最近、家族を連れてロンドンに2ヶ月滞在した。
用語の定義は不明確だが、期間が2ヶ月ともなると、これは「旅行」や「出張」ではない。「滞在」であり、あわや「居住」だ。
住むとなると、ことばのやり取り的にはホテルにチェックインするときやタクシーに乗るときのそれだけでなく、「生活」に伴うことばのやり取りが必要になる。床屋に行ったり、クリーニング屋さんに行ったり、マンションの管理人に何かを質問したり、というような。
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ロンドン市内で滞在するエリアを選ぶ際、なるべく「白人ばかり」ではなく、人種のるつぼ的なエリアを選びたかったし、実際そうした。具体的には、Brixton、Shoreditch、Kilburnなどを選び、家族で転々とした。(日本では残念ながらあまり目にしない黒人の人たち、中東系の人たちをウチの子供らがしげしげと眺めているのを見て、うれしく思った。)
そういうエリアに滞在していると、流暢な英語ではなく、ブロークンな英語を耳にすることが多くなる。「多くなる」というか、耳にする英語のほとんどがブロークンだ。
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僕が滞在したエリアに限らず、ロンドンではブロークンな英語を耳にする機会が多い。移民が多いからでしょうか。
今回何社かの日本企業に同行したが、その内の一社の社長が
「こっち(ロンドン)の人の英語は結構ブロークンだな。それでもまあ通じる、ってことだよな」
と言っていたが、まさにそうだ。
ブロークンな英語を話す移民的な人たちと、「チェックインプリーズ」みたいなある意味型どおりなやり取りではなくややこしいことばのやり取りをする。
そうなると、相手が何を言っているのか分からないときがある。
曲がりなりにも通訳を生業としていることもあり、さすがに英語が「分からない」ことは無いわけだが、ちょっと分かりにくいというか、一瞬分からなくてひるむ、という事態が頻発する。
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相手のことばを聴いただけでは、相手が何を言っているのかが分かりにくい。
となると、ことばの意味を把握する際に音声以外の、何か別の手段/ルートも活用せざるを得なくなってくる。
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まずは相手の表情・言い方。
相手が、優しそうな顔でウチの子供を眺めながら
「#()$’#”(%’」
と言った場合、「かわいいね」とか、何かあやす系の優しいことを言ってくれている可能性が高い。
一方、怒った顔や口調で
「#()$’#”(%’」
と言ったのであれば、何かを注意してくれていたり苦言を呈している可能性が高い。
そんなの当たり前じゃないか、と思うでしょう。自分でもそう思いますが、「相手の言っていることが(視覚ではなく)音だけで完璧に理解出来る」という暮らしを日頃日本で続けていると、相手の表情や言い方に頼った意味の理解をすることはあまり無く、そうした理解方法が必要となる異国での生活は貴重な体験となった。
(片寄った見方かもしれないが、中東系(?)の人たちは怒ったような表情や口調でとても優しいことを言ってたりするのでまぎらわしいことがあると感じた。)
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分かりにくい発言を理解するもう一つの理解方法は、その発言が発せられた場の状況。
駅の改札口付近で、我々家族がベビーカーを押しながらあちこちウロウロしている、という状況のときに駅員さんが
「#()$’#”(%’」
と言った場合、(もしかしたら「こっちの自動改札機の方が広いから、ベビーカーでも通れますよ」と言ってくれたのかもしれない)といった推察がはたらく。
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(この状況であれば、相手はこう言うかもしれないな)と考えるのは、相手の立場に立つ、相手の気持ちをおもんぱかることにほかならない。
そして、前述の「相手の表情や口調を観察する」のも、(自分の立場ではなく)相手の立場に立ち、相手の気持ちを読み取ろうとする行為だ。
これこそコミュニケーションではないか!
