のスピーカーの隣に座り、その人のスピーチを通訳したとします。

無事スピーチが終わり、さあ、いよいよQ&Aです。



質問者が英語で質問をした場合、その内容を和訳してスピーカーに伝えるのも大事な仕事です。

一方、日本人が質問した場合はどうか。
その会議のプロトコル次第ですが、会場(参加者)に外国人がいる場合、その方々向けに質問を英訳する必要があるかもしれません。



このように、日本人が日本語でした質問について、僕の隣に座っているスピーカー(日本人)が


「今の質問は、一体何を聞いてるの?」


と、通訳者である僕に聞いてくることがときどきあります。



(さあ、質問を英訳するぞ・・・)
と意気込んでいたところに、いきなり 日本語→日本語 の通訳依頼が舞い込んできて、一瞬頭の中が(???)になります。



こうした笑うに笑えないことが起きてしまうのも、質問が長く、分かりにくいからではないか。

なるべく短く簡潔に、「要は何を聞きたいのか」というその要点だけを伝えるといいと思います。

「質問が短いと、分かりにくくないだろうか・・・」って、そんなことはまずありません。
質問が長ければ長いほど分かりにくくなります。
(ブログ記事についてもあてはまるかもしれず、反省することしきりです。)



これは通訳をしていて強く感じることですが、スピーカーは大物だったり、超頭がよかったり、とても忙しい人だったり、せっかちだったりします。

そういう人に質問をするわけですから、なおさら短く簡潔に、が大事になります。



・ 質問は短く: ③質問は一つに絞る

「3つ質問があります」

Q&Aセッションでありがちな光景です。
僕が普段通訳をしているIRミーティングでもよくあります。



複数の質問をひとまとめにするのは、百害あって一利なしだと思います。
通訳者にとってももちろん負担ですが、肝心のスピーカーにとって大きな負担です。

質問を聞いているとき: 2つ目以降の質問を聞いている間ずっと、最初の質問を覚えていなければいけない

質問に答えているとき: 最初の質問に答えている間中、2つ目以降の質問の内容を覚えていなければいけない



今まで、記者会見等で「複数質問ひとまとめ」があった際、かなり高い確率でスピーカーから助けを求められました。

質問を聞き終わった後に、「あれ?最初の質問は何でしたっけ」とか。
あるいは、最初の質問への回答が終わった後に、「えーと、2つ目の質問はなんでしたっけ」とか。



メモを取ればいいじゃないか
と思うかもしれません。
まあ、確かにそうなんですが、メモを取るのが上手な人はあまりいません。

そもそもメモを取ることに慣れていない人も多いです。

また、話された内容をメモすることで完全に記憶を外部化することが出来るのは、通訳者とか、そういった特殊な人だけです。

言い方を変えると、
仮にメモを取ったとしても、「質問を記憶する」という負担を頭の中から完全に取り除くのは難しい。
また、後からそのメモを見て、そこから質問内容を完全に再現出来なかったりして苦労する人がほとんどだと思います。



質問を複数したい場合は、複数回手を挙げ、1つずつ聞いていけばいい。
混んでいるATMでの振込と同様、一度自分の番が済んだら、また並び直すのがマナーだと思います。




・ その日のテーマに関係無いことは聞かない

Aというテーマについての記者会見なのに、そのスピーカーが何らかの形で関係しているBという別のテーマについて質問をする人がいます。

芸能人が、自分が主演している映画の説明をするために設けられた場で、その芸能人の私生活について質問をしてしまうアレと似ています。



その記者会見の主催者は、「Aというテーマで記者会見を開催しよう」と思って今日に至りました。
依頼を受けたスピーカーは、「Aというテーマについてしゃべろう」と思って会場入りしています。
集まった参加者たちは、「このスピーカーがAというテーマについて話すのを聞こう」と思って集まっています。
通訳者は、「今日はAというテーマの記者会見の通訳をするぞ」と意気込み、準備して臨んでいます。

そこで、
「私はBについて聞きたいから、Bについて話せ」
とスピーカーに迫るのは、関係者全員に対する冒涜のような気がします。

これは絶対避けるべきだし、そういう質問をしてしまう人がいれば、モデレーターが遮るべきだと思います。(芸能人のマネージャーが囲み取材を打ち切るように。)



なぜ、その日のテーマ(A)と関係の無い質問(B)をしてしまうのか。

恐らく、悪気は無いんだと思います。
質問者の頭の中では、AもBも「関係がある」んでしょう。

確かに、例えば「その芸能人が主演する映画」と「その芸能人の結婚」の間には、「その芸能人」という共通のテーマがあります。

でも、それを言い始めたら、どんなに無関係な物事でも無理矢理つなげることが出来てしまいます。
「幕の内弁当」と「ジョージ・クルーニー」だって、「日本語で9文字」という共通点があります。

