たんのだんのブログ

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よく気付いたな、という感じ

「頭がよさ」とは、一見無関係な事柄の間のつながりを見いだす力のことを指す、と言ってた人がいたが、確かにそうだと思う。


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# by dantanno | 2017-07-24 13:41 | Comments(0)

AI時代のことばとやさしさ

最近、家族を連れてロンドンに2ヶ月滞在した。

用語の定義は不明確だが、期間が2ヶ月ともなると、これは「旅行」や「出張」ではない。「滞在」であり、あわや「居住」だ。

住むとなると、ことばのやり取り的にはホテルにチェックインするときやタクシーに乗るときのそれだけでなく、「生活」に伴うことばのやり取りが必要になる。床屋に行ったり、クリーニング屋さんに行ったり、マンションの管理人に何かを質問したり、というような。

ーーー

ロンドン市内で滞在するエリアを選ぶ際、なるべく「白人ばかり」ではなく、人種のるつぼ的なエリアを選びたかったし、実際そうした。具体的には、Brixton、Shoreditch、Kilburnなどを選び、家族で転々とした。(日本では残念ながらあまり目にしない黒人の人たち、中東系の人たちをウチの子供らがしげしげと眺めているのを見て、うれしく思った。)

そういうエリアに滞在していると、流暢な英語ではなく、ブロークンな英語を耳にすることが多くなる。「多くなる」というか、耳にする英語のほとんどがブロークンだ。

ーーー

僕が滞在したエリアに限らず、ロンドンではブロークンな英語を耳にする機会が多い。移民が多いからでしょうか。

今回何社かの日本企業に同行したが、その内の一社の社長が
「こっち(ロンドン)の人の英語は結構ブロークンだな。それでもまあ通じる、ってことだよな」
と言っていたが、まさにそうだ。


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ブロークンな英語を話す移民的な人たちと、「チェックインプリーズ」みたいなある意味型どおりなやり取りではなくややこしいことばのやり取りをする。

そうなると、相手が何を言っているのか分からないときがある。

曲がりなりにも通訳を生業としていることもあり、さすがに英語が「分からない」ことは無いわけだが、ちょっと分かりにくいというか、一瞬分からなくてひるむ、という事態が頻発する。

ーーー

相手のことばを聴いただけでは、相手が何を言っているのかが分かりにくい。
となると、ことばの意味を把握する際に音声以外の、何か別の手段/ルートも活用せざるを得なくなってくる。

ーーー

まずは相手の表情・言い方

相手が、優しそうな顔でウチの子供を眺めながら

「#()$’#”(%’」

と言った場合、「かわいいね」とか、何かあやす系の優しいことを言ってくれている可能性が高い。

一方、怒った顔や口調で
「#()$’#”(%’」
と言ったのであれば、何かを注意してくれていたり苦言を呈している可能性が高い。

そんなの当たり前じゃないか、と思うでしょう。自分でもそう思いますが、「相手の言っていることが(視覚ではなく)音だけで完璧に理解出来る」という暮らしを日頃日本で続けていると、相手の表情や言い方に頼った意味の理解をすることはあまり無く、そうした理解方法が必要となる異国での生活は貴重な体験となった。

(片寄った見方かもしれないが、中東系(?)の人たちは怒ったような表情や口調でとても優しいことを言ってたりするのでまぎらわしいことがあると感じた。)

ーーー

分かりにくい発言を理解するもう一つの理解方法は、その発言が発せられた場の状況

駅の改札口付近で、我々家族がベビーカーを押しながらあちこちウロウロしている、という状況のときに駅員さんが

「#()$’#”(%’」

と言った場合、(もしかしたら「こっちの自動改札機の方が広いから、ベビーカーでも通れますよ」と言ってくれたのかもしれない)といった推察がはたらく。

ーーー

(この状況であれば、相手はこう言うかもしれないな)と考えるのは、相手の立場に立つ、相手の気持ちをおもんぱかることにほかならない。

そして、前述の「相手の表情や口調を観察する」のも、(自分の立場ではなく)相手の立場に立ち、相手の気持ちを読み取ろうとする行為だ。

これこそコミュニケーションではないか!

<いったん話をまとめる>
異国に来て、分かりにくい/聴き取りにくいことばのやり取りを日々続けていると、音だけでなく相手の表情や口調、およびその場の状況によって、発せられたことばの意味を考えることを余儀なくされる。そうした「音を越えたコミュニケーション」は、要するに相手の立場に立ち、相手のことを考える、ということである。

ーーー

ちょっと話がそれるが、AI(Artificial Intelligence)について。AIが通訳・翻訳に対して及ぼす影響について。ここのところ、通訳者たちと飲んでいてもよく話題になるトピックだ。

これは要するに我々訳者の代わりに(あるいは訳者のサポート的に)機械が通訳・翻訳してくれる、という話。

そうした「機械による訳」に関する研究・実証と並行して行われているのが、そもそもことばをすっとばしちゃうことに関する研究。

ーーー

通訳は必要悪であるが、通訳の対象となる「ことば」も必要悪である。
僕はことばというものが大好きで、日々通訳をしたり、ブログを書いたりと「ことば」の世界で楽しく生きているが、でもその「ことば」が必要悪であることは認めざるを得ない。

<余談: 「必要悪」という概念について>
通訳・翻訳やことばは「必要悪」と言うと、それがなんだか「悪い」みたいだが決してそういうことではない。
そもそも「必要悪」という言葉がいけない。
この言葉はどうしても聴き手に悪い印象を与えるが、警察も医者も言ってみれば「必要悪」(犯罪を犯す人がいなければ警察は要らない)であり、さらに深く突き詰めれば全ての職業や機能が必要悪、とも言えてしまう。(お腹がすかなければレストランなんて要らない、というように。)
だから僕は「必要悪」であるからといって必ずしも「悪」だとは限らないと思っていて、必要悪という言葉の「悪」ではなくむしろ「必要」という側面に目を当てるべきだと思っている。)

ーーー

必要悪である「ことば」をすっ飛ばし、脳が発する電気信号を活用して「思っていることがそのまま相手に伝わる」方が効率がいいのかもしれない。それが善か悪かについては議論の余地が大きいが、「想いを正確に、効率的に相手に伝える」という意味では、ことばではなく脳の電気信号を使ったコミュニケーションの方が優れているのかもしれない。

<具体的なイメージ>
スマホのようなデバイスを通したコミュニケーションになると思う。
話し手、、、いや、ことばを使わないのでもはや話し手ではないですね、じゃあ発信側。
発信側が、受信側に対して「昨日、こんなおもしろいことがあってさ」という想いを伝えたいとする。発信側が「伝えたい!」と感じている状態でスマホのアプリを開くと、画面に

「昨日、こんなおもしろいことがあった」という想いを相手に伝えますか、Yes or No?」

と表示される。Yesを選ぶと、アプリが発信側の脳の信号を読み取り、それを信号の形でそのまま、あるいは信号を読み取った結果を受信側に伝える。ことばは必要無く、受信側はClear/Vividに「昨日あったおもしろいこと」を理解出来る。

僕の専門であるIRの分野でも同様。
「来年度の設備投資について、相手に伝えますか、Yes or No?」
でYesを選択すればその想いが外国人投資家に自動的に伝わる。通訳は必要無いし、そもそもことばが必要無い。

ーーー

このような「ことばを使わないコミュニケーション」はきっと実現すると思う。

現在の「ことば」を通したコミュニケーションはとてもステキなものだけど、「想いを正確に、効率的に伝える」という観点(そこそこ大事な観点!)からすると、非常に非効率。ことばを操るのが上手な人同士でも誤解が生じることがあるし、世の中にはことばを操るのが上手ではない人も多い。

しかも国・地域によって言語が異なってしまっている、というこれはこれでステキな状況が、その非効率をさらに何倍にも増幅させる。



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<話を再度まとめる>
こちら(受け手側)が一生懸命推察しなくても、相手の想っていることが正確・効率的に伝わるのはとても合理的なことのように思える。それは「相手を理解する」ことに他ならないが、そうなると「相手のことを理解しよう」という我々受け手側の気持ちはどうなるんだろうか。
相手に対するEmpathy/empathizingが不要になると、我々はどうなるのか。


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太郎君は私のことをどう思っているのかしら、はたして好きなのかしら、という大事な問題について考えた場合、「好きなのかどうか」ももちろん大事なのだが、私(花子)が太郎君の気持ちをあれこれ推察する、考える、おもんぱかること、これも結構大事なのではないか。

相手が発することばから、相手が伝えたいメッセージを必死に考える。相手の表情や口調から、どういう想いでそのことばを発したのかを推察する。また、場の状況から判断して、(こういう状況であればこう言いたくなるだろうな)と相手のことをおもんぱかる。

電気信号を介して正確・効率的にコミュニケーション出来るようになると、相手に対するこうした配慮は不要になり、失われてしまうのか。(不要なだけに)必要悪ですらなくなってしまうのか。

コミュニケーションにおいて大事なのは、「思っていることを正確・効率的に伝える」ことであるのは間違い無いが、一方でもっと大事なのかもしれないのが「相手の立場に立つ、相手のことをおもんぱかる」ことであって、異国に滞在・居住することでその重要性に改めて気付いたわけだが、AI時代のコミュニケーションではそうした「相手に対する思いやり」はどうなるのか。不要になるのか、あるいは依然として残るのか。

オチの無い記事で恐縮ですが、思考があれこれ拡散してしまっている当方の今の状況をおもんぱかり、温かく読んでいただければありがたいです。




# by dantanno | 2017-07-20 05:02 | Comments(0)

慣れと先見の明

慣れって恐いな、、、というか、慣れってすごいな、と思います。

昔はあんなに不便に感じてたはずのスマホを、今では結構便利に感じる。

ーーー

昔は、スマホでウェブサイトを見るとか、動画を観るとか、あるいは文字入力をするとかがとても煩わしく、出来る限り、なるべくPCを使いたいと感じていました。

そういうPC寄りの気持ちは今でも多少残っていますが、だいぶスマホが追いついてきた気がします。スマホを使うことに慣れたんだと思います。

今では、スマホで動画を観るなんて日常茶飯事。気付けば何時間もYoutubeを観てしまっています。すぐとなりにPCがあるのに、あえてスマホで!不思議。。
また、スマホでの文字入力は単なる不快な作業だったはずが、今ではむしろ楽しく感じることすらあるから驚きです。


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もちろんユーザーである自分の「慣れ」だけでなく、外的要因もあると思います。

昔)「スマホでウェブサイトを見るのは避けたい」 → スマホ向けに作成されたウェブサイトが増えた → 今)スマホでウェブサイトを見るのは不快ではない

昔)「スマホで文字入力なんて面倒」 → スマホでの入力画面の改善。ATOKやGoogle等の文字入力サービスの普及 → 今)スマホで文字入力がラクになった


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そうした外部要因もあるにはありますが、やはり慣れの部分は大きいと思う。
そういえば、電子書籍についても最初は「絶対イヤ」と思ったけど、実際に電子書籍を読んでみるとそれほど悪くない(僕はやはり紙の本の方がまだ好きですが)。

どんなものでも、最初に感じる抵抗感は「慣れ」で乗り切れてしまうものなのかもしれません。

そう考えると、

① 当初の抵抗を乗り越え、自分を別の人間に生まれ変わらせる(re-invent oneself)ことは意外と簡単なのかもしれない。 そして

② 何か新しいサービス、モノ、技術を目にしたとき、自分がそれに抵抗を感じるからといって、それが普及しないとは全く限らないんだな、と思います。

ーーー

だいぶ前、世の一部の経営者が「これからはスマホだ!」と言っていたとき、正直、僕にはスマホの何がこんなにすごいのか分かりませんでした。What's the big deal?って思ってました。でも、今電車に乗ると運転手を含め、、、ってのは冗談ですが乗っている人のほぼ全員がスマホを眺めていたり、自分自身のスマホに対する「慣れ」を感じると、彼ら/彼女ら経営者たちには先見の明があったんだな、と思います。

そう言えば僕は1998年(平成10年)に新卒で会社に入り、生まれて初めて「電子メール」というものに接したとき、「こんなものは絶対普及しない」と一刀両断しました。だってFaxの方がはるかに便利じゃん!と感じたのを覚えています。。。先見の明、ここに極まれり、ですね(汗)。


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表面的かつ一時的な抵抗を越え、物事の本質が見抜ければ、時代の流れといった大事なものが見えるようになるのでしょう。
e-mailとかスマホとか、自分の専門外の分野では見抜けなくてもいいけど、ことばとか通訳とか、専門分野では大きな潮流が見抜けるようになりたいものです。



# by dantanno | 2017-07-17 16:37 | Comments(0)

通訳をする際の「自信」と「不安」のいいバランス

まずは、何はともあれこの3分の動画を観てもらえませんか、とてもいいから。




American Idolという、日本の「スター誕生」みたいな番組の一シーンです。
Joshua Ledetという若手/駆け出しの歌手が「イマジン」を歌っています。

ーーー

音楽は好きなものの歌とか演奏について全く造詣は深くない僕ですが、それでもこの人のこの歌は何度聴いても鳥肌がたちます。

で、なんでなのかな、なんで鳥肌がたつのかな、なにがそんなにすごいのかな、とずっと考えてきたんですが、行き着いた結論は、この人の歌は「いい通訳」に近いんじゃないか、自分の仕事と関係してるんじゃないか、だからグッとくるんじゃないか、という結論でした。

ーーー

何ごとも、自分に甘く、人に厳しくするのが好きです。
自分自身の通訳に対しては評価がとても甘い僕ですが(汗)、人様の通訳、特に「IRISに登録したい」と言ってくださる通訳者の通訳を聴くときは、厳しい外国人投資家、および日本企業の厳しいIR担当者の気持ちになってそれを聴こうとします。実際には厳しく聴く、というよりも楽しみに聴くわけですが。

時折「おおおおお」と感動する通訳を目の当たりにすることがあって、しかもそれがベテランとか大御所な通訳者ではなくごく一般的な、あるいはときにはまだ駆け出しの通訳者による通訳だったりして、その通訳の一体何がそんなに感動を呼び起こすのかな、と考えます。

ーーー

思い至った結論は、その通訳者の 自信(強さ) VS 不安(優しさ)のバランス なのかな、ということです。

ーーー

通訳は英語では"Interpreting"といい、文字通り解釈(Interpret)をする仕事です。
何を解釈するかというと、話し手が話す話の内容です。

話し手が何か言う。それを、「なるほど、きっとこういう意味だな」と解釈し、それを別言語で再表現するわけですが、訳し始めてしまう前に、まずは一旦網を広げる必要がある。



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「今の発言を、私はこういう意味だと思ったが、はたして本当にそうか。もしかしたら別の解釈もあり得るんじゃないか」と、なるべく解釈・理解の網を広げる必要があります。

解釈の網を広げる一方、表現の網も大きく広げます。「今のを説明するのに、この表現を使ったらどうか、それで聴き手に伝わるか、別の表現は無いか」と。

網を広げる上で大事になるのは(自分の解釈および表現ははたして正しいんだろうか・・)という不安であり、優しさだと思います。

ーーー

「こういう解釈もあり得る、ああいう表現もあり得る、etc. etc.」と網を広げきった上で、今度はその網を思いっきり狭めていかないといけない。いつまでも「こうかも、ああかも」と言ってたら訳せないから。

無限の可能性を思い浮かべた上で、「でも、今の発言はきっとこういう意味だ。よし、それをこう表現するぞ!」と、ハラを括って自分の解釈を観客(聴き手)に披露するしかない。

網を広げるときと対称的に、網を狭める上で大事になるのは自信です。表面的にではなく、根底で自分を好きである力です。

つまり、不安と自信が両方大事ということで、いい通訳者はこの自信(強さ)と不安(優しさ)のバランスが優れているんだろうと思うんです。

ちょっと余談になりますが、最近の自分はどうかと言うと、このバランスがやや崩れてしまっている気がします。
自信と不安の黄金比は8:2ぐらいかな、と思っています。9:1だと思い込みが強くなりすぎるし、6:4だと通訳がちょっと弱く、背骨の無い状態になりがちです。
最近の自分は自信:不安が7:3ぐらいで、ちょっと不安側に片寄ってしまっていると感じます。特にいけないのが、訳す際、聴き手ではなく話し手のことばかり意識してしまい、聴き手にちゃんと伝わっているかがおろそかになってしまう点です。これは、例えば企業の社長さん(日本人)の話を英語に訳す際、その社長さんが結構英語が分かる人だったりすると顕著に表れます。自分の英訳が、話し手である社長さんにどう伝わっているかばかり気にしてしまい、外国人投資家にどう聞こえているかはそっちのけになることがあるので、それは改めないといけないと反省しています。でも、それってある程度原文から逸れた訳をする、ということでもあり、かなり勇気がいるんですよね。。

ーーー

冒頭のJoshua Ledetの話に戻ります。

この人のパフォーマンスを観ていると、その軸の強さに心を打たれます。
音楽的に言えば、例えば歌唱力とかリズム感とかがきっとものすごいんでしょうし、確かにそれは間違いなくすごいんですが、僕が一番感銘を受けるのはこの人が自分のことが好きで、自分に自信があり、自分の解釈や表現に誇りを持ち、それを観客の前で披露する勇気を持っている、という点です。

でもその一方で、観客に対する配慮を忘れないし、そして何よりもジョン・レノンの原作に対するリスペクトを保ち続けている気がします。
原作を一度咀嚼し、それを自分なりに解釈し、観客に披露していると思うんです。
To break the rules, you must first master them的な考え方にも少しカブるでしょうか、カブらないでしょうか。

ーーー

通訳の仕事も全くそうで、話し手(原作者)に対するリスペクトを絶対的に保ち、その人の発言に「何も足さない、何も引かない」の原則を忠実に守りつつ、でもそこに自分の解釈、自分の色を出していくのが「いい通訳」なんじゃないかと思います。