<いったん話をまとめる>
異国に来て、分かりにくい/聴き取りにくいことばのやり取りを日々続けていると、音だけでなく相手の表情や口調、およびその場の状況によって、発せられたことばの意味を考えることを余儀なくされる。そうした「音を越えたコミュニケーション」は、要するに相手の立場に立ち、相手のことを考える、ということである。
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ちょっと話がそれるが、AI(Artificial Intelligence)について。AIが通訳・翻訳に対して及ぼす影響について。ここのところ、通訳者たちと飲んでいてもよく話題になるトピックだ。
これは要するに我々訳者の代わりに(あるいは訳者のサポート的に)機械が通訳・翻訳してくれる、という話。
そうした「機械による訳」に関する研究・実証と並行して行われているのが、そもそもことばをすっとばしちゃうことに関する研究。
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通訳は必要悪であるが、通訳の対象となる「ことば」も必要悪である。
僕はことばというものが大好きで、日々通訳をしたり、ブログを書いたりと「ことば」の世界で楽しく生きているが、でもその「ことば」が必要悪であることは認めざるを得ない。
<余談: 「必要悪」という概念について>
通訳・翻訳やことばは「必要悪」と言うと、それがなんだか「悪い」みたいだが決してそういうことではない。
そもそも「必要悪」という言葉がいけない。
この言葉はどうしても聴き手に悪い印象を与えるが、警察も医者も言ってみれば「必要悪」(犯罪を犯す人がいなければ警察は要らない)であり、さらに深く突き詰めれば全ての職業や機能が必要悪、とも言えてしまう。(お腹がすかなければレストランなんて要らない、というように。)
だから僕は「必要悪」であるからといって必ずしも「悪」だとは限らないと思っていて、必要悪という言葉の「悪」ではなくむしろ「必要」という側面に目を当てるべきだと思っている。)
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必要悪である「ことば」をすっ飛ばし、脳が発する電気信号を活用して「思っていることがそのまま相手に伝わる」方が効率がいいのかもしれない。それが善か悪かについては議論の余地が大きいが、「想いを正確に、効率的に相手に伝える」という意味では、ことばではなく脳の電気信号を使ったコミュニケーションの方が優れているのかもしれない。
<具体的なイメージ>
スマホのようなデバイスを通したコミュニケーションになると思う。
話し手、、、いや、ことばを使わないのでもはや話し手ではないですね、じゃあ発信側。
発信側が、受信側に対して「昨日、こんなおもしろいことがあってさ」という想いを伝えたいとする。発信側が「伝えたい!」と感じている状態でスマホのアプリを開くと、画面に
「昨日、こんなおもしろいことがあった」という想いを相手に伝えますか、Yes or No?」
と表示される。Yesを選ぶと、アプリが発信側の脳の信号を読み取り、それを信号の形でそのまま、あるいは信号を読み取った結果を受信側に伝える。ことばは必要無く、受信側はClear/Vividに「昨日あったおもしろいこと」を理解出来る。
僕の専門であるIRの分野でも同様。
「来年度の設備投資について、相手に伝えますか、Yes or No?」
でYesを選択すればその想いが外国人投資家に自動的に伝わる。通訳は必要無いし、そもそもことばが必要無い。
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このような「ことばを使わないコミュニケーション」はきっと実現すると思う。
現在の「ことば」を通したコミュニケーションはとてもステキなものだけど、「想いを正確に、効率的に伝える」という観点(そこそこ大事な観点!)からすると、非常に非効率。ことばを操るのが上手な人同士でも誤解が生じることがあるし、世の中にはことばを操るのが上手ではない人も多い。
しかも国・地域によって言語が異なってしまっている、というこれはこれでステキな状況が、その非効率をさらに何倍にも増幅させる。
<話を再度まとめる>
こちら(受け手側)が一生懸命推察しなくても、相手の想っていることが正確・効率的に伝わるのはとても合理的なことのように思える。それは「相手を理解する」ことに他ならないが、そうなると「相手のことを理解しよう」という我々受け手側の気持ちはどうなるんだろうか。
相手に対するEmpathy/empathizingが不要になると、我々はどうなるのか。
太郎君は私のことをどう思っているのかしら、はたして好きなのかしら、という大事な問題について考えた場合、「好きなのかどうか」ももちろん大事なのだが、私(花子)が太郎君の気持ちをあれこれ推察する、考える、おもんぱかること、これも結構大事なのではないか。
相手が発することばから、相手が伝えたいメッセージを必死に考える。相手の表情や口調から、どういう想いでそのことばを発したのかを推察する。また、場の状況から判断して、(こういう状況であればこう言いたくなるだろうな)と相手のことをおもんぱかる。
電気信号を介して正確・効率的にコミュニケーション出来るようになると、相手に対するこうした配慮は不要になり、失われてしまうのか。(不要なだけに)必要悪ですらなくなってしまうのか。
コミュニケーションにおいて大事なのは、「思っていることを正確・効率的に伝える」ことであるのは間違い無いが、一方でもっと大事なのかもしれないのが「相手の立場に立つ、相手のことをおもんぱかる」ことであって、異国に滞在・居住することでその重要性に改めて気付いたわけだが、AI時代のコミュニケーションではそうした「相手に対する思いやり」はどうなるのか。不要になるのか、あるいは依然として残るのか。
オチの無い記事で恐縮ですが、思考があれこれ拡散してしまっている当方の今の状況をおもんぱかり、温かく読んでいただければありがたいです。