北欧で、サンタについて考える
2013年 08月 28日
この国、この人たちにとっては、船がすごく大事で、かつ身近な存在なんだなあ、、、と感じました。
一通り買い物とかして、やることがなくなったので、公園で何時間もボーっとしました。
いろんな親子がいました。
(おもしろいなあ・・・)
と思ったのは、親が結構子供に話しかけているということ。
もちろん、どこの国でも「親は子供に話しかける」わけですが、(北欧はちょっと違うなあ・・・)と思ったのは、まるで相手が大人であるかのように、普通に話しかけている、という点。
例えば。。。
子供の
「あれ買って」
に対し、単に
「ダメ」
ではなく、何がどうダメなのか、一体なぜ買わないのかを、滔滔と説明する感じ。
もちろん、全部フィンランド語(?)だから分からないんだけど、たぶんそういう感じ。
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さらに興味深かったのは・・・
まだ乳母車に横たわっている乳児に対しても、あれこれ説明したり、話しかけたりしている人が多かったこと。
「かわいいでちゅね~」
的なことも言ってるんだけど、それ以外に
「今、僕たちは公園に来ていて、ここでしばらくゆっくりする。その後買い物して、おうちでご飯食べるからね。分かった?」
みたいなことも説明している(気がする)。
もちろん、全部フィンランド語(?)だから分からないんだけど、たぶんそういう感じ。
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まだバブバブ言っている乳児は、はたして親の話をどの程度分かっているんだろうか。。。
もちろん、全部は分かっていないでしょう。
でも、例えば話し手が愛情たっぷりで話しているのか、あるいはイライラしながら話しているのか、の区別ぐらいは、乳児でもつくでしょう。
現に、フィンランド語(?)が全く分からない僕でも、それをハタから見ていて
(あ、今こんなことを言ってるのかな・・・)
と、多少推測がつきます。
そう考えると、言葉を通じたコミュニケーションが行われるとき、話し手が伝えたいもの、そして聞き手に伝わるものは「ことばそのもの」ではなく、その背景にある「想い」なんでしょう。
そして、むしろ「想い」のほうが大事なんでしょう。
超怒り気味に
「全然怒ってねーし!!」
と言ってみても怒りは伝わるだろうし、
超ラブラブな口調で
「もう、ヒロシ君なんてキライ♪」
と言ったところで、好きなのはバレバレです。
ヘルシンキの街をぶらつきながら、確信しました。
「言葉そのもの」は、やはり道具でしかない。
話し手の想いを、聞き手に届けるための。
だから、我々通訳者は、「言葉そのもの」にとらわれるのではなく、その裏にある想いを探りにいくといい。
そうすれば話し手と一体になれるし、いい通訳ができるし、みんなから喜ばれる。
「言葉を超えた訳」をするのはすごく勇気がいるし、悪くすると「正確に訳していない」とクレームが入ってしまいます。
諸刃の剣で、「言葉を正確に置き換えるの訳」との使い分けが大事ですが、目指すべき王道は「言葉超え」なのかも。
サンタが届けるべきは、実は「箱」ではなく、その中身なんだと思いました。