だから、質問をするときは、一瞬自分の主観は脇に置いておいて、
(ここでBについて質問したら、スピーカーや参加者はどう思うだろうか・・・。
「関係のあるテーマだ」と思うか、あるいは「無関係じゃないか」思うか。)
を考えるべきなんだと思います。



・ 参加者全員の「最大公約数」を質問する

最後は、僕が一参加者として会場にいて、Q&Aで手を挙げたときのことを振り返って感じた点です。

どうせ質問するなら、スピーカー AND/OR 会場に「鋭い質問だな・・・」と思ってもらえるような質問をしたい、という気持ちを感じます。
最近はそうでもありませんが、昔は結構そうでした。

そうすると、気付かないうちに
(自分が本当に聞きたいことは何か?)
から
(どういう質問をすれば 「鋭い質問だな・・・」 と思ってもらえるか?)
に焦点がズレてしまっていることがあります。



これは、(自分は本当はどう生きたいのか)を忘れ、(人にどう見られたいか)だけを追及してしまっている人生と同じだと思います。



一方で、上記とちょっと似ていますがちょっと異なる考え方として、

(どういう質問をすれば、会場にいるみんなから 
「うんうん、私もそれ聞きたかった!」 
と喜んでもらえるか?)

という視点もあると思います。

これはこれで、自分の人生を歩まず、人のために人生を歩んでしまっているような気もしますが、単なる目立ちたがり屋のスタンドプレーではなく、人の役に立つという意味で大きく異なるでしょう。



ーーー



質問をする勇気がある、というのはすばらしいことだと思います。

そして、会場には、(質問してみたいけど、恥ずかしい・・・)と感じている人が必ずいます。

であれば、質問をする勇者は、なるべく最大公約数的な質問をすることによって場の成功に貢献する、というのも手だと思います。



以上、今までの乏しい経験から、Q&Aの際に心がけようと思ったことを書いてみました。


by dantanno | 2015-03-24 23:33 | 提言・発明 | Comments(2)

食品への異物混入に思う

次から次へと出てきて、後を絶ちませんね。
思うことは3つ:



1. あってはならないことだし、企業サイドにはこういうことが無いよう最大限の努力をしてほしい。



2. 事業の規模を考慮に入れるべき

例えば
マックや吉牛等の大手チェーン店
VS
近所のフツーの飲食店
で比較した場合。

<店舗数>
近所のフツーの飲食店は、そのお店1軒しかありません。
マックは何店ですか?3000店ぐらい?3000倍です。

<営業時間>
近所のフツーの飲食店は、ランチタイム(2.5時間と仮定)とディナー(5時間と仮定)しかやってません。
マックは朝から晩までずっとやってます。24時間の店もたくさんありますね。まあ、仮に近所のフツーの飲食店の2倍の営業時間とします。

<回転数>
近所のフツーの飲食店は、一番高回転であるランチタイムでも、x回転。
その間マックは一体何回転してるんでしょうか。10x回転?



マックのように大成功しているチェーン店だからこそ、異物混入などのトラブルを防ぐよう策を打っているでしょうが、
マックのように大成功しているチェーン店だからこそ、異物混入などのトラブルが発生する件数は、近所のフツーの飲食店の 3000倍 X 2倍 X 10倍 = 60,000倍ある、と考えることも出来る。

すなわち、近所のフツーの飲食店において異物混入が1件発生するのに対し、マックでは6万件発生してもおかしくない、という考え方も出来る。

だからいいじゃないか、ということではありませんが、この規模感も考慮する必要があると思います。



3. 「単なる言いがかりもある」と考えた方が自然

なぜ、昨年末から急に、後から後から異物混入の訴えが相次ぐのか。

外食産業における衛生管理が、昨年末から急速に悪化したんでしょうか。
外食産業だけではありません。和光堂もローソンもですから、「消費者向けにサービスを行っている産業全体」において、昨年末から衛生管理の劇的な悪化があったのか。



あるいは、異物混入は今までも慢性的に発生していたものの、これまではお客さんの側がなぜかずっと泣き寝入りし続けていたのか。
それが、昨年末から急に勇気が出て、被害を訴え始めるようになったんでしょうか。



