今から一年ほど前、母を亡くしました。
自分が初めて経験する身近な人の死。その過程で思ったことを書いてみます。
<背景>
母は、血液のガンで2年ほど闘病していました。それが治らない病気であることは本人も分かっていました。
入退院を繰り返していましたが、あるとき検査入院をしている途中に容態が急変しました。頭の中で出血が起き、意識が無くなり、我々家族が病院に呼び集められました。結局、夜を徹した緊急手術(6時間!)が成功し、何日か経ってようやく意識が少しだけ戻りました。その後、一ヶ月ぐらい一進一退を繰り返した後、安らかに亡くなりました。
というのがおおまかな背景です。では、思ったことを書いていきます。
<延命は(必ずしも)本人のためならず>
長く病状が安定していて元気に活動していた母が、頭内の出血により急に意識を失いました。病院に呼び集められた我々家族は、手術をするかどうか、決断を迫られました。
手術をするとなると、いろいろなリスクがありました。手術の際、血管が損傷し状況がさらに悪化してしまうかもしれない。カラダが既に相当弱っているため、全身麻酔から抜けることが出来ず、そのまま亡くなるかもしれない。仮に手術自体がうまく行ったとしても、その後肺炎等が起きて亡くなってしまうかもしれない。いずれにせよ、仮に手術が成功しても病状が大きく回復することはなく、これは延命のための手術でしかない、とのことでした。
じゃあ、手術をしなければどうなるのか。医師の説明は「はっきりしたことは言えませんが、数日中に亡くなる可能性が高いでしょう」とのことでした。で、どちらにしますか、とのこと。
この時点で、僕は少し腹を立てました。手術をしなければ恐らく数日中に亡くなるのであれば、例え諸々のリスクがあったとしても、手術をするに決まっているではないか。それを、まるでフィフティー・フィフティーの選択であるかのように我々家族に尋ねてくるのはどういうことか。当時はそう思ったんです。
結果的に手術は成功し、母はときおり意識を取り戻すところまで回復しました。でも、意識が100%戻ったわけではなかったし、寝たきりの状態が続き、その後しばらくして亡くなりました。医師の言った「延命のための手術でしかない」の言葉通りでした。
そのプロセスを経て考えたのは、(果たして母本人は、あの手術を望んだだろうか)ということ。
どうしますか、という医師の言葉に対し(選択の余地など無いではないか)とちょっと腹を立てていた僕ですが、その時の自分は他ならぬ母の気持ちを考えていたのかな、と。恥ずかしながら、あまり考えられませんでした。
結果的に母はうっすらと意識を取り戻したわけですが、それは我々家族や母の友人のために、一時的に「戻ってきてくれた」とも言える。でも母自身にとっては、長時間に渡る手術はもちろん、その後過ごした一月ほども相当な負担だったはずで、我々家族の一存で「当然手術するでしょう」と決めつけるのはおかしかったかな、と思いました。結果的に同じ結論になったとしても、結論に至るプロセスで母の意志に思いを馳せる瞬間があってもよかったな、と感じました。
<毎日がヤマだと、スケジュール管理が難しい>
よくTVドラマとかで、医者が家族に対し「今晩がヤマです」みたいに言ったりするシーンがあります。それを受け、家族は取るものも取りあえず病院に駆け付けることになります。実際にそういうシチュエーションもあるのでしょうが、ウチの場合、「今晩がヤマ」ではなく、毎晩がヤマでした。
母が最初に意識を失ったときに病院に呼ばれた日はもちろんヤマでしたが、その後もいつ何があるか分からない状態が数週間に渡り続きました。病院からも頻繁に「ちょっと状況がよくないので、ご家族のどなたか来てください」との呼び出しがありました。
小康状態を保っていた時期もわずかながらありましたが、基本的に「今日も、明日も、その次もまたヤマ」という状態が続きました。
そういう状態になると、家族にとって、予定の入れ方が非常に難しくなってきます。「今晩がヤマ」なら全てを投げ出して駆け付ければいいのかもしれませんが、ヒマラヤ山脈みたいにヤマが脈々と続いているときに、自分の予定をどうしていけばいいのか。今後入れる/入れないを判断出来る予定もありますが、ヤマ状態になる前から入っていた先約もあります。それをごめんなさい、やっぱり出来ませんというのか、日程を変えてもらったり他の人に代わってもらったりするのか。
例えば僕の場合、かなり前から予定されていた海外出張を他の通訳者に代わってもらいました。どうしても行けないのか、というとそんなことはないし、自分が日本に残ったからといって母の状況を大きく改善させることが出来るのか、と言えばそんなこともありません。クライアントとの信用問題でもありますからかなり悩みましたが、結局ワガママを言って他の通訳者に代わってもらいました。
自分のプロ意識とか、家族についての考え方とか、いろいろと考えさせられました。
<次は自分の番>
親が元気な内は、なかなか子供である自分の死をイメージしにくい。でも、親が亡くなると「次は自分だ」という意識が強く芽生えました。
<嬉々として退院して行く人と、退院出来ずに残る人との間には、実はそれほど大差が無い>