通訳という仕事が言語と言語を飛びこえる仕事である以上、どうしても「そのまま機械的に訳す」ということは出来ないと思うんですよね。

リンゴ であれば Apple と機械的に訳すことも出来るでしょうが、"I love you"とか「出前一丁」とか"Just do it"とかになってくると途端に通訳者というフィルターを通して解釈する必要が生じてきて、それが(我々通訳者が日頃相手をしている)より長い発言になればなおさらです。

いい通訳者というのは、根底で自分のことが好きで、自分に対する自信をしっかりと保ちつつ、でもそんな自分を疑ったり、笑ったりする勇気を合わせ持った人のことをいうんだと思います。そしてそれこそが本当の意味で「自分に自信がある」ということの現れだと感じます。

自信と不安、強さと優しさ、プライドと謙虚さ、そうした通訳において必須のバランスに想いを馳せつつ、もう一度動画を観てみてほしいです。




何度観ても、やっぱり「いい通訳」を目の当たりにしたときと同じ感動を覚えます。
この人の目線、間の取り方、全てに強さと優しさの両方を感じます。この場にいた観客はなんと幸せだろう、と思います。

ーーー

いい通訳を通して観客(それは聴き手はもちろん、話し手も含む)を感動させることはきっと可能で、僕もJoshua Ledetのような通訳を目指し続けたいと強く思います。

# by dantanno | 2017-07-11 23:44 | プレミアム通訳者への道 | Comments(0)

通訳者を介する「メリット」を考える

田中さんとスミスさんが、何かの話をしたがっているとしましょう。

以下、二通りのケースを考えます。

A. ことばの壁が無い: 田中さんが英語ペラペラ、あるいはスミスさんが日本語堪能。2人は英語、あるいは日本語で直接話し合えます。

B. ことばの壁がある: 「田中さんは日本語しか出来ない + スミスさんは英語オンリー」であれば、通訳者を介して話すことになります。

田中さんとスミスさんが同一言語で直接話し合える場合(上記A)と比べ、Bの「通訳者を介して話す」ことのメリット/デメリットを考えてみます。

ーーー

まず通訳者を使うことによるデメリットですが、

・時間がかかる
・お金(通訳料金)がかかる
・通訳者が優秀であればいいが、そうでない場合、意思疎通が困難になってしまう

など、いくつか挙げられます。

通訳者がどんなに優秀であっても、そもそもことばの壁が存在せず、田中さんとスミスさんが直接話し合える「A」の方が、通訳者が必要となる「B」よりもベターなのは確かです。

では一方で、通訳者を介することに何かメリットはあるのか。

ことばの壁がある場合、通訳者がいないと2人の間の会話はそもそも成り立たないわけで(だからこそ我々通訳者が現場に呼ばれている)、それ自体が絶大なメリットです。

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でもそれは、ことばの壁がある前提(Bの状態)で1.通訳者を使う VS 2.通訳者を使わない、という選択を比べています。
つまり、↓の表の右上 VS 右下を比べているわけで、そりゃあ右上の「○」の方が右下の「×」よりもいいに決まってる。


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(ちょっと余談ですが、右下の「×」状態になることも実際にはあります。つまり、ことばの壁が存在するのに通訳者を介さないパターンです。通訳者が急に現場に来られなくなった、という場合もこうなるでしょう。もっと一般的なのは、田中さん/スミスさんのどちらか(あるいは両方)が「自分は外国語力がある」と判断し、通訳者を介さずに話をすることを選ぶパターンです。その場に同席し、たどたどしい外国語で交わされる話を聞きながら(通訳者を使った方がいいのに・・・)と思うこともあります。自分で外国語を操って話そうとするその姿勢はすばらしいのですが。)


僕がこのブログ記事でやりたいのは、↓の表の緑の箇所を比較することです。

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左下の「通訳者を介さなくても自由に意思疎通出来る」状態がベストなのは認めた上で、右上の「通訳者を介して会話する」ことならではのメリットが無いか、を考えたいんです。

いくつか考えられます。

<誤解が少なくなる>
通訳者を介した方が誤解が少なくなるなんて、そんなことあり得るのか、と思われるかもしれませんが、あります。
話が分かりにくい人の話を訳す際、通訳者の頭の中で編集作業をしたり、話し手に確認を入れたりして、話を分かりやすく作り替えることがあります(ただし、話し手が伝えようとしているメッセージは変えずに)。

ある通訳者がこんなエピソードを披露してくれました。
どこかの会社の社長さんのプレゼンの通訳をし終えると、その会社の事務局の方(英語堪能)から
「普段、ウチの社長が何言ってるか全然分かんないんですけど、今日、通訳者さんの英語を聴いて初めて社長が言いたいことが分かりました(笑)」
と、冗談とも本気ともつかない口調でほめられた、というエピソードです。そういうことです。

<話し手が、言いたいことを全部言えるようになる>
2人の人が同一言語で(通訳者無しで)話しているのを隣で聴いていると、相手の話を途中で遮ることがものすごく多いことに気付きます。つまり、話し手からすると、何か言いたいことがあるのにそれを最後まで言えていない。聴き手も、(相手がまだ何か言おうとしているのに自分がそれを遮ってしまうため)せっかくの貴重な話を最後まで聴けていない。

興味深いのは、この「相手の話の遮り」が、喧嘩の時はもちろん、フレンドリーな場(女子会等)でも頻繁に起きる、という点です。
相手の話なんか実はどうでもよく、自分が言いたいことを言ってスッキリしたいだけの場であれば遮りもいいでしょうが、相手の話をしっかりと聴くことが重要な場(つまりほとんどの場)においては、話を遮ることは百害あって一利無し。

なぜ話の遮りはよくないと思うか。「話を遮る」というのは大きく2つのメッセージを発します:

1.あなたの言いたいことなどどうでもいい。それよりもオレに話させろ
2.あなたの言いたいことはもう分かった → 早くそれに対する返しをしたい

1.→ 人と会って話をしていると、ついつい自分がしゃべって気持ちよくなってしまいますが、実は相手の話を聴いた方がトクですよね、きっと。
2.→ こういう場合、聴き手は得てして「分かって」いません。多少なりとも誤解しています(話をちゃんと最後まで聴いたとしても誤解が生じる可能性はそこそこあるのに、ちゃんと最後まで聴かなければなおさらです)。話し手が言いたいことは実は別のこと。あるいは「同じこと」でもニュアンスがちょっと聴き手の理解とは違っていて、聴き手が途中で話を遮ったことによって話のズレが生じる。ひとつひとつのズレは小さいかもしれないが、それが繰り返されると大きな亀裂になり、意思疎通が出来なくなる(同じ言語で話しているのに!)。

では、通訳者を介するとどうなるか。
他の通訳者はスタイルが異なるかもしれませんが、僕が通訳をしている場合、話し手が完全に話し終わるまで待ちます。まあ当たり前といえば当たり前ですが。
「遮らない」どころか、話し手が話し終わっても「もっと何か言いたいことはないか?」とちょっと促すぐらいの感じです。話し手が、言いたいキーメッセージを既に言い終え、語尾の部分をモゴモゴ言っているだけだとしても、それが終わるのを待ちます。ときにしびれを切らした聴き手が訳の開始を待ちきれずに僕の方をのぞき込むのを横目で感じても一切構わず、話し手が話を完全に終えるのをじっと待ちます。

横からのぞき込むせっかちな聴き手のことですから、僕(通訳者)が間に入っていなければ、結構な確率で話し手の話を遮ってしまっているでしょう。

「人の話を遮らない方がいい」という原則は間違っていないと思うのですが、僕の場合、通訳時にそれを一生懸命やっているのは「お客様のため」ではなく、自分のエゴです。聴き手からすると、早く訳を始めてくれ、と思っているかもしれません。一方話し手の方も、(そろそろ訳を始めてもらっちゃってもいいよ)と感じながら語尾を長めに続けているだけの可能性もあります。実際、「相手の話を遮り、それにかぶせて話し始める」のはあまりにも世に広く普及していて、それがひとつの文化(?)みたいになっている面もあり、必ずしも悪いことではなくなってしまっているというか、「相手を遮る、相手に遮られる」ことを前提に話す人もいるでしょう。
つまり、その場にいる人々は、話し手・聴き手ともに僕の「じっと待つ」姿勢を喜んでいない可能性もありますが、これはお客様のためではなく自分の好き嫌いでやっている面が強いので、あまり気にしていません。

<「考える時間を稼げる」>
日々、いろんな日本企業の社長たちに同行して海外IRをしていますが、結構多くの社長が言います。「通訳を使うと、答えを考える時間を稼げるから助かるんだよな」と。それを受け、周り(その会社のIR部の人たち、証券会社の人たち、等)もみな一斉に「そうですよね〜」と同調します。

これは確かにそうなんだろうと思いますが、ちょっと気になる面もあります。

通訳を使うと「時間を稼げる」というのはどういうことか。

例えば自分(社長)が話す際、話を3分割して話すとして、第1部を話す → それを通訳者が訳す → 第2部を話す → 訳 → 第3部 → 訳、となるわけですが、第1部を通訳者が訳してくれている間に第2部、第3部で何を言うかを考えられる、という意味の場合もあるでしょう。それはいいと思うんです。

一方、こういうケースも考えられます。
例えばIRの場合で言えば、海外投資家が何か質問をしますよね、英語で。その質問が終わり次第、通訳者による訳(@日本語)が始まるわけですが、投資家の質問を通訳者が訳している間に考える、というパターンです。つまり、この場合において社長たちが言っているのはどういうことかというと、「自分は投資家の質問(@英語)がある程度理解出来る。だから、英語を聞いた時点で(頭の中で)答えをまとめ始める。でも、すぐには答えがまとまらない。だから、投資家の質問が終わり、それを通訳者が日本語に訳している間に考えをまとめ上げる」ということですよね、おおざっぱに言うと。

これに対し、僕が気になるのは以下の2点:

1.投資家の質問(英語)を「分かった気」になっている可能性

英語がペラペラではないから通訳者をつけているわけですよね、そもそも。その社長が、投資家の質問(@英語)を聴いて「なるほど、そういうことを質問しているのか」という判断をするわけですが、その判断は必ずしも正しいとは限らない。母国語である日本語であっても、相手の話を誤解してしまう可能性は結構あります。であれば、苦手な英語の場合はなおさらです。

仮に誤解してしまっていても、その後通訳者の訳を聴くことで「なるほど、ワシは勘違いしてたわい・・・」と気付くせっかくのチャンスがあるわけですが、訳を聴いている間、答えをまとめ上げる作業に脳のキャパを振り向けてしまっていると、結局その誤解も解けずじまいになる可能性が高い。

2.もし「考える間があった方がいい」のであれば、その間に「通訳者の訳」というノイズは無い方がいい?

せっかくなら完全な静寂の中で考え、答えをまとめ上げた方がいい。通訳者の訳を聴くのであれば別ですが、聴かずに「考えをまとめ上げる」作業をするのであれば、じゃあノイズは無い方がいいかもしれませんよね。もちろん、実際には通訳者の訳を完全に聴いていない、ということはなく、ある程度聴いているわけですが。

社長の取るべき「正しいプロセス」は以下の通りだと思うんです:

i) 投資家の質問を聴く
ii) 回答を考える
iii) 回答する

実際にはi)とii)が同時進行になりますが、極端を承知で理想を言えばi)とii)、それぞれを別に行った方がいい。質問を聴きながら回答を考え始めると、テンポが速いというメリットはあるものの、質問の意図を正しく理解せずに回答してしまい、QとAが噛み合わなくなる、というリスクを伴います。まずは質問にちゃんと向き合い、「相手が何を質問しているのか」を理解することに脳のキャパを100%振り向け、その上で「それに対し、自分はどう答えたいのか」を考えるのが王道ではないでしょうか。

ーーー

以上、通訳を介することのメリットと、そこから派生しての考察をまとめてみました。

いいコミュニケーションは、ほっておくと実現しません。ことばの壁がある場合はなおさらです。
ことばの壁がある場合はぜひ優秀な通訳者を活用し、相手の話を遮らず、それをしっかりと聴き、実りある意思疎通を実現してほしいです。
一方、ことばの壁が無いからといってコミュニケーション成功に向けた努力をおろそかにせず、むしろ「同じ言語を使い、完璧に分かり合ったつもりでも、実は分かり合えていない可能性がそこそこある」という認識のもと、意思疎通を成功させてほしいです。

# by dantanno | 2017-06-26 22:45 | 通訳 | Comments(0)

休憩中

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# by dantanno | 2017-06-26 17:08 | Comments(0)

CDプレーヤーがCDを再生しなくなった。

ちょっと前の話。

CDプレーヤーがCDを再生しなくなった。

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メーカーの修理窓口に電話して相談すると、有償対応で、今度引き取りに行く、とのこと。修理代に加え、出張引き取り料がかかります、とのこと。

「じゃあお願いします」と頼んだところ、明日からお盆休みのため、実際に引き取りに行けるのはだいぶ先になります、だそう。トホホ。。。まあしょうがないか。あ、そうだ、例えば今日自分で持ち込めば、もっと早く修理してもらえたりしないかな?

「お盆中は、引き取りだけじゃなくて、修理自体もお休みですか?」
「はい、もちろんそうです」
「もちろんですよね、そうですよね♪」

もうお盆明けの引き取りでいいや。

「じゃあ、お盆明けの引き取りでお願いします。」
「はい、かしこまりました。今、修理の依頼が立て込んでおりまして、一番早くご案内出来るのがお盆明けのだいぶ先に・・・」

修理の依頼が立て込んでるのにもかかわらずゆっくりとお盆休みを取る修理担当者は、どういう心境で休むのか。余計なお世話を承知で心配すると、それで果たして本当に気が休まるのか。

ーーー

僕は、サラリーマンの仕事ぶりを見ていて「大変だなあ」とか「すごいなあ・・・」と感じることも多々あるけれど、こういう面においては我々自営業の方が大変というか、すごいと思う。

CDプレーヤーの唯一の役割は「CDを再生(プレー)」することであって、それをしない、ということはいわば職務放棄。無茶を承知で例えると、通訳で言えば「通訳をしない通訳者」ということになる。

案件当日に「ヘソを曲げたので、今日は通訳しません」は、我々の世界では許されない。万一そんなことをすれば、当然その案件の通訳料(CDプレーヤーの本体代金に相当)はもらえない。通訳していないので。その上さらに「機嫌を直してほしいなら、追加料金(修理代+出張引き取り料に相当)を払い、しかもお盆明けしばらく経った頃まで待つように」はなおさら通らない。通訳が必要となっている会議は、そのときにはもう終わってしまいます。

ーーー

機械は壊れるものであって、それを人間(通訳者)と同列に並べることは出来ないのは分かる。でも、機械の故障はやむを得ないものだとしても、壊れた機械の修理対応は心がけ次第でいくらでも改善出来る。そのメーカーが

「機械は壊れるものなんだから、CDプレーヤーがCDをプレーしなくても当然でしょう」と思うか、あるいは

「機械は壊れるものとはいえ、ウチの製品が壊れてしまい、そのせいでお客さんが困っているなんて恥ずかしい、口惜しい、申し訳ない。一刻も早く直したい!」と思うかどうかの違いだと思う。メーカーの中では恐らく、製品を作っている人は製品に対するプライドを持っているだろうが、修理対応部門でもそのプライドを共有出来ているか、はまた別の問題なのだと思う。

もちろんどのメーカーも口では「修理対応重視、お客様は神さま」と言うだろう。でも、口先だけではなく本当にそう思っているかは、実際の対応方法に現れる。休むなとはもちろん言わないが、ある意味メーカーの生命線とも言える修理窓口ぐらいは交代制にするとかして、何らかの対応が出来るようにする、というのもアリなんじゃないか、と思う。

別にクレームをしたいわけではないんですが、メーカーに修理を依頼するといつもこういうことを考えさせられるので、書いてみました。

# by dantanno | 2017-06-15 17:54 | 提言・発明 | Comments(0)

Let me give you a hand.

夏の間、ロンドンに滞在中。

日本は良くもわるくも「自分の面倒は自分で見る」文化だが、ロンドンに来ると、人間は持ちつ持たれつなんだな、ということに気付く。街で人に親切にされたり、逆に親切にしたり、が日常茶飯事になる。出掛ける度に必ず、必ず(笑)、ちょっとした「人情小咄イベント」が発生する。2人乗りベビーカーで街をウロウロしていると特に。

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親切のギブ・アンド・テイクを日々繰り返していて思うのは、"Can I give you a hand?"(お手伝いしましょうか?)もいいけど、"Let me give you a hand."(手伝いますよ)の方がその100倍親切だ、ってこと。

どちらも親切を申し出る言葉には違いないが、その言葉の受け手からすると、印象は大きく異なる。

前者だと、言われた瞬間、一瞬肩に力が入り、「いえ、大丈夫です・・」と遠慮した方がいいのかどうかの判断を迫られる。でも後者だと一気に脱力し「ああもうありがとうございますたすかります」とどっぷり甘えられる。

# by dantanno | 2017-06-11 09:40 | 自戒ネタ | Comments(0)

どうすればテロを無くせるか

ロンドンでテロ事件が発生した。

この事件の犯人たちは、偽物の爆弾をカラダに巻き付けていた。なぜか?犯行後、自分たちが確実に警察に「殺される」ためだ。殺されずに捕まってしまうと「殉教者」になれないから。

この事件の犯人たちはその望み通り射殺されてしまったので(なんと寂しい人生!)、実際のところどうなのかは分からないが、一般的にこのようなテロ行為をする人たちは神さまを信じていて、自分たちがやっていることは正しいと信じていて、天国を信じていて、このような行為をすれば自分たちは殉教者として天国に行って神さまと会える、と信じている。全部ウソなのに!