どちらも、あまりあてはまりそうにありません。
では、なぜ今になって後から後から異物混入の訴えが相次ぐのか。

最初の頃の訴えは本当だったかもしれませんが、その後の訴えについては、(千載一遇の好機!)とばかりに自作自演をしている人たちもいるのではないか。



たとえマックがどんなにまともな企業で、どんなにまともな運営をしていても、その敵は無数にいるでしょう。

今までマックの店舗で何らかの不快な思いをした、という人もいるでしょう。
(「近所のフツーの飲食店」と比べ、お客さんにそういう思いをさせてしまうリスクも、マックの場合何千倍、何万倍になります。)

あるいは、マックの成功を快く思っていない外食産業のプレーヤーだっているでしょう。
「ウチが閉店に追い込まれたのは、近くにマックがオープンしたからだ!」
と思っている(思い込んでいる)「近所のフツーの飲食店」の関係者もいるでしょう。



マンガやドラマでお馴染みの
「料理に○○が入っていた!どうしてくれるんだ!!」
と言いがかりを付ける手口は昔から存在します。



4. 「注目されたい」という気持ち

我々がFacebook, Twitter, ブログを熱心にやるのは、「つながっていたい」、「共感してほしい」、そして「注目されたい」といった、様々な気持ちが複雑に入り交じった結果だと思います。
自分についても感じますが、人間の「注目されたい」という気持ちはとても強い。

それがときには放火とか、らくがきとか、異物混入の自作自演とか、ゆがんだ形で現れることもあるでしょう。



5. 異物混入に関わる立証責任の問題

異物混入で悩ましいのが、Burden of proof(立証責任)の問題だと思います。

「異物が混入していた」と訴える客は、それを立証・証明する義務を負いません。
異物が混入していた、と訴えるだけで大問題を起こすことが出来ます。
今はとてもタイムリーな話題ですから、メディアもすぐに飛びつき、騒ぎを大きくしてくれます。

それに対し店側・企業側が反論するためには、
「異物は混入していなかった」
ことを証明する必要がありますが、それはもう不可能です。



6. 自作自演の発覚に期待

前記の通り、食品への異物混入については自作自演がとてもしやすく、また発覚しにくい。

でも、例えば監視カメラがその様子、つまり客が異物を自分で「混入」させている様子をとらえていたりすることもあるでしょう。

あるいは、その客に多少なりとも良心が残っているならば、客本人が後日その良心の呵責にさいなまれて名乗り出ることにも期待しています。



マック等の大手チェーンに何か恩義を感じているわけではありませんが、日頃とてもお世話になっているのも事実。
無ければ困るし。特にときどき(ビッグマック食べたい・・・)と思ったときなど。吉牛やコンビニと同様、社会の大事なインフラです。

今異物混入の問題で苦しんでいる企業の方々には、もちろんその根絶に向けて努力していただきつつ、ぜひがんばってこの危機を乗り切ってほしいです。


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by dantanno | 2015-01-11 04:39 | 提言・発明 | Comments(0)

「公立女子大行きたい」男性、出願不受理は違憲と提訴へ

http://news.yahoo.co.jp/pickup/6138643

とてもおもしろい出来事で、単に(笑)で済ませるのはもったいない。

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主に男子校で育ち、今は女子大学院で教える者として、
「なぜ男女を分けた方がいいのか」
ということと、
「仮に分けた方がいいのであれば、どの年齢のときに分けた方がよくて、どの年齢のときは逆に分けない方がいいのか」
ということをよく考える。

ニュースに登場する学校は
「女性のリーダーを育成する」
と言うが、だったら男と一緒にした方がいいような気が(素人考えでは)する。

AKB48の中だけとか、宝塚の中だけとか、そういう特殊な世界を想定しているならともかく、ビジネス、政治、アート、芸能界、医療、国連、などなど、どの世界でも参加者の少なくとも半分は男なんだから。
それに、AKB48だってファンの多くは男なんだし、宝塚だって男役(?)があるわけだから、男のことを分かっているとかなり助かると思う。

言い方を変えると、共学ではないことに伴うデメリットは間違いなくある一方で、メリットは何なのか、ということか。
確かに存在するデメリットを上回るだけのメリットがあるのかどうか。

引き続き考えたいテーマ。

by dantanno | 2014-11-15 23:20 | 提言・発明 | Comments(0)

大臣がバタバタと

小渕経産相と松島法相が相次いで辞めた。

首相や大臣が新たに就任し、すぐに何らかのスキャンダルが明らかになり、退任に追い込まれるのは日本でよくあるパターンで、僕は(またか・・・)という感じでしたが、海外では、TV・新聞共に、大きなニュースとして取り上げられています。


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「うちわ程度で退任・・・」のヘナヘナ感もさることながら、それよりも、僕はタイミングに興味を持ちました。

今回に限らず、なぜ、就任早々にスキャンダルが浮上するのか?



陰謀??
誰か、あるいは何らかの組織が糸を引いている??