宇宙の歴史と比べれば、我々の人生なんてどの道ほとんどゼロ。ゼロとゼロの間に大差は無い。
<どうせ死ぬんだ>
これは、必ずしもネガティブな、ヤケのヤンパチ的な思いではなく、むしろポジティブ。どうせ死ぬんだから、この地球上で与えられた僅かな時間、もっと好きなことをして生きようと思いました。
また、より現実的な話でいくと、例えば食生活。母の食生活は非常に健康的で、栄養のあるものをちゃんと適量食べ、ジャンクフード、酒、たばこなどは一切やりませんでした。それでも病気になるときは病気になるし、事故に遭うときは事故に遭う。だったら、今目の前にカツ丼(大盛り)と生ビールが置いてあったら、どうせ死ぬんだから、あまり後ろめたく思わずにガンガン食べちゃってもいいのかな、とちょっと思いました。
<俺はなにをやってるんだ>
意識が無く、病院のベッドで寝たきりの状態の母。
その母の病室に向かう途中すれ違った、僕と同い年ぐらいかもしれない、やつれきった女性。
廊下で遊ぶ、髪の毛が全部抜けた状態の、車いすの子供たち。まだ小さな子供たち。
それに対し、自分は自由に外の世界の、当時春だったので暖かい春の日差しの中に飛び出していき、好きなことが出来る。走り回ったり、旅をしたり、苦痛の無い状態でものを考えたり、なんでも出来る。それをどこか申し訳なく/後ろめたく思うと同時に、そんなに自由なのに、自分は日々一体なにをやっているんだろう、と強く感じました。もっと時間を有効活用しないと・・・的なことを越えた、何か根本的な問題意識を当時感じました。
これには後日談があって、あのときあんなに強く(自分はなにをやっているんだ)と思ったはずなのに、その後一年、僕の日々の暮らしぶりは特に変わっていない。なんなんでしょうね。でもその問題意識は間違い無く自分の中に存在しているので、そのうちなんとかするのかもしれません。
<面会時間の制限について>
今まで、入院している人を見舞いに病院に行って、面会時間外だったためにお会い出来なかったことがありました。ちゃんと事前に調べてから行けばよかったわけですが、心が狭い僕は、(なんで面会時間をそこまで制限するんだ)とちょっと不満に思ったりもしました。
面会時間の制限は、患者本人の負担を軽減することに加え、病院のオペレーション上必要な面もあると思います。そして今回の経験で気付いたのは、病人の家族のためのものでもある、ということ。
24時間いつでも面会・見舞いに行けてしまうと、キリがなくなります。面会時間の制限があるおかげで、(ああ、もう時間制限が来ちゃうから家に帰らないと・・・)と、心の中での言い訳が出来る。これは、特に我々のケースのように入院期間がある程度長期に渡る場合において、家族の精神衛生上とても大事なことだと思いました。
<悲しくない>
昔、付き合っていた女性に「あなたには感情が無いのよ!」と言われ、(ふーん、そうなのか)と無感情に思った記憶があります。
確かに自分にはそういうところがあって、今回、母が亡くなる過程で他の家族が悲しんでいる中、僕は悲しみを感じませんでした。
なぜ悲しくないのか。(自分はきっと、気持ちに無理にフタをしているんだろう)とか、(今は悲しみを感じないけど、きっと後からドッと来るはず)と当時は思いましたが、あまりそういうことでもなさそうです。本当に悲しくない。当時も今も。それはなぜなのか考えました。
当時、母が闘病しているさなかに、二人目の子供が産まれました。家族はもちろん、多くの人が「とても喜ばしいこと」として喜び、祝福してくれました。
とても大切な人の誕生と、とても大切な人の死を短時間の内に両方経験し、生と死についていろいろ思いを馳せました。その結果至った、今のところの僕の結論は、「生と死はとても似ている」ということ。生が「+1」で死が「−1」だとしたら、符号の向きが逆なだけであって、要は同じことなのかな、と思いました。まあ、符号の向きが逆なのが問題なわけですが。
別の言い方をすると、人生は一冊の本のようなものであって、生はその1ページ目、死はその最後のページだと思いました。
今、手元にとてもステキな本(≓人生)があるとします。その1ページ目はとても素晴らしく、喜びと輝きに満ちたものである一方、その最後のページはとても悲しく、イヤで、涙涙なものである、というのはなんだかおかしい気がするんです。1ページ目も2ページ目も、そして最後のページもその前のページも、全て等しく「1ページ」であり、そのステキな本を構成する大事な一部です。
「だから、悲しむ必要なんて無いんじゃないか」的な話を当時、嘆き悲しんでいた弟にしました。すると、「別に、必要があるから悲しんでるわけじゃないんだよね」と返されました。もっともですね。
(母の手帳に貼ってあった紙)
<死は救いでもある>
本人にとって、そして家族にとって、死は救いでもあると感じました。
<本当に戦っているのは誰か>
ちょっと話が横道にそれます。
母が入院していた病院は、大手新聞社の本社ビルの隣にありました。その新聞社に抗議をするため、街宣車に乗った人たちが連日やって来て、高層階にある母の病室までハッキリと聞こえる大音量で軍歌を鳴らし続け、連日「○○新聞ふざけんなゴルア〜!」的にがなり立てていました。