我々は犯人たちを「悪い人」と決めつけるが、実際にはそうとは限らない。むしろすごく「いい人」かもしれない。悪いのはこの人たちではなく、宗教だ。

宗教を信じていようがいまいがいい人はいいことをするし、悪い人は悪いことをする。でも、「いい人悪いことをさせる」ためには宗教が必要。
犯人たちは、自分たちが勇気を持って、正しいことを行っている、と固く信じていた。我々一般人が我々のルールに従って「いい人」であろうと日々努力しているのと全く同様、犯人たちは自身のルールに従って「いい人」であろうと願い、勇気を持って行動した「いい人」なのだ。いい人がこういうことをしてしまうから問題なのだ。

この事件を受けイギリスのメイ首相はテロ対策を強化する、と発表した。警備体制や、テロリスト候補者の監視を強化する、とのこと。もちろんそのような対策は必要だが、本質的な解決策にはならない。
言うは易しだが、本質的な解決策はテロ行為をするような人たちに対し「あなたが信じていることは、実は全部ウソなんですよ」ということを伝え、分かってもらうことだ。視野を広げてあげることだ。

仮に我々一般人がテロリストたちにそのようなメッセージを伝えるとする。でも、それを言っている我々自身が天国を信じてしまっていたり、"God save the Queen"とか"In God we trust"とかハレルヤハレルヤ言っていると、非常に説得力が無い。テロリストたちに言わせれば、「たまたま信じている内容が異なるだけで、お前たちも根拠無く何かを信じている、という意味では我々と同じではないか。だったら我々も根拠無く「テロ行為をすれば殉教者として天国に行ける」と信じてもいいではないか。信仰の自由万歳!」ということになってしまう。

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子供根拠無く何かを信じることをやめればテロ行為は無くなる。
子供たちに対し「神さまはいる、天国はある、いい子にしていれば天国に行ける」と洗脳することをやめるべきだ。子供時代にそのような洗脳を受けると、その後大人になってからは非常に洗脳から脱しにくいことは、我々大人たちが身をもって証明している。

「我々一般人の信仰は(テロリストのそれとは違い)人に害を与えないからいいではないか」という意見は一見もっともだが、根拠無く何かを信じることを肯定する、という意味で結果的にテロリズムを後押しすることになる。テロは、その加害者側のみならず、被害者側も同じような根拠レスな信仰を抱いてしまっているから厄介だ。神さまを信じる者がテロ行為を起こすと、被害者側は「神に祈りましょう」となる。そんな状態だから、テロの問題は非常に解決しにくい。

そして、宗教を批判することにはものすごく強い抵抗感が伴う。でも、「宗教を批判してはいけない」というのも根拠無き思い込みの一つだ。我々が小さい頃から「宗教を批判してはいけない」と洗脳されてきた結果だと思う。宗教は文字通り聖域であり、それを批判することはタブー、という思い込みを信者はもちろん、信者以外にも持たせることに成功した、という点で宗教はすごい。でも、そうした思い込みから逃れることが前に進む第一歩になるのではないかと思う。



# by dantanno | 2017-06-05 21:31 | 提言・発明 | Comments(0)

日本に入国するときの黄色い紙

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日本に入国する全ての人が記入する、あの黄色い紙。

正確には「携帯品・別送品申告書」というらしいです。



外国人であれば、この黄色い紙に加え、入国用の書類がもう一つあるので、計2枚に記入する必要があります。2枚もの書類に記入を求める国って、ちょっと他に思い当たりません。
しかも、「氏名」とか「旅券番号」とか、2枚の書類の間で重複している項目がたくさんあって、外国の人からすると「さっき書いたじゃん・・・」みたいな、「おもてなし」に反する状況になっているものと推測します。

でも、それはいいです。



税関のウェブサイト曰く、この黄色い紙の目的の一つが「テロの未然防止」だそうです。
確かに、裏面に銃についての記載があります。でも、この申告書に銃の持ち込みについて記入・申告するなんて、ずいぶん真面目なテロリストだなあ、と思ってしまいます。

まあでも、それもいいです。



国によっては、外国人であっても、一枚の書類も記入せずに入国できる国もあります。オランダとか。
そう考えると、本当にこういった書類の記入・提出が必要なのかどうか、という思いも頭をよぎります。

でも、そんなことはどうだっていいんです、別に。



この黄色い紙について、僕がどうしても引っかかるのは「入国日」の欄。



長いフライトでフラフラになりながら、はるばる外国から時差を越えてやって来た旅人に対し


「今日は何月何日だ」



を問うのって、はたしてどうなのかな、と思うんです。



みなさんはどうか分かりませんが、僕は必ず(えーーーっと、何日だっけ?)みたいな状況になっていて、間違えたら大変だからカバンから旅程表を引っ張り出して(あ、今日は*月*日か)と確認し、記入しています。

そうした(えーーーっと)的なプロセスが、日本に入国する全ての人ではないにしても、その何割かの人が(えーーーっと)とやっていることを考えると、、、それだけの犠牲の上に成り立っているわけですから、次に思うのは「日付の記入って、本当に本当に必要なんですよね?」ということです。

入国時に書類の記入を求める国は日本以外にもありますが、「日付」を記入させる例は、少なくとも僕は、日本以外に思い当たらない。

本当に日付の記入は必要なのか。



毎日、羽田・成田およびその他の全ての空港等の施設で、国籍を問わず、入国する人全員が提出しているわけですから、きっと日々膨大な数の黄色い紙が集められていますよね。

それを、例えば今日であれば「5月16日」という箱に入れるなり、書類の束に「5月16日」と書いた付箋を1枚貼るなりすれば済むことではないのか。本当に一枚一枚の書類全てに「日付」を記入させる必要があるのかどうか。

しかも、多くの場合書き手が(えーーーっと、今日は何日だっけ?)と悩んだ結果記入した日付ですから、本当に正確なのかどうか、あてにならない。



僕にもう少し勇気があれば、税関の職員の方に「日付って本当に必要でしょうか」と問題提起が出来るんでしょうが、今日現在、まだそれは出来ていません。

# by dantanno | 2017-05-16 11:19 | 提言・発明 | Comments(0)

死ぬことは、生きることと似たりと見つけたり

今から一年ほど前、母を亡くしました。
自分が初めて経験する身近な人の死。その過程で思ったことを書いてみます。

<背景>
母は、血液のガンで2年ほど闘病していました。それが治らない病気であることは本人も分かっていました。
入退院を繰り返していましたが、あるとき検査入院をしている途中に容態が急変しました。頭の中で出血が起き、意識が無くなり、我々家族が病院に呼び集められました。結局、夜を徹した緊急手術(6時間!)が成功し、何日か経ってようやく意識が少しだけ戻りました。その後、一ヶ月ぐらい一進一退を繰り返した後、安らかに亡くなりました。

というのがおおまかな背景です。では、思ったことを書いていきます。

<延命は(必ずしも)本人のためならず>
長く病状が安定していて元気に活動していた母が、頭内の出血により急に意識を失いました。病院に呼び集められた我々家族は、手術をするかどうか、決断を迫られました。

手術をするとなると、いろいろなリスクがありました。手術の際、血管が損傷し状況がさらに悪化してしまうかもしれない。カラダが既に相当弱っているため、全身麻酔から抜けることが出来ず、そのまま亡くなるかもしれない。仮に手術自体がうまく行ったとしても、その後肺炎等が起きて亡くなってしまうかもしれない。いずれにせよ、仮に手術が成功しても病状が大きく回復することはなく、これは延命のための手術でしかない、とのことでした。

じゃあ、手術をしなければどうなるのか。医師の説明は「はっきりしたことは言えませんが、数日中に亡くなる可能性が高いでしょう」とのことでした。で、どちらにしますか、とのこと。

この時点で、僕は少し腹を立てました。手術をしなければ恐らく数日中に亡くなるのであれば、例え諸々のリスクがあったとしても、手術をするに決まっているではないか。それを、まるでフィフティー・フィフティーの選択であるかのように我々家族に尋ねてくるのはどういうことか。当時はそう思ったんです。

結果的に手術は成功し、母はときおり意識を取り戻すところまで回復しました。でも、意識が100%戻ったわけではなかったし、寝たきりの状態が続き、その後しばらくして亡くなりました。医師の言った「延命のための手術でしかない」の言葉通りでした。

そのプロセスを経て考えたのは、(果たして母本人は、あの手術を望んだだろうか)ということ。

どうしますか、という医師の言葉に対し(選択の余地など無いではないか)とちょっと腹を立てていた僕ですが、その時の自分は他ならぬ母の気持ちを考えていたのかな、と。恥ずかしながら、あまり考えられませんでした。
結果的に母はうっすらと意識を取り戻したわけですが、それは我々家族や母の友人のために、一時的に「戻ってきてくれた」とも言える。でも母自身にとっては、長時間に渡る手術はもちろん、その後過ごした一月ほども相当な負担だったはずで、我々家族の一存で「当然手術するでしょう」と決めつけるのはおかしかったかな、と思いました。結果的に同じ結論になったとしても、結論に至るプロセスで母の意志に思いを馳せる瞬間があってもよかったな、と感じました。

<毎日がヤマだと、スケジュール管理が難しい>
よくTVドラマとかで、医者が家族に対し「今晩がヤマです」みたいに言ったりするシーンがあります。それを受け、家族は取るものも取りあえず病院に駆け付けることになります。実際にそういうシチュエーションもあるのでしょうが、ウチの場合、「今晩がヤマ」ではなく、毎晩がヤマでした。
母が最初に意識を失ったときに病院に呼ばれた日はもちろんヤマでしたが、その後もいつ何があるか分からない状態が数週間に渡り続きました。病院からも頻繁に「ちょっと状況がよくないので、ご家族のどなたか来てください」との呼び出しがありました。
小康状態を保っていた時期もわずかながらありましたが、基本的に「今日も、明日も、その次もまたヤマ」という状態が続きました。

そういう状態になると、家族にとって、予定の入れ方が非常に難しくなってきます。「今晩がヤマ」なら全てを投げ出して駆け付ければいいのかもしれませんが、ヒマラヤ山脈みたいにヤマが脈々と続いているときに、自分の予定をどうしていけばいいのか。今後入れる/入れないを判断出来る予定もありますが、ヤマ状態になる前から入っていた先約もあります。それをごめんなさい、やっぱり出来ませんというのか、日程を変えてもらったり他の人に代わってもらったりするのか。

例えば僕の場合、かなり前から予定されていた海外出張を他の通訳者に代わってもらいました。どうしても行けないのか、というとそんなことはないし、自分が日本に残ったからといって母の状況を大きく改善させることが出来るのか、と言えばそんなこともありません。クライアントとの信用問題でもありますからかなり悩みましたが、結局ワガママを言って他の通訳者に代わってもらいました。

自分のプロ意識とか、家族についての考え方とか、いろいろと考えさせられました。

<次は自分の番>
親が元気な内は、なかなか子供である自分の死をイメージしにくい。でも、親が亡くなると「次は自分だ」という意識が強く芽生えました。

嬉々として退院して行く人と、退院出来ずに残る人との間には、実はそれほど大差が無い>
宇宙の歴史と比べれば、我々の人生なんてどの道ほとんどゼロ。ゼロとゼロの間に大差は無い。

<どうせ死ぬんだ>
これは、必ずしもネガティブな、ヤケのヤンパチ的な思いではなく、むしろポジティブ。どうせ死ぬんだから、この地球上で与えられた僅かな時間、もっと好きなことをして生きようと思いました。

また、より現実的な話でいくと、例えば食生活。母の食生活は非常に健康的で、栄養のあるものをちゃんと適量食べ、ジャンクフード、酒、たばこなどは一切やりませんでした。それでも病気になるときは病気になるし、事故に遭うときは事故に遭う。だったら、今目の前にカツ丼(大盛り)と生ビールが置いてあったら、どうせ死ぬんだから、あまり後ろめたく思わずにガンガン食べちゃってもいいのかな、とちょっと思いました。

<俺はなにをやってるんだ>
意識が無く、病院のベッドで寝たきりの状態の母。
その母の病室に向かう途中すれ違った、僕と同い年ぐらいかもしれない、やつれきった女性。
廊下で遊ぶ、髪の毛が全部抜けた状態の、車いすの子供たち。まだ小さな子供たち。

それに対し、自分は自由に外の世界の、当時春だったので暖かい春の日差しの中に飛び出していき、好きなことが出来る。走り回ったり、旅をしたり、苦痛の無い状態でものを考えたり、なんでも出来る。それをどこか申し訳なく/後ろめたく思うと同時に、そんなに自由なのに、自分は日々一体なにをやっているんだろう、と強く感じました。もっと時間を有効活用しないと・・・的なことを越えた、何か根本的な問題意識を当時感じました。

これには後日談があって、あのときあんなに強く(自分はなにをやっているんだ)と思ったはずなのに、その後一年、僕の日々の暮らしぶりは特に変わっていない。なんなんでしょうね。でもその問題意識は間違い無く自分の中に存在しているので、そのうちなんとかするのかもしれません。

<面会時間の制限について>
今まで、入院している人を見舞いに病院に行って、面会時間外だったためにお会い出来なかったことがありました。ちゃんと事前に調べてから行けばよかったわけですが、心が狭い僕は、(なんで面会時間をそこまで制限するんだ)とちょっと不満に思ったりもしました。

面会時間の制限は、患者本人の負担を軽減することに加え、病院のオペレーション上必要な面もあると思います。そして今回の経験で気付いたのは、病人の家族のためのものでもある、ということ。
24時間いつでも面会・見舞いに行けてしまうと、キリがなくなります。面会時間の制限があるおかげで、(ああ、もう時間制限が来ちゃうから家に帰らないと・・・)と、心の中での言い訳が出来る。これは、特に我々のケースのように入院期間がある程度長期に渡る場合において、家族の精神衛生上とても大事なことだと思いました。

<悲しくない>
昔、付き合っていた女性に「あなたには感情が無いのよ!」と言われ、(ふーん、そうなのか)と無感情に思った記憶があります。
確かに自分にはそういうところがあって、今回、母が亡くなる過程で他の家族が悲しんでいる中、僕は悲しみを感じませんでした。

なぜ悲しくないのか。(自分はきっと、気持ちに無理にフタをしているんだろう)とか、(今は悲しみを感じないけど、きっと後からドッと来るはず)と当時は思いましたが、あまりそういうことでもなさそうです。本当に悲しくない。当時も今も。それはなぜなのか考えました。

当時、母が闘病しているさなかに、二人目の子供が産まれました。家族はもちろん、多くの人が「とても喜ばしいこと」として喜び、祝福してくれました。

とても大切な人の誕生と、とても大切な人の死を短時間の内に両方経験し、生と死についていろいろ思いを馳せました。その結果至った、今のところの僕の結論は、「生と死はとても似ている」ということ。生が「+1」で死が「−1」だとしたら、符号の向きが逆なだけであって、要は同じことなのかな、と思いました。まあ、符号の向きが逆なのが問題なわけですが。

別の言い方をすると、人生は一冊の本のようなものであって、生はその1ページ目、死はその最後のページだと思いました。

今、手元にとてもステキな本(≓人生)があるとします。その1ページ目はとても素晴らしく、喜びと輝きに満ちたものである一方、その最後のページはとても悲しく、イヤで、涙涙なものである、というのはなんだかおかしい気がするんです。1ページ目も2ページ目も、そして最後のページもその前のページも、全て等しく「1ページ」であり、そのステキな本を構成する大事な一部です。

「だから、悲しむ必要なんて無いんじゃないか」的な話を当時、嘆き悲しんでいた弟にしました。すると、「別に、必要があるから悲しんでるわけじゃないんだよね」と返されました。もっともですね。


(母の手帳に貼ってあった紙)
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<死は救いでもある>
本人にとって、そして家族にとって、死は救いでもあると感じました。

<本当に戦っているのは誰か>
ちょっと話が横道にそれます。
母が入院していた病院は、大手新聞社の本社ビルの隣にありました。その新聞社に抗議をするため、街宣車に乗った人たちが連日やって来て、高層階にある母の病室までハッキリと聞こえる大音量で軍歌を鳴らし続け、連日「○○新聞ふざけんなゴルア〜!」的にがなり立てていました。

まず思ったのは、これって合法なのかな、ということ。病院の隣でこういうことをするのは許されるのか、と。
まあでもきっと合法なのでしょう、残念ながら。パトカーも温かく見守ってたし。だとしたら今後は、その人たちの持つモラルに期待します。大きな日の丸を掲げる彼らが本当に我々日本人のことを思いやってくれるならば、その行動もいずれ変わってくると思います。

もう一つ、強く感じたのは、(本当に戦っているのは誰か)ということでした。

その人たちは、みな迷彩服や特攻服に身を包み、勇ましい軍歌を流しています。一見、とても「戦っている」ように見えます。でも、その様子を上から眺めている僕には、本当に戦っているのは決してこの人たちではない、と感じました。本当に戦っているのはウチの母であり、車いすの子供たちやそのご家族です。また、患者たちを救ったり延命させようと、外から漏れ入る大騒音の中、懸命にがんばっている医師や看護師たちです。

ある人が本当に戦っているかは、決してその見た目では分からないことを学びました。

<亡くなる前に、いろいろと話をしておいた方がいい>
今回の我々のケースでは、前述の通り母が「戻ってきてくれた」こともあり、亡くなる前に言っておきたいことなどをある程度言えた気がするし、心の準備も少し出来ました。でも、それでも一定の心残りというか、もっと聞いておきたかった、言っておきたかったことはあります。

我々のようなケースでもそうですから、例えばもっと若くして亡くなってしまった場合とか、事故などで突然亡くなってしまった場合とか、残された家族の心残り感はとても大きいだろう、と思います。
だからこそ、亡くなる前にいろいろと話をしておいた方がいい。