ーー


ちょっと前まで、
「日本は首相がコロコロ入れ替わる」
と、国内外から揶揄されていました。
首相でも、大臣でも、確かにあまり頻繁に交代してしまうのは良くないことだと思います。

せっかく「**大臣」というプレートを作り、花束を用意して新しい大臣を迎えたのに、、、といった事務面の無駄はもちろんですが、当然それよりも大事なのは、政策の一貫性が損なわれる、という点でしょう。

特に、このタイミングでの経産相の早期退任は・・・。
日本のリーダーである安倍さんが、アベノミクスの中心的存在となる経産相について、「この人!」と思って任命したのが、あっさり退任させられるのは、日本にとって計り知れないダメージ。

さらに、女性大臣が2人もすぐに辞めるというのは、女性の社会進出、育児のあり方の変化、配偶者控除の見直しなどなど、女性ならではの視点が求められる改革が目白押しの現在、本当にもったいないことだと思います。

「小渕さんを退任させよう」と思い、スキャンダルをこのタイミングでリリースさせた人・組織がもしいるなら、その人・組織はもちろんのこと、それを受けて氏を退任に追い込んだメディア、そして何よりも我々世論は、氏を退任させるメリットと、その一方での日本にとっての巨大なデメリットを両方自覚する必要があると思います。

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同じ日の別の記事

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「首相や大臣など、エライ人、それから女性については、スキャンダルをもみ消しましょう」と言いたいのではありません。
エライ・エラくないとか、性別などにかかわらず、政治家による政治資金スキャンダルの存在を知ったら、その人がいずれエラくなるまでその情報を大事に温存しておくのではなく(その行為こそ罪)、知った時点で問題を表面化させ、しかるべき対処をするべきだと思います。
by dantanno | 2014-10-22 21:14 | 提言・発明 | Comments(0)

命と死のデフレ

「命」と「死」は、重みのある概念だと思う。
でも、その重みと裏腹に、こうしたことばの値段はデフレ傾向にある。

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世の中で、本当の本当に自分の生命を危険にさらしているのは、例えば
伝染病を食い止めるために後進国で働く医師とか、
9/11で、倒壊寸前のワールドトレードセンターに突入した消防士だったり、
人道支援のためにシリアに行き、ISISに捕まってしまった人
とか、
そういう人であって、

ラーメン屋を命がけでやる、とか、
今度のワールドカップに命をかける、


といった「命」の使い方は、気持ちは分かるとしても、ちょっとどうかと思う。



まあ、「命」ということばをどの程度デフレさせていいものか、についての正解など無く、好みの問題でもあるから、これは僕が勝手に違和感を感じているだけで、あまり本質的な話ではない気がするけど。


ーーー


「命」と対を成す「死」についても、デフレが著しい。

僕が大好きなお笑いで、笑いを取るために使われる「いっぺん死んでこい(笑)」的なツッコミ。
ネットのいたるところで見受けられる「死ね」というコメント。

それを見聞きして違和感を感じる大人は僕を含め多いと思うけど、そうした「死」の使い方に日常的に接しながら育った子供は、きっとそれを見聞きすること、そして自らも同じ使い方をすることに違和感を感じなくなるだろう。


ーーー


死を身近なこととして受け止め、それについて日頃から考えることは大事なことだと思うし、死は必ずしも怖いもの、イヤなものとは限らず、「生」と同様自然なことで、ある意味ステキなことだとも言える。

でも、人に対して安易に「死ね」と言ってしまうのは、死を身近に、あるいは自然なこととしてとらえるのとは全く異なる、悪いデフレだと思う。


ーーー


例えば、「僕の人生をかけて君を幸せにする」というようなことばの使い方は、確かにデフレと言えばデフレかもしれないけど、話し手がその気持ちを伝えるために最大限の強調を試みた結果であり、かっこよく、微笑ましくもある。
一方、「死ね」には何一つ良さが感じられない。


思っていないことは口にしない、ということなのかもしれない。

「僕の人生をかけて君を幸せにする」と口にする人は、きっと本当にそう思っているんだろう。だったら、それでいいと思う。その使い方が正しいと思う。
一方、「死ね」と口にする人は、きっと本当はそんなこと思っていないんだから、だったらもう少しことば力を発揮して、「自分が思っていないこと」ではなく、自分が本当に思っていることを的確に表現すると一体どうなるのか、考えるといいと思う。

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そうやってことばを選ぶこと自体が楽しいし、かつ、口をついて出てくるのはきっと、もっと愛のある、おもしろいことばになるはず。
by dantanno | 2014-10-14 01:10 | 提言・発明 | Comments(0)