まず思ったのは、これって合法なのかな、ということ。病院の隣でこういうことをするのは許されるのか、と。
まあでもきっと合法なのでしょう、残念ながら。パトカーも温かく見守ってたし。だとしたら今後は、その人たちの持つモラルに期待します。大きな日の丸を掲げる彼らが本当に我々日本人のことを思いやってくれるならば、その行動もいずれ変わってくると思います。
もう一つ、強く感じたのは、(本当に戦っているのは誰か)ということでした。
その人たちは、みな迷彩服や特攻服に身を包み、勇ましい軍歌を流しています。一見、とても「戦っている」ように見えます。でも、その様子を上から眺めている僕には、本当に戦っているのは決してこの人たちではない、と感じました。本当に戦っているのはウチの母であり、車いすの子供たちやそのご家族です。また、患者たちを救ったり延命させようと、外から漏れ入る大騒音の中、懸命にがんばっている医師や看護師たちです。
ある人が本当に戦っているかは、決してその見た目では分からないことを学びました。
<亡くなる前に、いろいろと話をしておいた方がいい>
今回の我々のケースでは、前述の通り母が「戻ってきてくれた」こともあり、亡くなる前に言っておきたいことなどをある程度言えた気がするし、心の準備も少し出来ました。でも、それでも一定の心残りというか、もっと聞いておきたかった、言っておきたかったことはあります。
我々のようなケースでもそうですから、例えばもっと若くして亡くなってしまった場合とか、事故などで突然亡くなってしまった場合とか、残された家族の心残り感はとても大きいだろう、と思います。
だからこそ、亡くなる前にいろいろと話をしておいた方がいい。
話しておくべきテーマは、まずは自分の死後、どうしてほしいのか、ということですよね。お葬式とか財産とか事業の承継・処理とか。
もう一つ話しておくべきテーマは、死後についてではなく、今この瞬間のこと、そして今までについてだと思います。感謝の気持ちとか、あなたはとても大事な存在であるとか、あのときはごめんなさいとか、そういうこと。あるいは、「お父さんはあのとき、どういう考えでああしたの?」とか、「お母さん、人生で一番大事なことってなんだと思う?」とか、別になんでもいいですけど、そういう超照れくさい話です。そういったことはぜひ亡くなる前に話しておいた方がいい。亡くなったらもう話せないから。
死後どうしてほしいとか、今までありがとうとか、そういう話は非常にしにくい。だから、ほっておいたらそういう話にはならない。そういう話がされないまま亡くなってしまいます。だからこそ、例えば親子間であれば親サイド、あるいは子サイドから相手方に「そういう話をしよう」と持ちかける必要があります。
では、親サイド・子サイド、どっちから話を持ちかければいいのか。どちらサイドから切り出すのも非常に難しいですが、子サイドから切り出すのは尚難しいと思います。「ねえねえ、オヤジが死んだ後のことだけどさあ・・・」 → 「なに!俺はもうすぐ死ぬのか!」とか、「財産目当てか?!」みたいな誤解が生じるかもしれません。それに、前述の通り「死」というものをよりリアルにイメージ出来るのは子供ではなく親です。
だから、出来れば親から子供に対し、ちょっと照れくさいし、まだ気が早いと思うけど、今の内からそういう話をしておこうよ、と持ちかけてほしいです、まだまだ元気な内に。
<最後に>
長く続く入院生活、看病生活。母本人はもちろん、家族も徐々にしんどさが増していきます。今後、多少の状況改善はあるかもしれないものの、根本的な治療・回復は見込めないだけになおのこと。
そんなある日、うっすらとしか意識が無い母親を見守りながら、パイプ椅子で僕がウトウトしかけていると、看護師さんが一人、病室に入ってきました。
(点滴を取り替えるのかな、採血かな)などと思いながら見ていると、看護師さんは母のところに行き、その手をさすりながら
丹埜さん、こんにちは〜、聞こえるかなあ。
あたしね、今日は担当じゃないんだけど、ちょっと気になったから様子見に来たよ〜。
今日は調子よさそうだね、よかったよかった。じゃ、また来るからね〜
と言って、パタパタと病室を後にして出て行きました。
それは実に突然の出来事で、かつ、看護師さんの立ち回りがあまりにも自然で、そして、いろいろとしんどいことばかりが続く病院生活の中であまり無いうれしい出来事だったため、僕はついあっけにとられ、「あ、あ、」で止まってしまい、ちゃんとお礼を言えませんでした。もし今看護師さんを追いかけて、廊下でお礼を言ったら泣いてしまいそうな気がして、追いかけられませんでした。
だから、ここで改めてお礼を言いたいです。あのときの、その日当番ではなかったのに立ち寄ってくれた看護師さん、母をシャワーに入れてくれた看護師さん、母が亡くなったときにカラダを拭いてくれ、合掌してくれた看護師さんたち、そして一生懸命努力してくれた医師の方々、本当にありがとうございました。
そしてお母さん、最期までみんなのためにがんばってくれてありがとう。