話しておくべきテーマは、まずは自分の死後、どうしてほしいのか、ということですよね。お葬式とか財産とか事業の承継・処理とか。

もう一つ話しておくべきテーマは、死後についてではなく、今この瞬間のこと、そして今までについてだと思います。感謝の気持ちとか、あなたはとても大事な存在であるとか、あのときはごめんなさいとか、そういうこと。あるいは、「お父さんはあのとき、どういう考えでああしたの?」とか、「お母さん、人生で一番大事なことってなんだと思う?」とか、別になんでもいいですけど、そういう超照れくさい話です。そういったことはぜひ亡くなる前に話しておいた方がいい。亡くなったらもう話せないから。

死後どうしてほしいとか、今までありがとうとか、そういう話は非常にしにくい。だから、ほっておいたらそういう話にはならない。そういう話がされないまま亡くなってしまいます。だからこそ、例えば親子間であれば親サイド、あるいは子サイドから相手方に「そういう話をしよう」と持ちかける必要があります。

では、親サイド・子サイド、どっちから話を持ちかければいいのか。どちらサイドから切り出すのも非常に難しいですが、子サイドから切り出すのは尚難しいと思います。「ねえねえ、オヤジが死んだ後のことだけどさあ・・・」 → 「なに!俺はもうすぐ死ぬのか!」とか、「財産目当てか?!」みたいな誤解が生じるかもしれません。それに、前述の通り「死」というものをよりリアルにイメージ出来るのは子供ではなく親です。

だから、出来れば親から子供に対し、ちょっと照れくさいし、まだ気が早いと思うけど、今の内からそういう話をしておこうよ、と持ちかけてほしいです、まだまだ元気な内に。

<最後に>
長く続く入院生活、看病生活。母本人はもちろん、家族も徐々にしんどさが増していきます。今後、多少の状況改善はあるかもしれないものの、根本的な治療・回復は見込めないだけになおのこと。

そんなある日、うっすらとしか意識が無い母親を見守りながら、パイプ椅子で僕がウトウトしかけていると、看護師さんが一人、病室に入ってきました。

(点滴を取り替えるのかな、採血かな)などと思いながら見ていると、看護師さんは母のところに行き、その手をさすりながら

丹埜さん、こんにちは〜、聞こえるかなあ。
あたしね、今日は担当じゃないんだけど、ちょっと気になったから様子見に来たよ〜。
今日は調子よさそうだね、よかったよかった。じゃ、また来るからね〜

と言って、パタパタと病室を後にして出て行きました。

それは実に突然の出来事で、かつ、看護師さんの立ち回りがあまりにも自然で、そして、いろいろとしんどいことばかりが続く病院生活の中であまり無いうれしい出来事だったため、僕はついあっけにとられ、「あ、あ、」で止まってしまい、ちゃんとお礼を言えませんでした。もし今看護師さんを追いかけて、廊下でお礼を言ったら泣いてしまいそうな気がして、追いかけられませんでした。

だから、ここで改めてお礼を言いたいです。あのときの、その日当番ではなかったのに立ち寄ってくれた看護師さん、母をシャワーに入れてくれた看護師さん、母が亡くなったときにカラダを拭いてくれ、合掌してくれた看護師さんたち、そして一生懸命努力してくれた医師の方々、本当にありがとうございました。

そしてお母さん、最期までみんなのためにがんばってくれてありがとう。


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# by dantanno | 2017-03-15 22:51 | プライベート | Comments(4)

アカパカーフィください!

脳研究者の池谷裕二氏が書いた本を読みました。

日本人が英語を話す際、例えばニューヨークのカフェでコーヒーを飲みたいとして、どうしても
”A cup of coffee”を
「ア・カップ・オブ・コーヒー」と言ってしまいがちなわけですが、それをね、もういっそのこと
「アカパカーフィ」って言っちゃえばいい、むしろその方が通じる!っていう本です、簡単に言うと。

著者自身が留学時代、大変な想いをした経験が本書の元になっていて、実におもしろい。

ーーー

アカパカーフィ以外にもいくつか例を紹介しますね。

I have to do my best.
× アイ・ハフ・トゥー・ドゥー・マイ・ベスト。
◎ アイハフタドゥマイベスッ。

Can you take our picture?
× キャン・ユー・テイク・アワ・ピクチャー?
◎ ケニュテイカワペクチョ?

I got it!
× アイ・ゴット・イット!
◎ アイガーレッ!

一事が万事、この調子。

ーーー

著者がこの本で言っていることは、別にそんなに「新しい」ことではありません。
昔、What time is it now? → 掘った芋いじるな?が流行った時期があったのを覚えている方もいるかもしれません。あれと同じ考え方ですよね。

でも著者が称賛に値するのは、そこに法則性を見出している、という点です。

単に「よく使う英語のフレーズをいくつか持って来て、それらを著者提唱の「カタカナ読み」つまりアカパカーフィ読みした場合どうなるか」を列挙しているだけでもおもしろいんだけど、それだけじゃないんですよ。その裏にある普遍的な法則をいくつか見出し、まとめている点がすばらしい。やっぱり頭いいんですね。

一見それぞれ個別に存在する現象の、その裏にある共通の法則性を見出す、というプロセスは、我々通訳者が行う「ことばの抽象化・概念化」と似ていて、それが上手に出来る人に憧れを感じます。会議の場で、ある人が話した内容が一見○△×と個別バラバラだとしても、それらに共通する点や、それらが向かっている方向を察知し「要はこういうことですよね」を瞬時に見抜き、それを訳の背骨に位置付けた上で訳の構成を考えられる通訳者がたまにいて、そういう通訳を聞いているとすごく意思を感じるし、会議参加者にとってもありがたい存在だろうなあ、と思います。話が逸れました。

ーーー

この本を読んで、僕の感情は
1.(笑)
2.驚き
3.怒り
と三段階で推移しました。

1.最初のリアクションは爆笑でした。著者提唱のカタカナ英語(すなわちアカパカーフィ)がいちいちおかしくて、笑いっぱなし。

2.次に来たのが「でも、確かにアカパカーフィの方が通じる!」という驚きです。実際、この本に書いてあるいろいろなフレーズを口にし、自分の中のスイッチを「外国人」側にして聞いてみると、確かにそっちの方が分かりやすい、というものばかりなんです。

3.怒り。なんで日本の学校では「ア・カップ・オブ・コーヒー」と発音するように教えるんだ!。
言い方を変えると、なんで"A cup of coffee"という英語を(実際の発音方法とかけ離れた)「ア・カップ・オブ・コーヒー」というカタカナに落とし込もう、と決めたのか!

ーーー

この本が指摘しているのは、ローマ字表記の弊害なんですよね、要するに。

Coffeeという英語をカタカナにする際、2つやり方があって、

1.「カーフィ」: 外国人がCoffeeと言う際、実際にどのような発音をしているかを聞き、それを一番近いカタカナに落とし込む方法

2.「コーヒー」: 本場の外国人がCoffeeをどのように発音しているかなんてどうだっていいから、Coffeeという表記を、ローマ字表記のルールに従ってカタカナに落とし込む方法

どう考えても1.の方がいいのに決まってるのに、なんで2.のやり方でやってるんですかね。100年ぐらい前にどこかの会議室で専門家のおじいちゃんたちが決めたルールなんでしょうが、なんでそんなヘンなルールにしたのかをあれこれ考えていてもしょうがないので、この本に書いてある法則に従い、一刻も早く「カーフィ」的な発音に移行した方がいいと思います、日本の人たちは。

実際、日本企業のマネジメントの方々と一緒にIRで海外に行って、その人たちがレストランでがんばって自分で英語で注文するケースもあるんですよ。いいな、すばらしいな、と思って眺めていると、せっかくちゃんと「コーヒー」とか言ってるのに店員さんが???みたいになることが結構あって、これってやっぱり(英語から)カタカナへの落とし込み方がおかしいんだろうなあ、、、と漠然と感じていたところに本書に行き当たったものですから、非常にうれしかった。

ーーー

本書後半の、
バイリンガルの人の頭の中がどうなっているかとか、
日本人の英語下手は関税以上の効果がある、とか、
ことばは外的やり取りだけでなく「内的思考のツールでもある」、
といったセクションも非常に興味深い。

ことばに興味ある人におすすめです。

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# by dantanno | 2016-11-21 01:16 | プレミアム通訳者への道 | Comments(0)

買い物のヒット率

洋服とか、家電とか、本とか。

何かモノを買って、それが「買ってよかった♪」となるか、「買わなきゃよかった・・・」となるか、そのヒット率すなわち打率は何割ぐらいか。その打率は、世間一般では大体何割ぐらいで、自分に限って言うと何割ぐらいか。

あまり考えてみたことが無かったが、いざ考えてみると、打率はそんなに高くはないだろう、と思う。こと自分に限っては、それほど深く考えずにモノを買うことも多いし、ネットで、実際のモノを手に取らずに買うこともある。本などは、その性質上、中身をよく知らずに買うことになる。それらの背景を総合すると、買い物の全部が全部「買ってよかった♪」となるはずがない。打率は結構低いはずだ。


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自分の「買い物打率」を、仮に3割程度とする。一流の野球選手の打率だってそれぐらいなわけで、自分の買い物打率はそれを超えないだろう、というのは妥当な線のような気がする。

では、自分がそうやって買ったいろいろなモノを「捨てる」割合はどれくらいか?
洋服、家電、本を計10個買ったとして、その内どれくらいを比較的早いタイミングで捨てているか。損切りしているか。

ちなみにここで言う「捨てる」は、寿命が来たから捨てるとか、壊れたから捨てるとか、あるいは引っ越しとか年末の大掃除のタイミングで思い切って捨てる、といった捨て方は含めていない。そうではなくて、買い物をした後、比較的早いタイミングで「これは失敗だった」という認識のもと、損切りの気持ちで捨てるという、そういった「捨てる」を指している。

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買い物の「打率」が仮に3割だとすると、残りの7割は「失敗」ということになる。そして、その買い物が「失敗」だったことに、我々は実は結構早いタイミングで気付いているはずだ(気付こうとしていれば、の話だが)。と考えると、買ったモノの約7割を、買った後比較的早いタイミングで損切りをして捨てていてもおかしくない。でも、実際はそんなに捨てていない。自分の場合、7割どころか3割も、、、いや、1割も損切り的な捨て方をしていない気がする。しかし、冒頭で論じた自分の「買い物の打率の低さ」を考慮すると、買ったモノの内7割とか、かなり高い割合のモノを損切り的に捨てているべきというか、はずであって、それをしていないのはおかしい、ということになる。
なぜ損切り的に捨てていないのか。

<買い物が失敗だった、と認めたくない>
心のどこかで「この買い物は失敗だった」と分かっているのに、それを認めたくない。認めてしまうと、失敗だったという事実に向き合わないといけなくなり、自分を否定することになる(ような気がする)から。実際は買い物の失敗=自分の否定、みたいに結びつける必要なんて全然無いんですけどね。

<考えたことが無い>
自分の買い物の打率が結構低い、という事実に気付いていない。っていうか、今まで考えたことが無い。

<「反・断捨離」的思考>
「捨てるのがもったいない」とか「いつか使うかも」とか「誰かにあげたら喜ばれるかもしれないから一応取っておく」といった、通常の「反・断捨離」的なものの考え方

とりあえず思い付いたのは上記3つだが、いずれも自分にしっかりとあてはまっていると思う。

ーーー

買い物もそうだし、人生もそうだが、「やってみなきゃ分からない」という面がある。買い物の例で言えば、実際にそのモノを買ってみて、手に取ったり、家に置いて眺めてみたり、日常的に使ってみたりして初めて「自分にはこれは要らない」とか「これは自分に合っていない」、そして「自分がほしいのはこれではなく、○○だ!」と気付くこともたくさんある。だから、「やってみる」ことは悪いことではなく、むしろいいこと。そして、挑戦に失敗はつきもの。つきなみな言葉だが、失敗していないということは挑戦していないことの表れでもある。

だからこそ、まずは自分の打率の低さを自覚した上で、その買い物が果たして自分にとって成功だったのか失敗だったのかを冷静に吟味して、失敗だったと判断したなら潔く損切りをし、前に進む、そういうやり方をしていこうと思った。買い物においても、人生においても。

# by dantanno | 2016-11-07 16:00 | プライベート | Comments(0)

「どうしても理解出来ない」という気持ちを大事にする(と、たまにいいこともある)

世の中の仕組みとか、もののあり方について、個人的に
「どうしても理解出来ない、納得が行かない」
ことってあるじゃないですか、たまに。
なんでそうなってるのかがどうしても分からない、みたいなとき。

そういうときって、大体の場合、理解出来ない自分の方が悪いというか、いい/悪いの問題ではないのかもしれないけど、要は自分がおかしいわけです。僕が何かを理解出来なかったり納得出来ない場合、ほとんどのケースにおいては何かしら僕の知識・視点・経験が欠けているから「おかしい」と思い込んでいるだけで、実はおかしいのは自分だったりします。



けど、ごくごくたまにその「理解出来ない、納得出来ない」という気持ちが正しかったことが判明することがあります。正しかったっていうほどではないんですけど、完全に間違っていたわけではなかった、と気付くこともある、という感じですね。ささやかな事例をあげて、その話をしたいです、今日は。



ーーー



カーナビの画面。
昔からずっと「なんで横長なの?縦長になればいいのに」と願ってきました。

(2011年10月に書いた記事)


その後、まずTeslaがやってくれて、


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今日ネットを見ていたら、なんとあのトヨタも!


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サイコーにうれしいです。



何かの事象について、自分の頭でどんなに一生懸命考えても「今、そうなっている理由」が思い付かず、人に尋ねてみてもどこからも納得の行く回答が得られず、その後何年もしっくり来ないという、そういう寂しい状態がずっと続く問題が僕の中で複数存在していて、その内容は実にしょうもない話から結構本質的な話までいろいろあって、横長のカーナビもそんな問題の一つだったわけですが、そういう問題って、その後解決されることもあるんだな、と勇気づけられました。

もう一つ、この話が僕にもたらす効果として「お前は意外とフツーなんだよ」という、僕的にはそれほどありがたくない(でもある意味安心する)メッセージの発信、という面もあります。縦長のカーナビを希望しているのがこの世で僕一人であれば、きっとカーナビはずっと横長のままのはずです。僕以外にも「縦長の方がいいじゃん」と思う人が複数いるからこそ縦長のカーナビが生まれるわけで、そう考えると僕の発想は決してそんなに突飛でエキセントリックではなく、意外とフツーである、ということになります。僕のように、自分が変わった人間であることを誇り(?)に思っている人からすると、実は結構フツーだったというのは正直ガッカリな面もあるんですが、その一方でちょっとうれしいというか、安心するところもあります。



このカーナビ云々の話はとても小さな話です。カーナビの画面については、それが縦長になったとしても、僕はTeslaあるいはプリウスの一ユーザーとしてのメリットを享受するだけです(あと、横長はおかしいとずっと思い続けていた自分が100%間違っていたわけではない、と気付かせてもらえるのがちょっとうれしい。)

でも、人生や仕事のもっと本質的なところで、自分自身の「これは理解出来ない、納得出来ない」という気持ちにずっと固執し続け、考え続ければ、とても大きな花が開くこともありうることを示唆している、そんな出来事のような気がします。


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# by dantanno | 2016-11-03 01:42 | 提言・発明 | Comments(0)

「勝つIR」のための資料作り

通訳者になって早8年。

その間、ずっとIR通訳をしてきました。


数えきれないほどのIRミーティングを経験し、数えきれないほどのIR資料を見てきました。


ーーー


IRのミーティングは資料を使って行われます。以下IR資料」と呼びます。


IR資料というのはどういう資料かというと、最近行われた決算説明会のプレゼン資料や、現在進行中の中期経営計画のプレゼン資料などを使うことが多いです。


みなさんも、試しに「IR資料」で検索してみると、いろいろな上場企業のIR資料が表示されます。


ーーー


IR資料をたくさん目にして来ただけでなく、実際にその資料を持って海外に出掛けて行って、その会社の社長やIR担当者たちと一緒に外国人投資家を訪問し、IRをしてきました。自分で作っているわけではありませんが、IR資料は僕にとって大事な大事な仕事道具です。


ーーー


そんなIR資料たちを手に取り、目を通し、一緒に戦ってきて、

「この資料、こうすればもっと良くなるのに・・・」

と思うことがしばしばあります。


今日は、そんなIR資料に関するお話です。


ーーー


もちろんIR関係者に読んでほしいです。「IRあるある」的な話もお楽しみいただけるかもしれません。でも、IRとは無縁の人たちにもぜひ読んでほしい。

というのも、IR資料は要するにプレゼン資料であり、この記事はプレゼン資料全般にも通じる話だと思うからです。

また、もっと広くとらえれば、コミュニケーション全般に通じる話でもあると思います。だから、IR関係者以外の方にも参考になる部分が、もしかしたらあるかもしれないと思うんです。


ーーー


IR資料について、僕が感じる問題点は6つあります。



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1.「メッセージ」と「データ」の混在


一週間に渡って繰り広げられる海外IRの、初日の朝一番。

訪問先都市のホテルのロビーで、15分程度の通訳ブリーフィングが行われます。


ブリーフィングの場では、企業のマネジメントの方から通訳者に向けて何か説明したいこと・注意点などがあればそれが伝達され、一方通訳者サイドから企業に対し確認したい事項があればそれを確認します。

通訳ブリーフィングの場で、僕が唯一企業に質問するのは「今回のIRで、投資家に一番伝えたいメッセージはなんですか?」ということです。


さて、本題のIR資料に話を戻します。そのIR資料において企業が言いたいこと、投資家たちに伝えたいこと、それを「メッセージ」と呼ぶことにします。

一方、「なぜそうなのか」とか、「そう思う根拠は何か」といった、そのメッセージの裏付けとなる基本情報、あるいは足もとのマーケット環境に関するデータなど、そういう情報を以下では「データ」と呼ぶことにします。


メッセージとデータは、密接に関係しています。

でも、まったく別のものです。性質が異なるものです。


メッセージは「想い」であり「願い」です。これから起きる未来の話です。カラフルで、すごく情熱的です。

一方、データは単なる「事実」です。既に起きた過去の話です。色は白黒で、とても冷静沈着です。


そんな全く性質の異なるメッセージとデータが、IR資料の中でゴッチャゴチャになってしまっている例が散見されます。散らかった家と同じです。

読み手は、その資料を読みながら、どこがメッセージでどこがデータなのか、をいちいち判断しながら読むことを求められます。あるいは、そもそもそのような区別をすることなく、資料全体をベチャーッと眺めることになります。


ーーー


メッセージとデータは分けた方がいい。

家の掃除に例えれば、メッセージとデータを分けることは「整理整頓」であり、「適切な収納」です。


そして、収納以前の問題として「情報量が多すぎる」という問題もあります。これはメッセージについてもデータについても言えますが、企業がそのIR資料に盛り込もうとしている情報量が多すぎて、家の例で言うと、モノで溢れかえってしまっていて、今ほしいもの・必要なものがどこにあるか分からない状態になってしまっていることが多いです。ゴチャゴチャしていて、心が落ち着かない・ときめかない状態です。最近話題の「片付け」本でも、「収納方法を考える前に、まずモノの絶対量を減らせ」と説いているものが多いですよね。それが出来ていない。




2.「全ページロゴ」問題


会社のロゴってあるじゃないですか。あれをIR資料の表紙に入れるのはいいと思うんですよ。なんとなく分かるんですよ。

でも、その後プレゼン本編の1ページ目、2ページ目、3ページ目、、、あれれ、全ページにロゴが入ってる。これって本当に全ページに入れる必要ありますかね。


「いいじゃん、別に。そんなに目立つわけじゃないし」ということであればまあいいのかもしれません。確かに、一見そんなにたいした問題ではない。でも、これは実はより本質的な問題の「氷山の一角」でしかないと思うんです。

(それに、もし本当に「そんなに目立たないロゴ」なのであれば、その存在感の薄さがそれはそれで気になります。)


なんで全ページに自社のロゴを入れるのか。

投資家が、プレゼンを聞きながら、「あれ?今オレはどこの会社のプレゼンを聞いてるんだっけ??」と混乱してしまったとき用?そんな投資家はどうせ投資してくれませんから、さっさと次のミーティングに行きましょう。


ーーー


IR資料の全てのページにロゴを入れるのは、そもそもあんまり深く考えた結果ではないと思うんですよ。多分、なんとなくロゴを入れてるんじゃないかと推測します。会社指定のプレゼンフォーマットにデフォルトでロゴが入っちゃってる、というケースもあるでしょう。


でも、IR資料に限らずプレゼン資料というのは、もっと繊細に・慎重に取り扱うべきだと思います。


IR資料って、コンビニの売り場みたいなものだと思うんです。「狭い売り場面積をなんとか有効活用しようと知恵を絞るコンビニの店内」であるべきだと思うんです。


・この商品は売れ筋か死に筋か

・どう配列すれば、もっと売れるのか。どうすればお客さんにとっての魅力が高まるのか。


コンビニの本部および店舗の方々は、きっと日々そういうことを考えているはずです。売り場の面積をどんどん広くして、棚をどんどん増やして、置ける商材を増やせばいい、という問題ではないはずです、小売業においては。


IR資料の作り手もそういうことに一生懸命頭を悩ませるべきであって、

「あ、ここちょっとスペース空いてるからロゴでもぶっこんどくか」

ではいけないと思うんですよね、IR資料は。


ーーー


これは「アピールの仕方」の問題でもあると思います。

プレゼン資料の全てのページに挿入されたロゴを眺めていると、僕は日本の選挙カーを思い出します。政策を論じるのではなく、候補者の名前をひたすら大音量で連呼しているだけのように思える。ちょっと無理やり結びつけすぎかもしれませんが。


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IRは選挙カーなんかであってほしくない。

IRは、相手候補者との建設的なディベートであってほしい。あるいは駅前で、耳を傾ける人があまりいなくても一生懸命、誠意をもって自分の政策・信念を語る街頭演説であってほしい。自分のメッセージや考え方を丁寧に相手に伝える、それがIR。全ページにロゴを入れまくるのは、まともな政策を欠く候補者が苦し紛れにスピーカーから自分の名前を連呼するのと似ている。それでは勝てないはずだし、仮にそれで勝ててもうれしくない。



3.ページ飛ばし


ロンドンの投資家のオフィスで、今まさにIRミーティングが始まりました。ちょっとのぞいてみましょう。


投資家 Could we start with an update on how things are going with your business, and the recent trends youre seeing in the market?”


それを通訳者が訳します。


通訳者 「まずは最近の御社のビジネスについてのアップデートと、足元のマーケット環境について教えていただけますか?」


IRミーティングにおいて、結構ありがちな始まり方です。

それを受けて企業が


企業 「分かりました。それではすみません、プレゼン資料の23ページをご覧ください。」

通訳者 “OK, please turn to page 23 of the presentation.

投資家 Page 23? OK,,, page 23,,, Right, here we go! → 企業の説明開始


ーーー


普段、訳に夢中であんまり感じないんですが、ときどきふと思うことがあるんです。


「今飛ばされた、122ページたちの立場は?」


って。


ミーティング冒頭での投資家の質問が超マニアック・超変化球だった場合は分かるんですよ、ページ飛ばしも。例えば投資家が「ビジネスの話に入る前に、御社のコーポレート・ガバナンス体制についてちょっと教えていただけますか?」とか、「最近マイナス金利ですけど、調達コストはどうなっていますか?」みたいに切り出したのであれば、「分かりました。それではプレゼン資料の23ページをご覧ください。」っていうのもよく分かるんですよ。でも、ビジネス・アップデートとマーケット環境という、要するにIRの定番中の定番、一丁目一番地の話を求められたのに、それがいきなり23ページに飛ぶとなると、じゃあ表紙と23ページ目の間に挟まってるページたちは一体なんなんだ?って感じるんです。しかも、そういう場合に限って、23ページの説明が終わると「では次に、すみません、少し戻っていただいて17ページをご覧ください」みたいになるんですよね。そうすると今度は「だったらなぜ17ページ目に記載してある内容を23ページの次の24ページ目に記載しない?」と思うんです。


ミーティング中、こうした不毛な行ったり来たりは実に多い。


とりあえずの解決策としては、一週間の海外IR、あるいはひとシーズンのIRが終わった時点でその企業内で会議をし、「今回のIRではこのページは全然使わなかったね」っていうのを確認し、次回はそのページを削除した資料を持ってIRをすればいいわけです。ただ、これは対症療法でしかないので、本質的な解決策について後段で考えます。



4.複数資料の行ったり来たり


「行ったり来たり」は、一つの資料内だけでなく、資料と資料の間でも行われます。


IRミーティングでは複数の資料が使われることが多いんです。参考までに、よく使われるIR資料を列挙してみると:

・決算説明会で使用したプレゼン資料

・中期経営計画のプレゼン資料

・会社概要/会社案内的な資料

・財務データ(ファクトブックや決算短信等)

・その他、個別論点を説明するための一枚物


これら資料の内、2つか3つを使用する、というパターンが多い気がします。


ミーティングが始まる前に、それら資料を少しずつずらして、うまい具合に投資家のデスクに並べ、必要に応じて投資家に参照してもらいながらミーティングが進みます。

では、実際にミーティングがどんな感じで進むのか、簡単に再現してみます。投資家が何か質問をして、それに対し企業がIR資料を使って回答するシーンを想像してください。


投資家 <何か質問する>


企業 「その点については、資料の6ページをご覧ください」

通訳者 "Please turn to page 6."

投資家 "OK,,,, page 6,,,,,"

企業 「あ、そちらの資料ではなくて、、、こっちの中期経営計画の資料の6ページです。」

通訳者 "Not that presentation, but this one. The one titled "Mid-term Management Plan."

投資家 "Oh, OK, the other one,,,,, let me see,,,,, page 6,,,,,, OK, here we go!"

企業 「よろしいでしょうか。えー、こちらに記載の通りですね、、、」と説明を開始


資料がデスクにたくさん並んでいるので、「6ページ」と言われてもどの資料の6ページを開けばいいのかが分からないんですよ。で、とりあえず目に付いた資料を投資家は手に取るわけですが、マーフィーの法則「投資家が最初に手に取る資料は、企業側が投資家に見てほしがっている資料と、ほぼ100%の確率で異なる」んですよね。


その結果どうなるか。上記の通り、「いや、そっちの資料じゃなくて、、、」みたいなやり取りが何度も繰り広げられ、それをいちいち訳す度に僕は、IR資料が1つの資料に一本化されたらいいのに、、、と思うんです。



5.データが古い


企業 「このグラフには月のデータまでしか記載されていませんが、その後最新の数字が出ていまして、、、」


という発言の後、企業の方が最新の数字を口頭で説明。それを通訳者がいちいち訳し、その訳を聞きながら投資家が一生懸命数字をメモする、というプロセスが結構頻繁に起きます。


その最新の数字が発表されたのが「今朝」とかなら分かるんですが、そうでなくて2-3週間前とかだったりすると、「なぜ資料をアップデートしておかない?」という疑問が残ります。詳細後述します。



6.「資料には載せていないんですが、~」


Why not?

資料に載せなくても口頭で補足すればいいので別にいいんでしょうが、いちいち口頭で補足するぐらいならなぜ最初から資料に載せない?と思ってしまうことがあるのも事実です。


「資料に載せていない情報」がちょっと守秘性が高かったりセンシティブな情報で、あまり紙で発表したくない、紙で残したくない。だからこそ紙ではなく口頭で説明している、というケースもあります。その気持ちはよく分かるんですが、ちょっと考えてみてくださいね。


そのミーティングの1年後、投資家の手元に残っているのは「IRミーティングで配られた各種IR資料」ですか、それとも「投資家がミーティングで取った手書きのメモ」ですか?IR資料はとっくに廃棄済みで、残っているのは手書きのメモだけです。だから、あまり記録に残したくないセンシティブな情報であればこそ、口頭で話すのではなく逆に資料に記載した方がいい、というのが皮肉なんです。




ーーー




問題点の列挙は以上です。ここからは解決策を考えていきたいんですが、まずは上記6つの問題点を、その性質に応じて分類してみます。




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大きく分けると、「情報過多」の問題と「情報不足」の問題とがあることが分かります。


では、これら6つの問題の何が「問題」なのでしょうか。言い換えると、これら6つの問題はどういう弊害を引き起こすのでしょうか。


ーーー


情報が多すぎたり少なすぎたりすると、そのせいで話が分かりにくくなり、肝心のメッセージが伝わりにくくなります。

特に情報が多すぎる場合、メッセージ一つあたりの価値がどんどん希薄化し、投資家に刺さらなくなっていきます。例えが物騒ですが、細い弓矢や竹槍で戦っているようなものです。そうではなく、IRは巨大な大砲を使って戦いたいです。



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物理的なロスも馬鹿になりません。


「いや、そっちの資料じゃなくてこっちの、、、そうそう、そっちです(爆)!」とか

「まずは23ページまで飛んで、次は17ページに戻ってください。行ったり来たりですみませんね(苦笑)」とか、あるいは

「最新の数字は資料に載せていないので、今から私が口頭で読み上げる数字を余白に一生懸命メモってください」


みたいなことを、しかもいちいち通訳を介して、あまり頻繁にやっていると、ミーティングの進行が煩雑になります。投資家が疲れます。注意力が低下します。ただでさえも溢れかえる情報で削がれている集中力がさらにダウンします。そうすると、結局企業が伝えたいメッセージが伝わりにくくなります。それは日本にとってマイナスです。




これまで述べてきた「6つの問題」は、単に表面を見ればそれぞれあまりたいした問題ではなく、騒ぎ立てるほどのことは無いかもしれません。しかし、本質を考えると結構深刻なのではないか。その本質は、


IR資料における情報過多/不足のために、メッセージが投資家に伝わりにくくなってしまっている」


ということになります。



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ではどうすればいいのか。

対症療法を考え、列挙するのは簡単です。


メッセージとデータの混在 メッセージとデータを分ける。プレゼン後半にAppendix(補足資料コーナー)を作り、データはなるべくそこに放り込む

全ページロゴ ロゴを入れるのは表紙だけにする

ページ飛ばし ミーティングで使わないページは取る(あるいはAppendixに放り込む)。その上で、プレゼンする順番通りにスライドを並べる

資料が複数存在 資料を1つに統合する

データが古い 最新のデータを載せる

あえて載せていないデータ ミーティングで口頭で補足するぐらいであれば、いっそ資料に載せてしまう


でも、これらはあくまでも対症療法でしかなく、問題の本質的な解決にはなりません。


ただ、ここで唯一本質的だと思うのはAppendix(要するに補足資料)の活用です。Appendixは、家の掃除で言えば押し入れ、あるいはトランクルームのようなもので、実に便利です。大事な情報はプレゼンの前半部分に集中させ、その他の情報(裏付けとなるデータとか、ミーティングで使う可能性が低い情報)はなるべくAppendixに放り込む、というのは実に合理的です。捨てたいけど捨てられない、僕みたいな人におすすめの手法です。


ーーー


さきほど定義した、この問題の本質、すなわちIR資料における情報過多/不足のために、メッセージが投資家に伝わりにくくなってしまっている」という点。それを、対症療法ではなく本質的に解決するための方策は何か。


それを考えるためには、「そもそもなぜIR資料における情報量が過多・不足に陥ってしまうのか」を考えればいい。


ーーー


僕が考える「問題の原因」は以下の4つです:


<情報過多を引き起こす原因>

・「情報は多いに越したことはない」という思い込み

・情報で理論武装しようとしている


<情報過多と情報不足、両方につながる原因>

・過去の資料の使い回し 「そのIR」のための資料作りをしていない

・資料を客観的に見ることが出来ていない




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それぞれについて分析し、解決策を考えていきます。


ーーー


・「情報は多いに越したことはない」という思い込み


全ページにロゴを入れてしまう。

実際のミーティングでは飛ばすスライドが、プレゼン資料にたくさん入っている。

複数の資料を持参し、全部投資家に配る。


これらの事象全てに共通するのは、「情報は多いに越したことはない」という気持ちではないでしょうか。


情報をたくさん与えておいて、あとは情報の受け手(海外投資家)が自分にとって必要な情報や興味ある情報を取捨選択すればいい、という気持ちも分かります。でもそのようなメッセージ発信は非常に消極的です。能動的・積極的ではありません。


そして、情報は多ければ多いほど受け手を混乱させます。


だから、情報は少ない方がいい。過ぎたるは及ばざるがごとしです。


これは、IRをどう定義するか、の問題でもあると思います。

IRを「情報を伝えること」と定義すると、「情報をたくさん提供するのがいいIR」となるかもしれません。確かにWebページとかはこの考え方でいいと思います。


一方、IRを「投資家と建設的な対話をすること」だったり「投資家を説得すること」みたいに定義すると、見えてくる風景がガラッと変わってくる。伝達するべき情報の量、そして質、ともに大きく変わってくる。


ひとくちに「IR」と言っても、いろいろな形態があります。Webページのような静的、そしてある意味受け身なIRもあれば、わざわざ海外まで出掛けて行くIRロードショーのような能動的・積極的IRもあります。後者においては、その目的に合った「能動的・積極的」なIR資料を使うべきで、それは筋肉質に引き締まったスリムなIR資料であるべきです。



・情報で理論武装しようとしている


IR資料を見ていて、ときどき思います。

「ツッコミを防ごうとしてるなあ・・・」

って。


ツッコミを防ごうとすると、どうしてもいろいろな情報をてんこ盛りにして、理論武装することになります。

ディスクレーマー的な文言・情報もちりばめることになるでしょう。



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ツッコミを事前に潰すことを意識した資料作りをしてしまうと、キーメッセージが伝わりにくくなるだけでなく、資料がつまらなくなる、という弊害もあります。なぜつまらなくなるかというと、一方通行になるからです。インタラクティブでなくなってしまうからです。

投資家に「なんで?」と思わせるのを防ごうとすると、事前に全て説明してしまうことになり、そうすると「ふーん」というリアクションしか引き出せなくなります。そういうIRは、投資家にとってあまりときめきが無く、おもしろくない。


ツッコミなんて恐れなくていいんです。

もっと「打たせて取るIR」をしましょう。先回りしてツッコミを想定し、それを防ぐための文言をちりばめるのではなく、むしろその逆。投資家からのツッコミ(「なんで?」)を引き出し、それに丁寧に対応して行けばいいんです。


ツッコまれるのは、別に悪いことではないんです。

ボケとツッコミ、その両方が無ければお笑いは成立しません。IRもそうです。いいボケをして、それに対していいツッコミが入る。そのツッコミに応えて、それが次につながる。そうしたキャッチボールこそがいいIRです。


ーーー


情報で理論武装する理由は「ツッコミ対策」以外に、もう一つあると思います。

それは自分(自社)に自信が無い、ということ。

もしそうであるならば、積極的なIRはちょっと待ってから行えばいい。自信が付いてからやればいい。


「いやいや、厳しいときこそIRでしょう」という考え方もあります。それはそれで正しいと思います。IRはなにも攻撃だけでなく防御的な側面もありますから、厳しいときこそ今後の方針・戦略を伝えるべきだろうし、悪いウワサや無用な心配が広まるのを防ぐ、そうしたディフェンシブなIRもあるでしょう。

でも、厳しいときに行うIRこそ戦略的に考え抜かれたものでなければいけないですよね。とりあえず情報をたくさん盛り込んで、そのかげに隠れようとするIRでは逆効果です。厳しいときこそ、能動的な攻めるIRであるべきです。今から、その厳しい状況から逆転・反撃することを考えると特に。



・過去の資料の使い回し 「そのIR」のための資料作りをしていない


IRミーティングではたくさんのIR資料が使われ、それが時に混乱を招くことは既に述べました。


なんでそんなにたくさんの資料を使うかというと、過去に、何か別の目的で作成・使用した資料の中から、今回のIRに関係しそうな資料をいくつかピックアップして持って来て、投資家のデスクに並べていることが多いんですよ、要するに。


言い換えると、まさにその時、その場で行われている「そのIR」のための資料を作成・使用していないんです。「そのIR」のためのカスタムメード、テーラーメードの資料作りをしていない。だからこそ「資料の内容」と「伝えたいメッセージ」とが微妙にズレてしまっているんです。


僕がIR初日の通訳ブリーフィングで「今回のIRで一番伝えたいメッセージは何ですか?」と聞くのは、

(きっとこのIR資料を見ても、企業が言いたいことはよく分からないんだろうな・・・)

というあきらめに近い想いがあるからでもあります。いいIR資料であれば、その資料を見れば企業が言いたいことが一目で分かるはずで、わざわざ「何を言いたいんですか?」と企業に質問する必要なんてありません。


過去の資料の使い回しは、タイミングの問題も引き起こします。それら資料が作成されたタイミングは「昔」です。決算発表なり中期経営計画なり、その資料の本来の/当初の目的のために必要だったタイミングに作られているわけです。それが結構最近だとしても「今」ではない。だから当然情報がちょっと古い、あるいはそもそも載っていない、という問題が起こり、それを口頭で補足する手間が生じます。


ーーー


冷静に考えてみれば、過去の資料を使い回すのではなくその時その場で行われている「そのIR」向けに資料を作った方がいいに決まっています。具体的には、その時期(その四半期/半期/年度)に行う海外投資家向けIR用の資料を用意すべきです。企業の方々も、当然それは分かっているはずです。ではなぜそうしないのか?


「そのIR」のための資料作りをしない理由: 1.人手不足


IR担当者からすると、ただでさえも忙しいのに + いろんな資料が既に存在するのに、そこにもう一つIR用資料を加えるのか!と思うかもしれません。


僕、思うんですけど、わざわざ新しい資料を「作る」必要は無いんですよね。もちろんゼロベースで発想して資料を作るのが一番いいのかもしれませんが、その余裕が無いようであれば、既に存在する資料から必要箇所を取捨選択する、という感じでもいいと思うんです。そうすれば、「資料作成」という手間はかからず、代わりに「ウチの会社は、今回のIRにおいて何を投資家に伝えたいんだろう」という本質を考える作業だけが発生します。その作業を嫌がるマネジメントおよびIR担当者はいないはずです。


「そのIR」のための資料作りをしない理由: 2.実は言いたいことが無い


「上場したからには、当然IRに力を入れるべきだ」という、これまた思い込みがあります。証券会社もそう言ってるし、みたいな。

もちろん上場したらIRを行う必要が生じるわけですが、そのやり方は企業によって千差万別、様々あっていいはずです。そして、同じ企業でも時期によって適切なIRの姿は変わってくるはずです。


実際、積極的にIRをしていない企業も存在します。しかも一流企業で。例えば少し前のファナックとか。

他にも、IRにあまり力を入れていない、、、というか、正確に言うと「独自のやり方でIRをやっている」、そういう企業は存在するでしょう、きっと。僕が知らないだけです。

企業によっては、わざわざ海外に出掛けて行かないのはもちろんのこと、日本に来た外国人投資家と本社で会うこともあまりしません。でもそれでいいんです、別に。


高校・大学に行ってる人が多いから、自分もなんとなくそうする。

フツーに就職してる人が多いから、自分もなんとなくそうする。

結婚して、子供を産んで、マイホームを持つ人が多いから、自分もなんとなくそうする。

IRに力を入れてる上場企業が多いから、自分(自社)もなんとなくそうする。


企業にはそういうノリではなく、もっと能動的・積極的にIRをしてほしいです、IR業界の片隅で生きる者としては。


「そのIR」のための資料作りをしない理由: 3.言いたいことは何かしらあるんだけど、それが一体何なのか、十分に考え抜かれていない


難しいのは分かります。でもこれを考え抜くのがIRですよね。

IRは単に「なんか言う」ことではなく、「自分は何を言いたいのか、を考える」こと、それこそがIRです。それをちゃんとやってから外国人投資家と会う方がいい。あまり深く考えずにIR、特に海外IRを行うことは、かえって逆効果につながることもあります。



・資料を客観的に見ることが出来ていない


日頃見慣れている自社のIR資料を、その会社の社長やIR担当者が客観的に眺めることは不可能です。自社の話だし、自分で作ったIR資料だし。

だったら外部の人を巻き込めばいい。


例えば、IR資料の専門家を活用すればいい。それは証券会社のバンカーであり、IR支援会社であり、IR通訳者です。


僕も、ごく稀にですが「今度の海外IRについては、資料作りのところから入ってほしい」と言われることがあります。8年間で、片手で数えられるぐらいしかありませんが。そういうお仕事は、こちらとしてもなかなかマネタイズするのが難しく、割に合わないと言えば合わないんですが、喜んで引き受けています。多少なりとも自分が協力出来る点がある気がするので。


専門家もいいけど、もっといいのは、家帰って、奥さんに見てもらうこと。「これ、来週の海外IRで使う資料なんだけど、どうかな?」って。あるいは、他の業界の友だちに見てもらえばいい、飲んだついでとかに。


「部外者である妻や友人に何が分かる(笑)」と思うかもしれませんが、妻や友人が分からないようであれば、(部外者である)投資家にも伝わらない可能性があります。



以上、IR資料における


・ 表面的な問題点と、

・ その背後にある本質的な問題点、そして

・ その解決策


について考えてきました。


「伝わるIR資料」を考えることは、「我が社にとって”IR”とは何か」という、IRの定義や目的を考えることでもあります。「IRにおける「勝利」とは何か?」を考えることにつながります。


IRは、投資家との対話であり、投資家を説得することであり、自社の積極的な売り込みです。そのために必要な情報は盛り込み、不要な情報は捨てた方がいい。その方がメッセージがくっきりと浮き立ちます。


我々IR関係者にとって、大事な大事な道具であるIR資料をもっと大事にして、もっともっと良くして、「勝つIR」を目指しましょう。


# by dantanno | 2016-10-27 17:23 | IR通訳 | Comments(0)

あこがれ

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# by dantanno | 2016-10-26 04:49 | 子育て | Comments(0)

滝行通訳

先日、一風変わった同時通訳案件を担当しました。IRISの通訳者と2名体制で。

その会社のマネジメントの方々が行うプレゼンを英語に同時通訳したんですが、おもしろいことに、プレゼンが行われているその間は誰も我々の同時通訳を聞いていないんです。係りの人たちが録音をしているだけ。

で、どうするかというと、プレゼン終了後別室に行き、関係者みんなで

1.マネジメントのプレゼン(日本語)と
2.我々の同時通訳の録音(英語)

を聞き比べ、
「社長が言ってる**の箇所が抜けてるよね」とか
**って訳してるけど、ちょっとニュアンス違うかな〜」
みたいに指摘いただいたり、ときには通訳者が自分で
「**の箇所は訳が違いますね、すみません」
みたいに指摘し合う。

で、そこで出た指摘に基づき該当箇所の通訳を録音し直して、それを編集した音声がファイナル版の通訳としてその会社のWebページにアップされる、という案件でした。

ーーー

ややこしいのでプロセスを整理すると、

1.プレゼン本番を英語に同時通訳
2.プレゼン(日本語)と通訳(英語)をみんなで聞き比べ → 修正すべき箇所を指摘
3.その指摘に基づき、通訳し直す。通訳し直した音声を再度録音
4.3.で録音した音声を、元々の同時通訳に上書きし、係りの人が編集
5.編集後の通訳(ファイナル版)をWebにアップ

聞き比べの際に部屋にいる「関係者」は、プレゼンを行った会社の社員の方々と、音声の収録を担当する技術の方々。

ーーー

そういうエグい案件であることは元々分かっていたので、せめて自分がより難しいパートを取ろうと立候補しました。でもフタを開けてみると実は逆で、僕が取った方がラクなパート、もう一人のIRIS通訳者がやってくれたパートの方が難しく、申し訳ないことをしたと反省。。。

でも、難しいパートを担当してくれたからこそ、その通訳者の通訳がすばらしいことを改めて確認出来ました。

ーーー

そしてもう一つ意外な収穫だったのは、収録を伴う通訳案件としてこうした形式もアリで、これはこれでなかなか優れていることを実感出来たことです。

日本企業による発表(例えば決算説明会)の通訳を収録する場合、よくあるやり方は事前に日本語の読み原稿が通訳者に渡され、事前に翻訳した英文を発表当日に通訳者が読み上げ、それを収録する、というもの。
この方法だと、訳の正確性は担保されますが、デメリットとして、訳のライブ感が無くなることや、翻訳をしてくれる通訳者を見つけないといけない、という点があります。まあ翻訳者の方にお願いする、という手もあるのでしょうが。

一方、本番で話される日本語をぶっつけ本番で英語に同時通訳し、それをそのままWebに載せてしまう方法だと、スピードとライブ感は抜群ですが、同時通訳ゆえ、どうしても訳の正確性は落ちます。

でも、一旦同時通訳をした上で修正したい箇所だけを後から上書き修正する方式だと、後述するように通訳者が針のむしろ状態になる、という欠点はあるものの、スピード、ライブ感、そして訳の正確性のバランスがとてもよく保たれると思いました。

ーーー

多くの通訳者が同意してくれるだろうと思うんですが、自分の通訳を録音して後から自分で聞くことは、多大な心理的苦痛(笑)を伴います。いい例えが思い付きませんが、例えばタレントの人が後日自分の出演番組を見返すときのようなものなんでしょうか、分かりません。芸人にとって、自分がスベってるシーンを見返すようなもの?苦痛です。

一人で聞き返すだけでもイヤなのに、それを関係者全員が精一杯耳をこらし、間違いを見つけ指摘する、、、なんて想像しただけでもつらいです。針のむしろ(bed of nails/thorns)です。でも、それをやることで、とてもいい刺激を受けました。


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自分の通訳を改めて冷徹に分析する機会を得て、いいところと悪いところが浮かび上がった気がします。

通訳者になりたての頃はボイスレコーダーを駆使し、こうした心理的苦痛を伴う通訳トレーニングをずいぶんしていたような気がするし、それがとても役に立った記憶があります。

その後何年も経ち、なんとなく仕事に慣れてきて、(少なくとも表面上は)案件が火を噴くことも無く、火消しの必要も感じない日々を送っていると、どうしてもComplacentになりがちです。こんな感じでいっか、と思いがちです。

そんな自己満足しがちな自分に冷や水を浴びせかけるとともに、高い料金を取って通訳しているわけだから、「後から聞き返すのは恥ずかしい」などと言ってられないなと痛感させられる、とても厳しくかつすがすがしい通訳案件でした。



# by dantanno | 2016-10-24 23:10 | プレミアム通訳者への道 | Comments(0)

ふたたび、大好きな奈良へ

今日は金魚のまち、大和郡山ヘ。

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ふらっと歩いていたらみつけた素敵な書店。

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最近、翻訳の締め切りを蔑ろ(ないがしろ)にしがちなので、その反省を兼ねて購入。

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書店の子どもたちに案内してもらい、道の反対側のケーコーヒーへ。

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ここは電話ボックスの金魚で名高い。

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家で待つ 子らへのみやげ 紙ふうせん

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ひとりで旅をすることが多い。仕事でも、遊びでも。

旅をするとき、そのとき、その旅のテーマ的なものをなにかしら設定することがままあって、それはたいていは
「今の自分はこういうとこがよくないから、もっと頑張らなければ」
みたいなテーマになりがち。もともと内向的で、かつ自分を許さない自分に酔いたがりなクセがあるので。

そうやって自分にハッパをかける旅も、一見ネガティブに見えて実はけっこうポジティブで、とても好き。

でも、そんな僕が、なぜか奈良にくると「まあいっか〜」とか「これはこれでけっこう幸せだなー」と感じ、それが旅のテーマになってしまう。

今はひとり旅をしてるから、当然奥さんと一緒にいないわけだけど、奥さんがすぐとなりにいるような気持ちになる、奈良では。

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また来ます。
次回は家族をつれて。


# by dantanno | 2016-10-09 14:06 | 日々研鑽 | Comments(0)

ブレスト中に賢く見えるための小技集

おもしろすぎる。。




さっそく本を購入。


飛行機で移動中のときに読もう、っと。

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# by dantanno | 2016-10-03 11:20 | プライベート | Comments(0)

ブリストルに日帰り旅行

ロンドンで、通訳案件の合間の週末、丸一日自由になる日がありました。

せっかくだからどこかに行ってみようかな、、、
とイギリスの地図を眺め、テキトーにブリストル(Bristol)という街を選んでみました。

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海の近くの、川沿いの街。

行き方を調べてみると、ロンドン都心のパディントン駅から結構ひんぱんに電車が出ています。所要時間は1時間半ぐらい。ちょうどいい感じです。
このときはヒースロー空港隣接のホテルに滞在していたんですが、調べてみると、空港からブリストルへの長距離バスも出ているようです。こっちは2時間ぐらいかかります。イギリスの電車はとてもステキなので惹かれるんですが、空港からいったんパディントン駅まで行って、そこからまた電車に乗ることを考えると、現在地である空港から直接行けちゃうのは魅力的で、結局バスで行ってみることにしました。

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バスにゆらゆらと揺られながら、(ブリストルって、ちょっと遠すぎたかな??)と後悔し始めました。せっかくの休日なのに、往復4時間もかけて見知らぬ街までいくのは果たしてどうなのか。しかも、何か目的があってその街に行くわけでもなし、結局ちょっとブラブラ歩いてカフェ入って新聞読んで、最後はパブでビールひっかけてロンドンに戻るんだろうから、だったらロンドンから45分圏内とか、もうちょっと近場の街でもよかったんじゃないか、と思い始めました。でもまあしょうがない。

ーーー

ブリストルに着きました。長距離バスの発着所となるバスターミナル(Coach Station)は、街の北東側にあって、そこから中心部まで歩くことに。
とことこ歩き始めますが、なんだかロンドンと雰囲気が違う。。

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こ、こわい感じ?
治安が悪いというか、なんだか殺伐としています。酔っ払いらしき人たちとか、とても貧しそうな人たちとか、その複合型の人たちとかウロウロしています。

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バスの中で感じた後悔が再燃し始めます。
ああ、せっかくの安息日、往復4時間かけて、僕はこんな街に来てしまったのか。。。
まあでも、ロンドンとそれ以外の都市との格差というか、違いを肌で感じられたのはよかった。この前のBrexitだって、結局ロンドン(とスコットランド) VS それ以外のエリア、みたいな展開だったじゃないか。その背景を理解するのは大事なことだから、まあこれでよかったんだ。。。みたいに自分に言い聞かせながら、とりあえず街の向こう側にあるウォーターフロント的なエリアを目指してみます。


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着いてみると、なかなかステキじゃないですか。
水際の遊歩道を囲むように飲食店が並び、古本や雑貨、お菓子やケーキなどを売る出店も多く出店しています。結構賑わっています。



戦利品の古本。自分とさち用。

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思うんですけど、こうしたウォーターフロント/水辺って、人間を引きつける力がなにかあるんですかね。お台場もそうだし、あとどこだっけ、ベニスとか、小樽とかもそうだし、いろんなところがそうですよね。東京都心の日本橋のあたりとかも、もっともっとステキになるポテンシャルがあると思います。

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ブリストルの、このウォーターフロント地区で商売をしているおじいさんとちょっと話す機会がありました。

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Dan 「さっき、バスターミナルに着いたんですけど、あの辺は結構荒れてる感じで、最初エッって思ったんですよね。でも、こっちのウォーターフロント・エリアはすごくステキですね。」
Ojiisan 「そうね。でも、昔はこの辺も結構荒れてたんだよ。昔は港がこの辺にあったんだ。今はもっと河口の、海の近くまで移動したけどね。で、船乗りたち相手の、かなりガラの悪い飲み屋がたくさんあって、雰囲気が悪かったんだ。でも今はだいぶよくなった。」

とのこと。



まるで生きているかのようにリアルなフクロウ。
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港が河口の方に移動したおかげで雰囲気がよくなったのか、あるいは港が移動してしまったから廃れたものの、その後持ち直したのか、いまいちよく分かりませんでしたが、とにかくそんな話でした。



今では結構ハイエンドっぽい住宅もあって、かなりステキな雰囲気です。


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そんな一角で昼食をとりました。
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表にバイクとかが置いてある、カッコイイ店。
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この街ではサイダー(Cider)が人気のようです。我々にとって「サイダー」といえば三ツ矢サイダー(大好き)ですが、こっちのサイダーはビールと酎ハイの中間みたいな、これまたスッキリとおいしいお酒です。

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ウォーターフロントで見つけた小さな文化施設(?)のようなものに立ち寄ってみました。映画館を中心に、いろいろな文化的な取り組みをしているようです。カフェもあります。
ちょうどこの日は短編映画際をやっていたので、ロンドンに戻るバスにギリギリ間に合う16:30からの回のチケットを買って、再び街に出ました。



左に行くべきか

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右に行くベきか。

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ウォーターフロントを少し離れ、街中を通りつつ、丘の上の公園を目指します。

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このように、石垣の中からがんばって生えている植木がすごく好き。

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かわいい門たち。

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街中で、ある画廊の前を通りかかりました。

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絵とかあんまり興味ありません。
この前なんか、同行しているお客さんが行きたいって言うからみんなでロンドンのNational Galleryに行って、そこで1時間ぐらい自由行動になったんですけど、あまりにも興味が無いので近くの文房具屋に行って、ノートとかペンとかホッチキスとかを眺めながら1時間を過ごしたぐらい。

そんな僕ですが、この画廊に展示してあった1枚の絵が目に止まり、なんだかちょっと気になりました。でもそのまま通り過ぎようと思ったんですが、なんだかどうしても気になります。そこで、せっかくだからフラッと画廊に入ってみることにしました。

とってもやさしそうなおじさん(写真撮ればよかった)がやっている画廊でした。
「この人の絵がすごく気になるんです」と告げると、「だよね〜、いいよね〜」と言いつつ、その画家の他の作品をいくつか奥から持ってきてくれました。静物画と風景画があったんですが、僕は断然静物画の方が好きでした。

中でもこの絵が一番気になりました。


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ものすごくほしい。どうしてもほしい。

そこそこいい値段なので、「ちょっと考える」とおじさんに告げて、"I hope you'll come back"と見送られつつ、丘の上の公園へ。

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シャンプーハットのようなベンチで思案すること30分。

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もう、心の中では買うことを決めてるんですよね。
でも、最後の最後の確認、みたいなこういう時間って結構好きです。そんなにほしいんだな(笑)、ってことを確認する時間。

画廊に戻り、やっぱりどうしてもほしいことを告げ、購入。画廊のおじさん曰く
「ほら、単に『家に何か飾りたいから』ってだけで買う人もいるでしょう。それと比べたら、本当にこの絵を好きで買ってもらう方が断然うれしい」
と言ってくれました。

ーーー

16:30になったので、さっきのウォーターフロントの映画館に戻り、映画を鑑賞。リトアニアの短編映画6作品の上映でした。冒頭、本件の企画者であろうリトアニア人の女性の挨拶などもあり、それっぽい雰囲気に。映画は、短いものは6分(!)、長いもので30分。コメディタッチのものからドキュメンタリー、アニメなど、幅広い6つのセレクションで、リトアニアのシュールな雰囲気を楽しめました。

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映画が終わり、ちょっと急ぎ目でバスに戻ります。予定通り18:30に、ロンドンに向け出発。

ーーー

バスの中で、僕の隣の席に置かれた、大事に包まれた絵を見やりながら、なんだかとても温かい気持ちになりました。
生まれて初めて「絵」というものを買ってみました。ステキなものを買った、という満足感に加え、あの画廊のおじさん、そして絵を描いた画家との結びつきが生まれたような気がして、自分もわずかながら「芸術」の世界に携わっているような、錯覚なのかもしれないけど、そんな満足感を覚えながら家路につきました。

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# by dantanno | 2016-09-25 21:51 | グローバルに生きる | Comments(2)

"Have a nice trip!"をどう訳すか

この前、ある日本企業のIRにお供して、その企業の方々とアメリカの投資家たちを訪問したときのこと。

わざわざ訪問するぐらいですから、基本的にFace to faceのミーティングなわけですが、今日の記事で取り上げるそのミーティングは電話会議形式で行われました。

例えばアメリカへのIR出張であれば、ニューヨークとかサンフランシスコとかシカゴとか、外国人投資家たちがたくさんいる街に行って、各地の投資家と面談します。でも、中にはデンバーとかデモインとか、結構マニアックな場所に本拠地を置いている投資家もいて、そういう投資家とは(こちらからアメリカに出張してきているにもかかわらず)電話会議をすることもあります。証券会社の現地オフィスや、宿泊先ホテルの会議室から。

今日の記事も、そうした「海外IR出張中の電話会議」が舞台です。

ーーー

ミーティングの冒頭、電話の向こうから、投資家が
"Well, thank you very much for taking the call. I hope you've been having a good trip so far."
みたいなことを言いました。

IRミーティングの冒頭の挨拶(投資家側、および企業側)については、状況によって訳したり訳さなかったりしています、僕の場合。"Thank you very much for meeting me"とかだったら、日本企業の方々も分かるかな、と思ってあえて訳さないこともあるし。冒頭の型どおりの挨拶は、重要性がそれほど高くないこともあるし。また、冒頭の挨拶ぐらいは自分でやりたい、という日本企業の方もいると思うからです。

で、問題の電話会議のときは、雰囲気的に(一応、訳した方がいいかな)と思ったので、訳すことにしました。

さて。
"Well, thank you very much for taking the call. I hope you've been having a good trip so far."
を、どう料理するか。

ーーー

投資家のこの発言の、前半部分は結構簡単というか、Straightforwardだと思うんですよね。
直訳すれば、例えば「この電話会議を受けていただき、どうもありがとうございます。」みたいな感じでしょうか。
意訳すれば、例えば「今日はお時間をいただき、どうもありがとうございます。」みたいな感じでいいと思うんですよね。

問題は、発言の後半の "I hope you've been having a good trip so far."の部分です。

ーーー

モロに直訳すれば、例えば「これまでのご出張が実り多きものであったことを願っています。」みたいな感じでしょうか。でもそれだと明らかにおかしいというか、ぎこちないじゃないですか。

で、結局どうしたかというと、思いっきり訳から落としました。つまり、投資家が
"Well, thank you very much for taking the call. I hope you've been having a good trip so far."
と言ったのを、
「今日はお時間をいただき、どうもありがとうございます。」
とだけ訳しました。

ーーー

訳を落とす際、、、つまり、発言者が言ったことを全て訳さずにある程度はしょって訳す際、決めているルールが一つあって、それは「訳せなかったから落としたわけではないよね?」と自分に問いかける、というルールです。意図的・戦略的に落としたのであればいいと思うんですよ。その方がいい訳になるとか、その方がその場がうまく収まると思ったとか、そういう理由であれば。一方、自分の実力不足・知識不足で落とさざるを得なかったのであれば、それはそれで問題だからなんとかしないといけないと感じます。

今回の、発言の後半部分の
"I hope you've been having a good trip so far."
ですが、これは訳さなくていい、と思ったんですよ。もっと言うと、訳さない方がいいと判断したんですよね。そのまま訳そうとすると、例えばさっき書いたように「これまでのご出張が実り多きものであったことを願っています。」みたいにぎこちなくなっちゃうから。

「これは訳さなくていい」という自分の判断にほぼ絶対の自信を感じつつ、残りのミーティングをまあ滞りなく進め、証券会社の会議室を後にし、ニューヨークの街に出ました。でも、その日その後のミーティングをこなしている間中ずっと、さっき訳さなかった"I hope you've been having a good trip so far."がなんだか引っかかります。気になります。

まったく意味の無い発言(例えば本題に入る前の「アー」とか「ウー」みたいな音とか)であれば、訳から落としても別に罪悪感を感じないんですよね。でも、今回投資家は"I hope you've been having a good trip so far."と発言することで、多分何かを伝えたいと思っていたはずで、それがなんなのか、そしてそれを自分は伝えなくてよかったのか、ずっと引っかかっていました。もし投資家が意図的にこの発言をしたのであれば、通訳者として、その気持ちを大事にし、ちゃんと訳に反映させてあげるべきだったと思い始めました。

じゃあ、仮に落とさずにちゃんと訳してあげた方がよかったとして、でも、だからといってこれまでのご出張が実り多きものであったことを願っています。という訳がいいとは思えない。訳から丸ごと落としてしまう自分を許すことは出来ないけど、一方でこれまでのご出張が実り多きものであったことを願っています。みたいな、そんなぎこちない、いかにも訳っぽい訳をすることを許すわけにもいかない。じゃあ、一体どうすれば良かったのか。ずっと考え続けました。

ーーー

こういう発言を訳す際に一番大事なのは、発言者の言葉尻にとらわれないことだと思うんですよね。一見(一聴?)訳しにくい発言だからこそ、そのまま訳してはいけない。だから、投資家が
"I hope you've been having a good trip so far."
と言ったとき、すぐに+自動的に
これまでのご出張が実り多きものであったことを願っています。
と置き換えてしまうのではなく、一歩引いて、「発言者である投資家の意図はなんなんだろう」というところから急がば回れをすればいいんだと思いました。

思うに、"I hope you've been having a good trip so far."という発言を通して投資家が伝えたかったメッセージは、「私はあなたがたの出張について慮って(おもんぱかって)いますよ、気にかけていますよ」ということだったのではないかと思いました。だからこそミーティングの冒頭でこういう発言をしたのではないか。それによって場の空気を和らげたい、という狙いもあったかもしれません。だとしたら、やっぱりそれは訳において大事に訳してあげた方がよかった。

訳から落としてしまうのではなく、一方これまでのご出張が実り多きものであったことを願っています。みたいに訳してしまうのでもない、第三の道を模索し続けること、結局それが「いい通訳」ということなのかな、と思います。で、今回の発言の場合、いろいろなことを総合的に判断して、

「今日はお時間をいただきありがとうございます。ご出張、お疲れさまです。」

みたいに訳せばよかったな、と感じました。人によって(特に「通訳者によって」)異論はあるかもしれませんが、少なくとも僕にとっては、上記が一番しっくり来る訳だったな、と今さら思いました。

ーーー

投資家は
"I hope you've been having a good trip so far."
と言いました。

これは、ニュアンス的にポジティブ/ネガティブどちらかと言えば、ポジティブだと思います。"good trip"という語がそれを表していると思います。

一方で、「今日はお時間をいただきありがとうございます。ご出張、お疲れさまです。」の「お疲れさまです」は、ネガティブと言うと言いすぎかもしれませんが、少なくともポジティブではないというか、どちらかというと「大変ですね」みたいなニュアンスを感じます。だからこそ、元ネタのポジティブさをこうしてちょっとネガティブに仕上げてしまうことに多少の抵抗も感じるわけですが、でもそれでいいと思うんですよね、英語→日本語の訳は。

"Have a good trip!!!"
も、
「よい旅を!」
と訳してもいいし、あるいは
「お気を付けて」
と訳してもいい。

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前者の訳は、元ネタのポジティブさをそのまま伝える、それはそれでいい訳だと思います。確かに直訳っぽいというか、いかにも「訳しました」的なぎこちなさは感じるものの、そういうニュアンスを含めて聞き手に伝えたいときもあるんですよね。素材感を強く出したい、というか。そういう場合、このようにちょっとそのまま感を残した訳がいいと思うときもあります。

一方後者は、元ネタで言わんとしていることはしっかりと伝えつつ、あえてちょっと「ネガティブ(?)」というか、コンサバ目に変換することで、絶妙に日本向けにローカライズさせた結果の、それはそれでとてもいい訳だと思います。

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どちらがいいかはケースバイケース。正解は無い世界ですが、訳してしまう(あるいは訳から落としてしまう)前に一度、頭の中で「これはどう訳すべきか」という、大袈裟に言えば訳の信念を問う、そういう瞬間を経た上での訳であることが絶対条件だと思うし、逆にそういうプロセスを経た上での訳であれば、例えそれがどのような訳であってもそれを尊重し、祝福するべきだと思います。


# by dantanno | 2016-09-01 11:46 | 日々研鑽 | Comments(1)

ブログの振り返りを通して、自分の欠点に迫ってみる

2011年にこのブログを書き始めて、今日のこの記事で573件目の投稿になる。
「ブログ開始!」

今まで書いた572件のブログ記事。それを全て、最初から最後まで読み返すことにした。
1泊2日の合宿をして。

これまで、個別の記事を断片的に読み返すことはあっても、ブログ全体を最初から全部読み返すことは無かった。でも、(いつかそれをやろう)とずっと思って来て、ついに今日・明日の二日間でそれをやることにした。

なぜそんなめんどくさく、かつ気が滅入りそうな(笑)ことをするのか。目的は大きく2つある。

1.今の自分にそぐわなくなった記事を削除・修正したい

各ブログ記事は、そのときの自分が考えていたことを書いた結果なわけだが、今の自分はそのときの自分とは違っている。どちらかというと成長しているはずだ。

昔の自分が、何かについて「A」という意見を持ち、それを記事にした。でも、今の自分は「AではなくB」と思っているとしよう。その場合、昔書いた「A」という記事は一体どう取り扱うべきか。当時の自分がそう思ったのは紛れもない事実であり、だからこそ残しておくべきだ、という気もする。でも、今の自分はそう思っていないのに、いつまでも「A」という記事を公衆の面前にさらしておくのはどうか、とも思う。

例えばある読者が、僕が昔書いた記事を読んでくれたとする。そこに「A」と書いてあるのを読んで、その読者は(ふうん、「A」って思うのか)と受け取っても何らおかしくない。むしろ自然だ。でも、今の自分は「AではなくB」と思っているわけだから、そこには誤解が生じているわけで、それが気になる。

別の見方をすれば、昔の自分と今の自分を比べたときに大きな方向性としては自分は成長しているはずだ。少なくともそう思いたい。で、仮に自分が成長しているのであれば、今の自分でさえもそんなに大したことが無いのに「当時の自分」すなわち昔の自分はそれにも劣るわけで、そんな自分が書いた記事を後生大事に残しておく意味はどれくらいあるのか、とも思う。

これがブログの振り返りをしたい最初の理由だ。2つ目の理由は

2.ブログの分析を通した「内観」をしたい

昔から「内観」というものに興味がある。

内観を本当にちゃんとやろうと思ったら上記のような研修に参加するのがいいのだろう。でもその前に、自分に出来る最初のステップとして、これまで自分が書いた572件のブログ記事を一つ一つ、全て読み返し、「自分は一体どういう人間なのか」、そして「自分は周囲(ブログを読んでくれる人)にどう思われたがっているのか」を分析してみたい。

内観をしたいと思う大きな動機の一つが、自分の欠点に対する強い興味だ。

どんな人にも長所と欠点があるが、自分の場合、その「振れ幅」が大きい気がする。例えば普通の人であれば長所が+10、欠点が△10、両者合わせてプラマイゼロだとしよう。自分の場合、結果が同じプラマイゼロだとしても、長所が+30、欠点が△30、という感じでボラティリティが大きいのではないかと思う。そして、自分のその△30の部分について、もし仮にどうにかすることが出来れば、それはとてもインパクトのあることなのではないか、と思っている。

その△30の欠点について、まずはなるべく客観的に分析してみたい。自分は結構バイアスがかって物事を見てしまうというこれまた欠点があるので、そうしたバイアスを取り除き、あくまでも冷静に自分、特に自分の欠点を見つめてみたい。

ブログ記事は対外的に発表することを前提に書いているので、必ずしも自分の内面を正確に表してはいない。そういう偏りがあることも認識した上で、ブログから伝わってくる自分の一面、特に欠点について考えたい。

仮に欠点が正確に把握出来たからといって、それがどうにかなるとは限らない。きっと長所の裏返し的な側面も大きいだろうし。でも、同じ欠点を同じように抱えて生きていくにしても、(自分にはそういう欠点がある)と、なんとなくではなくカラダで理解した上で家族と過ごし、人と付き合い、仕事に取り組めば、きっともっといい人生になるんだろうな、と期待している。

ということで、一人でじっくりと作業をするため、1泊2日で合宿をすることにした。
今回お世話になるのは、静岡にある日本平ホテル

部屋からの眺め

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いざ、読み込み開始!!

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# by dantanno | 2016-08-17 15:43 | 自戒ネタ | Comments(0)

早くも反抗期。。

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# by dantanno | 2016-08-04 23:52 | Comments(0)

冷珈ソーダ

珍しくジムに行き、ひと泳ぎした帰り道。

途次(みちすがら)、ローソンの前の椅子に座ってビールと柿ピーを楽しもうと思っていたんですが、思いの外スモーカー・エリアみたいな感じになっていたので断念し、そのすぐ隣の上島珈琲店へ。

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店の入り口に、何やら興味を引く看板が。

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冷珈ソーダ?
読み方が分からないけど、なんだかおいしそう。

「あ、あの、コ、コーヒーのソーダを・・・」
「レイコーソーダですね〜」

へー、そう読むんだ。まあ普通に読むとそうなるか。

今ちょうどキャンペーン中で、MからLに無料でサイズアップ可能、とのこと。

早速注文してみました。

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で、でかい!!

なんとかして、このサイズ感を伝えたい。

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まるで、アメリカのファストフード店でコーラを飲む日本人の気分です。ガリバー旅行記みたいな。

味は意外とおいしい。
なぜか、子供の頃に駄菓子屋で買ったコーラアップを思い出します。次回はMサイズにするかも。
# by dantanno | 2016-08-01 17:00 | Comments(1)

家族

子。

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父子。

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お母さん。

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# by dantanno | 2016-05-06 16:39 | Comments(0)

男の一人合宿

奥さんが「行って来なさい」と言ってくれたので、二泊三日の一人旅に出発。



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今回同行いただく本たち。

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旅に常にたくさんの本を持って行き、結局全然読まないのが常だが、今回は読む!
# by dantanno | 2016-04-08 10:16 | Comments(0)

Clint Eastwood on politics, in Esquire magazine's "What I've Learned"

(Clint Eastwood was elected mayor of Carmel, California in 1986, and served two years.)

"Winning the election is a good-news, bad-news kind of thing. Okay, now you’re the mayor. The bad news is, now you’re the mayor."

"It’s making sure that the words “public servant” are not forgotten. That’s why I did it. ‘Cause I thought, I don’t need this. The fact that I didn’t need it made me think I could do more. It’s the people who need it that I’m suspect of."

# by dantanno | 2016-03-31 12:10 | 日々研鑽 | Comments(0)

モノを売ったことがあるか

今は「通訳」を売って生きているが、人生で一番最初に売ったものはザリガニだった。



ーーー



小学生のころ。
毎週末、家族4人で千葉・外房の山小屋に行っていた。

野良仕事を手伝うかたわら、弟と近くの田んぼの水路で、ザリガニやどじょう、タニシ、フナの赤ちゃんなどを取って遊び、家で飼ったりした。



ーーー



あるとき、ザリガニをたくさん、、、といっても10匹ぐらいだが、たくさん取った。


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その、たくさんのザリガニたちを東京に連れて帰り、四谷のZOOというペットショップに売りに行った。
残念ながら取引は成立しなかったが、これが自分の初の商業行為だった。

(ちなみにこのZOOというペットショップはとってもおもしろいところなので、ぜひ一度足を踏み入れてほしい。ウェブサイトはこちら(音が出るサイトなので注意)。)



ーーー



ザリガニの次は、キーウィーフルーツの販売に取り組んだ。


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キーウィー・フルーツは、父がその山小屋周辺で、趣味で栽培していた。
豊作の年があって、人にあげてもあげてもまだ無くならないので、売ってみることにした。

ビニール袋に詰められるだけパンパンに詰めて、弟と共に、近所の八百屋を訪ねた。
一袋千円で持ちかけたところ、交渉の末、店主のおじさんが買ってくれた。

店頭に並べるために仕入れてくれたのか、あるいは自家消費のためかは分からない。
きっと、キーウィー・フルーツをビニールに入れて売り歩く外国人風の幼い兄弟を不憫に思ったのだろう。。。



ーーー



大学時代は、ニュージーランドの輸入住宅を日本で別荘用に売る仕事をした。
大学をサボり、父の車を借りて那須や伊豆の別荘地に行き、「別荘販売」とか「別荘建築」といった看板を見つけては、当時まだ珍しかった携帯電話(IDO)で電話をかけ、住宅の部材のサンプルを持って飛び込み営業していた。実際、千葉県のマザー牧場には当時販売し、建設にも携わった貸別荘や売店の建物が今も稼働している。



そうした「モノを売る」活動がとても楽しかったこともあり、就職先は商社に決めた。

入社後、エネルギー部門に配属された。

商社は、自ら上流(アップストリーム)の油田などに投資しリターンを追及するという、ある意味華々しいビジネスもやりつつ、一方ではベタベタの代行業、口銭商売もしている。僕が入社後間も無く、自ら志望して担当になったのは、そうした従来型の、売り手と買い手の間に入って、、、みたいなベタな仕事だった。そこでは、エネルギー(具体的には天然ガス)を売ってくださる売主にも気を遣い、買ってくださる買主にはもちろん超気を遣う、という板挟み的な立場をこれでもかというほど経験出来、とても勉強になった。



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こうして人生の局面局面でモノを売る経験をして来たわけだが、いずれも本腰を入れて取り組んだとは言えず、ちょっと中途半端だったと思う。
そして、今から思うと、この「モノを売る」という仕事にもっと真剣に向き合い、努力すればよかった、と悔やまれる。極めるまではいかないまでも、「真剣に取り組んだ」と自信を持って言えるようにすればよかった。

そう思うのは、通訳者になった今、モノを売ることの重要性を感じるからだ。


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売る対象がなんであれ、何か「モノを売る」という経験は、出来ればこの世の全ての人が経験するといいと思う。

そのモノを、今はそれをほしいと思っていない人に、いかにして喜んでお金を出していただくか。
暴力を振るったり、ウソをついて騙したりするのではなく、いかにして、あくまでも正攻法でその人を説得(Persuade)し、Change his/her mindしてもらうか。そして、そのモノを買った結果、いかに喜んでもらうか。

相手の立場に立ち、どうやって「営業」し、どうやって実際の「販売」まで持って行くかを考え、実行するプロセスは、全ての人にとって貴重な経験になるのではないかと思っている。

ある会社のCEOのことば

"My advice to young people is always, along the way, have a sales job. You could be selling sweaters. You could be selling ice cream on the street. It doesn’t matter. Selling something to somebody who doesn’t want to buy it is a lifelong skill. I can tell when somebody comes in for an interview and they’ve never had any responsibility for sales."


テキトーな訳

「若い人にいつも言うのは、キャリアのどこかでセールスの仕事を経験した方がいい、ということ。セーターを売るもよし、街でアイスクリームを売るもよし。なんでもいいから何かを、それを「買いたいと思っていない人」に売り込む、という経験は一生モノのスキルになる。(ウチの会社に入社したいと)面接に来た候補者にセールス経験があるかどうか、(面接をすれば)すぐに分かる。」



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営業活動を自分よりも長くやっている人は多いだろう。そうしたプロのセールスマンと比べれば、自分は完全にアマチュアだ。そして、上記の通りもっと真剣に取り組む余地はいくらでもあった。でも、例え少しだけであっても、営業の世界を体感したことは大きな財産になっている。

自分のこれまでの人生において、一度もザリガニや天然ガスを売った経験が無ければ、自分はどういう人間になっているだろう、と思う。



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今、自分が日々行っている通訳業務は、一見営業(Sales)とは縁遠い。でも、実は非常に近いのではないか、と思っている。

通訳をする際、考えていることはただ一つ、いかにして会議参加者を喜ばせられるか、ということだけだ。実際にそれが出来ているかどうかは別として、少なくとも、それだけに集中しようとしている。

それに対し、一番よくないのが「いかにミスをしないか」に集中し、ビクビクしながら訳しているときの自分の通訳だ。順番に並べてみると、




1. いかにして会議参加者を喜ばせられるか
2. いかに上手に訳すか
3. いかにミスをしないか




1.は、2.や3.と根本的に異なる。
1.が相手(会議参加者)目線であるのに対し、2.や3.は自分(通訳者)目線なのだ。



相手目線

1. いかにして会議参加者を喜ばせられるか
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
2. いかに上手に訳すか
3. いかにミスをしないか

自分目線



2.や3.は、狭義の「通訳業的」視点、あるいは職人的な視点だとも言える。もちろん相手のことも考慮しているが、弱い。メーカーで言えば「我が社製品」ありきで考えるメーカーとも言えるだろう。

それに対し1.は、非常に「営業(Sales)」に近い。自分を捨て、完全に相手のことしか考えていない。メーカーで言えば「お客様」ありきで考えるメーカーか。



「営業」という行為を突き詰めて考えてみると、それは全て「相手」のことである、という結論に僕は行き着く。そこに「自分」は全く無い。

自分が売ろうとしているモノ、例えば「ザリガニ」はもちろん関係しているが、ザリガニ=自分ではない。僕は人間である。

営業の現場に存在するのは、

1. 売る相手(お客様)、すなわちペットショップのZOOの店員や八百屋のおじさん、そして
2. 売ろうとしているモノ、つまりザリガニやキーウィー・フルーツだけだ。

売る人(例えば僕)ももちろんその場にいることはいるが、決して主役ではない。ポイントは僕ではなく、「1.お客様」が「2.そのモノ」を買うかどうか、それだけだ。

売る側からすると、自分を捨てる、、、というか、自分がそもそも関係無い。それが営業だと思う。



ーーー



さて、話転じて通訳。

通訳者と話したり、その訳を聴いたりしていて、非常に親近感を感じることがある一方、何かこう、とても大きな断絶みたいなものを感じることもある。それがなんなのかはよく分からないのだが、もしかしたら営業的視点の有無も関係しているのかもしれない、と思う。

例えば大学等の学校を出て、すぐに通訳者になった人。あるいは、学校の後何かワンクッション置いて通訳者になったものの、そのワンクッションが営業(Sales)とは無縁の仕事だった人。
そういう人は、「モノを売る」という視点を持っていなくても不思議ではない。だって、売ったことが無いんだから。

そういう通訳者に「通訳はサービス業だと思うか」と問いかければ、Yesと答えるかもしれない。が、それは「製造業ではないし、、、」的な消去法の結果であって、通訳業を積極的に「サービス業である」あるいは「営業(Sales)行為である」ととらえた結果ではないかもしれない。

そこに、通訳という仕事の独特の商流も関係してくる。通訳者たちは、日々クライアントを回り「お願いですから仕事をください」と頭を下げているわけではない。依頼は、どちらかというと「向こうから来る」ものであり、それを「お受けします」あるいは「お断り」するのが通訳者だ。元々営業経験が無い人が、そういう独特の商流の中で仕事をしていると、どうしても「モノを売る」という視点・姿勢が身につきにくいと思う。



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一方で、人気のある通訳者たちに共通するものは何か、を考えてみると、意外と「通訳の上手さ」以外の何かではないか、という気がしてくる。
いや、もちろん通訳はある程度上手なのだが、それが決め手ではない気がする。

決め手になっているのは、営業(Sales)的な視点ではないか。

人気のある通訳者たちは、通訳者になる前、何か「モノを売った」経験があり、その視点に立って日々通訳をしているのではないか。
あるいは、モノを売った経験は無いものの、何らかの理由・経緯でそうした営業的な視点を身につけていて、それを活かして日々通訳をしているのではないか。

この考え方を使えば、「通訳者ではないのに通訳が上手な人」もある程度説明出来る。
ときどき、通訳者ではなく、普通のサラリーマンで、通訳が上手な人がいる。日々通訳をしているわけではなく、通訳学校に行ったこともない人たちだ。言葉のセンス、そして一定のインテリジェンスがあるのはもちろんだろうが、それに加え、営業的な視点も併せ持った人たちなのではないか。

ーーー

興味深いのは、営業的な視点を身につけるのに、実際にモノを売った経験は必ずしも必要無い、という点だ。
長く営業をしていても、それに中途半端に向き合えば身にならないだろうし、一度もモノを売ったことが無くても、相手の立場に立つことが上手な人もいる。

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翻って、自分はどうか。

通訳者になる前の営業活動には、今一つ本腰を入れて取り組まなかったこと、そしてそれをちょっと悔やんでいることは既に書いた。
だとしたら、今目の前にある「通訳」という仕事を今まで以上に「営業(Sales)活動」としてとらえ、この機会に「モノを売る」という行為に本腰を入れて取り組んでみるのもいいな、と思う。


# by dantanno | 2016-03-21 14:45 | 日々研鑽 | Comments(0)

通訳業の「経費」について

毎年この時期になると、通訳業の「経費」について考えさせられる。

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世のほとんどの通訳者は、収入のわずか10%ほどしか源泉徴収されていないにもかかわらず、そこからさらに還付を受けている。つまり、国に養っていただいている存在とも言える。

一方で、多くの付加価値を提供し、その見合いに多額の報酬を得て、多額の税金を支払っている通訳者も、ごく少数ながら存在する。実際今日も、納税額が数百万円にのぼることを嘆く通訳者と飲んできたので、間違いない。

(個人的には、我らが通訳業界が「国に養っていただく」存在から脱し、国を養ってやるぐらいの気概を持った業界になってほしいと願っているが、今回のブログで書きたいのはその点についてではない。)

そういう、多額の納税をしている通訳者にとって、「通訳業の経費」というのは死活問題だ。

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例えば、90円でモノを仕入れ、それを100円で売る商売であれば、
(話を分かりやすくするため、販管費は無視)

売上 100円
売上原価 90円
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課税所得 10円
税率   30%
-------
税額    3円

となる。ところが、通訳業の場合、

売上   100円
売上原価   0円
-------
課税所得 100円
税率    30%
-------
税額    30円

と、税額が10倍になりかねない。

通訳業の場合、売上原価に相当する費用項目が無いのである。かかっているのは販管費だけで、それとて、「現場に行くための電車賃」とか「ノートを買いました」とか「携帯電話料金(の一部)」とか、微々たるものでしかない。残りは全部「利益」、すなわち課税対象の所得とみなされてしまう。

実際、経費がほとんどかかっていないからしょうがないのだが、本当にその考え方でいいのか。通訳業は本当に「経費」がほとんど無く、ボロもうけなのか。



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例えば自分の場合、今こうしてまがりなりにも通訳業を営めているのは、子供の頃に授かった教育のおかげが大きい。

特に裕福なわけではなかったし、かつ、Expatなどでもなかったため、国や勤め先企業が学費を出してくれたわけでもないのに、高額な学費を払ってインターナショナル・スクールに通わせてもらった時期がある。
また、小学校の時にインターナショナル・スクールに転校したはいいものの、英語力が不足していたため、インターの長い夏休みを利用して単身海外に「留学」したこともあった。

そうした取り組みの目的はひとえに「英語を学ぶため」、そして「国際感覚を身につけるため」であった。いずれも、通訳者にとって不可欠な能力だ。

そう考えると、今自分が通訳者として収入を得られるのは、過去のこうした多額の犠牲があったおかげであって、出来るものならそうした費用を今、時間差で計上してしまいたい思いにかられる。



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我々通訳者にとって、もう一つ大きな費用項目、それは「時間」である。

たった1時間の会議の通訳をするために、その前の日を丸々予習に費やすことだってあり得る。そこまでしないにしても、ある日に受けようと思えば受けられたであろう通訳案件を、その翌日の通訳案件の予習をするために泣く泣く断った経験がある通訳者も多いだろう。

その場合、予習に費やした時間、および断った案件で得られたであろう収入(機会費用)は、当日その通訳案件を引き受け、その収入を得るための「経費」と言えないか。

また、子供の頃の話で言えば、友だちが遊んでいる間にBBCのビデオを見せられたり、公文で国語を勉強したりしていた「時間」も支払っている。



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どこまでを「見えない経費」として捉えるかは、通訳者によって異なるだろうが、我々通訳者の仕事にこうした「見えない経費」が存在することは間違いないと思う。
そしてこの「見えない経費」は、通訳以外のどの仕事にも存在するが、通訳業については特に大きいと思う。



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税務署は、こうした見えない経費や、(見えるものの)タイムラグが大きすぎる経費を税務上の経費として認めてくれない。それを嘆く通訳者の気持ちもよく分かる。

でもその一方で、税務署の「見えないものは考慮しない」という方針のおかげで我々通訳者がとても助かっている側面も実はあると思う。



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我々がすばらしい通訳をし、その場の成功に貢献し、会議参加者にとても喜ばれ、ほめられたり感謝されたりしたときに感じる喜び、充実感。それは金銭的報酬とは別の「見えない報酬」であると言える。
通訳者によっては、金銭的報酬よりも、こうした見えない報酬の方がやりがいにつながっている人もいるだろう。

もし税務署が、こうした見えない報酬も「課税報酬」として課税をするとなったら、我々の納税額は一気に何倍にも増えてしまう。



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税務署には、見える/見えないではなく、「実質的にどうなのか」を基準に課税してほしいものだ。でも、それが実務的に難しいのも分かる。

であるならば、通訳業に伴う見えない経費を計上出来ないもどかしさを感じる一方、見えない報酬については課税をお目こぼしいただいていることを踏まえ、プラスマイナスで考えるとまあいいのかな、と思う。

見えない経費も大きいが、実は、見えない報酬はそれを大きく上回るのではないか。そう思わせてくれるステキな商売、それが通訳業だと思う。

# by dantanno | 2016-03-09 02:58 | 提言・発明 | Comments(0)

エライ人たちと仕事をしていて思うこと

40歳を過ぎたのにまるで小学生の作文みたいなタイトルですが、最近思うことについて書いてみます。

通訳という職業柄、ときどき各界のエライ人たちと一緒に仕事をします。
大企業の社長、政治家、官僚のトップの方々など。

そういう人と「名刺交換をしたことがある」とか、「一応、同じ部屋に1時間いました」とかにとどまらず、例えば一週間かけて一緒に海外を旅したりします。自然、仲良くなり、お互いに関する情報をいろいろ交換します。

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同じエライ人と、数ヶ月の間を空けたあと、再び仕事をする機会に恵まれることがあります。そういうとき、

エライ人 「あ、そろそろ二人目が産まれるんでしたっけ?」

とか、

エライ人 「ダンさん、この前こう言ってましたよね。」

といったことまで覚え、気にかけてくれている。

一方の僕はどうか。相手が言ったことなんて、よほど心に刺さった内容とか、自分に関係する内容以外、てんで忘れている。

このギャップは一体何か。
エライ人は僕よりもはるかにエラく、はるかに忙しく、覚えていなければいけないこと、考えなければいけないこともはるかに多いにもかかわらず、である。

エライ人は、なんで周りの人間の、そんな細かいディテールまで覚えているのか、ずっと考えて来た。

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考えられるとすれば、以下の3つのどれか、あるいはその組み合わせしか無いと思う:

1.記憶力がいい
2.(記憶力がいいわけではないが)覚えようと懸命に努力している
3.人に興味がある


1.や2.もあるのかもしれませんが、やっぱり「3.人に興味がある」ということなのかな、と思うんです。

もしそれが正しいとすれば、それと比べ僕などは、周りの人に興味を持っていない、ということなのでしょうか。興味が無いから、いろんなディテールを覚えていないのでしょうか。もしそうだとすれば、ちょっとショックです。

最近読んだ本からの抜粋:
It is the individual who is not interested in his fellow men who has the greatest difficulties in life and provides the greatest injury to others. It is from among such individuals that all human failures spring.

要するに、「周りの人に興味を持たない人物は、多くの困難に見舞われ、他者も傷つける。あらゆる「人災」を引き起こすのも、そういう人物だ」的な手厳しいことが書いてあって、でもまあ一理あるのかなあ、、、と思うわけです。

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決して人に興味が無いわけではないんですけどね。
実際、人と会い、自分のことを話すだけでなく相手の話を聞きたい、とも思っていますが、でも、エライ人たちと比べるとやっぱり相当劣っているんだな、と認めざるを得ない。

「人に興味を持った方がトクだから、興味を持つようにしよう」ではあまりにも不純だし、持とうと思って持てるものなら苦労はしないわけですが、実際自分の周りの人に興味を持ち、その人たちがどういうことを考えて日々生きているのかに思いを馳せながら生きるのはとても楽しいだろうし、それが出来る人間はきっと魅力的だろうなと思うので、少しずつそういう方向に舵を切っていこうと思います。

# by dantanno | 2016-03-05 18:30 | 自戒ネタ | Comments(0)